アジア千波万波
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アジア千波万波 特別招待作品
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- アジア千波万波 審査員
- 楊荔鈉(ヤン・リーナー) • 老人
江利川憲
作品解説:遠藤徹(ET)、馬渕愛(MA)、黄木優寿(OM)、 若井真木子(WM)、矢野和之(YK)
誤解のススメ
今年のアジア千波万波は短編から長編、合わせて21作品を上映する。応募してくれた数多くの作品を試写し、議論をして選ぶ作業を経た結果なのだが、実際のところは、映画が山形映画祭を見つけてくれた、私たちを選んでくれた、のだと思う。映画の一生というものがあるとすれば、映画祭は、ほんの一つの出来事、あるいは通過点で、その前と後の道は映画祭に関わらず続いていく。究極的には、作り手の人生が終わった後も、映画が死ぬことはない。一人歩きもするし、思わぬところで、見た人の人生を変えたり、狂わせたりもする。生まれることはあるけれど、死ぬことはない。その存在すること自体に、理由なんてない。生きることに理由がないことと同じで、映画を作ること、見ること、上映すること、そこに「映画」の確かな存在を感じられる限り、理由は、ない。そんな映画の一つの生を想像すると、ゾンビのようでいて、神々しくも思えてくる。
全てが全て、全く違う過程を経て作られた映画が山形にやってくる。例えば、フィクションという枠組み、言語、あるいは舞台装置を使って、ドキュメンタリー映画を作る試みがある。演者がクレジットで示される作品。また、ある作品は冒頭で「この作品はフィクションである」と明示される。役者が歴史上の人物を演じていたり、出稼ぎ労働者たちが実際の体験を脚本化して演じる作品もある。明確にフィクションを意識して作られた映画がある一方で、例えば、ある人にとっては現実世界であっても、別の人にとってはありえない世界が描かれる作品もある。もっと言ってしまえば、その意味において、映画(それはどのような映画であっても映画である限り)とは、見る人にとっては、その人が生きている世界ではない、完全なる虚構の世界である。その世界を描く作り手の創造力、解釈する観客の想像力。作り手の寄って立つところ、観客の受け止め方一つとっても、解釈は無限大だ。
それは、大いなる誤解。理解しようとするから、分かりたいと切望するから、誤解が生まれる。解釈は一つ、正しい答えは一つであるという前提に立つと、そこに誤りが出るが、解釈が無限であるという前提に立つと、「誤解」は単なる、その人の解釈の一つということに過ぎなくなる。する方は気がつかないことが常であり、された方は、たまに気づくことがあるかもしれない。だが互いに気がつかないことが大半だと思う。そんな関係性が、無数に考えられるのが映画祭であると同時に、多くの「誤解」がせめぎあう場所でもある。映画と作り手、映画と映画祭、映画と観客、作り手と観客、観客と観客……。全ての解釈は誤解だという前提に立てば、何も恐れることはない。堂々と誤解しよう。誤解することに対する恐れのなさこそが、それぞれにとっての映画体験を、その映画の一生のほんのいっときに立ち会える喜びを味わわせてくれるはず。大いなる誤解は、思わぬ方向へ世界を広げてくれる場所へ連れていってくれる。
人の人生も、映画の一生も、その局面でコトを面白くしている誤解。そこから生まれる無限の関係性のせめぎあいの中で、いつの間にやら「理解」を超えた未知の世界へ足を踏み入れることへの躊躇は、消えている。
ピリピリ、ドキドキ、ヒリヒリ、メラメラ、ワクワク、そんな言葉にならない空気や感情をひきずった「誤解」がフォーラムやアズ、七日町の路上に交錯する映画祭がやってきた。
最後に、映画祭の準備に尽力してくださった皆さん、映画を作り、応募してくださった皆さん、映画を見に来てくださった皆さんに感謝します。そして宮澤さん、今年もこんなアジアの映画が、作り手たちが、山形にやってきましたよ。