English

Double Shadows/二重の影 2:映画と生の交差する場所


マルセリーヌ・ロリダンと山形 カトリーヌ・カドゥ


補助線の政治学

どうぞみなさん、これらすべてを、それぞれ断章としてお読みください。またはホームシックにかかった外国人からの手紙として。あるいは小説、純粋なフィクションとして。ええ、どうぞフィクションとして読んでください。このテーマ、これらの断片を繋ぎ合わせた筋書きが、私の人生、私の生い立ちです。 かたき役 ですか? 仇役は20世紀です。(ジョナス・メカス『メカスの難民日記』より)

 ジョナス・メカスの旅=人生とは、ある意味で、20世紀そのものではなかっただろうか。戦争、難民、亡命、アメリカ、そして映画――ソ連やナチスによって故郷を追われ、強制労働収容所、難民キャンプを転々としながらアメリカへ渡ったメカスは、ボレックスの16ミリカメラを手に入れ、家族、友人、故郷への想いを自ら撮り続けた。帰るべき土地を失い、根無し草となった彼は、砕け散った自己のアイデンティティを回復し取り戻そうとするのではなく、むしろ、その断片をつなぎ合わせることで「日記映画」「日記文学」という独自の表現を生み出した。彼は、ニューヨークのスカイラインを望みながら次のように述べる。

これは、記憶や、通りや、顔や、足音などの断片を少しずつ集めて私がつくりあげた都会だ。この都会と私、私たちはともに成長した……私は知っている、私のニューヨークがどんな人のニューヨークとも異なっているということを。まあ、いい……この都会は気が狂いそうだった私を救ってくれた。(同前)

 歴史の大きなうねりに巻き込まれ、そこからこぼれ落ちそうになりながらも、かけらでしかない記憶が映像のなかに新たな命を宿し、閉ざされた過去の闇のなかで光り輝くときがある。それは、所与の事実が集積した「歴史」でもなければ、「個人映画」や「私映画」といった言葉や概念に収まるものでもない。遺されたフッテージに新たな色彩や声が加わり、影と影、イメージ同士の重なり合いから、それまでとは異なる相貌が現れる。ひとつの映画、ひとつの生がそれ自体で完結するのではなく、他者を介することなしには存在し得ぬことに私たちが直面するとき、国籍やジャンルといった境界や制度 が崩れ去り、直線的な映画の歴史が揺らぎ始める。

 2015年に続き第2弾となる本特集は、映画についての映画、さらにいえば、イメージを通した表現行為そのものを対象としたドキュメンタリー作品 を15本上映する。それは、映画による映画史の検証という意味において、自閉的な試みに陥るものだろうか。けれども、イメージの歴史が、それ自体を反省し、自律的に発展していくことはあり得ない。「映像の世紀」「氾濫するイメージ」といった言葉は、楽天的な進歩史観に支えられた偽りの到達点を示すものだったが、それさえもはや使い古された、クリシェとなってしまった。むしろ、企図すべきは、歴史のなかに新たな表現、新しい映画のかたちを見出すようなもうひとつの線、補助線を引くことではないか。それは、私たちの文化や社会と表現をめぐる政治学であり、映画内部の問題というよりは映画と向き合う生き方の問題である。それが、今回の本特集のテーマ「映画と生の交差する場所」となる。メカスは、宣言するだろう。

映画は揺らぎ始めた。映画は行く道を意識しだした。映画はもはや、自分自身の言語障害や逡巡や廻り道のために行きづまることはない。いままでの映画は、ロボットのような足取りで、あらかじめ敷かれたトラックの上を示唆されたように動いてきただけだった。いまやっと自由に、自分で自分の思う通りに、自分の足を踏みしめて動くようになった。映画は芝居じみたものを捨てるようになり、映画自身の真実を探り、何事かをつぶやき始めた。まるでマーロン・ブランドかジェームズ・ディーンのように。これこそが新しい時代、新しい内容、新しい言語なのだ。(ジョナス・メカス『メカスの映画日記』より)

 日常を撮るのではなく、撮ることにより日常が生み出されるのだとメカスが言っていたことを思い起こそう。映画とともにある人生とは、映画の対象として生が存在することだけではなく、自らの生や身体がすでに映像によって構築されていることをも示している。ファウンド・フッテージを集め、染色し、再編集を施す手法によって歴史を編み直す作業に取り組んできたジャニキアンとリッチ・ルッキの新作『アンジェラの日記 ― 我ら二人の映画作家』が、彼らの創作活動の歩みそのものに向かうことは必然である。

 文字通りに、人は映画を生きるのだ。それが「現実」であるか「虚構」であるかはさしたる問題とはならない。『ある夏の記録』に刻まれた人々の顔や、メイズルスに撮られたマーロン・ブランドの身振りは、キャメラを通して映し出された自らの姿もまた、真実たり得ることを私たちに教えてくれるだろう。いま、映画と生の交差する地点において織り成される二重の影のなかに、歴史から忘れられた存在が回帰し、失われた人間の声がこだまする。

土田環(プログラム・コーディネーター)