AM/NESIA:オセアニアの忘れられた「群島」
〈交差〉
〈土地〉
〈身体〉
短編集 1
短編集 2
本プログラムの製作国表記について:ハワイやグアムなど太平洋諸島の先住民の島および群島の名称の横に、それらを領土としている国家を角括弧(=[ ])内に記した。
忘れられた太平洋諸島の声を聴く
多くの島々が連なる太平洋。オセアニアと呼ばれるその広大な海洋地域は青い“大陸”とも呼ばれ、世界で最も広い人間居住地域である。しかし同時に、500年にわたってさまざまな帝国からの支配を受け、地球上で最も植民地化の進んだ地域のひとつともなっている。ポリネシア、メラネシア、ミクロネシアの島々では、太平洋の島人としての重要な歴史とアイデンティティが、植民地支配によってその声を奪われ、見えない存在にさせられてきた。日本とアメリカによる支配がこの地に深い爪痕を残し、陰に陽に今日のオセアニアの複雑さを形作ってきた。私たちは、この忘れられた地理としての太平洋諸島を「AM/NESIA」と呼び、今回の特集上映を企画した。プログラムの目的は、土着の人々の抵抗と連帯の声を世界に届けることだ。特にアメリカと日本の影響が交差する北オセアニアの人々が中心になっているが、地域全体の声もすくい上げる。作品はテーマごとに3つに分類され、それぞれ「交差 」「土地 」「身体 」という「群島」を形成している。さらに、3つのテーマである「群島」を取り巻く「環礁」として、ふたつの「短編集」ですべてのテーマをつないでゆく。
「交差 」では、オセアニアにおける忘れられた移住、文化交流、そして「間にある存在」の複雑さを掘り起こすことを目指している。特に注目したのは、日本列島と太平洋の島々の関係だ。戦前日本の国策映画『海の生命線 我が南洋群島』を、現代ミクロネシアの文脈で批判的に再検証するとともに、島の人々、元移住者、兵士の記憶をたどる。そして『潮の狭間に』では、日本とアメリカというふたつの帝国主義の狭間に立たされた小笠原諸島の苦難に満ちた歴史を振り返る。このプログラムでワールドプレミア上映される『トーキョー・フラ』は、ハワイの文化的伝統が、オセアニアと現代日本をつなぐ架け橋となるに至った過程を描いている。
「土地 」では、軍隊、国家、産業の力に抗い、植民地支配を脱しようともがく島の住民たちの姿を描いた作品を取り上げる。島の人々にとって土地ほど大切なものはない。彼らのアイデンティティと系譜は、すべて先祖代々受け継がれてきた土地と結びついている。『核の暴虐 ― 機密プロジェクト4.1 の島々』は、マーシャル諸島ロンゲラップ環礁に暮らす人々の、正義を求める悲痛な戦いを描いている。彼らの土地は、冷戦時代の1940年代から50年代にかけてアメリカが実施した核実験によって大きな被害を受けたのだが、アメリカはこの事実を認めていない。そして『アノテの箱舟』が描くのは、気候変動による海面上昇の危機に直面した海抜の低い島国に暮らす人々だ。彼らが暮らすキリバスは、太平洋戦争中は日本の占領下にあった。また、マーシャル諸島出身の著名な詩人キャシー・ジェトニル=キジナーが、気候変動と核実験というふたつのトラウマを融合し、ビデオとパフォーマンスによって表現する特別プログラムも予定されている。
そして「身体」の群島では、オセアニアの人々のアイデンティティと物理的な肉体が、植民地主義と軍国主義によっていかに辺境に追いやられ、消滅させられ、変質させられてきたのかを親密に描いた作品を紹介する。『戦場の女たち』は、日本の占領下にあった戦時中のニューギニアで起きた性暴力を、女性たちの生々しい証言によって描いている。島の人々への軍国主義の影響は、現在にも形を変えて引き継がれている。『島の兵隊』で描かれるように、かつてアメリカに統治されていたミクロネシア連邦では、アメリカ軍による厳密な新兵勧誘が行われている。また、『遠く離れて』で映し出される島の人々の高い収監率の実態は、先住民の身体が今でも帝国主義に支配されていることを示唆している。その一方で、『クム・ヒナ』に見られるように、ポリネシアにはジェンダー・アイデンティティの流動性と多様性が存在する。『クム・ヒナ』は、ハワイにおける集中的な宣教活動と植民地支配の結果、ハワイで認知されていた第三のジェンダー「マーフー」が抑圧され、忘れ去られる過程を痛切に訴える映画だ。
そして3つのメイン・テーマを横断するふたつの「短編集」は、マリキータ・デイヴィスやレオナード・“レニ”・レオンをはじめとする太平洋諸国の若い映画作家による短編ビデオの上映とトークセッション、またニュージーランドに拠点を置く若手アーティスト集団FAFSWAGの作品群を通して、太平洋諸島のLGBTQの声を届ける。