審査員
江利川憲
●審査員のことば
今回、この「アジア千波万波」の審査員を仰せつかり、驚きと栄誉を感じている。同時に、どんな作品に出会えるのかと、期待に胸を膨らませている。
第1回山形国際ドキュメンタリー映画祭が開かれた1989年は、激動の時でもあった。まず、天皇裕仁(昭和天皇)が逝去し、元号が「平成」に変わった。そして、ソ連軍がアフガニスタンから撤退、リクルート事件、中国の天安門事件、東欧の民主化革命、ベルリンの壁崩壊……。あれから30年。日本では格差と貧困が広がり、排他主義が世界中を席巻している。この絶望的な時代にあって、アジアのドキュメンタリー映画は何を描くのか。希望は見いだせるのか。
私自身は、小川紳介・土本典昭をはじめとするドキュメンタリー映画の先達に大きな影響を受けている。とりわけ、弱者に寄り添う視点、抵抗の精神、自由への希求などを学んだと思う。そんな自分のバックボーンは大切にしたいが、一方、映画は観てみなければ分からない。
今回の「アジア千波万波」では、中国・韓国・台湾・日本・フィリピン・インドネシア・ビルマ・シンガポール・インド・トルコ・イラン・レバノンなどの多彩な国や地域から、21作品がノミネートされた。審査にあたっては、虚心坦懐に作品と接したい。
1951年、神奈川県藤沢市生まれ。大阪市在住。編集者・映画館役員。出版社の「保育社」「フィルムアート社」勤務後、フリーランスに。1987−99年、月刊映画批評紙「映画新聞」編集スタッフ。1989年、エッセイ集『大阪哀歓スクラップ』(エディション・カイエ)を上梓。同年、第1回のYIDFFで「デイリー・ニュース」編集デスク(第2回も)。1996年、第9回東京国際映画祭「映画祭日報」編集長。1997年、市民映画館「シネ・ヌーヴォ」の立ち上げに参画。「韓国エンタテインメント映画祭2005 in 大阪」として始まった「大阪アジアン映画祭」では、2016年の第11回まで、ポスター・チラシ・公式カタログの編集・校正を担当。現在は、フリー編集者の傍ら、週1回「シネ・ヌーヴォ」の受付に立っている。
宮澤さんの不在
今年の映画祭を迎えるにあたって、宮澤啓さんの不在は、映画祭に関わってきたすべての者にとって、痛恨の極みである。
1989年の第1回映画祭に、ネットワークの一員として参加した宮澤さんは、95年、それまで短期で交替する山形市の職員だけであった山形の映画祭事務局に、専門員としてはじめて関わることとなった。以来、東京事務局と市当局との間の架け橋となり、日本国内の映画祭等に積極的に参加して、対外的にも映画祭の顔となっていった。その間、アジア千波万波の予備選考にも携わり、台湾のドキュメンタリー映画祭にも参加、台湾から山形への歌舞団の来日に際しては、諸般の障害を取り除き、親身になって歓迎したものである。
2007年の山形市からの独立に際しては、かなり苦労されたと思うが、それを機に事務局を離れ、山形映画センターで働きながら、3.11後には、被災地上映などに関わり、映画祭では「ともにある」プログラムに協力、予備選考でもアドバイザーとして作品を見続け、映画祭期間中にはアジア千波万波等のプログラムがあるフォーラムの会場を駆け回り、ボランティアを指示し、トラブルに対処してきた。宮澤さんの顔を見ると、どんなに切羽詰まった時にでも、ほっとしたものである。
昨年、2018年の9月に突然帰らぬ人となってしまった。映画祭の30年は宮澤啓さんにとっての30年でもあった。