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■ウィグワム?燃える矢 ■橋 ■波浪 ■雨 ■われらは建てる ■フィリップス・ラジオ ■クレオソート ■コムソモール―英雄たちの歌 ■新しい土地 ■ボリナージュの悲惨 ■スペインの大地 ■四億 ■動力と大地 ■インドネシア・コーリング ■最初の年月 ■世界の河はひとつの歌をうたう ■セーヌの詩 ■早春 ■イタリアは貧しい国ではない ■旅行日記 ■ヴァルパライソにて… ■ミストラル ■ベトナムから遠く離れて ■北緯17度 ■愚公山を移す ■風の物語 ■マグニトゴルスク―新しい人間の製造 |
ヘレン・ファン・ドンゲン ケース・バカー ヨリス・イヴェンスが1930年代に作った映画に大きな影響を与えた人物を1人あげるとすれば、まずヘレン・ファン・ドンゲンだろう。彼女はこの時期の彼の映画のほとんどを編集している―とりわけその力強いモンタージュが評価されている作品群だ。2人の関係が始まったのは1930年代初頭だが、結婚したのはやっと1944年になってからで、これはイヴェンスがオーストラリアに行くわずか1年前だ。イヴェンスはオランダ領東インドの映画監督官に任命され、再入国許可を持たないまま出発したのだが、その時の同行者はマリオン・ミシェルで、彼女は後に『インドネシア・コーリング』(46)のカメラ・ウーマンになり、またイヴェンスの新しい恋人でもあった。ファン・ドンゲンはその後1978年までイヴェンス本人に会っておらず、そしてこれが最後となった。 ファン・ドンゲンは1909年にベルギー人の母(ワルーン、フランス語圏出身)とオランダ人の父の娘として生まれ、ヨリス・イヴェンスの父コーネリウス・アドリアン・ペーター・イヴェンス(頭文字がCAPI)の写真・光学機器会社CAPIのアムステルダム支店に入社した。1927年当時、イヴェンスはこの支店の技術部門を指揮しており、後に副社長になった。同年にイヴェンスは最初の映画の実験を始めており、1928年の『橋』と1929年の『雨』で国外に行っているあいだ、ファン・ドンゲンがヨリスの怠けていたCAPIの仕事を取り仕切っていた。彼女はやがて彼の映画の仕事とオランダのフィルム・リガの活動により深く携わるようになる。1929年に撮影が始まった『われらは建てる』では、彼女はより重要な協力者として時にカメラを操作し、また編集を補佐した。この映画の幾つかの部分は別個に編集され、たとえば『Zuiderzee』(30)として作品化されている。 ヨリス・イヴェンスはファン・ドンゲンの協力を常に作品にクレジットしていたわけではない。『フィリップス・ラジオ』(31)で彼女は初めて、編集者としてイヴェンスと共にクレジットされた。彼女は既にパリで6ケ月間録音と編集を学んでおり、フィリップスの映画の音入れもパリで行われた。 ファン・ドンゲンは順調に編集助手(とCAPIの仕事)からプロの編集者へと昇進した。彼女はベルリンのUFAスタジオでさらにその技術に磨きをかけ、1932年にはルー・リヒトフェルト作曲の『雨』の音楽の録音を手掛け、『新しい土地』(33)を編集、また『ボリナージュの悲惨』(34)のロシア語版編集のためモスクワに行き、そこでエイゼンシュテインやプドフキン、ヴェルトフの元で学び、映画編集についての講演もしている。1936年にはアメリカに赴いてハリウッドの映画製作や録音、監督の技術を学び、ヨリス・イヴェンスと共にニューヨークに居を構えた。スペイン内戦が始まると彼女はまず既存の映像素材から『Spanish Flame』を編集し、1937年にはイヴェンスの『スペインの大地』を編集した。 ヘレン・ファン・ドンゲンは映画編集者として、またプロデューサーや監督としても仕事を続けた。アメリカ滞在中の主な作品にイヴェンスの『四億』(38)や『動力と大地』(41)、それにロバート・フラハティの『土地』(42)と『ルイジアナ物語』(48)がある。1950年には彼女の最後の作品となる『Of Human Rights』を製作、監督、編集。この年ジャーナリストのケネス・デュランと結婚し、映画製作から引退した。
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