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柳澤壽男
Yanagisawa Hisao
1916年群馬県生まれ。松竹京都で劇映画演出を志すが『小林一茶』(1941年/亀井文夫)に感銘を受け、記録映画に転身、日本映画社、岩波映画などで多数のPR映画を手掛ける。だが企業の宣伝活動を助けることに疑問を感じ、1968年より自主製作に進み、以後は障害者の生活とその苦悩を通
して人間が自由に生きることとは何かを問う作品を発表した。近年は看護婦をテーマとした新作に取り組んでいたが、1999年6月16日、83歳にて急逝。本映画祭には1989年の第1回より参加、1993年にはアジア・プログラムの審査員を務めて頂くなど深い関わりがあった。
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柳澤壽男は追悼できない!
白井佳夫
日本のドキュメンタリー映画作家としての柳澤壽男監督を追悼するためには、恐らく1冊の本を書くことが必要であろう。特に『夜明け前の子どもたち』『ぼくのなかの夜と朝』『甘えることは許されない』『そっちやない、こっちや』『風とゆききし』という、5本の福祉施設についての長編ドキュメンタリー映画を人間的に作りつづけて、この世を去るまでの三十数年間のことについては。
彼はドキュメンタリー映画を作ろうと思った福祉施設に、まず1年間は手弁当で1人で通
った。そして障害者や施設の人達が誰も彼の存在に違和感をもたなくなり、なおかつ施設がおこなっていることの全体像がほぼ完全に見渡せるようになった段階で、はじめてキャメラを廻しはじめた。
それも最少人数のスタッフで、1年も2年もかけて撮影をおこなった。そしてポール・ローサがその著書『ドキュメンタリー・フィルム』の中で言っているところの、〈事実の創造的劇化〉などという、いわばドキュメンタリーのドラマ化の操作は、いっさいおこなわなかった。さらに撮影した膨大な量
のフィルムは、これまた1年か2年かけて入念に編集した。
またそうした長編ドキュメンタリー映画作りのための資金調達も、映画を完成させて以後の上映活動も、総て自分自身の手で独力でこつこつと、誠実におこなった。こうして撮影された作品は、しばしば被写
体である施設の矛盾点を映像に描き出してしまって、その施設との間にトラブルを生じさせたりもした。
結局これら5本の作品で、彼は常にこう訴えかけていたような気が、私はしている。「福祉施設を作るということの目的は、障害をもった人達が生き生きと生活できるような、共和国を作るということではなかったのか? しかし施設が出来、そこに職員がやってきて活動がはじまると、なぜ部屋には鍵がかかり、障害者たちへの管理がはじまってしまうのだろう?」と。
そしてこれは、映画を作るということや、人間が生きるということの意味を追求することにも共通
するような、柳澤壽男の大テーマでもあった。こういうドキュメンタリストの追悼を、私はどう書けばいいというのだろう?
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