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■ジャン=ルイ・コモリ
■アモス・ギタイ
■羽田澄子
■スタンリー・クワン
■ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス

■林旭東
■中野理惠

病院の誕生
Birth of a Hospital
Naissance d'un hôpital

フランス/1991年/フランス語/カラー/16mm/67分

監督:ジャン=ルイ・コモリ
原作・出演:ピエール・リブレ
脚色:ジャン=ルイ・コモリ、アルノー・デ・パリエール
撮影:ジャック・パマール
編集:アンヌ・ボードリー
録音:フランク・メルシエ、ジャン=ピエール・ラフォルス 
製作:ミュリエル・ロゼ
製作会社:ラ・セット、INA 
提供:フランス外務省、東京日仏学院


ジャン=ルイ・コモリ
Jean-Louis Comolli


映画批評家、映画監督。仏『カイエ・デュ・シネマ』に1962年から参加、66年から71年までは編集長。68年にドキュメンタリー『Les Deux Marseillaises(2人のマルセイユ女)』で監督デビュー、76年には『La Cecilia』で劇映画にも進出。特に80年代以降、精力的にドキュメンタリーを発表、主な作品は『Toto, Une Anthologie』(79)、『La France á la carte』(86) 『Marseille de père en fils』(89)、『Un Américan en Normandie (le jour J de Samuel Fuller)』(94)、映画音楽の巨匠ジョルジュ・ドルリューの肖像『Musique de films: Georges Delrue』(94)など。また教育者としてフランス国立映像音響芸術学院(FEMIS、国立映画学校)監督学部の副学部長を努め、パリ第8大学やバルセロナでも教壇に立つ。音楽への造詣も深く、ジャズ評論家としても活躍。最新作は1931〜36年のスペインのアナーキストを描いた『Vies et morts de Buenaventura Durutti, ananchiste』(99)

新しい小児科病棟の設計を委託された建築家ピエール・リブレ。その5ヵ月半にわたる創作日記を基に、その建設地にインスピレーションを受けながら、建物を作り上げていく課程を具体的に見せていく。建築家は常に、病気と闘う子供たちを助け、希望を与えるという病院の役割を考察している。

【現実という危険をおかすこと(審査員のことば)】
我々の願望や我々の欲求はシナリオ化されている。見えざる手が我々の進むべき方向へと出来事を並べているのだ。社会は上演/表象の時代─社会組織の芝居、権力の喜劇または悲劇、力関係のスペクタクル─から、プログラミングの時代─シナリオに定められたシーン―へと、静かに横滑りしつつある。市民を観客として─積極的な観客として、時に上演の一部となり、代表としての俳優となるよう─巻き込むことは、消費者として、自分がその一部となっているプログラムそのものすら理解する力を持たせないことに比べれば、もはや過度な要求とはいえない。あまりにも不公平なことに、ゲームはもはやひとつではないのだ。
この社会的な関係と主体同士の関係が徐々にシナリオ化されて行き、それがテレビの連続ドラマ的な“リアリズム”によって普及され(そして最終的に保証され)ていることに直面して、ドキュメンタリーには現実という危険をおかす以外の選択枝はない。映画作家の仕事の中核にある「どう映画にするのか」という至上命令はここで最も暴力的な必要性をもって課せられる。「どのように映画を作るか」ではない、「映画がそこにあるためにはどうすればいいのか?」 ドキュメンタリー映画の実践において最終的に問題になるべきなのは、資金調達のシステムでも、上映・放映の可能性があるかどうかでもなく、ただ単純に、我々が個人にせよ社会組織にせよ集団にせよ、何を撮るか、誰を撮るかを選択することにおけるよい意味でのやる気─善意─である。欲望こそが指揮権を持つべきなのだ。その体験をめぐる諸条件は、それ自体が体験の一部である。己自身の可能性を脅かすもの(シーンを脅かす現実)に自らを開け放つことによって、ドキュメンタリー映画は上演/表象の交替の可能性をも救うのだ─『新ドイツ零年』から『Pour la suite du monde』へ、『Petit ? petit』から『そして人生はつづく』への間にあるのは確かにドキュメンタリーの戦場なのだ。ドキュメンタリー映画は単に「世界に向けて開かれている」だけではない。ドキュメンタリーはそこを横断し、貫通し、そこに身を置くのだ。豊饒なる繊細さ─ドキュメンタリー映画には何かを発明する一種の義務を絶え間なく課せられ、それが更新されている。プログラミングがあらゆる現実をそのシナリオの中に押し込める形で矮小化することで世界を支配しているなかで、重要なのは─こう言ってよろしければ─語ることのなかに現実を取り戻すような語り方のモードを見つけることだ。それはこう言い換えてもいいだろう─もし映画が我々の見ることと聞くことを統合する芸術であるならば、この超スペクタクル化された社会の中で、我々がもっと見て聞くことの可能性そのものとは、いったい何なのだろうか?
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COPYRIGHT:Yamagata International Documentary Film Festival Organizing Committee