わたしはまだデリーを見ていない
I Am Yet to See Delhi-
バングラデシュ、インド/2014/ヒンディー語、ベンガル語/カラー、モノクロ/Blu-ray/19分
監督、撮影、編集、ナレーション、提供:フマイラ・ビルキス
録音:サテンドラ・シン、シャグン・ベルワル、ラディカ・ファターニア
映画を学ぶためにデリーで一人暮らしを始めた「私」は、カメラを心の一部のようにして、ふらりと街に迷い込む。路上で、市場で、モスクで、観光地で、ここに存在する人たちの息づかいに耳を澄まし、視線の先を追いかけ、ふとした会話やざわめきを拾い集めれば、街の音色が聞こえてくる。「私」という世界に身を深く沈めながら、アウトサイダーとしての自身の思いの揺れ動きを綴り、この街の鼓動を刻む、パーソナル・ジャーニー。
【監督のことば】『わたしはまだデリーを見ていない』は、この街を訪れたアウトサイダーの物語だ。彼女は映画制作を学ぶため、一年間デリーに滞在する。学校の勉強を離れると、その孤独さゆえ、自らのアイデンティティについて、時間が刻みつけた過去と現在について考えざるを得なくなる。彼女は一人で街をさまよう。そこで制度化されたツーリズムに目を向けると、建築、博物館、美術館や霊廟が垣間見える。この観光リストに最近新しく加わったのが、超近代的なショッピングモールだ。彼女は、この街の歴史を表す規範的なありように馴染めぬ、受け身の旅行者として振る舞うが、やがて彼女は旅行者と、彼らの「見たい」という欲求に意識を向ける。携帯のカメラは、旅行者にとって、貪欲な視線に代わるツールになる。映画の観客は、歴史を見つめる旅行者を眺める彼女を眺める。見るという行為は、物語のメタ構造としての役割を果たしている。
彼女は街の代表的な場所を何度も訪れ、そこで遭遇する様々な出来事から自分の名前、イスラム教徒であることがわかる名前を痛烈に意識する。自分が宗教的アイデンティティに呑み込まれていくのを感じる。それは本人の意思に関わりなく、まるでテンプレートのように彼女に貼りついている。
社会の文化的基盤を織り成すのは、交流という関係を通して結びついた人々だ。人生は無数の生きた瞬間の集積となり、表象とその政治性を超越する。映画作家は、カメラとマイクの前で途切れることなく続く出来事を静かに眺め、そこから世俗の時間を描こうと試みる。彼女は観光客の目でデリーを見ることを拒否する。霊廟や建築は背景に退き、街は光と影の中で、そこから生み出されるあらゆるジレンマを通して再構築されていく。
ダッカに拠点を置くインディペンデント映画作家。実在を創造的に扱う映画表現に興味を持つ。現実の多様性に信を置いており、主観的な視点で対象を探求する。マスコミュニケーションの学位を取得後、5年前から映画作家として活動。デリーのシュリ・オーロビンド芸術コミュニケーション・センターでクリエイティブ・ドキュメンタリーの準修士号を取得。デリー滞在中に何本か映画を撮ったが、それらは人間への興味と内省に満ちたものであった。作品はインドの複数の映画祭で上映されている。また、何本かの国際共同制作のドキュメンタリーで製作補も務める。現在は、バングラデシュに暮らす同性愛者を描いた短編ドキュメンタリーを制作中。さらに、助成金を得て、バングラデシュの茶農園労働者の教育環境を取材した長編ドキュメンタリーも制作予定。