Double Shadows/二重の影――映画が映画を映すとき
未完の映画史のために
映画の歴史を語ること。あるいはまた、映画の複数の歴史を語ること。膨大な選択のなかから、主観的で、部分的で、それでもひとつの可能性を示すこと。それは、輝かしい受賞の一覧や、商業的な成功によって刻まれる歴史の軸を辿ることではない。出会いを、交差する軌跡を、映画そのものが直接語られる瞬間を、あえて特権化する試みにほかならない。
だが、映画について語る映画とは、映画好事家のためにだけあるものではない。「シネフィルの消滅」「映画の死」という言葉を出すまでもなく、観終ったばかりの映画を話す場所自体が、私たちの生から失われているのではないか。本特集では、映画誕生から約120年を経た今日において、映画史あるいは映画そのものを主題とし、被写体とした作品を上映する。
映画と映画の重なり合う影――それは、映画による「自分探しの旅」だと言うことができるかもしれない。家族によって撮られたホーム・ムーヴィー、子どもの頃から観てきた映画は、「時代」や「歴史」を映し出す。しかしその試みは、個人の記憶であると同時に、私たちを時間のなかに刻みこむ。「過去」は「過去」であることを止め、映画と観客との距離を揺り動かす。おびただしい私的な映像の流れを辿ることで故国が甦り、フッテージが繋がれることで存在に生が与えられる。
オリヴェイラが喩えるように、映画とは、家であり、大海原へと旅立つ船であり、人生なのだ。あるいはまた、複数の映像が重なり合うことで、そこからはみ出てしまったもの、忘れられてきたものへの眼差しが、新たに生まれることもあるだろう。見出されたフィルムの断片が、私たちの想像を超えた繋がりを生み、輝きを放つ。フッテージが想像の源泉となる。上映、シンポジウム、展示によって構成される本特集は、「映画祭」という場において、自閉的試みを越えて、映画的記憶の今日的なあり方を問うものとなるだろう。