フマイラ・ビルキス 監督インタビュー
ジレンマを超えて見えてきたもの
Q: 映画祭の公式カタログで、監督自身の体験をおさめたこの映画について、「彼女」と客観的な目線で書き綴っていたのはなぜでしょうか?
HB: 映画というのは、ただ撮っておしまいではありません。その後の編集や観客とのやりとりを経ることで、映画自体はもちろんのこと、撮影者の心情も豊かに変化していきます。この映画は自分の体験を撮ったものなので、撮影時は「私」という感覚でいましたが、コメントを書いたのは撮り終えてから時間が経ってからのことだったので、私の内省もより一層深いものとなって、客観的に「彼女」と呼べるような目線になっていたのだと思います。
Q: 冒頭で読まれる、「写真、ビデオ、絵を描くこと 表現はなぜあるのか なぜ禁止されるのか」という言葉について、監督の考えをお聞かせください。
HB: 私にとって非常に興味深い言葉であり、あるモスクで聞いて以来ずっと、心に留めています。
私は長い間、表現をしたいけれど積極的にはできないという、ジレンマを抱えていました。イスラム教の教えの禁忌を破ることになるので、私の表現活動は家族にも反対されていたのです。諦めきれずにモスクでも是非を問いかけましたが、残念なことに、家族と同様の反応が返ってきました。ですが、私はこのジレンマを、とても良いものだと思っています。なぜなら、このジレンマを意識してよく考えたことにより、それでも表現をしたいという自分の意思が、明確化されたからです。
Q: 現地の子どもが、たびたび登場しますね。留学中、子どもとはどのような存在だったのでしょうか?
HB: 現地の子どもの存在は、まるで天使のようでした。子どもは、人を分類する、あらゆるしがらみに囚われずに、純粋な気持ちで目の前の人と接してくれるので、私は大好きです。
留学中、私は、デリーに住む大人たちに様々な詮索をされました。たとえばどこの国の人なのか、宗教は何を信仰しているのか、どのカーストに属しているのか、というようにです。酷いときには、人格や思想を勝手に決めつけられることまでありました。
このような体験をして孤独を感じていた私にとって、子どもとの交流の時間は、心安らぐひとときでした。
Q: タイトルの『わたしはまだデリーを見ていない』には、どのような意味が込められているのですか?
HB: この映画は、観光業への皮肉も含んでいるので、私は他の観光客と同じようにはデリーを見ていない、という意味を込めてタイトルをつけました。
デリーは毎日、観光客でごった返していて、多くの人々は観光名所を写真に残すと、足早にそこを去って行きます。私はそのような行為に対して、違和感がありました。彼らのしていることは、ただそこに行ってきたという事実を残したいだけのように思えたのです。
現地の人と話をしたり、可能であれば建造物そのものに触れてみるなど、能動的に動かなければ、その場所を深く知ることはできないのではないでしょうか。私はそういったプロセスを踏んで、その場所の持つ長い記憶を感じながら、デリーを見ていました。
(採録・構成:石沢佳奈)
インタビュアー:石沢佳奈、楠瀬かおり/通訳:中沢志乃
写真撮影:狩野萌/ビデオ撮影:平井萌菜/2015-10-11