審査員
キドラット・タヒミック
●審査員のことば
2007年は、私が映画という魔法の絨毯に乗って世界各国の映画祭を回るようになってから、ちょうど30年にあたる。私にとって山形という土地は、単なる映画祭の開催地以上の存在だ。1989年に第1回が開催されて以来、山形国際ドキュメンタリー映画祭は、アジアの映画作家たちに特別な集まりの場を提供してきた。彼らは盟友の小川紳介と共に、「アジアのドキュメンタリー映画は元気いっぱいだ!」という山形宣言を行った。
小川さんに捧げた私の映画(『虹のアルバム』)で、彼がまるで部族の長のように呵々大笑する声を聞くことができる。映画のナレーションは語る。「米粒をとおして、小川は自分が属する部族を発見した」。(セルロイドのスパゲッティが大好物な部族だろうか?)
YIDFFは特別な映画祭だった。私の『虹のアルバム』を、まるで我が子を慈しむように大きく育ててくれた。YIDFFの最初の3回で、私と息子たちは山形(そして牧野村!)を訪れた。私たちは、セルロイドのフィルムの上の映像としても、生身の人間としても、あの場所に存在していた。訪れるたびに、それはまるで家族との再会のようだった。山形の観客たちは、『僕は怒れる黄色』の前のヴァージョンから、ずっと息子たちの成長を見守ってきてくれた。
YIDFFは、世界で最も権威あるドキュメンタリー映画祭のひとつへと発展していった。ここで告白をしよう。2年に1度YIDFFの応募用紙が郵便で届くたびに、私は俄然やる気がわいてきて、この終わりのないドキュメンタリーの新作を作ろうと決意する。言い換えると、YIDFFはいつでも私のエネルギーの源だった。たとえ私の映画が、年々高くなるYIDFFの基準に追いついていないとしても。
審査員を務めるという栄誉はもちろん、記念すべき第10回を迎えるYIDFFに再び参加できるのは、私にとって非常に感慨深いセンチメンタルな旅でもある。アジアのドキュメンタリー映画作家たちと交流し、彼らの作品を観るのが楽しみだ。蔵王の頂に抱かれながら、小川が残した遺産の精神と再びつながるのが待ちきれない。この旅のもうひとつの目的は、小川さんが米粒から自分の部族を発見したように、私も自分の属する部族を見つけることだ。
1942年、フィリピン・バギオ市生まれ。アメリカで経営学などを学んだ後、1972年に卒業証書を破り捨てアーティストとして生まれ変わった。1977年の第1作『悪夢の香り』以来、ユニークなインディペンデント作家として活躍を続けている。1982年の南アジア映画祭で初めて日本に紹介された後、たびたび来日。1989年の第1回以来、山形映画祭には1995年まで4回連続参加。『虹のアルバム』(僕は怒れる黄色)のそれぞれのヴァージョンの上映のほか、パフォーマンスやインスタレーションも行なってきた。現在バギオにて、先住民を含めたワークショップなどを行いながら、1982年以来の企画『マゼラン』の撮影の再開を期している。 |
虹のアルバム(僕は怒れる黄色'94)
Why Is Yellow Middle of the Rainbow?-
フィリピン/1994/英語、タガログ語/カラー/16mm/175分
監督、脚本、製作:キドラット・タヒミック
撮影:キドラット・タヒミック、ロベルト・イニゲス、ロベルト・ヴィラヌエヴァ、トリン・T・ミンハ、クブライ・アビアド、ロイ・ジャクソン、レジーナ・トゥアゾン、キドラット・ゴットリーブ
編集:キドラット・タヒミック、カール・フグント、モーリーン・ゴスリング
録音:エド・デ・ギーア ナレーション:キドラット・ゴットリーブ
ミキシング:バディー・メンドーザ
音楽:ボーイ・ガロヴィロ、シャント・ヴェルドゥン
提供・配給(日本国内):シネマトリックス
1989年、1991年、1993年と、映画祭のたびごとに新たな部分を加えて再編集して上映され、増殖を続けていた作品。1981年から撮り始め、自らの息子たちの成長を追いながら、フィリピンの歴史と文化をダブらせて描き出していった壮大な“ホーム・ムーヴィー”。終わりのない映画のとりあえずの1994年版が再び山形の地に蘇る。