ミスター・ピリペンコと潜水艦
Mr. Pilipenko and His SubmarineHerr Pilipenko und sein U-Boot
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ドイツ/2006/ロシア語、ウクライナ語/カラー/ビデオ/90分
監督、脚本:ヤン・ヒンリック・ドレーフス、レネー・ハルダー
撮影:フロリアン・メルツァー
編集:レナーテ・オーバー
録音:トルステン・ズィルバーマン
音楽:ヒンリヒ・ダーゲッフェア、フランク・ヴルフ、シュテファン・ヴルフ、ヘンイング・シュトル
製作:イェンス・フィンテルマン、トーマス・ゼーカンプ
製作総指揮:フーベルト・マラディ、ヴォルフガング・クラーマー
製作会社、提供:ノンフィクションプラネット映画&テレビ会社
ウクライナでは不可能を意味する時「まるで草原にある潜水艦のよう」と言う。ウラジーミル・ピリペンコはウクライナの小さな村に住む、62才の年金生活者。潜水艦を作って黒海に潜るのを30年間夢見ている。密かに貯めた年金を使い、古い部品や金属を集めて潜水艦作りに精を出す。しかし、妻からはぞんざいに扱われ、村人からは嘲笑される。それでもあきらめずに潜水艦をおんぼろトラックに乗せ、大草原を進み、400km先の黒海で勝負にでる。果たしてピリペンコは不可能を可能に変えることができるのか?
【監督のことば】ピリペンコの話を読んだ瞬間、この男と彼の夢についての映画を撮らなければならないと確信した。私にとって、彼は古典的な英雄だ。彼の物語は、希望と、強さと、バイタリティの物語であり、ウクライナの無人の地の貧しさを生き残り、またそれによって突き動かされてきた。実際に会う前から、ピリペンコには強い絆を感じていた。そして撮影が終わる頃には、ほとんど家族のようになっていた。ウラジミール・ピリペンコの存在がなかったら、我々はこの映画を作ることができなかった。そして彼のような人々の存在がなかったら、世界は今よりも貧しい場所になっているだろう。
ヤン・ヒンリック・ドレーフス
1991年にモスクワで、92年と93年にサンクトペテルブルグで演出と演技を学んで以来、私はこの国とそこに暮らす人々につながりを感じていた。そしてロシア語が話せるおかげで、旧ソ連圏に用事がある友人たちの手伝いをする機会にも恵まれている。2003年、「mare」誌のためにピリペンコの取材を手配した。ピリペンコは、私も記者に同伴するものと思っていたようだった。私は行けなかったのだが、その時、とっさの思いつきでいつか訪ねると約束した。どうすれば過酷な日々の生活と闘いながら、人生で大切なもの、自分の夢を、手放さずにいられるのか。実際に会ったピリペンコは、そんな問いに答えてくれる人物だった。
レネー・ハルダー
ヤン・ヒンリック・ドレーフス ドイツ北部リューベック出身。チュービンゲン大学とカリフォルニア州立大学サンフランシスコ校(SFSU)で修辞学、放送学、映画学を学びながら、テレビジャーナリストとして多様な番組を手がけるようになる。主な作品は『Caffé Trieste--Nostalgia dei Sensi』(2002)、『Supercrabs in the Arctic Sea』(2002)、『Paco Pacos--Jalopies in the Amazon Jungle』(2004)、『Eremitage--The Cat's Palace』(2005)で、数々の賞も獲得。本作で初めて長編ドキュメンタリーの監督を務める。今秋、初の劇映画となる『A Dog's Life』を監督予定。脚本は監督自身が手がけ、アメリカの刑務所に関するドキュメンタリーを制作した体験が元になっている。 レネー・ハルダー 1971年生まれ、ドイツ・コンスタンツ出身。ロシアの国立サンクトペテルブルグ演劇学校で演劇と舞台監督を、ギーセンで実践演劇をそれぞれ学ぶ。ハンブルク大学の演劇・歌劇・映画研究所で監督の学位を取得。1998年以降、ハンブルク、ゲルリッツ、ライプツィヒの劇場で、監督、作家、俳優として活躍。独自で脚本の執筆も始める。戯曲『Kalte Platte』の舞台は、1998年にドイツ北部の観客やメディアに大絶賛された。ハルダーが書いたもうひとつの戯曲は、2002年以来ゲルリッツで毎年上演されている。しかしながら本当のところは映画監督業を切望。短編映画『nah dran』『der erste Blick』はノルディック映画祭で上映されている。 |