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インターナショナル・コンペティション

審査員
ベルナール・エイゼンシッツ


-●山形国際ドキュメンタリー映画祭のために
(審査員の言葉)

 ロバート・クレイマーは我々に気づかせてくれた、「“trajet”〔行程、軌跡、道のり〕という言葉は美しいフランス語だが、英語には存在しない。」わたしはイメージの「トラジェ」に興味をもつ傾きがある。ある男がまるで鳥のような奇妙な恰好で立ち、エッフェル塔から飛び降りようとしている。これはゴーモンのニュース映画にとってはひとつのセンセーションであり、ニコール・ヴェドレスにとっては生死についての一省察だが(『パリ、1900年』)、クリス・マルケルは、沖縄戦についてもうひとつの別の真実を語るだろう(『レベル5』)。ひとつのイメージは旅をするだろう。

 1963年、功なり名遂げたフィクション映画の監督ルネ・クレマンは、映画作家の責任について質問を受けた――当時これは言い古された質問ではなかったのだ。あなたは、強制収容所のような、うっかり手を出すと危ないテーマについて映画を撮りますか? テレビカメラを見つめながらクレマンは次のような推測を述べた。テレビはまだその初期の段階にあり、映画言語から借用しようとする傾向がある。しかし将来は、すぐれて啓発的な情報機能にますます邁進することになるだろうし、映画は物語を語るという使命に身を捧げるだろう――そしてそれぞれ固有の、別々の道を行くだろう。

 過ぎ去った世紀からの奇妙なメッセージだ。我々の知るとおり、実際に起こったことは違っていた。無意味な情報の過剰投与は、白痴化の大きなファクターになっている。他方、映画におけるもっとも最近の変化は、映画とテレビの異種交配から来ている。リュミエールとメリエス両方の遺産というのは、それぞれがお互いに依存しあうことで、はじめて有効な定義となるのだ。

 証言であれ、記憶の痕跡であれ、エッセイ、自伝、偽装されたフィクションであれ、日記あるいは歴史であれ、ノンフィクションの映画作家の直面する問題は、ルイ・リュミエールが(意識的にではなかったとはいえ)工場から出てくる労働者たちを撮ったときに遭遇した問題と同じである。形式上の問題――これをどうやってフィルムに定着したらいいのか?(入念に出口をフレームに収め、テンポをスピードアップすることによって、すなわち、どれほど微細な程度であるとはいえ、演出によって。)そして道義上の問題――そんなことをする権利があるのか?(彼には権利があった、というのもキャメラの主題はリュミエール社の従業員であり、商売がたきの従業員ではなかったのだから。)

 あらゆることの「その後(ポスト)」である時代には、すべての真実が装われたものであるかもしれない。そして上の2つの問いはいまもなお互いに絡みあって存在している。


ベルナール・エイゼンシッツ

映画翻訳者であり、映画史家。フリッツ・ラングやニコラス・レイに関する著書(英語版、日本語版はキネマ旬報社)や、ドイツおよびロシア映画に関する著作がある。近著にロバート・クレイマーのインタビュー本『Points de depart, entretien avec Robert Kramer(出発点――ロバート・クレイマーとの対談)』がある。『Cinematheque』の編集委員を18号までつとめ、現在はその後継誌『Cinema 02』の編集長。


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