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デジタル技術の時代におけるドキュメンタリー(4/7)

4. 映画祭運営


デヴィッド・ラティマ(『RES MAGAZINE』発行人)
ジョナサン・ウェルズ(RESFESTデジタル映画祭ディレクター)
※RESFEST Tokyoは、1999年11月、原宿で行われました。2000年は11月にRESFEST Tokyo、12月にRESFEST Osakaを開催予定。エントリー作品応募、運営ボランティアスタッフ希望の方は、www.newsbase.co.jp/RESFESTを参照。

DB:RESFESTデジタル映画祭(という命名)は、必ずしもセルロイドを意味しないと言う点で興味深いです。なぜデジタル映画祭なのですか?

デヴィッド・ラティマ(以下DL名前は「レゾリューション(解像度)」からとったもので、この映画祭はもともとLow Res〔解像度の低い〕映画祭と呼ばれていたんだ。デジタルカメラ、デスクトップ編集、仕上げの段階で加えた効果など、テクノロジーを使ったものはすべて、“デジタル”映画と言えるよ。

DB:エントリーされた作品や作家について、どんな特徴がありますか。

DL:まず、機材がどんどん手の届く範囲になるにつれて、たくさんの人が機材を使っているね。4年前75作品のエントリーがあったけれど、次の年は150作品、その次の年が300作品、そして今年は650作品がエントリーされたんだ。そのうち、100くらいは学生からの応募だったよ。

 エントリーは、色々なタイプの人からもらうよ。例えばスパイク・ジョーンズ(『ビーイング・ジョン・マルコヴィッチ』/1999)、クリス・カニングハム、それからアニメーターたち、他の分野でそれぞれ活躍している人たちが応募してくる。でも、着想は何よりもまず映画監督たちを中心にはじまったんだ。

DB:機材の“民主化”は残酷だとか、エントリーが100あろうと1000あろうと、良い作品は3つか4つに過ぎない、という見方もあります。それに関してはどう思われますか。

DL:今年650の応募があったなかで、我々が上映するにあたっていいと思えたのは100くらいだよ、実際に使ったのは50くらいだけれどね。道具を使える人が増えれば増えるほど、可能性は大きくなるし、より高い創造性が発揮される。でも、ピアノが何百年あっても天才ピアニストになれる人は一握りでしょう。自分が上手だってことは周りから認められるし、逆に下手だってことも認知されるよ。

DB:デジタル機器の到来で、映画祭の仕事をするうえでの環境は変わったでしょうか。

ジョナサン・ウェルズ(以下JWインターネットは、僕たちの仕事に必然的な存在となっているんだ。エントリーは郵便で送られてはくるけれど、募集のお知らせは最初から本当にインターネットでしか告知しなかったんだ。映画祭に来られない人のために、ウェブサイトで映画のショートクリップを見せたりもするよ。

DB:先ほど「ドキュメンタリー(の世界)」と「CGを使ったシュールでファンタスティックな世界」の2つについてお話されていました。その2つはどう関連するんでしょうか?

JW:デジタル機材はグラフィック・デザイナーまでをも映画製作に巻き込んだんだ。ドキュメンタリーとCGIが接点をもつと、グラフィック・デザイナーは街に繰り出して撮影できるし、ドキュメンタリー作家がコンピュータ・グラフィックスを自分の映画に取り入れたりもできる。

 今回の短編プログラムで上映されている『スナック・アンド・ドリンク』(ボブ・サビストン監督/アメリカ/1999)は、この融合のいい例だよ。製作ではすごく平凡な題材を撮って、そのフッテージをコンピュータに取り込んで、アニメーション化した後、生身の映像を消して、音声だけ残したんだ。だから、そのアニメのキャラクターたちは「リアル」な言葉をしゃべっているんだよ。

DL:もっと新しい傾向で言えば、ビデオゲームのキャラクターやクェークのようなゲームの構造を使って、アニメ化した物語をつくることだね。ゲームに出てくるアバターを、アニメ化した物語で使うんだ。これはまだすごく新しいから、この技術をつかった映画を見るにはもう2、3年かかると思うけど。

DB:デジタル関係の仕事をしていると、スポンサーが見つけやすい、なんてことはありますか?

DL:我々の大型スポンサーのひとつは衣類関係だよ。デジタル映画製作者との接点をもちたいのはカメラやソフトウェアの会社に限らず、洋服やアルコールなどの消費グッズもそうだよ。

JW:我々の映画祭では、いつもロビーでテクノロジー・デモンストレーションが行われて、スポンサーたちが機材を持ってくるよ。映画作家たちが来場して、自分たちの映画を作りたいと思った時、それを実際にどうやって作るのかをロビーで学べるようにしたいしね。

 今年のロサンゼルスのRESFESTでは、ブライアン・マクネリスとスチュアート・スウェジー(『Better Living Through Circuitry』)が、使用したカメラについて語ったんだ。カメラって言っても民生用で、観客の誰もが購入できるカメラだ。だから、今年は観客だったけれど来年は映画を応募してくる、なんてシチュエーションも強くあるよ。

DB:デジタルにはまだ方式についての問題がありますか。

JW:現在は、まだVHSテープでの応募をしてもらわないといけない。なぜなら、みんな使っているコンピュータのプログラムがばらばらで、それを全部ちがう形で650作品まとめて(審査)上映なんて、悪夢だからね。でも作品をVHSテープに落として、音も全部シンクにして、何もかもうまくいくようにするっていうのは難しいから、願わくばデジタルのスタンダードができてほしいね。

DB:レコードがCDに取って代わられたように、映画もビデオその他のフォーマットに押しやられて死に絶えてしまうのでしょうか。

JW:画家や芸術家たちがいろんな異なるツールを使って自己表現をするように、DVカメラは映画を作る際の1つの選択肢やタイプになったに過ぎないんだ。ヴィム・ヴェンダースやスティーブン・ソダーバーグ、ラース・フォン・トリアーたちは、35ミリで撮ったことがあるし、もちろん35ミリで撮り続けるだけのお金もあるよ。でも、彼らはDVカメラを選んでいる。だからと言ってもうセルロイドで撮らない、ということではないしね。

 結局、画像のクオリティだけが問題ではないんだ。道具をつかってどれだけ創造的なことができるか、ということなんだ。『フープ・ドリームス』(YIDFF '95で上映)はビデオで撮影されて、広く配給された初期の作品のひとつだけど、だれも「これ(画像が)最悪」なんて言わなかったんだ、それはストーリーがすごく良かったから。将来は、フィルムとして出発したものがデジタルで上映されることもあると思う。今のところ、デジタルで撮影しても配給は35ミリだけどね。フィルムで撮影したものをハイビジョンにトランスファーして、35ミリの画質を保とうとしている人たちもいるよ。

 RESFESTで作品を上映する〔デジタル〕映画作家の多くは、自分の作品を15インチのコンピュータ・スクリーンでしか見たことがなかっただろう。もちろん僕たちだってDVDやインターネットが可能にする配給戦略について信じているけれど、映画を映画館で他の人と見るっていう行為は、1人でコンピュータのスクリーンで映画を見ることからは味わえない経験だよ。だから、今僕らが体験しているのは、映画の終わりだなんてちっとも思っていない。むしろ、映画の新生だよ。