english

日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 19

時枝俊江

聞き手:今泉文子


あの頃のこと
〜はじめに〜

今泉文子(以下、今泉岩波映画で時枝さんに声を掛けていただいたのは、時枝さんがちょうど私の今の歳で、『育児の百科』(1984)の撮影が大半済んでいて「これをレーザーディスクにするので加わってほしい」と言われたのです。それでご一緒に仕事をすることになったのですが、当時、時枝さんは文京区シリーズの『坂』(1985)という作品もかかえていらした。なぜそういうことを今も覚えているかというと、ちょうど時枝さんが定年になる年だったのですね。時枝さんの最初の印象は、高校生の頃読んで好きだった茨木のり子の詩と重ね合わさって見えたのを覚えています。それは「わたしが一番きれいだったとき」という詩ですが、「わたしが一番きれいだったとき、わたしの国は戦争で負けた。そんな馬鹿なことってあるものか、ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた。」っていう一節があり、私には詩の中の勇ましい娘さんと時枝さんがだぶって見えた。それから20年のお付き合いになるのですが、今日は時枝さんがはじめて映画との関わりをもった頃のお話からうかがおうと思います。

1. 映画との関わりをもったあの頃の時代

時枝俊江(以下、時枝戦争中は本もない、音楽は自由に聴けない、展覧会も見ることができない。だから敗戦後に私たちの前に登場した映画は輝くばかりのものでした。飢えや渇きを充たすため、むさぼるように飛びついたのは私ばかりではなかったでしょう。男と女の自由な恋愛、戦争中は知らされていなかった抵抗運動や外国のまばゆいような暮らし。ちょうど人生ガイドのようなものでした。そういう時代、2年先輩の人がはじめてスクリプターという職業に就いたのです。今ならスクリプターは女の人のふつうの職業だけれども、当時スクリプターは女性の職業としては輝かしい職業だった。スチュワーデスになるか、スクリプターになるか(笑)。そういう先輩がときどき寮にきてね、私たちが憧れている女優さんの話とか、監督の話をしていたのよ。その時は映画を職業にしようとまでは思っていなかったわね。私は国語科の学生でしたけれども、女学校の時は(戦時中だったから)1年半位しかまともに勉強していなかったので、先生たちはこんなに学力のない生徒たちに困惑されたらしい。それで、「好きなことやりなさい」と言われていてね、私は「映画製作について」というテーマを卒論に選んだの。そのころ映画論などはあまりなかったけれど、今思えば当時の映画は、娯楽としての映画が労働者にとっては明日のエネルギーになっていたという面、それと映画会社にとってはお金をもうける手だてであったという面、もうひとつ芸術的に質が高かったという面。この3つの面があって、当時の映画は芸術的な質の高さは収益の高さに比例していた…。その頃『文化革命』という雑誌があって、新橋にあった産別会館の編集部に私はアルバイトに行っていたの。その雑誌に日本映画社(日映)のデスクがコラムを書いていて、アルバイトの私が原稿取りに行っていました。そのうち東宝の監督さんのところにも原稿取りに行くようになったの。それで争議中の東宝撮影所にも出入りしました。…東宝争議はレッドパージなんですね。

 私はサラリーマンの娘で、サラリーマン以外の世界は知らなかったから、東宝撮影所に行くとすごく自由な雰囲気があって、監督と録音技師とか撮影技師たちのつながりが強い。ほかの世界をまだ何にも知らないうちだからそういう世界にとても興味をひかれていくんですね。当時、学校の講義では日本の古典文学しか教えてくれないし…、現代文学というのは非常にかぎられていて、何か自分が当時求めていたものと与えてくれたものとの間にはズレがありすぎたんですよね。それで映画ばっかり見ていたという印象があって、もうひとつは学生運動もやっていました。今から思えば、戦時中は映画にかぎらずあらゆる文化的なものから遮断されていたわけですね。本も読めなかったし音楽会もなかった。戦後になっても紙がなかったものだから、わずかな書物しか出版されていなかった。そういう文化的条件のなかで、映画の比重はとても高かったわけです。卒業するころになって、日映のデスクの岩佐氏壽さんにお願いして、今度は日映でアルバイトをはじめたのです。私にとって他の職業の選択肢はなかったのかというと、教員免許は持っていたけれど学校の先生というのは自分の性格に合わないと思っていたし、私は1950年の卒業ですから、婦人雑誌の記者か文学雑誌の記者か。私の目の前に見えていた選択肢はこの3つくらいしかなかったのよ。それで日映にとりあえずアルバイトに入ってその後少し考えようというのが、映画に関わったきっかけです。

今泉:今の話を若い人が聞くと、たまたまアルバイト先から社会に出ていくというのはごく当たり前のように思われがちだけど、1950年というとまだ戦後5年。そういう時代では映画製作の現場は一般的にはあまり知られていなかったわけですね。

時枝:そう、アルバイトだから何でもやらされるのだけれども、ちょっとしたドラマでウサギを使うと、そのウサギの番をしてろとかね(笑)。当時、日映は給料遅配がはじまっていたから、4月に私が入って12月にはつぶれてしまうの。お使いで分割のわずかの給料を届けに、私が監督の家に「ごめんください」って入っていくとね、「すいません、いま夫婦喧嘩してますから後にしてください」って(笑)、小さな体験だったけれど、それまでには知らない世界がそこにありました。ある時は解雇反対のビラ撒きに行くと、逃げ足ののろい人が捕まってしまうのよ。それを警察へもらい受けに行ったりね。そういうことも撮影部や録音部が同じ年代で横の連帯があるなかで行われていたから、それまでに経験のない面白さでしたね。

今泉:たとえば、かたい家だったらそんな映画のアルバイトなどしないで、せっかく学校出たのだからきちんと教員の道を選びなさいとか、ある程度社会的に認められるような職業を選びなさいとか、言いそうですね。

時枝:いや、言いませんよ。というのは、結局母親は働いた経験がないわけね。私たちの親は太平洋戦争の後、価値観の変動によって自信をなくしていた世代だったから、娘が何をしようとも、まあともかくきちんと見守ろうという気持ちだけはあったと思う。岩波映画に入ってからは、帰宅は夜中になるとか、街灯のない道を懐中電灯もって帰ってくるとか、ときには帰らないとか…。若い女がそういう働き方をしていても、それも見守っているだけでしたね。同級生では、教員や雑誌記者やスチュワーデスになった人もいたけれど半分は結婚していて、10年目の同窓会では「まだ働いていらっしゃるの?」、そういう言い方が普通でした。どうも私が何をしてきたかという話をすると、今では当たり前になっていることを、あの頃はむきになって一所懸命やっていたということばかりになってしまうわね(笑)。

2. 岩波映画の創立の頃

今泉:時枝さんは1951年岩波映画入社ですが、岩波映画の創立はその前の年ですよね。いろんな方たちがここに集まってきて、社会的に影響力ある映画づくりをしようとしていた時ですね。

時枝:私が学校を卒業したのが20歳だから、岩波映画入社は21歳の時ですね。小林勇さん、吉野馨治さん、小口禎三さん、そして羽仁進さん、羽田澄子さんたちがいました。会社の経理をなさっていた岩波茂雄の長女・百合さんが、お給料の時に給料袋をもってきて「今月はご苦労さまでした」と言うので、こちらは「ありがとうございました」って言ってもらうことになるんだけど、何となく個人商店に勤めているみたいでね(笑)。

今泉:その20人足らずでスタートした岩波映画は、時枝さんがお辞めになる頃は百数十人になっていましたね。

時枝:少人数の時の大変さは、大人数の時の大変さとはまた質がちがっていて、誰が何をしているかみんなで分かり合っていたし、私自身は何も知らない時だったから何でもかんでも面白かった。私は27歳で『町の政治』(1957)という映画の監督をさせてもらったのだけど、小林さんや吉野さんには、既成の映画人は使いたくないという強い信念があって、まったく新しい映画づくりに挑戦しようと思っていたようです。

今泉:岩波映画の草創期の社員は、行儀作法にはじまって、社内の日常の振る舞いから撮影時の心得まで、ことこまかに小林勇さんの薫陶を受けてきたわけですね。

時枝:中谷宇吉郎の“雪の結晶”の撮影は吉野さんが撮ったのだけど、あの微速度撮影のフィルムが、中谷先生の研究を大きく支えたということがあったので、小林さんは新しい映画の力、映画の役割というものを確信されていたのでしょうね。小林さんが、はじめから文化映画とか科学映画とか言わずに、単純に記録映画にしようとおっしゃっていたのは後になってよくわかる気がします。敗戦前に小林さんは出版のことで横浜事件という治安維持法に引っかけられて捕まった経験があるのです。その経験から、本や活字では検閲されて××にさせられるけれど、もっと黙っていても伝えられる…つまり検閲をされないで伝えるべきことを伝える“手段”があるのではないかと考えていたようですね。それを岩波映画の映画や岩波写真文庫の出版で実験したということがあったと思います。でもそういう草創期の雰囲気はいつまで続いたのかと今振り返ると、社屋が神保町から水道橋に移る頃までだったような気がする。つまり日本経済の高度成長の時代に、岩波映画も一方で企業PR映画の製作に力を入れていきました。いわばそれは儲け仕事に走ったことなのだけど、そのことが根深いところにあった文化よりも、伝統から切れた新しい科学技術のほうへと関心を移していった背景なのでしょうね。

今泉:岩波映画に私が出入りするようになった1980年代前後には、過去の伝説は伝説としてあったけれども、実態としては草創期のメンバーの多くが岩波を去り、フリーランサーが潤滑油のような役割を果たしていた時代でした。そういう実態が外部に向かって表面化するのは倒産する時なのですが、それでも一貫したよい風潮として、女性蔑視というものが社内になかったと言えると思うのです。

時枝:私の環境において仕事の上での男女の差別はなかったですね。ひとつは岩波書店が女性編集者を旧姓のまま認めていたということがあったし、映画界はわりと自由で、もともと女性差別がなかったような気がしますね。映画界そのものが、1段下に見られていたこともあるのでしょうね。でもそれは職場の関係ではそうだったけれど、外へ1歩出ると、それなりの反応に出会いましたよ。たとえばロケ費が会社から現地へ送ってくるでしょ。まず電報がきて、その電報を持って銀行へ行くとお金を貰える仕組みだったのだけど、私がそれをやると「あなたみたいな若いお嬢さんに、大金を渡すことはできません。ちゃんとした人を連れてきてください」(笑)。で、困ってしまって、宿屋のご主人に電話して来てもらったり…。今考えると嘘みたいな話ですけど。製鉄所のロケの時には、撮影現場には女性のトイレがなくてライト移動の合間に自転車を借りて、1キロくらい離れた事務棟に行ったりしてましたよ。それでトイレを我慢するのも癖になっちゃった。

3. 撮影フィルムの変遷について

今泉:その頃は、35mmで撮っていたのですよね。

時枝:そうです。35mmの白黒でした。カラーになったのは、私の作品でいえば『テーブルマナー』で1958年です。フィルムに16mmを使ったのが『This is TOKYO』だから1961年。当時イーストマンカラ−は日本国内で現像できなくてハワイへ送って現像していました。その度に現像所から手紙が来るのです。「お前たちは何でいつも、フィルムの最後の穴のあいているところまで撮影するのか?」。だって、その頃はNG率を2倍半で撮っていたのよ。でも私は、16mmだったということもあって『This is TOKYO』は6倍使いましたね。そういう(フィルムがもったいないという)感覚は、高度成長時代に入るまでの1960年代中頃まであったような気がするけれど、『夜明けの国』(1967)では自由にフィルムを使わせてもらいました。

 『幼児生活団の報告』(1953)では女の子が横断歩道を渡るのに車の往来が激しくて、なかなか渡れないでいる。その緊張しているさまから、やっと車の流れが途切れて道路を横切る。でもキャメラはアイモだったからゼンマイを巻き上げて、ゼンマイ仕掛けでフィルムをまわしているから、長まわしができない。アイモでは女の子が横断するところをワンカットで撮れないのですよ。あの時の悔しい思いは、今でも忘れられない。電気モーターでフィルムをまわすようになるまでは、長まわしができなかったですね。

 『町の政治』(1957)では町議会を記録するのに、録音機を同時にまわすからキャメラの音が聞こえてはいけないっていうので、キャメラカバーを自分で毛布を縫ってつくりましたよ。この映画はスタッフ全員が27歳前後でした。借家に住み込んで何も知らない者ばかり集まって議論しながら撮ったのね。撮影時間よりも議論している時間のほうが長かったんじゃないかな。だから、いざ仕上げの段階になっても、あれも言いたい、これも言いたい、ということばかりたくさんあって、まとめられなくなってしまった。それで結局、日映の加納龍一さんの助言を受けながら、やっと映画として完成させることができたのです。当時、世間からは岩波学校と言われていたように、勉強させてもらいながら仕事をしていました。

4. 『夜明けの国』について

今泉:次は『夜明けの国』(1967)を中心としたお話、それに『絵図に偲ぶ江戸のくらし』(1977)と『ぶんきょうゆかりの文人たち――観潮楼をめぐって』(1988)。この3つをめぐってお話していただこうと思います。最初にうかがいたいのは1967年に製作された『夜明けの国』についてです。中国の文化大革命は1966年にはじまっています。まだ日本が中国と国交回復をしていない時代に、どのような経緯であの映画を撮ることになったのでしょうか?

時枝:それは岩波茂雄さんが中国と戦争していることを残念に思っていて、何か中国のためになることをしたいと願っていたの。戦後、中国の大学に岩波書店の出版物を全部寄贈していたということがあるんです。中国とは国交がないので、日中文化交流協会を通じて映画製作の申し入れを13年間続けてやっと実現したのです。日中文化交流協会はフランス文学者の中島健蔵先生を中心に志のある知識人たちによって、国交のない中国と文化の交流を通して関係を持続させていたのですが…。

今泉:文化大革命を撮りに行ったのではなくて、たまたま文化大革命のはじまった時期に中国ロケが行われたという成り行きだったのですか?

時枝:そうです。もともとは、岩波茂雄さんの志を受け継いだ小林勇さんが、長い間願っていた企画だったのです。国交がないので戦後20年以上も、そして中華人民共和国が成立して17年経っても、中国の現実の姿は誰も見ていませんでした。イタリアのチームが撮った映画で『黄色い大地』(1958)というのがあったけれど、中国人の実際の生活は描いていなかった。アジア人の私たちからみれば、異文化への興味という観点から抜けられなかったと思えました。私は普通では行けない国に行けたのですから、ともかく見たものは何でも記録してやろうとしたのですが、ま、中国はめちゃくちゃに広いのですよ(笑)。私たちは日本から船でイントレ(組立式の俯瞰台)を運んで、農村で大ロングを撮ろうとした。ふつう7〜8段組めば大ロングを撮れるのですが、トラックの荷台の上にイントレを組んで上から見ても、下から見た景色とちっとも変わらない(笑)。キャメラマンの藤瀬季彦さんも「レンズの効果が日本で使っている時とまるでちがうな」。はじめに撮った5,000 feetくらいは全部NGにしてしまいました。広大な被写体に対して、いったい何を撮っているのかわからないカットばかりになってしまった。あれは異様な体験でしたね。望遠レンズは600mmを持っていったけれど、遠くにあるものを引き寄せることができないのですね。それに中国人のスタッフは「望遠レンズを使うのは敵を撮る時だ。被写体に気付かれずに撮るという行為は、とても敵対的なやり方だ」と言い張るの。その議論を毎回毎回しなければならなかった。

今泉:シナリオは吉原順平となっていますが、あらかじめシナリオがあったのですか?

時枝:日本が植民地とした満州がロケ地というのは、はじめから決まっていました。その中で、農業と工業を中心にしようと、高村さんと吉原さんと私で、1カ月シナリオハンティングのため中国をまわってみて、その後1週間ほど討議しました。シナリオハンティングは6月でしたから、まだその時文化大革命ははじまっていなかったですね。文化大革命について中国共産党が声明を出したのは8月8日です。私たちが撮影のために羽田を発って香港から入国したのがちょうど8月8日でした。それから6カ月間中国滞在して撮ったのです。あの時にも思ったことは、日常をまったく知らない人間が、事件だけ見聞きするという構図がジャーナリズムにはある。だからニュースでは壁新聞がどうのこうのと報道している時に、たとえば「お昼に撮影したい」と申し入れると「お昼は昼寝の時間だからやめてくれ」。そう言われてホテルに帰って、窓から見ていると木の下でぐうぐう寝ている。この落差ね(笑)。

今泉:時枝さんは文化大革命を撮りに行ったという意識ではなく、中国の人たちの“生活”を撮りに行ったということですね。実際に映画をまとめる時に、どんなご苦労をなさいましたか?

時枝:モンタージュはしないということは心がけましたね。私が見たと同じようにみなさんにも見てほしい。私の見たものは、できるかぎりそのまま伝えたかった。あるものをことさら避けて撮るのはおかしいし、そういう作為はしないというのが基本にありましたね。それまで私は日本に住んでいて、社会主義というものを知らない。「今日から社会主義だよ」というと、バッとみんな民主的になってしまって、すべてが改善されるような気分でいたのだけれど。中国に行ってみて、政治は変わっても人間や風土はそうは変わらないんだということを知りましたね。ずっと封建主義で植民地だったのだから貧しいし、そういう負の遺産から回復していくのは、並大抵のことではないということを感じましたね。しかしジャーナリズムは、突然起こった事件だけの報道をするわけですよね。

今泉:撮影の時に中国側からの規制などはありましたか?

時枝:国境を撮らないこと。軍事施設を撮らないこと。合弁企業を撮らないこと。これは中国が外国企業に対する礼儀の問題だとして許可されませんでした。この3つ以外は「現地の人たちと相談してやってくれ」ということになっていました。ま、この3つは私の主たる関心でもなかったし「わかりました」ということになりました。でもこういうこともありましたよ。前日にロケハンをして、翌日の撮影のことを打ち合わせるでしょ。それで翌日撮影機材をもって現場にいくと、たとえば工場の機械全部に“毛沢東語録”が並んでいる。それを私が「毛沢東思想は実践の場で表現されるものだから、これは照明のじゃまになるからどけてください」、それはすごいことを言ったらしいのね(笑)。そうしたらある労働者が私の前で大泣きするんですよ。昨夜は徹夜で準備したんだって…困りました。

今泉:できあがった映画について中国側から感想はありましたか?

時枝:音楽が暗い。ラストシーンで紅衛兵が遠ざかっていくのはよくない。当時の中国映画の常識では、紅衛兵は前へ前へと前進してこなくてはならないわけ。…それは望遠レンズの時の議論でも同じなのだけれども、議論に議論を重ねて「日本における戦略については、われわれにまかせてほしい」ということを繰り返し繰り返し話しました。お互いに、違いを認め合わざるを得ないことになりましたけど。配給の東和とは、旧満州と日本が侵略した現在の東北地方という言い方について、激しい議論がされたように記憶しています。辞表の提出も覚悟したのですが、小林勇さんが私たちの考えを支持してくれました。

次頁へ続く>>


時枝俊江 Tokieda Toshie

1929年朝鮮釜山生まれ。1950年日本映画社にアルバイト勤務、映画界に入る。翌年岩波映画製作所に入社し、助監督を務める。1953年『幼児生活団の報告』で監督デビューし、1984年からフリーに。文京区シリーズの『絵図に偲ぶ江戸のくらし』(1977)、『ぶんきょうゆかりの文人たち』(1988)や『病院はきらいだ』(1991)はその年のキネマ旬報文化映画ベスト・テンの1位のみならず数多くの受賞歴に輝く。岩波映画にて手掛けた作品は100本以上に及ぶ。

 

主な作品歴


_ (作品名/上映時間/フォーマット/企画/メインスタッフ)

1953_ 幼児生活団の報告/20 min/35mm/婦人の友社/山中貞男(撮影)

1957 町の政治 ― 勉強するおかあさん/30 min/35mm/岩波映画自主作品/藤瀬季彦(撮影)、片山幹男(録音)

1958 テーブルマナー/23 min/35mm/味の素/広川朝次郎(撮影)

1961 This is TOKYO/30 min/16mm/日本観光/藤瀬季彦(撮影)
ともだち/61 min/35mm/私立幼稚園連合会/藤瀬季彦(撮影)、安田哲男(録音)

1965 ケンちゃんたちの音楽修行/55 min/35mm/日本楽器製造/栗田尚彦(撮影)

1966 諏訪/23 min/16mm/諏訪市/栗田尚彦(撮影)

1967 夜明けの国/110 min/16mm/岩波映画自主作品/藤瀬季彦(撮影)、安田哲男(録音)

1975 文教の歩みをたずねて/30 min/16mm/文京区教育委員会/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1977 絵図に偲ぶ江戸のくらし ― 吉左衛門さんと町の人々/33 min/16mm/文京区教育委員会/八木義順(撮影)、 佐久間俊夫(録音)

1978 子どもをみる目 ― ある教育者の実践記録から/45 min/16mm/岩波映画自主作品/八木義順(撮影)
製鉄所とコンピュータ/21 min/16mm/富士通/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1979 光った水をとろうよ ― 幼児の知的好奇心をさぐる/22 min/16mm/岩波映画自主作品/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1980 建造物との対話 ― 文京の文化財/34 min/16mm/文京区教育委員会/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1981

こころをひらく ― 育ちあいをもとめる保育/21 min/16mm/岩波映画自主作品/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)
歌舞伎の魅力 ― 舞台/34 min/35mm/国立劇場/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)


1982 越後上布/43 min/35mm/文化庁/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1983 歌舞伎の魅力 ― 勧進帳/32 min/16mm/国立劇場/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1984 育児の百科/120 min/レーザーディスク/岩波映画自主作品/八木義順(撮影)、尾杉龍平(録音)

1985 いいこと いいこと考えた ― 遊びでひろがる数量の世界/21 min/16mm/岩波映画自主作品/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)
坂 ― くらしの中の風景/30 min/16mm/文京区教育委員会/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1987 能入門「太郎冠者の日々」/36 min/16mm/国立能楽堂/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1988 ぶんきょうゆかりの文人たち ― 観潮楼をめぐって/38 min/16 mm/文京区教育委員会/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1991 病院はきらいだ ― 老人の在宅ケアを支えるネットワーク/137 min/16mm/岩波映画自主作品/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)

1995 農民とともに ― 地域医療にとりくみ50年/77 min/16mm/「農民とともに」製作実行委員会/小林茂(撮影)、鈴木彰二(録音)

1996 地域をつむぐ ― 佐久総合病院小海町診療所から/125 min/16 mm/岩波映画自主作品/小林茂(撮影)、鈴木彰二(録音)

1997 大岡昇平/15 min/ビデオ/神奈川近代文学館/八木義順(撮影)、佐久間俊夫(録音)
[戻る]