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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 14

河瀬直美

聞き手:アーロン・ジェロー


山形国際ドキュメンタリー映画祭 '95 アジア百花繚乱(現アジア千波万波)において上映された『につつまれて』、『かたつもり』が国際批評家連盟賞、アジア部門奨励賞を受賞して以来、今に至るまでの映画監督としての河瀬直美のキャリアの華々しさは壮烈である。最新作『火垂(ほたる)』が今年のロカルノ映画祭で国際批評家連盟賞を受賞したのは記憶に新しいが、河瀬監督の才能の開花は映画の世界だけに留まらず、文学の世界にも及んでいる。1997年カンヌ映画祭においてカメラ・ドールを史上最年少の若さで受賞した作品『萌の朱雀』は河瀬直美自身の著者による小説として出版(幻冬舎)され、某県立高校の入学試験にまでなっているとのことである(監督本人が苦笑しながら語ってくれたことによると全問正解できなかったとのこと)。現在監督は『火垂』(幻冬舎)の執筆中であるが、そのお忙しい中、95年映画祭以来の旧知である日本映画研究家アーロン・ジェロー氏(YIDFF '95アジア百花繚乱コーディネーター及び元Documentary Box編集者)が、映画作品論のみならず多岐に亘ってお話しをお聞きしました。

――編集部


ジェロー(以下G河瀬さんの作品について話す前に、特に家族のテーマが多い中で、河瀬さん自身の家族の事情についてのことをまずお聞きしたいと思います。

河瀬(以下Kその前に、私はそれまでに全くかかわりのなかった学校(大阪写 真専門学校:現ビジュアルアーツ専門学校・大阪)に映像を学んできたんですけど、一番最初に先生から何を撮ればいいのかというアドバイスをみんなが受けますよね。その時に「お前にとって抜き差しならない、のっぴきならないものっていうのを一番の主題にしろ」って言われたんです。その時に「何だろう?」と思って…。まあつまり自分にとって、一番興味のあり、重大なことって。そうすると私にとってはその時は父親だったんですよ。なぜかというとまあ、私の中で父親の不在があって、それはとりたてて気になっていたわけじゃないんですよ。でもなぜか引っかかっている事柄だった。自分が生まれる根源になったその人物が何者であるかもわからないというところで、自分自身がたぶん不確かになったんだと思うし、自分が生きていくのならば、その不確かさを確かなものにしていきたかった。それで父を題材にしたんだけれども、その代表作でもある、父を探すっていう『につつまれて』(1992)の以前に、実は一番最初に撮ったフィクションが『パパのソフトクリーム』(1988)という10分くらいのフィクションなんです。少女が父を訪ねて行くと、父はなぜか喫茶店を経営していて、誰でも入ってこれる空間に居ると。そこで少女が「お父さん」とか言うんではなくって、ソフトクリームの話しをするわけですよ。あれは、自分自身の幼い頃の写 真をアルバムで見たときに、なぜか半分をピンキングバサミで切られた写真があるんですよ(笑)。その横に何が写 っていたのかということを知らされずに、ただその横でちっちゃい1歳くらいの私が、ソフトクリームを持っているっていう写 真があってね…モノクロの。それがモチーフになってあの作品が出来上がっていて。撮り方とかが稚拙で、描き方とかもまだまだなんですけど、根源は初めっからそこにあったんだろうなあと。ただ、じゃあ私自身がテレビドラマのように父や母がいないからといって、不幸だったわけではなくて、私には育ててくれたおじいちゃん、おばあちゃんがいて、その人たちの愛情でもって…いわば本当の母親や父親以上に、1人の私を娘以上に育ててくれた祖父母だったんで、幸せだったんですよね。その幸せな、確かなものを打ち破ってでも、なんかこう不確かな自分を突き詰めたかったっていう欲望がね、上手く映像表現に結び付いていったのではないかなあ。

G:一応、知らない人のために、ご両親は離婚して、そして祖父のお姉さんの家族に養女として貰われたわけですよね。もちろん不在の父親というテーマはすごく大きいですけど、お母さんのことはどう思ってるんですか?ということはちょっと思うんです。

K:お母さんは現在4回目の結婚をしていて、そこに1人男の子が誕生しているので、今はまあ、いわば安定している。それまでの人生の中で彼女は、終戦の年、昭和20年生まれで、引き上げ船の中で赤ちゃんだったんですよね。そういう日本の激動の中を生きてきた彼女なので、生きるっていうことにすごい、こう自分自身の力で掴んでいく欲望が強くて…。だからこそ、こうじゃない、ああじゃないって、あらゆるところに寄り道して行ったんだと思うんです。1回目の、つまりその愛して身ごもった人の子どもが私なわけで、その後また結婚をして、っていうことを繰り返して4回目なんですけど、母親に関しては、今現在、家族があって、母親自身が取材を拒否しているというのが正直いってまだ現在のところあってね。

G:彼女を取材しようと思ったことは今までにあったんですか?

K:『につつまれて』の時に、取材っていうよりも、お父さんに対してもそうなんですけど、実際会っているシーンを撮ってないんですね。電話のシーンのところでは、マイクをずっと電話に付けていたからとれてるんですけど、映像自体でカメラを通 して向き合うということをしてない。母親に関しても取材はもちろんしてるんですよ。カメラが間になかっただけで。「なぜ父を愛したのか」とか「なぜ別 れたのか」とか、そういうことをいっぱい聞いてね…。そこで初めて知った事実で、私の人生がその瞬間が変わったっていうのもあって、それが具体的な映像ではないけれど作品には反映しているっていうのがあるんですけど。今、まだ彼女をカメラをそこに介在させて撮るっていうことはできてない。

G:他の作品を見ると、『萌の朱雀』(1996)でもそうだし、そして人間劇場(TV東京)『たゆたふに故郷〜一人暮らしを始めて、3年目の秋に』(1998)、それも不在の父っていうことなんですけど、不在の母というテーマにはあまり興味がない?それともそういう「不在」はあんまり感じてないんですか?

K:興味がないっていうか、母に対して、母というよりも女っていうのかな、に立ち返るのかもしれない。それで同じく自分の女としての性が母に対して同じまなざしではたらくので、映画の中で母というものの不在っていうよりも、女の存在が色濃く出ているのではないかと。

G:育ちの環境を考えると、後先に考えても奈良っていう状況があるんですけど、自分にとって奈良は今もふくめて、どういうところだったんですか?

K:奈良はまあ、ふるさとと言ってしまえば一言なんですが、切ろうと思っても切れないもの。自分そのものと言ってもいい感じの…それが土地なので、切り離そうと思えばそういう状況には置けるんだけど、でも自分の生身の肉体と同じような存在、私にとっては。だからそこで撮るとか撮らないとかっていうことよりもそこに「ある」っていうような、それくらい身近な存在。

G:以前に聞いたんですけど、おじいちゃんに連れてもらって山に行ったりとか、そういうことがよくあったって。そういう自然との関わり合いはよくありましたか?

K:ものすごいありましたね。おじいちゃんが岐阜の山の人で、川で魚獲ったりとか、山で実採ってきたりとか、そういうのが得意な人だったんですね。そやから奈良で一緒に生活している時も、柿を山から採ってきて吊し柿をしたりとか。家は団地なんですけど、その団地の軒先に吊し柿をしてたりとか、山菜を採ってきて佃煮にしたりとか。そういうふうにいわば自然が日常に入ってくるような生活が、幼少のころの記憶、ね。

G:でもそういう育ちからどうして映像の世界に入ったのか?という質問は必ず出てくると思うんですが。

K:18歳まで全く映像というのは頭になかった。映像というのが身近になかったからだと思うんです。その映像っていうものが身近だという意味ではテレビがすごいあったですよね、映画じゃなくて。テレビはあったんだけど、じゃあそれを作るっていうような部分にまで意識がいかなくて。でもなんか生涯かけてできる仕事がやりたいな、っていう18歳の頃の思いがあって、もの作れたらそれでいいっていうような漠然としたのがあるから、美術でもよかったんだろうし、音楽でもよかっただろうし、工芸とかでもよかったんだろうけど、でもなぜか巡り会った。しかもそれを最初に入った学校でテレビと思って入ったのに、フィルムと巡り会った。8ミリのちっちゃなヒトコマの世界。それがなんか「世界」、「宇宙」とか触れて、繋げて、発展、映写 して現われる世界が…。私、父の不在とか抱えているから自分の今生きてる時間というものの価値が人以上にあるような気がするんですよね。もしかして父とかが離婚しているから、生まれてけえへんかったかもしれへんていうそういう思いがあって。今過ごしているこの空間が、1秒1秒なくなっていくっていう思いがすごいあって…。なのにフィルムに出会ったその瞬間にそれがもう一度映写 という暗闇を通して、立ち現われてきたことにものすごく感動した。それでそこからは、ドキュメンタリーなのかフィクションなのかって聞かれるんですけど、世界を作ることにもうすごい興味を持ち出して関わっていっているんだと思うんです。

G:特に作品を見ると写真がよく出てますね。家族の写真もそうなんですけれども。だから1つの写 真があって、それをきっかけにそこに不在のものを実現しようとしている。たとえば父親の写 真があって本物を探そうとしている。だから映像とかフィルムも、1つの不在するものを補充する装置として機能してるんじゃないかと。

K:そうですね、そうかも。私が欠けてるんです(笑)。私の中に何か欠けてるものがあって、それを埋める術がなかったんだと思うんだけど。それが友人であったり、人であったりすれば人としてすごく豊かなのかもしれない。誰かと共に生きていく上で。でも私にはそのことが欠落しているのかな。だからそのフィルムっていう、あれはフィクションの世界なのかもしれないんだけど仮想の空間を、よりリアルに作り上げることで自分の存在を確かめている…。

G:でも、その場合は別にそういう出来上がったフィルム、物質的なフィルムそのものだけでなくて、撮るというプロセスも補完装置として働いているという気もしますが。

K:撮ってる瞬間は本当に苦しい(笑)。苦しくて「なんでこんな思いをしてまで私はこれをやってるんだろう」って思うんだけど、でもそれをやって、形として完成した時に、「やって良かった」っていう自分が存在する。だからまた続けていく。

G:学校で最初の作品は、街に出て人を撮りにとか、ものを撮って下さいとか、そういう課題から最初の幾つかの作品が生まれてきて、そこで1つの被写 体との関わり合いが出てくるわけなんですが、特に河瀬さんの場合、よくアップで人とかものとか撮るわけなんですけれども。

K:特に『かたつもり』(1994)のおばあちゃんから。まあ元々なんだけど、もろに近づきたい、それで近づいて触れたいっていう…。そりゃ物質的なことなのかもしれないけど、本当は内面 のところでもっともっと近づきたい。恐いのに近づきたいっていう思いが強くて。だから8ミリ撮るときは、ほとんど接写 撮影なんですよ。望遠はほとんど使わない。近づいて、近づいて自分の手の届くぐらいまで近づいて撮ってるんですよね。その作業が世界となんかこう結び付いていく、自分にとっての手段となっているのかもしれないと思ったけど、本当のこと言うと、その一方でそんなことしなくても、カメラを介在させなくても自分の内面 とそこにいる他者の内面が結び付いていくことが希望(笑)。

G:まず僕は河瀬さんの作品見て感動しているのは、僕にはそんな勇気がないと。他人に街で会ったら「はい、どうぞ! 撮らせてください!」と言う勇気が僕にはないですから、よくもやってくれるなと思うんですけど、でもそれは恐いという反面 で、人と会うきっかけになるんでしょうね。

K:本当はそれが続いていくことが重要だと思うんですよ。その場限りの出会いっていうことなのではなくて、そっから先続けていくことが、私という人間にとっては重要なこと。映画にとってそれが重要かどうかっていうのはまた別 なんだけど。

G:でもそういう僕が出来ないことでも河瀬さんが出来ること、っていうことを考えると、映画を見るだけで優しいまなざしを持っている人だなあ、人との関わり合いがもしかしたら上手いんじゃないか、と思うわけなんです。そしてそれは河瀬さんの特徴というふうによく言われますね。

K:ねえ。(笑)

G:でも、自分にとってはどうなんですか?

K:優しいかどうかの自分の評価っていうのはしづらいんですけど、たとえば『杣人物語』(1997)の中で、過疎のその村の中で生きている高齢の彼らにとって、私の存在はたぶん1つの光のような感じでやってきたのかもしれないんですよね。私自身も彼らと過ごすその時がとても心地よかったし、ほんまはもう「みんな自分のおばあちゃん、おじいちゃんやったらええのに」っていう思いで撮ってた。だけど、その小川紳介監督とか土本典昭監督とかの、1つの村だったりした時のその共同体、そういうものに対して少し客観の目を持ってその世界を説明していきつつ、なんか暴いていくとか…。なんかね、そういう世界観っていうのは私は一切排除しているわけですよ。そういう社会現象は措いといて、もっとパーソナルな私とあなたっていうところでやっているから、いわば説明不足と言われる反面 もあるんだろうし、だけどその説明以上に人間、個と個の関係をただ紡ぎ出すっていうの?紡ぎ出すっていう言葉がすごい私にはぴったりくるんですけどね。私と彼らが会話をしなければ、そこに現われなかった世界なんですよ。

G:だからそういう親密さが出てくるわけなんです。つまり客観的な立場からそういう親密さというリアルも出てこないということでしょうね。

K:私にとってその社会現象が何か問題、過疎が進んでいることが問題なわけではなくて、私というものが問題なんです。だからそういうまなざしになるんだと思うですね。それが優しさに映っているのか、逃避に映っているのかっていうのは賛否に別 れるんだろうなと。

G:カメラを通して人との関わり合いを撮ることから必ず出てくる問題は、まずカメラはそういう関係にどういうふうに影響しているかということなんですけれども。特に『たった一人の家族』(1989)は、初めておばあちゃんが出てくる作品ですけど、その作品からおばあちゃんの撮り方は既に出てるんですけど、アップとか…。でも面 白いのは作品の最後で1つの字幕が出て、言葉ははっきり覚えてないんですけど、カメラを使って、「おばあちゃんとの関わりがちょっと変わってきた」ってことが書いてあったんですけど。

K:あー、思い出しました(笑)。私ももう何年も見てない(笑)。『たった一人の家族』ってもう誰にもみせてないんちゃうんかなあ。もうお蔵入りしてしまってる作品。そういえば初めておばあちゃんを撮った作品だけど、『たった一人の家族』ってその時タイトル付けてるように、「あー、自分にとって家族はこの頃からテーマとしてあったんだなあ」って改めて思うんですけど。そしてまたこれは、映画をそこで撮り始めてたぶんまだ1年経ってない頃なんですよ。89年の冬くらいに撮ったんで。なんかそこでもう最初にカメラの存在っていうのを意識して、そんなものがない方がいいとかあった方がいいとか、そんなことを自分の中で悶々と考え続けてるんですね。でもその時に出した答えは、たぶんカメラがない時の自分とあった時の自分は違ったっていう…ただ漠然とそういうことがわかったんだと思う。

G:でもその後、考え方は変わりましたか?

K:たぶん随分変ったと思う。意識的に、カメラがあるってことを前提にそれをやり始めてる。だから何もない日常の河瀬直美が、たまたまこうカメラを持ってそのものを捉えたっていうことから、ちゃんと意識して作るんだと。そういうまなざしに変わってると思う。だから「こう私が見ている」、「おばあちゃんがこう見ているんだ」っていうまなざしがちゃんと意識として加わっている。

G:というと、カメラは別に既にそういう存在している関係をただ客観的に記録するよりも、カメラを1つの触媒としてより良くその関係を作るというものになるんでしょうかね?

K:ある意味、何か乗り越えたみたい。その悩みを。「そや、そや」っていう感じ?「カメラあんねん、あんねん」(笑)っていう感じ。「それがなかったらどうなるんだろう」とかそういうことを考えるんじゃなくて、あるんだからそこで勝負しようっていう…。

G:その点に関しては、よくあるドキュメンタリーの理論の中でのカメラが現実を介していることによって現実を壊してしまうという考え方よりも、カメラによって1つのリアルを作る、破壊武器でなくて、1つのポジティブな作るツールとして使って…。

K:そう、そうです。ドキュメンタリーなんだけど「その世界は私が作ってんのや」という意識が『かたつもり』では確実に芽生えて、それ以降のドキュメンタリーやフィクションにもそれが反映されていくんですね。

G:その点に関しては、僕はこの間『陽は傾ぶき』(1996)を見ましたが、もしかしたらこれは僕の勝手な思い込みかもしれませんが、そういうようなカメラを介する関わり合いの、1つの自己批判が出てくる作品じゃないかと感じたんです。つまり、まずその作品の中で、おばあちゃんからの文句がかなり出てくるわけなんですけど、「あなたは私に全然映画を見せない」とか「私に対して優しくない娘」…。でも私たちが河瀬さんの映画を見ている感じは、いつもおばあちゃんに対して優しい河瀬さんっていう感じがします。だからその作品は1つ、この映画に作られた現実、本当にリアルかどうか、本当かどうかっていう問いかけが出てくるんじゃないかと。

K:『かたつもり』を評価してくれはる人は、山形ドキュメンタリー映画祭でも奨励賞をいただいて、田村正毅(YIDFF '95 アジア百花繚乱の審査員、後『萌の朱雀』のカメラ)さんも言われることには、「その世界を作ってる」と。「おばあちゃんとも非常に親密な関係がちゃんと作り上げられてる」っていうことを言われて。その一方で、ある方は「ただのホームムービーだ」ってな感じで言われて、「おばあちゃんと仲ええねんから、こんなん撮れて当り前や」みたいなそういうふうに言われてたんですよ。それを聞いた時に、その方のおうちが豊かで、家族関係充実してはんねんな、と思ったんですね(笑)。私にとったらあれが、一生懸命カメラが介在することで彼女、おばあちゃんと持ててる関係だったから…。実はおじいちゃんが亡くなってから私はほとんどおばあちゃんと会話をしなくなって。おばあちゃんが年をとってるっていうことに対する文句だとか、言葉にしたら傷ついたりとかして、ほとんど貝のようになっちゃったんです。だから、おばあちゃんと会話できるようになったのは、ほとんど最近です、実は。それだからこそ、『陽は傾ぶき』の中で私らの関係は、絶対的に『かたつもり』のような日常的にああゆう関係ではないっていうことの側面 を入れたかったっていうか、もっと真実に近いものにしたかった。

G:僕が読み取ったのはそれに関係して、もしかしてちょっとツールとしてのカメラに対する反省もでてきているのではないかと。つまり観客として作品を拝見する時に、そういうアップは一方では優しいっていうまなざしは感じているんですけど、もう一方では、なんかちょっと執拗じゃないですか。なんか、そこまでやる必要あるかい、そしてその被写 体にとっては「ちょっとそんなに近くに寄らないで」って、そして『陽は傾ぶき』の中で確かに、おばあちゃんは数回くらい「もう、いいわ」とか言うわけだし、そして何回もカメラがおばあちゃんにぶつかるわけなんですけど。だからもしかしてカメラが邪魔になるっていう問題もその作品の中に出てきたんじゃないかと思ったんです。

K:たぶん、撮ることで関係が割と親密になって、カメラの存在をおばあちゃんが認識しだして、もう私=カメラ。近づいてきたらカメラ、っていうようなことが邪魔になったというような意識もあったんだと思う。うん、たぶんそうですね。で、その意味ではおばあちゃんとの関係がカメラをなくした時にこそ密接になっていってたのではないか…。

G:カメラは一応きっかけとしては役に立ったんですけど、今はもう使わなくていいという状況になったんですか?

K:だから私は早く『萌の朱雀』を撮りたかったんだと思う。脚色、脚本があって、私の実人生の中でリアルに見てきた彼らの表情を今度は作りたい、俳優で作りたい、しかもスタッフとコミュニケーションを持って作りたい、っていうすごい欲望があって生まれていくんだと思う。

G:そういうカメラの使い方に関係してるんですけど、カメラを通して人の関係を持つっていう、1つのコミュニケーションを持つっていうことがありますが、その中に何か力関係のことはどうしても考えなければならないですけれども。特に僕は『万華鏡』(1999)を見た時に、その力関係はどうしても考えなきゃならなかったんです。最初にきっかけとしては、有元君とぶつかりあいながら2人の女の子を撮るっていうことは設定なんですけれども、結局最後を見るとどうしても河瀬さんはその作品の中で一番力を持っている、主導を持っているっていうふうに思ってるんですけど。それはつまり、その映画のカメラを持っているからではないかと…。

K:映画のカメラを持っているということプラス、スタッフが映画寄りだっていう要素がすごいあったんじゃないかと。映画の中の写 真。写真の中の映画ではなくて、映画の中の写真になったようなところでその写真に一番責任を持つ有元君、そして映画に一番責任を持つ私。その力関係は最初から映画に軍配が上がってるということがね、構造が、あったんだと思うんですよ。だからもしも私が『萌の朱雀』の頃、『万華鏡』撮ってれば有元君と対等だったかもしれない。

G:『萌の朱雀』を通して自分は、考え方はもっと確信を持ってきたということですか?

K:それまでいわば個人製作。スタッフだったとしても自分の教えてた学生とかそういう人たちで撮ってて、『萌の朱雀』で初めて対等の人間、もしくは経験のある先輩田村さんを始め、そういう人たちがごそーとやってきて、それで私がそれに対するイエス・ノーを出さなければいけないという中で学んだことがすごいいっぱいあった。それは、自分の表現をなんとか確立していくということだけじゃない、それ以外の能力。人と一緒に何かを作り上げていくということの、たとえばそこでの1つの物言いとか。『万華鏡』の場合はものすごい経験してるわけですが、スタッフをいい意味でこちら側に向かせたもの。有元君はずっと個人だから、初めてそこに入ってきて、周りが全部敵のように写 ったんだ…。

G:彼に対してのアドバイスでもあり、批判でもあるのは、彼はまずそういうスタッフと協力をしてないっていうこと、プラス、河瀬さんみたいなリアルを撮るんだったら関係を持って撮るということなんだ。それはまた彼が今までは、1人でやってきたからできていないということ。

K:そういうことを彼にさせてしまう部分で彼の敗北が見えているんだと思うんですね、ある意味。だけど、そこにこそなんか打ち勝って、新たなじゃなくてね、また別 の彼を存在させてほしいという、私は願望があった。押し付けではなくって。だから私が彼に突き刺している言葉が全部私に返ってくるんですよ。彼がそれをできないってことは、私もそれをできてないってこと…だったから、すごくつらかったっていうのはある。私自身が一番力関係として強いって言われれば言われるほど、全ての彼らの、俳優の(三船)美佳とか(尾野)真千子とかの持つ弱さとか有元君のもつ困難とかが全部私に返ってくるっていう感じだったんですよ。ここまでずーと自分が「これだー」と思って突き詰めてきた作品世界があって、『萌の朱雀』があって『杣人物語』があって、で『万華鏡』にきたときに、これまでの全てを失うかもしれないくらいの賭けだったかもしれない(笑)。

次頁へ続く>>


河瀬直美 KAWASE Naomi


1969年5月30日 奈良市生まれ。映画作家 1989年大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校)映画科卒業。自主映画『につつまれて』(1992)『かたつもり』(1994)が、1995年山形国際ドキュメンタリー映画祭で国際映画批評家連盟賞、審査員特別 賞をそれぞれに受賞し国内外で注目を集める。劇場映画デビュー作となった『萌の朱雀』(1996)で、1997年カンヌ国際映画祭カメラド−ル(新人監督賞)を史上最年少受賞。同作の舞台となった奈良県西吉野村の人々をドキュメントした『杣人物語』(1997)は、1997年山形国際ドキュメンタリー映画祭インターナショナル・コンペティション部門で上映され、1999年ニヨン国際映画祭(Vision du Reel)特別賞受賞。2000年5月、同映画祭で『万華鏡』はじめ10作品余りが回顧上映された。現在『につつまれて』の続編を準備中。最新作『火垂(ほたる)』は、スイス/ロカルノ国際映画祭コンペティション部門にてワールドプレミアされ、国際批評家連盟賞、ヨーロッパ国際芸術映画連盟賞のダブル受賞を果 たした。国内では2001年春、テアトル新宿ほかにて公開予定。住友生命「介護保障」(2000年)のCF演出でACC賞受賞。過去に故小渕総理大臣の諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会分科会メンバー、現在「平城遷都1300年記念2010年委員会」委員なども務める。 著作に小説『萌の朱雀』(幻冬舎)、小説『火垂』の執筆中。

 

フィルムグラフィー

1988 私が強く興味をもったものを大きくFixできりとる [5分/8ミリ]
   私が生き生きと関わっていこうとする事物の具体化 [5分/8ミリ]
   My J-W-F [10分/16ミリ]
   パパのソフトクリーム[5分/16ミリ]
1989 たったひとりの家族[10分/8ミリ]
   今、[5分/8ミリ]
   小さな大きさ[10分/16ミリ]
1990 女神たちのパン[25分/16ミリ]
1991 幸福モドキ[20分/8ミリ]
1992 につつまれて[40分/8ミリ]
1993 白い月[55分/16ミリ]
1994 かたつもり[40分/8ミリ]
1995 天、見たけ[10分/16ミリ]
   風の記憶〜1995.12.26.渋谷にて〜 [30分/VTR/MXTV]
1996 現しよ(往復書簡 河瀬直美×是枝裕和) [60分/8ミリ]
   陽は傾ぶき[45分/8ミリ→16ミリ]
   萌の朱雀[95分/16ミリ→35ミリ]
1997 杣人物語[73分/8ミリ+VTR→16ミリ]
1998 たゆたふに故郷〜一人暮しを始めて、3年目の秋に [45分/VTR+8ミリ/テレビ東京]
1999 万華鏡[90分/16ミリ→35ミリ]
2000 火垂[164分/35ミリ]

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