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インタビュー

ヘレン・ファン・ドンゲン

聞き手:阿部マーク・ノーネス


 私がヘレン・ファン・ドンゲン(デュラント)に会ったのは昨年、アメリカのヴァーモント州タウンセンド、秋の紅葉がピークを迎えていた頃でした。タウンセンドはニューイングランドの原型と言える山々に囲まれ、小さな繁華街と、白く尖った教会があるだけの町。映画史に名を連ねる有名なドキュメンタリー作品の多くに関与してきた女性と、こんな場所で出会うとは想像もしていませんでした。しかしファン・ドンゲンは、映画編集・監督としての長年のキャリアを経た後、ホワイトハウスの記者として人望のあった夫とともにこのタウンセンドに移り住んだのです。お二人はアパラチア山脈の生活についての本を、いくつも共著・共編してきました。これからファン・ドンゲン自身が述べるように、彼女の映画界との出会いは幸運なる偶然でした。彼女の雇用主の息子がヨリス・イヴェンスで、彼女は初期アヴァンギャルド映画の傑作2本、『橋』(1928)と『雨』(1929)の製作を目の当たりにします。また彼女はアムステルダムのフィルム・リガでの活動を通して、エイゼンシュテイン、プドフキン、ルットマンほか、無声映画の大御所たちと交流し、国際的な映画人ネットワークを広げていきます。映画にサウンドが導入された頃、彼女は ジョアンヴィールのスタジオで働いており、1930年代初頭にはソビエト連邦で映画編集について教えました。また、ラテンアメリカへ映画を配給するプロジェクトではルイス・ブニュエルと働き、フランク・キャプラの『汝の敵を知れ:日本』(1944)製作にも参画しています。しかし本当の意味でファン・ドンゲンが名を上げたのは巧みな編集能力で、彼女のフィルモグラフィにはドキュメンタリー映画史に残る傑作の数々が並べられているのです。例えば『ボリナージュの悲惨』(1934)、『四億』(1939)、『スペインの大地』(1937、ともにヨリス・イヴェンス監督)、そして『ルイジアナ物語』(1948、ロバート・フラハティ監督)です。

 編集もこなした映画作家たち、例えばエステル・シューブや、いくつかの実験映画を除けば、ドキュメンタリー映画における編集担当は注目を集めることがほとんどありません。それはドキュメンタリストが、リアリティの描写というものを強調するからかもしれません。しかし編集について考えることは、映画作家の作品がいかにきめ細かい調整作業を経たものなのかを知る機会となるでしょう。ドキュメンタリーの編集者が注目される時、よく半分冗談で耳にするのが、“偉大な(男性の)ドキュメンタリー作家には必ず、女性の編集者がいる”というコメントです。これはドキュメンタリー映画製作において男性・女性間にどのような力関係が働くのかを強調した発言かもしれませんが、これではヘレン・ファン・ドンゲンのような映画作家の多大なる功績を軽んじることにもなってしまうでしょう。共通点のないたくさんのフッテージから力強いシーンを構築する、という彼女の芸術的手腕は、世界が彼女を編集の大家として認める所以です。ファン・ドンゲンに、彼女が携わった映画について、またドキュメンタリー映画の編集者としての人生について、『Documentary Box』に語っていただきました。

――阿部マーク・ノーネス


阿部マーク・ノーネス(以下AMNヘレンさんは何の知識もないままCAPIで働きはじめて、そこで映画に触れたのですね?

ヘレン・ファン・ドンゲン(以下HVDアムステルダムの会社CAPIは写真機を売っていて、私は4カ国語ができる通信員として雇われたの。同じ頃、雇用主の息子であったヨリス・イヴェンスがドイツで技術を学んで戻ってきたばかりで、アムステルダム事務局の部長になった。ヨリスは廊下の端に机があって、私はその反対側だったのよ。ヨリスはCAPIのビル以外に部屋を持っていて、そこには道具や写真機器すべてがあったわ。彼は映画マニアで、私はいつも割りこんで手伝いたいと思っていた。なぜなら、手伝うことでオフィスから抜け出せるから。ヨリスのパパがよく近寄ってきて、なぜ私がデスクを離れていたのか問いただしたものだわ。そのたびに、自分の息子の面倒をみてやってくれとお願いしたのはあなたでしょ、と念を押したの。

 私は『橋』とはほとんど無関係で、単にヨリスのカメラが充填されているか確認していただけ。でも『雨』製作の2年目くらいまでには、もう何をどうすべきなのか全て把握していた。ヨリスに外出の用があったある日、大雨の予報が出ていたの。彼が「カメラを持ち出して、降り注ぐ雨のなかでいくつかショットを撮ってみたらどう」と言った。それで撮ってみたけれど、びっくり仰天だったわ。フィルムは買わなければならなかったし、25メートルのロール、つまりひと財産ってわけ。だから『雨』のショットはそれ以上長くはないの。でも自分でいくつかいいショットが撮れた。

 1年くらいして、そういう自由を利用して、そっち方面のことを自分でできないか考え始めた。なぜなら、ヨリスがいつも不在だったから。もし彼がやっていなければ、私ができるかと思って。ヨリスは決して「ダメ」と言わなかった。まぁ、私のほうからほとんど聞かなかったのも事実だけど、もっとやりたい思いがあったからね。やったことはどれも、うっとりするほど魅力的だったわ。

AMN:編集方面へは、どういう経緯で?

HVD:ヨリスに聞いたの、「さて、お次は?」って。そうしたら彼が言った、「ただ順番どおり並べるんだ、シンプルな順番に」。素朴な方法で、私にとっての編集がそこからはじまった。単純に、あるものを“並べる”。これの始まりはどこかしら? 何が見えてくる? 次は何? そうやって考えていったけれど、フィルムの1フレームもカットすることができなかった。それが黄金だったから。どんなフレームでさえね。

AMN:初期のイヴェンス映画は、窓際で編集、つまり“並び替え”された、ということですが…。

HVD:フィルムを見るには、ガラスがあって、巻き付け器がここと、あそこに。しばらくすると、見るための小さい機械が出現したけれど。でも『橋』のような映画を編集するには、どのショットもこのくらいの(身ぶりで)長さでしかないの。『橋』や『雨』の編集はむしろ単純だった。両作品の長さは1リールだけだったのよ。ヨリスは窓に木のポールを作って、ショットをそこに引っ掛けて吊るしたの、中身が見えるように。そう、だから順番を変えながらも、どんなテイクも失うことがないでしょ。悪くないわよね。

AMN:『雨』にはもっと関わっていたということですが、実際の編集に携わったのですか?

HVD:1本の作品を全て構成したわけではないけど、でもその時、何かをしなければならなかった。ヨリスはエイゼンシュティンやプドフキン達から学ぶためロシアに行っていたのよ。私たちはここで、次から次へと編集してばかり。『雨』は他の人が編集したら、まったく異なったものになっていたわ。たくさんの短いシーンがあって、それをできるだけたくさん使ったの。単純にこれからそれへ、驚かせることなく繋ぐ。そういうことをたくさんやったわ。分かるでしょ、ヨリスには忍耐というものがなかったの。彼はカメラをかかえてすぐに出かけたがる性質でね。

AMN:フィルムが黄金だったから、ただすべてを使いたかった、ということですね?

HVD:まあ、時にはそれしかなかったから、ということもあるけれど。それにもうヨリスもフィルムをこれ以上買えず、これ以上盗めずの状態で。うん、私たち2人ともよく拝借していたから!

AMN:その一言に、独立系ドキュメンタリーの歴史がよく集結されてますね!

HVD:そうね、よくあることだと思う。たくさんの素材と戯れることができたのって、フラハティだけよ。

AMN:『雨』の編集のことでもう少しお聞きしたいのですが。小さな区分に分割していくことをしないで、単にあるものを適切な順番にアレンジしていったということですか?

HVD:そうね、小さな断片に切り刻むことは決してしなかった、でも再編成ならたくさんしたわ。そうすると反射的に自分が何を持っているか分かって、次になにが来るべきなのかもおおよそ分かるのに、それがない。以前に撮ったシーンにあったはずだけど、というのはわかっているの。それで見つけて、それをどうするかを考えるのよ。

AMN:そのような手法が、主題と関連していたと思いますか。『雨』にはこういう滑らかなタッチがあります。

HVD:まあ、生来それは滑らかだった。『雨』には編集に長い時間がかかって、音楽が加わるころには随分とたくさんのものを投げ散らかしたわ。

AMN:『雨』の音楽は何でしたか?

HVD:ルー・リヒトフェルト、当時のモダン作曲家ね。そしてこういう新しいものもあった、主観的な音響と音楽の使用。ヨリスの兄、ヴィレム・イヴェンスは高名な医者だったんだけど、こういう科学的なことなら何でも興味をもっていたの。ヴィレムがやって来て、私が何をしているのか見ていたわ。(ヴィレムはヨリスが芸術的なことを切望すれば、全てを容認したわけではないけど、一番の後援者だった。でも、お兄さんもたまにはヨリスに厳しく当たっていたわ。)それで、私は何をしていたかって? 何一つ知らなかった。すべてが直感勝負。問題を1つ解決すれば、また次の問題が、だって機械がなかったから。でもそれは素晴らしいことだった! それに自分にできないなんて私は思わなかったから。もし映画を作れるか、と誰かに聞かれたら、きっとこう答えるわ、「映画なんて一度さえ見たことないわ!」って。でもこのような序論の部分を経て、編集が可能にする小さな事柄全てを想像したり、それが何を意味するのかを考えたりしたわ。それが、私の受けた教育のなかでもベストの部類に入るわね。

AMN:フィルム・リガでもたくさん学ばれたのでしょう?

HVD:ええ、でもあそこでは1つ1つ問題を解決していくことによって私が成長したの――編集は特にね、なぜならゼロからの出発だったから。あの惨めなハリウッド映画以外には何もなかったんだから。そこには全然別の編集が存在するの、だって誰がどのくらい歩くか、こっち方向なのかあっち方向なのか、どういうセリフを言うかによって、編集がまったく規制されてしまっているのだから。

AMN:物語の内容によって決まってしまいますね。

HVD:ドキュメンタリーとは全く違うでしょ、ドキュメンタリーならたくさんのフッテージがあっても、撮影した段階ではお互い関係のない素材。もしくは、フラハティのように余分にカメラを廻す人がいたとしても、彼の撮影は本当に素晴らしいから、フッテージを見て「オェッ!」っていうことはまずないわけよ。

 でもその一方で、32万5千フィートのフッテージを渡されるとなると、これは別問題よ。そっちのやり方も習得したわ。自分なりに方法を見出したの。まず見る、見る、見る、そして見る、そうすると何を外したらいいのかが見えてくる。同じものを何度も見て、見て、そしてそれが自分に何を語りかけてくるのか?だから私が何かの選択をするとしたら、それはそこからそういう声が聞こえたから。次にこう聞いてみる、どこか他の場所で使えないかしら? 少なくとも常に心の中にとどめておく。たくさんの素材を扱う場合、新しい文脈で使えるかもしれない、ということをいつも考えていないといけないから。こっち方面での記憶は優れているわ。

AMN:フィルム・リガについてお聞きしたいんですが、発足時に参加されていましたか?

HVD:ええ。でもそれは徐々に、という感じだったわ、CAPIにスペースはなかったし、私はプロジェクターを廻すために映写という映写に出ていたし。正しいスピードを、手の感覚で、確かめていくのよ。

AMN:あなたは通訳もしたんですよね。

HVD:もちろん、みんなが喋るために来ていた頃だったから、もの凄い罵り合いをよくやったの。大声で、下品な内容で。もし全員が早口でしゃべると、文字通りの翻訳にはまずならないけれど。あれは楽しかったわ、そこでもたくさんのことを学んだ。どんな映画学校でさえ、あんなにたくさんのことを教えてくれなかったでしょうね。

AMN:教師をしている人間として、嫉妬心が湧きますね。

HVD:え、本当? ま、そういうものだったのよ。実は、ヨリスは自由奔放で、自制できない人間だったの。誰もが誰もに向かって叫んでいた。いつもいつも興奮していて。みんな刺激的な人々。ワイルドで! エキサイティングで! もしオランダでエイゼンシュテイン的な人とヴェルトフ的な人とヨリスか誰か的な人を集めたら、つまり映画について知っていると思っている人たちが集まったら、どなり合いのパーティをやったものだわ。ヨリスはドイツからの友達とは、とても上手くコミュニケートできたの。でもそれがロシア語になると、私がつかえてしまって。ロシア人のほとんどは、フランス語が話せたの。フランス語は彼らの第二言語ということもあって、少しゆっくりしゃべってもらえたのが救いだったわ。

AMN:編集の話に戻りますが、いくら独学とはいえ、勉強はしなければならないでしょう。ヘレンさんの場合、どうやってその勉強をはじめたわけですか?

HVD:ヨリスが撮影をしたけれど、私は常にそこに一緒にいたわけではなかった。でも、そこから何かの理由でヨリスが姿を消すと――そういうことも日常茶飯事だったけれど――私が頼まれなくても責任をもつようになって。だってヨリスがいないのに、何をしたらいいの? ただ座っているわけにもいかないでしょう。もともと、私は何もしないでいられる人間じゃないの。どうであれ、ヨリスに手を貸すのが私の役目かどうかなんて、考えようともしなかったわ。(ヨリスの父親がそれを喜んでいたからではないの、それは別問題。)もしヨリスが毎回結果に満足して、その結果を私が出せたとしたなら、私は自分に何ができて何ができないかを問う必要もなかった。そうすることでヨリスは少しでも長い間撮影に行っていられたから、私から遠ざかっていたわね。

 とにかく、私は運動、動作というものを勉強したの。フレームのなかでものがどう動くか、ということ。私はものを静止画で見るだけだった、その時まだムヴィオラがなかったから。2つの巻付け器を両端にもつ、小さなテーブルしかなかった。でも歩行に対する感覚をつかむには、どこで歩いて、どこでカットをしたらいいのか? 動きはどう作用しているのか? そういう感覚を知るために、ユダヤ人街の市場で鏡を買ってきて、鏡の前で物を拾ってみたり動いてみたり、動作を真似ていた。鏡の前で歩いてターンをする動作もしてみたわ。

AMN:編集を学ぶために!

HVD:編集を学ぶためだし、どこでカットするのかを知るため。細心の注意を払わなければならなかったわ、なぜなら新たにフッテージをプリントするだけのお金がなかったから。鏡の前で指したり、歩いたり、走ったり、登ったりして、いろんな動きをしたわ。そして、どこでカットするかを考えたのよ。

 そんな理由から、私に“踊る編集者”という名がついた。ヨリスの友人たちが来ると、私を見て「あ、またあの“踊る編集者”だ」って具合にね。私をからかっていたから、こちらも言い返した、「いいわ、君たち。憶えていなさいよ、自分でやってみるまで」って。(きっと私、こういう仕事っぷりから、踊り手としても上手かったと思う。)

 このあだ名がついたもう1つの理由は――私たちにはライトボックスしかなかったから――私がこう、フィルムの片端を片手に持って、もう片方の手の指にフィルムを通しながら、どう映像が動くか、変化するか、というのを見ていたの。[聞き手注:ファン・ドンゲンはその動作を真似して、しなやかな弧を宙に描くように片手をあげる。]本当にこうやったのよ、指の位置を変えながら、加減して、どういう動きかを見るの。人間の動きなら、人はどう歩くか。こうやって、そしてこう。1コマ、1コマ、1コマずつ。こうやって習っていったの。ムヴィオラが登場してからは、やり方は変わったわ、全てのものとその動きが見えるようになったのだから。それも送ったり巻いたりが可能で。それで編集は格段に楽になったの。

AMN:『フィリップス・ラジオ』(1931)の直後、『ボリナージュの悲惨』に携わりましたね。それがとても興味深いのですが、2つの作品の編集スタイルはあまりにも違います。前者はソヴィエトのモンタージュ理論に近いもの、後者はストレートな編集をしています。

HVD:ストレートだったのは、それしかなかったからだわ。

AMN:どういう意味ですか?

HVD:未使用テイクがほとんどなかったってこと。撮影したもの全てをつなげたの。ボリナージュ地域は警察の保護下にあったし、アウトテイクはなかった。作品をシンプルなままにしたのも、それが起こったことそのままだから。例えば、ちょっとした行進のところはほとんどショットがないけれど、それは警棒を持った人たちがほんの1メートル先に立っていたのだから。

AMN:この編集の違いについては、『ボリナージュの悲惨』が非常に政治的だったことも関係していますか? このストレートな編集方法のことですが。

HVD:編集がストレートだったのは、お金がなかったからよ。編集する人間の視点から言わせてもらえば、ストレートに編集したのはそれ以外に素材がなかったから。それに、もっと美しくしようと思っても何も足せるものがなかった。撮ったショットの95パーセントはそのまま本編に入っているし、スタイルとしてはできるだけ衝撃的にならないように編集されている。もう少し肯定的な言い方をするならば、撮影したものは可能な限りイメージ豊かに仕上げられた、ということ。非衝撃的で、それでいて表現に富んでいて。

AMN:それは『フィリップス・ラジオ』でたくさんのショットが複雑にモンタージュしているのとは正反対ですね。

HVD: どんな風にもできるわよね。

AMN:箱がごろごろと転がる最後のシーンがありますが、ストーリーはないので、編集の視覚的な局面を解放しています。

HVD:でも『ボリナージュ』はある種の政治的映画。私は政治的映画に満足したことが決してないの。

AMN:まあ、イヴェンスのキャリアはこの辺りでかなり方向転換することになりますね。

HVD:そうね、それに関しては(ハンス・)アイスラーも同じ。アイスラーは特に、動乱を起こしたいと言っていた。そしてヨリスはこう答えたの、「そう、動乱か。いいんじゃない」って。それが次の映画につながる。何て言うのか…でも本当なの。何が飛び込んでこようと、ヨリスはやってしまうの。それにこの動乱の時代は、独立系のアーティストが映画という媒体でやっていくには、政治というトピックくらいしか使えなかった。なぜって誰も映画を作るために大金をあげるわけじゃないでしょう、だからこういう政治的映画は、10ドルずつお金が入ってくるような状況で作るし、あとはヨリスの父親の店からどれだけ目を盗んで品物を取ってこられるかによるの。

AMN:しかし面白いのは、イヴェンスは政治的な方向へ転換したのに、映画製作自体は実験的要素が少なくなりました。

HVD:それについては分からないわ、私は政治的人間ではないから。ヨリスは撮影をして同志とああだこうだ話していた男、私はすべてのものを集めただけの女。それに私は自分でそうしたくてやったわけで、ヨリスや他人のためではないわ。なぜって、それが素晴らしく楽しいことだったからよ。目の前に機会が転がっていたら、やらないわけにはいかないわ。たくさん学んで、たくさん解決して、想像力もいっぱい活用したわ。

AMN:『ボリナージュの悲惨』ではフィクションシーンとドキュメンタリーシーンの移動があります。2種類の場面の編集は、なにか違う点がありましたか。

HVD:そうは思わないわ。私にとっては、美がすべて。可能なかぎり美しく。つまり、美しいと思うものに心を動かされながら、私の心赴くままに。

AMN:実際に、『ボリナージュの悲惨』がもつ衝撃の1つには、度肝を抜く貧困と、その貧困が醸し出す美との対照があります。石炭の巨大な山積みなどなど。

HVD:時折、誰かが来てはこう言うの、「あんなに恐ろしいものを、美しく表現するなんて、何を考えているのか!」って。私はこう答える、「分からないわ、でもぞっとするもののなかに美はあるのよ」。美しかったから作ったわけではないの。恐ろしいもののなかから私の達成感は生まれない。おそらく時にはそういったおぞましいものも見せる必要があるのかもしれない、でもほとんどないと思うの。私は1人の人間だし、ずっとそうあり続けるつもりだわ、非人間的な状況というものはどんな死体や破壊よりも価値があるの。そうすると、生身の人間が苦しんでいる、ということが分かるようになるから。痛めつけられた死体ではなくてね。

AMN:第2次世界大戦中、あなたはフランク・キャプラの『汝の敵を知れ:日本』班に加わっていましたね。キャプラの班は、このようなたくさんの映像を利用できたわけですが、製作側の人間が超えてはいけない一線、みたいな感覚はありましたか? あまりにも暴力的で、映画を通して人々に見せてはいけない、というような映像が? 先ほどのお話のように、おぞましい映像が美しい、ということもありますし、そのような映像を使うことに対しての倫理という問題もあります。しかし戦争中は、こういう倫理的な問題は重要視されずに、暴力の度合いは急上昇しました。そこでお聞きしたいのが、あなたがある特定の映像をそのような理由から使わなかったかどうか、ということです。

HVD:個々の映像作家によるわ。フッテージが送られてくると、それはもう何百万フィートという量なの――フラハティのそれよりもすごいわ――その中にはものすごい量の暴力シーンもあるの。(私が女だからと言って彼らが容赦することもなかったしね。彼らはよくこう言ったわ、ああ女だ、あいつを追い出せ、もう少し怠慢な奴を探してこいよ、と。)とにかく、私は暴力的だからという理由だけで映像を選んだことはないわ。負傷した人が写っているとかいないとかいう理由も。そんなこと全く不必要よ、私なら何をしたかよりも誰がしたかということに関心を払ってきたから。ナレーションは映像の代用となり得るわ、だって一体何人の負傷者を見ることができる? 一度見たらショックかもしれないけれど、それを過ぎればもう何の意味ももたなくなるわ。

AMN:『汝の敵を知れ:日本』は、イヴェンスが途中で抜けたり、製作チームが崩壊したという話が有名です。でも具体的には何が起こったんですか?

HVD:何もなかったわ。私たちはそこへ出かけてポストプロダクションの仕事をすることになっていた。終戦間近で、ヨリスはハーブ(カール?)・フォアマン、フランク・キャプラ、ジョン・ヒューストンたちとそこにいたの。政府が対日方針を決められずにいた。政治家たちのことね。その間、私たちは座ってフッテージを見ていたの。ああ、そうしたら日本からの映像が何百とあったわ。それに日本人は自分たちで何から何まで記録していたのね。私はその映像を終わることなくずっと見ていたわ、でも何もしなかったけれど。そしてヨリス、彼は彼でいつも通りあらゆる所を駆け回っていた、次に何をしようか思い巡らせながらね。キャプラはそこにいた。それで映写機に次々に映像を架けていたのは私だけだったから、そこにずっと座っていて1本また1本。私のほかに5、6人の兵士が前の映写の居残りでそこに座っていて、次々に映写される以外には何も起こらなかったの。とうとうキャンセルされて、資料映像になってしまった。

AMN:その日本からの映画、というものにどんな印象を持ちましたか? 劇映画とドキュメンタリー、両方あったんでしょうか?

HVD:何でも! だから見すぎてしまうわ。キャプラは、その席にはいなかった。彼は忙しすぎたし、戦争も事実上終わっていたしね。ヨリスは次の仕事を探そうとしていた。グレタ・ガルボを起用して何か撮ろうとしていたの。だから私以外誰も残っていなかった。私は特にそこにいたい訳でもなかったけれど、フィリップ・ダンネというハリウッド・プロデューサーがいて、彼とはとてもいい関係にあったので、彼が「戦争が終わったら、1本映画を作らないか」と声をかけてくれた。私は「いいわ」と言って、そこを出ることになったの。それが私の監督第1作でヨリスとは無関係の作品、『New Review #2』(1945)となったわけ。

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ヘレン・ファン・ドンゲン Helen van Dongen

主な作品歴


1930_ 『われらは建てる』(監督:ヨリス・イヴェンス)助手
『Zuiderzee』(製作:オランダ政府)撮影

1931 『フィリップス・ラジオ』(監督:ヨリス・イヴェンス)共同編集

1933 『Nieuwe Gronden』(監督:ヨリス・イヴェンス)編集

1934 『ボリナージュの悲惨』(監督:ヨリス・イヴェンス、アンリ・ストルク)編集(注:オリジナル版ではなくロシア語版において)
『Daily Life』(監督:ハンス・リヒター)編集 *フィルム現存せず

1936 『Spain in Flames』 編集・製作

1937 『スペインの大地』(監督:ヨリス・イヴェンス)編集

1939 『四億』(監督:ヨリス・イヴェンス)編集

1941 『動力と大地』(監督:ヨリス・イヴェンス)編集

1943 『Peoples of Indonesia』 編集・監督

1944 『汝の敵を知れ:日本』 共同編集

1948 『ルイジアナ物語』(監督:ロバート・フラハティ)編集

1950 『Of Human Rights』 監督・製作・編集
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