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デジタル技術の時代における
ドキュメンタリー


 十年一昔、と言いますが、山形国際ドキュメンタリー映画祭が立ち上がった1989年と比べると、運営面も大きく変わりました。Eメールで海外とのやりとりもスムーズになった半面、上映前には「携帯電話のスイッチをお切りください」というアナウンスも生まれています。

 この一連の変化を見る際、「デジタル」という1つのキーワードが挙げられます。実際YIDFF '99では、過去5回の映画祭とは比較にならないほど、人々の口から「デジタル」という言葉が発せられていました。それぞれの人が、違う定義をしているようでしたが、多くの場合それは製作にまつわるデジタルを意味しました。また、製作以外の面におけるデジタル技術とその影響に関しても話題になりました。その後2000年2月に、岩波映画製作所の映画の多くがデジタル化して保管されることが決定したことも、時代の象徴と言えるでしょう。

 そこで『Documentary Box』では、映画のあらゆる側面からこの「デジタル」について考えてみようと、9名にインタビューをお願いしました。都合により日本と欧米のみの発信になりましたが、それぞれの立場からの刺激的なコメントを、存分にお楽しみください。10年後、20年後に、「2000年の状況を知る」貴重な資料となるかもしれません!?また、参加者のご協力なしには、この企画は成立しませんでした。快くインタビューを引き受けて下さった皆様に、そして企画発足時に多くのアドバイスを下さった阿部マーク・ノーネスさんに、この場を借りて感謝いたします。

―田中純子&サラ・ティズリー


1. 製作


ヤン・セベニング、ダニエル・シュポンゼル
(『最後のドキュメンタリー』両監督、YIDFF '99 ワールド・スペシャル・プログラムにて上映)

Documentary Box(以下DBデジタルメディアの将来について、どう予測されますか。

ヤン・セベニング(以下JSデジタル自体はそんなに新しくはないけれど、それが秘めている可能性っていうものがどんどん芽を出しているところなんだ。今はデジタルって言ってもまだ“始まり”“中盤”“終わり”って1列に並んだものだからね。その直線的な構造を超えたものへの可能性っていうのは、まだまだ探求されていない。

 最近よくあるのが、かなり操作されたドキュメンタリーで、それは仕上げの段階で効果を加えたり、フィルターを使ったり、僕たちの映画で使ったような分割画面などの手法があるよ。こういう効果はドキュメンタリー映画を大きく一押しすることになる、というのは、視覚的にもとても魅力があるから。でもある程度のところまでいくと観客は、もう効果はたくさんだ、何の効果もいらないよ、となるけどね。

ダニエル・シュポンゼル(以下DSドキュメンタリー界にいる人たちはデジタルメディアに興味をもっているけれど、僕は〔コンピュータ〕プログラムを作成する人たちがこちらに歩み寄ってきたらどうなるかに興味がある。初期の映画の頃って、映画俳優と演劇俳優がいたでしょう、そしてある時点で監督のなかに、俳優は両方の分野で活躍してもいいと考えた人がいて、そこから両分野は開放され、映画俳優も演劇俳優もなくどちらも可能になったんだ。だから、誰かがドキュメンタリーに対して「私はDVDやCD-ROM、インターネットのサイトを作ったりできるんだけど、インドネシアの炭鉱労働者についてちょっとしたアイデアがあるんだ」なんて言ってきたら、僕たちは内容を発信して、彼らは技術を提供して、そこで活気が生まれるんだ。

DB:ドキュメンタリーはしばしば「真実を捉えるもの」と定義され、白黒からカラーへ、また同時録音などの技術発展もともなって、できるだけ「現実に近く」という考えがあります。しかし、メディア戦争と言われた湾岸戦争、インターネット、仮想現実など、デジタルは現実から遠ざかっているのではないでしょうか。デジタルメディアと、ドキュメンタリー映画の「現実」について、どう考えますか。

JS:数あるパソコンのモニターのどれが売れるかで、人工的に見える画像が「現実的」とされるのか、ゼラチンシルバープリント〔いわゆる白黒写真のこと〕なんかが「リアルさ」を持つものとされるかは変わってくるよ。これはパソコンを使う人が写実的なイメージを好むか、もっと人工的な画像を好むかの問題で、作り手が何をしたいのか、ということではないよ。

DS:デジタルが出現するもっと前から、操作の可能性はいくらでもあったけど、今では、例えば写っている人を仕上げの時に消すというような操作が過度に、しかも簡単に、できるようになったんだ。でも、デジタルの操作をどこまで加えたらドキュメンタリーがドキュメンタリーのままでいられるんだろう、という境界線の問題は、未だに疑問視されていないよ。もう報道写真の分野ではすでに問題になっていることだけれど。例えば、僕をインタビューした通信会社APのカメラマンは、カメラアングルやデジタル画像の解像度に関して操作を加えませんでした、ということを署名つきで証明しなければならなかった。コントラストの比率については、何もルールがなかったけどね。

 ドキュメンタリー作家にとっては、「伝える内容に正直であること」が倫理なんだと思う。ある人がそこにいた、いなかった、というレベルではなくてね。物語に対して真摯な姿勢を持っていることが大事だけれど、でも偽りが含まれていても真実を伝えるっていうことはできるよ。これはフラハティの『極北のナヌーク』からずっとつきまとっているドキュメンタリーの問題で、同時録音が導入された1960年代からますます深刻化してしまった。現在は、ドキュメンタリーにおけるリアリティの問題なんて、まったく意味を持たない所まできてしまったよ。もし(ドキュメンタリーに)真実があるとすれば、それは一種の芸術的、物質的な真実だと思うね。

DB:おふたりの映画は『最後のドキュメンタリー』というタイトルですが、デジタルメディアの導入とドキュメンタリーフィルムの終焉、ということは関連しているのでしょうか。

JS:同時録音ができるカメラが登場したとき、まず映画監督が何をしたかと言えば音楽コンサートに行ってビートルズを記録したりしたけれど、こういうコンサート映画はミュージカル映画を台無しにしてしまったんだ。新しいテクノロジーには、30年後、40年後にしか分からない副作用があるんだ。デジタルメディアに関しても同じで、今は副作用の部分が見えないから、すごく刺激的なんだ。

 古代ローマ人もそうだったけれど、自分たちの文化っていうのはつい永遠だと考えがちなんだ。でももしこの時代に古代ローマ人が現れて、「ローマ帝国は永遠だ」なんて言ったものなら、目の前で爆笑しちゃうよ。19世紀のパノラマ絵画のような表現方法だって消えたわけだしね。「永遠」の限界ってことを考えながら、僕はドキュメンタリーが消滅したらどうなるかってことをふと思ったんだ、それがタイトルになったんだよ。

DB:ということは、ドキュメンタリーというのはフィルムに限られるということですか。

JS:僕の学生たちはビデオ作品をつくっても、それを「私の映画」と呼んでいるよ。暗い部屋と、観客の集合体が織りなす経験っていうのは、ドキュメンタリー映画の特別な部分だよ。でもこの感情や出来事を他の観客と共有しよう、という必要性は、なにか他のものに取って代わられるかもしれないけど、それは分からないね。現在、大手配給会社は、35ミリフィルムのリールに代わって、衛星やハードディスクから上映されるデジタル映画を検討しているようだけれど、それで何かが失われるってことはあると思う。でもそれはそれで事の成り行きかもしれないし、自分たちの孫に「昔は映画館へ行って映画をみた、でも今はちがうものになってしまったよ」なんて語り聞かせるのかもしれない。

 35ミリフィルムは世界共通で、どこでも上映できるよ。シンプルな方法だし、映写機だって自分で直せるし、スクリーンだって毛布1枚あれば何とかなるでしょ。映画がデジタル化されてしまえば、それを見るだけのお金が払えない人は見られないという状況が生まれるよ。

DB:『最後のドキュメンタリー』ではアーカイヴからのフッテージがたくさん使用されていますね。デジタル技術がアーカイヴに与える影響について、何か一言ありますか。

JS:たくさんフッテージをとらせてもらったアムステルダムのアーカイヴでは、ナイトレート素材の映画を損失するまいと、すべてをデジタルに取り込むのに大忙しだよ。また、アーカイヴすべての所蔵品が誰からもアクセスできるように、インターネットで公開したがっているんだ。今のところインターネットというのは渋滞が多くて、画像は解像度がすごく低いし、大きさも切手ほど。だから、見る分には構わないけれど、複製しようとすると画質が恐ろしく悪い、ということなんだよね。