日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 13
土屋豊
第13回目を迎えました「日本のドキュメンタリー作家インタビュー」シリーズは、土屋豊さんのインタビューをお送りいたします。ビデオ・アートから出発された土屋さんは、ご自分で作品を制作されるほか、ビデオ・アクティビストとして配給や流通、上映に関する活動にも積極的に関わり、淡々とした語り口のトークなどでもご活躍中です。親しみのある風貌も手伝ってか、若い層からの熱烈な支持を受けています。
1999年10月、山形国際ドキュメンタリー映画祭にご参加いただきましたが、その後も『新しい神様』の国内外での上映で、話題と議論の渦を巻き起こしている模様です。今回は、当映画祭期間中、本誌編集者のアーロン・ジェローがお話を伺いました。
―編集部
ジェロー(以下G):まず土屋さんの映像のバックグラウンドについてお聞きしたいんですが、今でも映像に興味を持っている若い世代は必ずフィルムでなくちゃならないという人が多いんですけれど、土屋さんはビデオを選んでますね。どうやって映像に入って、そしてなぜビデオにしたかについて、ちょっとお聞きしたいと思います。
土屋(以下T):もともと大学に通っていた時からずっと映画ばっかり見ていて、映画好きだったんですね。その頃は、学校通ってもあんまり周りとうまく行かないし、自閉的だったというかあまり友達がいなかったですね(笑)。バブル絶頂の時期で、社会の事とかあんまり考えずに、楽しんでいる人たちがいたんですけど、どうもそういうのには入り込めなくて。そういう社会に違和感を持っていて、ただそれを話せる仲間があまりいなかったので、映画館という場所が一番自由な場所だったんですよ。普段のそのモヤモヤした感じを映画館で発散するみたいな所があって、ずっと映画館に通っていたんです。
それで映画を見ると、批評を読むようになりますよね。映画批評の中で僕は粉川哲夫さんがすごく好きで、粉川さんは映画の作られた背景にある社会や政治の問題につなげた格好で書くじゃないですか。そういう見方が僕のその時の気持ちとすごくマッチしたわけですよ。映画館が自由であるということと、社会のその何かモヤモヤとしたイヤな感じっていうのを、批評の中でつなげてくれたのが粉川さん。そういう意味で徐々に社会に目覚めていったところがあるんですね。
それで見ているうちに、まあ何か作りたいなと思って、その時点でフィルムにしようかビデオにしようか全然悩まずに、もう目の前にあったのがビデオなので、たまたまあったものを使ったというだけなんです。後から考えれば、1人で今ここにカメラがあればすぐにでも始められるっていう特性は、その後の作品作りに活かされていると思っているんですけど。それでビデオアートみたいなのをやり出して、最初はメディアに翻弄される自分、メディアの中で自分自身を見失っているんじゃないか、みたいなことをテーマにしていて、3作目くらいに『Identity?』(1993)という作品を作ったんですね。自分の顔がどんどんモーフィングで変形していく、3分位の作品なんですけど。普段よく見ているテレビキャスターの顔が土屋豊になったり、久米宏になったり筑紫哲也になったり、どんどん変わっていくんです。メディアの反映でしかない自分っていうのを、それを作ることによって飛び越えたかったんです。ただ、作品の中では飛び越えられなくて、結局アイデンティティって何だろうって感じで終わったんですけど、作り終えたことによって、何かこう抜けちゃったっていうか、「もういいや。こんな自分探しみたいなの、もうやめようよ」ということになって。そこからもう、何か行動しようというふうに考え出して、次に撮ったのが『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?〈新宿篇〉』(1996、以下『新宿篇』)です。
G:確かに、土屋さんと同じ世代の人たちも自分探しのビデオとか映画をよく撮っていますけど、全くそれを社会的背景や政治的な問題につなげようとしない人が多い中で、土屋監督はちょっと珍しい存在のように思われます。なぜそういう政治の問題を考えるようになったんですか?
T:それはね、たぶん育った環境。ずっと僕、群馬で家族が兼業農家で、オヤジが肉体労働の人だったんですね。建築現場でガラス入れるような人で。大変なんですよ、農家の仕事って、朝早くてドロドロになって、何かこうワーッとやってて。それで朝終わってから仕事に行って、帰ってきてどうのこうのやって、すごい大変な姿を見ていて。それで父親がこう新聞見ながら「俺がこんなに苦労しているのに、あの政治家はどうした。田中角栄がどうしたこうした」ってことを僕に聞かせるわけですね。そういうので偉い人とか、権威のある人とか、お金持っている人とかを嫌いになったんですね(笑)。で、一生懸命真面目に働いている人にお金が回ってこなくて、何か適当にやってそうな人にお金が行っているような、この社会のおかしさみたいなのが、オヤジの言葉でつながった。基本はそこだと思うんですよ。
G:社会問題に関心を持っている若い劇映画の監督たちも、特に昔の左翼とかに対してすごく違和感を持っていて、「僕らは政治にはタッチしていないんです」と言うんです…。土屋さんの場合、例えば60年代の新左翼などに対して、最初はどう思ってましたか?
T:本当に何も分からなかった時は、寺山修司の昔の映画見たりして、「ああ、みんなきっと充実してたんだろうな」と思って。単純に「なんか、かっこいいじゃん」と思いましたね。だから、その時生まれていた方がよかったのかな、とか思いました。少しは憧れがあったと思う。ただ、知るようになってからは、幻滅と言うか。結局ね、天皇反対やっているグループはグループの中でまた天皇制ができていくし、セクトのくだらない争いとか、全共闘の世代の人たちも結局言うことは言うけど何もやっていないとか。一緒に話していて面白いし、求めているものは似ているので、毛嫌いなんかしないんですけど。僕はそういうとこに入ってどうのこうのは嫌で、やっぱり個人的に何か動きたいなと思っています。
G:何か行動しなきゃならないということになって、例えばビデオを使ったり、W-TV(Without Television)を設立されたりしたわけですが、それはどういう目的だったのか、背景について聞かせて下さい。
T:それはね、僕が作った作品って、どっかのフェスティバル出して、何とか賞を取って、それで人に見せてそこで終わっちゃうとか、美術館に入れてお金が入ってきたとかではなくて、やりたいのは作品を見せることによって、人と交流し合ったり、相手を揺らした中でこっちも揺れて、相互で変化していくことなんです。それで、ビデオデッキなんて誰だって持っているんで、単純にパッケージにして売ればいいと思って。ダビングとか本当に安くできるので、最初は1本500円位で売って、自分で各店舗へ持って行って、委託で置いてもらったんですけど。これを売ることによって、広げることによって、そこから始まることの方が僕の目的なので、そういう形にしたということです。
G:特に関心を持ったのは、パッケージの表紙に「どうぞ自由に複製して配布して下さい」。いくら政治的な行動をしようとしても、お金が必要という資本主義社会の世の中で、政治的なビデオや映画を撮っている人は、結構高い値段で売らなくちゃお金が入らない。それに比べて土屋さんは、「どうぞ自由に複製して」…金銭的な面ではちょっと大変じゃないかと思うんですけど。
T:ただね、500円のものを5,000円にして売ったって絶対儲かるわけないんですよ、無理なんです。それだったらもっと戦略的な意味で、複製自由なんだっていう、そのコマーシャルの方が後々返ってくるもの大きかったりするし。結局ちゃんと買ってくれる所は、学校で使いたいのでライブラリー価格で買いますからと言って、じゃあ3万円で、とか言っているんで、あんまりその辺は影響ないんですよ。
G:作る側の目指していることの1つとして、そういうビデオなどのメディアを使って観客とのコミュニケーション、あるいは社会の中のコミュニケーションを促すということなんですけども、観客とのアプローチはどういうふうに考えていらっしゃるのでしょうか?
T:今まで自分のビデオをコピーフリーで普及、流通させるということによってそのフィードバックがあって、感想を聞いたり、それからまた連絡したり、とやっていこうとは思っていたんですけど、やっぱりビデオを売った後って手が離れちゃって、思った以上には返ってこないですよね。上映会の方がやっぱりいろいろ交流はあって、すごく出会う場所なんで、小さい上映会やりたいなというふうに思っていて。面白いのは『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか〈96.8.15靖国篇〉』(1997、YIDFF '97で上映、以下『靖国篇』)の上映会やって、わりと僕に近い、天皇に反対しているような人たちの多いところで上映すると、みんなすごい怒っちゃうんですよ。天皇反対の人だってもっといるはずなのに、なんで天皇に賛成し、かつての天皇の戦争責任はなかったみたいなこと言う人たちばかりの意見を出すんだって。私はもう気持ち悪くなったみたいなことを言う人がいたりして。そういうのがすごい楽しくて、僕はだから8月15日の靖国神社ではこういう意見が出ていて、そのインタビューされた人の答えも、私は天皇を信じていますとか、単に文字で出てくるんじゃなくて、発する瞬間のその表情とかを見た上で想像力を膨らませて、いろいろ考えてほしかったんです。そこから対話が始まりますよね、僕とあなたの意見は同じかもしれないけど、僕が言いたかったのはこういうことであって、実はそういう右翼的な発想を持っている人々でも、何か瞬間にこう詰まったりとか、そう言わざるを得なくなってしまって、それを戦争責任はあったとか言っちゃうと自分を否定することになっちゃうことになるような、そういう世の中なんだみたいなことを対話できるんで。今回の『新しい神様』(YIDFF '99で上映、FIPRESCI特別賞受賞)の主人公として出てくる右翼の伊藤さんも、『靖国篇』非常に感動していて。こんだけ国のことを考えている人がいるんだ…みたいな。両方に見せていろんな反応があるんで、すごい面白くって。やっぱり『靖国篇』とかに関しては、とにかく上映のある所は絶対自分が行って話さないと意味がないような気がしていて…見終わった後に観客に「あなたはどうですか」って聞きたいんですよね。
G:W-TVのような組織を作って、作品を製作することのほかに、去年ビデオアクトという、複数のオーガニゼーションを連帯するような組織ができたんですけども、それはどういうきっかけですか?
T:もともとは民衆のメディア連絡会の立ち上げメンバーたちが、91年12月にアメリカのペーパータイガーテレビジョン(パブリックアクセスのチャンネルで、自分たちで番組を作っている)をよんだんです。「テレビをコントロールしよう」ということで集会をやって、それを基に民衆のメディア連絡会ができあがったんですよ。今400人くらい会員がいますけど、インディペンデントのビデオをやっている人もいれば、労働運動家もいれば、市民運動家もいれば、インターネットやっている人も…とにかく何らかのメディアを使って自分の意志を表明して、社会を変えていこうという人たちが集まっている所なんです。
その中でビデオ製作者たちが集まっていつも言ってたことは、作るまではなんとかなったと。小型カメラが高画質で、値段も安くなって、編集もなんとかできると。で、作った後の見せるところで、いつもみんな困っていて。上映会1回やって、まあだいたいよく知っている人が来て(笑)、見て、ああよかったとか言って。それがパッケージ化したとしても、そういう組織の人たちには回るけれども他にはなかなか普及しないと。なんとかそういう流通のことをうまくできないかということになって。結局各自がお店に持って行って委託でやって、ビラをまいて、DM書いて…すごい無駄じゃないですか。そしたら、ここの宣伝とここの宣伝をどこかが一括してDMまいちゃえば同じなので、苦労している部分をシェアする形で1つにまとめたカタログを作ればお互いに良いんじゃないかっていうことで、ビデオアクトが始まったんです。ビデオアクトは主に流通の取り次ぎをやりますけど、ニュースレターも出していて、大体月2回の割合で上映会もやっています。今後はインディペンデントビデオの情報を集めて提供する、情報センターみたいになれればいいなというふうに思っているんですけど。
G:ビデオアクトは、海外との交流もやっていますか?
T:そうですね。僕たちがビデオアクトを作る前に1回ニューヨークのパブリックアクセスチャンネルの視察に行ったり、インディペンデント作家がどういう環境で作品を作っているのかっていうのをリサーチしに行ったこともあるので。韓国と西海岸と日本の関係は、ビデオアクトができる前から元々あって、これも韓国のレイバー・ニュース・プロダクションというところのビデオアクティビストたちとの交流によるもの。ビデオアクトができたことによってその関係も強まったし、去年はオランダ、アムステルダムでネクスト・ファイブ・ミニッツっていう、インディペンデントメディア、或いはメディアアクティビストたちの集まるイベントみたいなのがあって、僕もよばれて行って。シュー・リー・チェンとか、ヘアート・ロフィンクもそこにいました。
G:海外の状況を見学する時、どういう印象を受けてますか? 例えば日本とかなり違うなあとか…。
T:やっぱりねえ、向こうの人たちは、すごい楽しみながらやっているんですよ。義務感とか、もっと言えば悲壮感を持って「こうせねばならない」と言ってガッとやっているんじゃなくて。日本だとそういうアクティビストで何とか活動をやっているとかって言われると、ちょっと違う人たちみたいな感じがあるじゃないですか。でも他の海外の人たちは普通で、アーティストとアクティビストがあんまり分け隔てなく一緒になってやっている感じあるけど。日本だと、なかなか活動家とアーティストが、まだまだ交流が少ないみたいなところがあるので、その辺はもっと自分も楽しんで、なおかつ社会と関わって行くような、社会変革を目指すような、広がったふうになればいいと思いますね。
G:日本におけるビデオアクティビズムはそのような交流から影響を受けていると思いますか?
T:うん。やっぱり今までもそんなに長くビデオアクティビズムの運動っていうのは日本でもなかったと思いますけど、やっぱりこう広げて行かないと、いろんな運動と同じように、どんどん自分たちの中に閉じこもって、なかなか外にいけなくなっちゃうので、海外との交流を通じてもっと広げられるのが1つ。あと、同じテーマで同じように追っかけている人が日本と韓国でいるわけなんですよ。今回両方で交流すると解決策が見つけやすくなると思うんですよね。政治的にはすごいグローバリズムの流れの中で、アメリカを中心として全体的に1個にまとめ上げようみたいなのがあると思うんですけど、それとはまた違う意味のグローバリズムっていうか、僕らは僕らで政府通さないで、直接交流し合うんだっていう。イメージとしてあるのは、国とかをすっ飛ばしちゃったコミュニティを作りたいなと思うんですよ。
G:ビデオアクティビズムは、その中でいろいろな違うかたちでやっている人が多いんですけど、一般的な定義としては、支配的なメディアは1つの現実しか伝えないので、それに出てこない話をするとか、そういうオルタナティブなメディアとしてビデオを使ってそれをやる、ということです。それに対して土屋さんは、違うアプローチしているんじゃないかと思いますけど。
T:そうです。何々について私はこう見たということではなくて、何々について私はこう考えている私がここにいるんだけど、これってここにこういう関係もあるかもしれないし、こういう関係もあるかもしれないっていう自分がここにいるっていうか…僕のその作品の作り方そのものが、僕の今考えていることの全てなんですよ。単に取材者だったりとか、客観的な人物で自分はいられないんです。そういう意味でジャーナリスティックな視点でどうのこうのっていうのはあんまりないと思うんです。
G:だから土屋さんの作品の中では、ただ客観的に何かの事実を伝えるというよりも、自分と社会や、他の人が考えていることとのつながり、ということが中心になっていると思います。ご自身の映像もよく出てきますね。でもそうなると、スタイルの問題が出てくると思います。ビデオアクティビズムの中では土屋さんの作品は実験的な方なんですが、それについてはどうでしょうか? まあ1つの例としては、作品の中でただ1つの映像を見せるんじゃなくて、それを二重写しとか三重写しのように重ねて、見せることが多いんです。
T:表面的な映像のスタイルというか、単に手法ということに関しては、あんまり重要視してはないんですよ。作品全体の構造を、すごく気にしているんですね。例えば『靖国篇』だったら、あれはもう最初から構造が決まっている作品なので、そういう意味でああいうふうに全ての映像をモニターの中に入れて、複数の映像が連関するように動かしたということがあって。あのモニターを取っ払っちゃったら、僕は同じ内容喋っていても、僕にとっては全く違う作品になるんですよ。「あんなモニターなんか外しちゃって、人の意見だけストレートに聞かせればいいじゃん」ていう人の意見もよくあるんですけど、そうだとすれば、あれは僕の作品にはならないんですよ。だからそういう意味で、構造上のスタイルというのは考えるんですけど、ここでOL(オーバーラップ)してどうのこうのということに関しては、まあその方が気持ちいいからとか、その程度の理由だったりしますけどね。
G:おっしゃったように、インタビューの対象が映っているだけじゃなくて、さらにモニターに出ていると。それはメディアやテレビといった問題も前面に出てくるようになります。いくつかの映像の存在が同時に出てくることは、作品の中でかなり重要になっているんじゃないかと思うんです。
それから、もう1つの土屋監督らしい映像は、インタビューする人をよく記念写真のようなポーズの中で撮る場面です。例えば靖国神社の前での記念写真など。
T:何かね、顔ってすごいもの言うじゃないですか、黙ってても。この人一体何なのかっていうことを、すごい想像できますよね。で、その人がどういう人間なのかがイメージとして分かりやすい構図やアングルや時間で、カメラ見てもらって見ていれば、全体は掴めないけれども、何となく分かるんじゃないか、それがまず1つですね。後はまあ、静止しているんだけど動いている時間みたいなのがわりと好きなんで、スタイルとしてかっこいいからというのはありますよね。
G:そうですね。静止画と動く画の合わせ方はかなり重要だと思います。特にこういう2つのとらえ方は、二重三重のイメージにつながっているという印象を受けるんです。例えば、『靖国篇』では、土屋さんは自分の頭の上にカメラを持っていたんですけど、必ずもう1つのカメラも持っていましたね。『涼子・21歳』(1998、YIDFF '99で上映、以下『涼子』))でもありましたけど、2つのカメラを使って撮るということは、人の複雑性が出てくるんじゃないかと思うんです。
T:多分『靖国篇』に関しては、こうやって頭にカメラつけてインタビューしていたのは、インタビューしている人のことも当然表現したいからです。インタビュアーは何も喋んない、基本的には議論したりとか「でも私はこう思う」ということは言わないんですけど、やっぱりどうインタビューしているかっていうことが分かることによって、伝わるものが広がってきますよね。ニュースのインタビューとか、マイクだけ出て「ニュース23(ツー・スリー)」とか画面に出てますけど、それだと何か嘘っぽいじゃないですか。こっちの人はどういう感じで聞いて、いつこうお辞儀したんだろう?その辺の、聞いている側の主体性みたいなのを出したかったんですよね、『靖国篇』に関しては。
G:先ほど、メディアに翻弄される自分に対してのお話をなさったんですが、ご自分の位置について、例えば既成のメディアに対する抵抗的なメディアなのか、どのように思っていらっしゃるんですか?
T:アンチマスコミでオルタナティブな何とかを、という対抗関係というのは、僕はもうやめた方がいいと思うんですよ。例えばこっちがメジャーでこっちがマイナーな僕ら、マスがあってミニコミの僕ら、そんなことじゃ全然力を持ち得ないので。ある時は戦略的にマスコミを利用しながら、今できることをやっていくべきだと思っていて。今のマスコミがダメって言う人や、潜在的にストレートな意志の表明というのを待っている人たちっていうのはたくさんいるわけで、そういう意味では僕らがマスかもしれないし。マスもミニもなくやっていけるんだよっていうのが、まず全体的な考え方としてあって。
それで僕自身は、まあマスコミと言えるかどうか分からないけど、MXテレビ(東京メトロポリタンテレビ)で『涼子・21歳』をオンエアーしました。そういう所と一緒に仕事できる関係が築ければ、やりたいと思っていて、ただ『涼子』に関しては、今回山形で上映したのがいわゆるディレクターズカット版で、オンエアーの時はそのまま流せなかったんですよ。だから、そういうせめぎ合いはあるんですけど、それでもオンエアーすることによって、やっぱり見てくれる数は違いますから。まあ可能性があればこっちの言いたいことを崩さないでできるように頑張りながら、マスコミとの関係は続けて行きたいなと思っていて。僕の方がそういう所で何か関係を持つことによって、前は受けているばかりで、嫌がったり、翻弄されてたんだけど、それはちょっと考え方変えるだけで、僕はマスコミの方に参加できるし、マスコミをこう逆にコントロールすることができるんですよ、やろうと思えば。
1966年生まれ。1990年より本格的に作品制作を開始。1994年より複製自由のフリービデオ「WITHOUT TELEVISION」を自主流通により発行。1998年から自主ビデオの流通プロジェクト「VIDEO ACT!」を主宰。メディア・アクティビストのネットワークを広げるための活動を続けている。 主な作品は『Identity?』(1993)、『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?〈96.8.15靖国篇〉』(1997)、『涼子・21歳』(1998)など。『新しい神様』(1999)は当映画祭に続いてすでに東京国際映画祭、ベルリン国際映画祭で上映されたほか、今後海外ではインドネシア、シンガポール、ブラジル、香港、韓国、スウェーデン、台湾、オーストリアでの映画祭上映が決定している。 |