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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 22

音楽家 ― 松村禎三

聞き手:北小路隆志


1. おもちゃのピアノで作曲

北小路隆志(以下、北小路現代日本を代表する作曲家である松村さんにとって映画音楽というのは、お仕事のなかのほんの一部分に過ぎないと言うべきですし、ましてや今回はドキュメンタリー映画について詳しくお聞きすることになると思いますが、映画音楽のなかでもドキュメンタリー映画に音楽をつける仕事はかなりマイナーというか、さらにまたその一部分ということになってきます。そうした前提を確認したうえで、今日のインタビューでは、音楽家松村さんのお仕事全体のなかで映画音楽がどういう位置づけにあるのか、映画音楽でしかできない特別なことがあったとすれば、それはなにか、といったことを浮かび上がらせることができればと思っております。まず、松村さんは京都でお生まれになっていて、いろいろと紆余曲折があったなかで、音楽家としてデビューされています。そこのところまでのお話をお聞きしておきたいのですが、おうちは室町のあたりということですから、古くからの京都らしい環境が残っている場所になりますね?

松村禎三(以下、松村そうです。佛光寺通り室町西入ルというところです。

北小路:ご家庭の環境として、音楽に興味が向くような、なんらかの要因があったのでしょうか?

松村:いやー、特別なことはなかったですね。父の呉服問屋の店の後ろに住居があって、そこで幼年時代を過ごしました。小学校に入った頃、父が子煩悩で「子どもは緑のあるところで生活させたほうがいい」と言い出して、郊外へ引っ越しをしました。

北小路:年譜をみますと、ご両親共に病気で早く亡くなっていらっしゃいますね。

松村:そうですね。父がガンで、私が10歳の時。それで、20歳の時に母が肺結核で亡くなりました。

北小路:自然に西洋音楽に関心がいくという家庭環境ではなかったとすると、どんなことがきっかけで音楽を志されていくことになったのでしょうか?

松村:小さい時からラジオを聞いていたんだと思います。それで、「なにかきれいな音楽がほしい」って言って、母親を強引に京都の三条の十字屋というレコード屋に連れて行きました。バイオリンとピアノでアレンジしたシューベルトの「セレナーデ」とシューマンの「トロイメライ」を店員の人が選んでくれました。それを毎日毎日、朝から晩まで何回も何回も聞いてね。僕の小学校が女子師範附属と言いまして、ちょっと程度が高くて入学試験を受けないと入れないところでした。この小学校には後にNHKのプロデューサーになって「百万人の音楽」という番組を作られた樋口唱道先生がおられて、五線譜の読み方、簡単な合唱、輪唱、それから音楽鑑賞でもモーツァルトのシンフォニーとか、そんなことをバンバンやらせてね。すばらしい先生でした。小学校3年の時にその先生に音楽の授業を受けはじめたとたんに、音符で作曲を始めたんです。それで「ピアノがほしい! ピアノがほしい!」って母親にねだっても、すぐにグランドピアノというわけにはいかなくて、おもちゃの黒鍵を黒く絵で描いた、卓上ピアノがあるでしょ。音域の広いものを買いたして、ふたつの卓上ピアノを使って、それで作曲していたんですね。小学校の国語に出てきた「朝の大連日本橋」という詩に音楽をつけるわけです。列車が来るとなると、「ドミソドミソ」と、「ドソミソ」を右手と左手で同時にやって。それをだんだん強くしていったり、だんだん弱くしたりして、列車が来て、また去っていったということになる。

北小路:小学校3年生ですぐに作曲をするというのはすごいですね。いまお話しいただいた、汽車が遠くからやってきて、通り過ぎるというイメージを音楽で表現するという件は、どこか映画音楽の仕事をなさる将来を予感させるところがあると思うのですけれど。映画については、子どもの頃どうだったのですか?

松村:ベティさんの漫画がありましたね。ベティさんファンで、その映画が来た時だけ母親に連れて行ってもらって、映画館に行きました。他に京都市内で見られる子ども向けの映画を少しは見ていましたが、あんまり見ていない。映画はやっぱり戦後ですね。旧制第三高等学校でちょうど終戦の年に入りましてね。戦後、戦時中の名画がどんどん入ってきました、ジュリアン・デュヴィヴィエとかね。京都で上映されるかぎりのものは全部見ました。『舞踏会の手帖』(1937)とか『地の果てを行く』(1935)とか、デュヴィヴィエのものはずいぶん見ました。

2. 音楽家になることを決意

北小路:その頃、映画を見ていても特別に音楽に耳がいくという部分はあったのでしょうか?

松村:『舞踏会の手帖』の音楽には惹きつけられていました。『望郷』(1937)のミュージックボックスがひっくり返って、とたんに音楽が鳴り出すなかで人が殺されるという効果に感心した覚えはあります。それでね、自分としては音楽をやりたいんだけれども、戦争中は音楽家になるということはありえなかった。わりに理科系のほうが好きで、建築家になろうかなと思って、住宅の設計図集なんかを作ったりしていました。ところが、戦後になって三高ですぐ音楽部というのを作りました。それで三高の新品のグランドピアノをほとんど独占しました。「どけ」って、とにかくいばっていたんです。1日7時間くらいはピアノを弾いていたかな、授業にはぜんぜん行かないでね。バイエルから始めて2年後にはリストでもショパンでもなんでも弾いていました。その時に落第しましてね。音楽家になろうか、それとも普通の職業につこうかと悩んだんです。それで、とうとう音楽家になると決めて、母親に「なるよ!」って宣言しました。それで東大に音楽美学というのがあるので、とりあえずそこに入って、ワグナーのトリスタンとドビッシーのペレアスの比較研究でもやろうと東京に行く準備をしていたんですよ。三高では理科でしたが、音楽美学といったら文科ですから、あわてて受験勉強している頃、母親の肺結核が重くなってね。受験真際に死んじゃった。それで死の際に「頼むから弁護士になってくれ」って(笑)。「いいよ」って言ってくれていたのにね、突然「音楽は趣味にしてくれ」って。しょうがないから、京大の法学部の受験票をもらって「ほら、受けるよ」って見せて、その直後に死なれちゃいました。試験もまともに受けてないから落っこちましたよ。それで、やっぱり東京に行くことに決めました。父も既に亡くなっており、頼りない子どもだけが残ったわけだから、親戚が全員集まって親族会議をして、「禎三、お前はどうするんだ?」、「作曲家やります」と言って。みんなから気ちがい扱いされてね。「京大に行くのであれば全部お金を出してやるけど、作曲家になるなんて絶交だ!」なんて言われて。ほとんど親類から嘲罵されました。母親が死んでしまったので、遺産をどうするかということになりましてね。子どもの頃は店員が20人くらいいて、郊外の家も敷地が500坪くらいあって、わりに恵まれた環境でした。ところが、終戦になって母親が死んだ頃には全部きれいになくなっていました。

北小路:お父さまが亡くなった後もお店は続いていたのですか?

松村:そうなんです。有限会社という肩書きに変えて、母親が社長ということになっていました。戦争末期には、呉服は贅沢ものだって言われ、統合するかあるいは権利を売ってしまうかと言われて、それで、統合しました。終戦になって全部なくなっちゃった。典型的な斜陽族。母親はとってもそういうことに疎い人でした。

3. 芸大へ行く代わりにサナトリウムへ

北小路:昭和24年(1949)に東京へ。お母さまが亡くなられた年に出て行かれることになるわけですよね。

松村:そうです、そうです。あれに似ていますよ、大ヒットしたインドのサタジット・レイの『大河のうた』(1956)。母親に死なれて、どうするというと、「カルカッタに行きます」なんてお骨持って列車で行っちゃった。ああいう心境でした。

北小路:その後も今度は松村さん自身が病気になられて、年譜によると受験自体が病気のせいでダメになってしまったということですよね。

松村:三高の2年の時に1回結核をやっているんです。母親から感染したんだと思う。それで1度、肺浸潤と言われて京大の附属病院に1学期間だけ入院したんです。気胸という、肋膜腔に空気を入れて安静にして治すもの、それが無事に成功したというかんじだった。気胸というのは2週間に1回行かなきゃならないので、東京に出てきてからも東大の病院で気胸してもらっていたんです。ところがそれが実は入っていなかったらしいです。僕はやってもらっているから大丈夫だと思っていたんです。それで8月に東京に出てきて、翌年の3月に芸大作曲科を受けようと思っていました。京都の先生のつてで、芸大の作曲の先生を紹介してもらって習っていたのですが、清瀬保二という作曲家の大先輩がおられまして、清瀬保二の息子さんと僕の三高時代の同級生が東大での同級生で、それで紹介されて清瀬さんのところに行った時に、「お前は誰に習っているんだ?」と聞かれて、「○○先生だ」と言ったら、「師匠を選ぶのになんたるずさんさだ!」とすごく怒られて。「芸大ならば池内友次郎先生を紹介してやるから、そこで習いなさい」と言われまして、池内先生のところに行きました。そうしたら目からうろこが落ちるように、それはすばらしいレッスンでした。本質的な大事なことを、そこで学びました。今まで延々とジタバタしていたのに、それが吸い込まれるようなかんじでした。受験のために半年間僕はずいぶん勉強できて、池内先生が「お前だけはもうなにもしなくていい、風邪だけひかないようにしていろ」と言われた。入学試験は1番。だけど身体検査で「ひとりだけこのまま入れると2年もしないで死んでしまう奴がいます。そういう子は落としたほうがいいですね」という結果が出て、それが僕だったんです。東大で気胸をやっているから大丈夫だと思っていたら、病巣がバーっと反対側にまで広がっているということがわかって、芸大に入る代わりに清瀬村のサナトリウムに入りました。その頃結核というのはどこの病院も満床でした。東京都内ではぜんぜん病院がなくて、当時東京からは日帰りでは帰れない水戸のさらに先のところにやっとサナトリウムがあって、そこに申し込みをしたんです。京都に帰ることは考えられませんでした。みんなから怒られながら飛び出してきて、また戻って、肺病の病院に行ったら、それこそもう作曲なんて遠くなってしまう。東京でなんとかがんばろうと。池野成という一緒に芸大を受けた友人のお母さんが探してくださって、やっと都内の清瀬村のサナトリウムに入ることができました。そこでの生活が5、6年続きました。

北小路:これはもちろんひとことで説明できないことだとは思うのですが、いちばん若くて活発に動き回れる時期にご病気になられて、しかもある意味ではエリートコースというか、ストレートに芸大に入ってそのまま作曲家になるという道をいったん挫折せざるをえなかったことが、その後の作曲活動にどういう作用をもたらしたとお考えでしょうか?

松村:それはね、恥ずかしいけど、手術が失敗して2カ月くらい上向きに寝たきりで身動きもとれなかった時期があった。怖い合併症が起こって、場合によっては肺じゅうに結核菌を再び吸い込んで、もう再起できないような状態になるかもしれない、しかし無事回復する可能性も少しはある。結核菌を吸い込んだ場合はそれが白血球と闘って、チーズみたいになるんです。そうなってはじめてレントゲンに影が映る。影が映るまでに2カ月ぐらいかかります。その結果を、じっと上向きのまま2カ月間待っていた。それはやっぱりちょっとね、なんていうか、シュンとしたかんじになりますよね。窓から見えた松の梢がちょうど牛の頭みたいなかっこうをしていてね、仰向けになったままそればっかり見て2カ月過ごしました。それで回復したんです、しかも普通に動けるようになった。だからその時に生きている限り1曲でも多く、少しでもましな曲を書こうと非常に強く思いましたね。最近は生きていながら、少しぶらぶらぼんやり。いいかげんな時の過ごし方をしたりしておりますけど(笑)。その頃は若くて気力もありましたし、本当にそう思いましたね。

4. 寺山修司と俳誌の巻頭をあらそう

北小路:ちょうど入院されている頃に俳句を書かれていて、寺山修司さんと知り合いになられたそうですが、そのエピソードをお話いただけますか? 同じ雑誌に投稿されていたとか?

松村:秋元不死男という俳人が主宰している『氷海』という俳誌があって、『天狼』という山口誓子がやっていた俳誌の系列のものです。そこに青森から寺山修司という高校生が投稿していて、サナトリウムから松村旱夫(ひでりお)という俳号を作って、日干しの男という、日干しと高校生が巻頭をあらそったんです。寺山、次は松村、その次は松村、それから寺山でというふうに。そのうちに氷海賞というのが作られて、第1回目を僕がもらっちゃった。そしたら寺山がグレて俳句をやめちゃった(笑)。それで寺山は俳句のいいところをとってのばして短歌をたくさん作りました。賞をとって歌人になってしまった。もちろん彼はすばらしい歌人であり詩人だと思うし、俳句もすばらしい。青森とサナトリウムとの間で文通してね。寺山が東京に出てきて、彼は早稲田の学生で、僕は退院してからそこへ遊びに行ったこともあります。そのうちに僕は結婚して、家内が病気になって入院した同じ病院に、寺山がまた入院してきて。なんとなく縁がありました。1962年に彼の家へ遊びに行った時、僕の『弦楽四重奏とピアノのための音楽』のテープを聞かせたら、彼はすごい反応を示しまして、音楽家としての僕もある程度評価してくれていたみたいです。

北小路:後年、お仕事を一緒になさる機会はなかったのですか?

松村:劇団四季が彼に委嘱した『血は立ったまま眠っている』(演出:浅利慶太)という芝居の音楽をやりましたよ。あとNHKのラジオドラマの音楽も。

5. 伊福部昭の門下生時代

北小路:ここからいよいよ映画音楽の話になっていきますが、さきほど名前の出た池内友次郎さんの他にもうひとり、松村さんの先生として伊福部昭さんの名前がよく挙げられます。伊福部さんとの出会いやどういうお付き合いをされていたのかなどをうかがいたいのですが。

松村:さきほど言いました清瀬村のサナトリウムにお母さんが僕のベッドを探してくださった池野成という友人が、僕の療養時代の最後にコンクールに出した曲を全面的に手伝ってくれて、それで1位になることができました。伊福部先生も審査員でいらして1位と、芥川也寸志さんも1位と推してくださって、それで1位になった。それで「あなたの曲が1番いいんじゃないでしょうか」と本選会のロビーで言ってもらって、即ち弟子入りしました。すばらしい魅力的な先生でした。入門後はもう、悪口ばかり言われてね。

北小路:お弟子さんみんなにそれとも松村さんに特別に、ということですか?

松村:毎年正月の2日に伊福部先生のお宅に全員集まり徹夜で飲むのですが、みんなのいる前で僕の悪口。悪口しか言わない。少し見込みがあるから言ってくれたんじゃないかな、と自惚れてみたりしますけど(笑)。僕がシンフォニーを書くでしょ、そしたら「松村さん、あなたは!」って悪口が始まるんです。そしたらみんな寄ってたかって一晩、そのシンフォニーの悪口を言うのです。書かない奴もいばって言うんですよ。面白かったですね。言われた言葉を言いなおして翻訳してみると「お前みたいなバカは作曲やめて死んじまえ」ともとりかねない表現でしたよ。…こんな調子で話していていいのかな?

北小路:大丈夫です、ここは大事な前提の部分ですから。伊福部さんから影響を受けた部分があるとするとどういったところですか?

松村:それはもう、いやらしいものは全部そうですね(笑)。

北小路:…いやらしいもの?

松村:文化観、歴史観、音楽観、人生観、全部にわたってです。特に、俗に対しての過敏なくらいの潔癖さ。惹きこまれましたね。池内先生もそうでしたが…。

北小路:伊福部さんは映画音楽を戦後すぐの47年ぐらいから始められていて、第一人者になられた方なわけですが、さきほどの“俗に対しての過敏なくらいの潔癖さ”という部分は、“俗”の世界に入るものとも思える映画音楽の仕事の間でどのような折り合いがつけられていたとお考えですか?

松村:職業に俗・非俗はありません。立ち向かう姿勢の問題です。おっしゃっていたのは「妻子を養うためには、どんな仕事をしてもそれは正当である」と。早く自分も映画音楽をやりたいなと思っていました。伊福部先生はけっしてそれを勧めはしませんでしたね。むしろ妨害されたかもしれない。

北小路:映画音楽はある意味では食べるための手段としてということですか?

松村:そういうことです。ところがね、食べるためというのはね、けっして妥協ということではなく厳しいものですよ。ここで変な音が出たら、次の日は食べ損なうわけです。必死になって、いい音を書こうとしますよ。その映画にとっていい音を書きたいと思った。真摯な監督さんが多かったから、僕のそういう面を引き出そうとしてくださった。教養のあるすばらしい映画人の方々と一緒に仕事をして、彼らが本気でやっていることですよね。しかも謙虚に僕からなにかを引き出そうとしてやってくださっているわけですよ。これは誠実に応えるしかない。しかし私が劇映画を始めた頃は末期の新東宝と日活で、どっちもギャング映画でした。ギャングはだいたいナイトクラブに逃げ込むんですよ。ナイトクラブではじけそうなマンボだとかいろいろやっていて、それも作曲しました。幸か不幸か、それはごく一時期のことでしたが…。

6. 地球上で一番大きな音

北小路:そもそも映画音楽を始められるきっかけとしては、どういうものがあったのですか? 資料によると日活の1959年の作品『傷つける野獣』(野口博志監督)が最初になっていますが、その依頼を受けるまでの過程というのは?

松村:それは吉沢博さんという指揮者の方がいまして、映画音楽をやろうとする若者にとって神様のような人でした。黛敏郎さんも、山本直純さんも彼の世話になりました。日活や松竹や東映やいろんな監督さんたちがみんな吉沢さんのことを信頼していて、どの監督も音楽に関してはなんでも吉沢さんに相談する。吉沢さんはいろいろ目配りをしてそれぞれに作曲家を推薦して面倒をみられた。僕も知人の監督さんから吉沢さんを紹介されました。ある日吉沢さんとマネージャーさんのふたりが台本持って、多摩川の堤防からつらつらと家までやってきたんです。それが『傷つける野獣』。「松村さんは頭固くて、まだクラシックしかやったことがない。これは犯人が第九シンフォニーの会場に逃げ込む話だからちょうどいいんじゃないか」って発想だったみたいです。それが熊井啓さんのホンだった。ふたりを会わせたのは吉沢さんの勘です。

北小路:偶然とはいえ、後年密接な協力関係を築かれる熊井さんの脚本作品にまず最初に音楽をつけられた。その頃、面識は?

松村:いや、そこで初めて会いました。シナリオでは第九シンフォニーだったのが、コーラスが入ってしまうので、経費の都合で第五シンフォニーになりましたけどね。アクション映画でした。

北小路:それが1959年で、60年は作品として10本以上ありますね。

松村:そうでしたっけ?

北小路:ええ。たくさんありすぎて、個々の作品の区別がつかなくなるような状況というのは容易に想像できるのですが、それにしてもどのようにしてこのようなたくさんの仕事が可能になったのでしょうか(笑)。残念ながら今ほとんど見ることのできない映画が多いのですが…。『女死刑囚の脱獄』(1960)は中川信夫さんが監督した作品でしたね。

松村:ええ、これはなかなか不思議なものでした。『傷つける野獣』の前に初めて映画やったのが新東宝の『女吸血鬼』(1959、中川信夫監督)。吸血鬼が天知茂さんで、中川信夫さんというのはお化け(映画の)監督として高名だった方ですよ。凝りに凝っていて、月夜に天知茂さんの牙が生えるとすごい音楽が鳴るんです。それで全部で30数曲とすごい量の音楽でした。かなり大きい編成のオーケストラとミュージカル・ソーもいれてね。音楽はマネージャーの名前になっていて、私はコロリと一握りのお金をいただきました。中川さんがとっても喜んでくださって、その次が『女死刑囚の脱獄』でした。

北小路:映画音楽の仕事に入って1、2年で非常にたくさんの劇映画に参加されたわけですが、それほどいやな思いもされずに充実した状態でこの大量の仕事をこなされていたということですか?

松村:いやな思いもたくさんあったと思いますが忘れてしまいました。ただ、映画の台本が来ると嬉しいなと思っていました。そのうちに台本が100冊来るよりも作品の委嘱がひとつ来たほうが嬉しいなと思うようになりましたけど。

北小路:映画に曲をつけていくうえで、監督さんたちとディスカッションが行なわれると思うのですが、この頃の仕事は後年の黒木和雄さんや熊井さんの映画とはテイストの違う、通常のプログラム映画ですよね。そういう意味で最初に映画音楽の仕事に臨むにあたって松村さんなりの方法論のようなものはございましたか?

松村:方法論として学んだことはなくって、一生懸命手探りでやったことが方法論。こんなことを覚えていますよ。小杉勇さんの『刑事物語・銃声に浮かぶ顔』(1960)かな。タイトル前にブワァーと大クローズアップで犯人の顔がうつると同時にものすごい音が出るんです。とにかく世界中であったことがなかったぐらいの大きな音を出してやれと思って。もう今では考えられないくらい大きなオーケストラを使えたんですよ。5管編成とか7管編成とか。それでトロンボーンやら、トランペットやらいっぱい呼んできてブワァーって音を出して、寺山修司に興奮して電話して「地球上で一番大きな音が出たよー」って言ったことがあった。本当に映画音楽はいい勉強の場になりました。自分の書いた音符がすぐ音になって、しかもそれを人と一緒に聞いて、そして人の反応、結果まで生で受けるという体験は貴重なものでしたね。だから映画でこういう音を出してみたいという実験はずいぶんやりましたよ。特に記録映画はこちらの自由が許されたので、僕のシンフォニーも記録映画で実験した部分がずいぶん使われています。

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松村禎三 Matsumura Teizo

1929年京都生まれ。作曲家。池内友次郎、伊福部昭に師事。1955年に毎日コンクール作曲部門第1位を受賞し、その後「管弦楽のための前奏曲」、「ピアノ協奏曲第1番、第2番」等次々と作品を発表。1978年サントリー音楽賞の受賞を機会にオペラの委嘱を受け、13年余をかけて作曲した「沈黙」が1993年に初演され、新しいオペラの誕生と大きな話題を呼んだ。翌年にはニューヨークで松村禎三特集が組まれる等、海外でも高く評価されている。舞台音楽、映画音楽も数多く手がけ、映画音楽にいたっては約100作品にも及ぶ。特に熊井啓監督、黒木和雄監督との共同作業は長く、多くの作品に携わっている。『地の群れ』(1970、熊井啓監督)、『忍ぶ川』(1972、熊井啓監督)はその年の毎日映画コンクールで音楽賞を受賞している。1990年には紫綬褒章を受章。また、その才能は音楽の世界だけに留まらず、俳句や随筆などの分野にも及び、著作に『早夫抄 松村禎三句集』がある。

 

主な映画音楽作品歴


  *年代は映画の製作年

1959  女吸血鬼(中川信夫監督)
傷つける野獣(野口博志監督)
海壁(黒木和雄監督)

1960  女死刑囚の脱獄(中川信夫監督)
太平洋戦争 謎の戦艦陸奥(小森白監督)
刑事物語・銃声に浮ぶ顔(小杉勇監督)
ルポルタージュ・炎(黒木和雄監督)*1960年は最も多く、1年間に14作品手がけている。

1961  地平線がぎらぎらっ(土居通芳監督)
生体内の癌細胞(小林米作、渡辺正巳監督)

1962  明日の鉄鋼(伊勢長之助監督)
わが愛北海道(黒木和雄監督)

1964  近代工業国 日本の今日(堀越義夫監督)

1965  ラス・メニナス(松川八洲雄監督)
高原(岩佐氏寿監督)

1966  とべない沈黙(黒木和雄監督)

1967  炎と女(吉田喜重監督)
日本の現代建築(岩佐氏寿監督)

1969  キューバの恋人(黒木和雄監督)
沖縄列島(東陽一監督)

1970  地の群れ(熊井啓監督)

1971  ぼくのなかの夜と朝(柳澤壽男監督)

1972  忍ぶ川(熊井啓監督)

1973  朝やけの詩(熊井啓監督)

1974  竜馬暗殺(黒木和雄監督)

1975  不知火海(土本典昭監督)
祭りの準備(黒木和雄監督)

1976  道成寺(川本喜八郎監督)

1978  原子力戦争 ― LOST LOVE(黒木和雄監督)

1980  海とお月さまたち(土本典昭監督)

1983  よみがえる東塔(田畑慶吉監督)
泪橋(黒木和雄監督)
暗室(浦山桐郎監督)

1985  夢千代日記(浦山桐郎監督)

1986  海と毒薬 (熊井啓監督)

1988  ダウンタウンヒーローズ(山田洋次監督)
TOMORROW/明日(黒木和雄監督)

1989  千利休 本覺坊遺文(熊井啓監督)

1990  浪人街(黒木和雄監督)
式部物語(熊井啓監督)

1991  息子(山田洋次監督)

1992  ひかりごけ(熊井啓監督)

1995  深い河(熊井啓監督)
眠れる美女(横山博人監督)

1997  愛する(熊井啓監督)

1998  ラブ・レター(森崎東監督)

2000  スリ(黒木和雄監督)
日本の黒い夏 冤罪(熊井啓監督)

2002  海は見ていた(熊井啓監督)

2003  美しい夏、キリシマ(黒木和雄監督)

2004  父と暮せば(黒木和雄監督)
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