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映画のドキュメンタリー性の変遷 第1回

ノンフィクション映画の発生に関する
幾つかの問い

小松弘


来年の映画誕生100周年をふまえ、「Documentary Box」は映画と“現実”の関係の歴史を探る4回の連載を掲載することにしました。毎回異なる映画史研究家によるエッセイでは、ジャンルとしてのドキュメンタリー映画に関してのみならず、映画そのものの現実性はこの1世紀にどのように変わってきたかということについても取り上げてもらう予定です。この第1回には映画史家の小松弘氏が初期映画史におけるノンフィクションとは何かという問題を取り上げます。

編集者

ある映画をノンフィクションだと理解する者は、その映画の作られた時代や場所や文化的コンテクストやイデオロギーを知っており、何より映画のフィクションの存在を前提にしているはずなのだ。

今日の多くの人々はドキュメンタリー映画や記録映画(ドキュメンタリー映画の邦訳語)についての漠然としたイメージを持っている。この言葉が日本で広く使われるようになったのは戦後のことで、戦前はドイツのKulturfilmの訳語である文化映画という表現の方が一般 的であった。両者とも、だいたい同様の映画の形式・内容を指し示し、劇映画が作られた物語を俳優が演ずるのに対し、ドキュメンタリー映画や文化映画は、事実や現実を伝え、しかも単なるニュース映画とは違って、作者の芸術的創造性を持っているというのが一般 的な捉え方であろう。もちろん映画史的な厳密さが要求されるのであれば、狭義のドキュメンタリー映画はこの語の命名者であるジョン・グリアソンに始まるイギリスのドキュメンタリー映画を指し示すこともよく知られているだろう。1926年にグリアソンはこの語をフラハティの映画について述べた文章の中で最初に使用し、その後自らこの語の意味を明確化し、発展させ、あの有名な<現実の創造的処置>というテーゼが作られた。この語は20年代末の英・米では一般 的な用語になっていたようで、例えばポール・ローサは1930年に出版された「今日までの映画」において、映画の様々な形式について語っている中で、すでにドキュメンタリー映画を弁別 している。1 この限りでは、例えばアヴァン=ギャルド映画という言葉を1920年代のフランスのある特定グループの映画を指し示すものとして使うのと同様に、ドキュメンタリー映画はグリアソンに始まりEMBおよびGPOによって製作されたいわゆるイギリスのドキュメンタリー運動の舞台にある映画の一群を指すものとして再定義されるべきである。(この意味では文化映画も、少なくとも映画史的にはそれが本来あった場所に戻されるべきであろう。)

 本来の固有名詞から普通名詞化してしまったドキュメンタリー映画や文化映画を、その漠然としたイメージから、ある程度の明確さを持った、そして映画史的にも理論的にもより意味のある言葉に置き換えるならば、我々はノンフィクション映画という概念に頼ることができるだろう。現在ドキュメンタリーという表現で指し示されている概念は、結局ノンフィクションに包摂されてしまう。それによって、我々はグリアソン以前を問題にすることができるはずだ。

 だが多くの人々がドキュメンタリー映画に劇映画ではないといった漠然としたイメージしか持たないように、ノンフィクションの正体が何であるのか、ほとんど論じられていないように思える。映画の学問はノンフィクションを避ける傾向にあるからだ。それには恐らく理由があるのだろうし、部分的にはこの文章もその理由を説明することに向けられるはずであるが、それでもここ何年かドキュメンタリーもしくはノンフィクションという主題にあえて取り組む研究者が僅かながらも出てきたことは事実である。しかし、満足のゆく理論は残念ながら出てきていない。その原因は、いずれの場合も歴史的な発生論への考慮を欠いていることにある。歴史への無知ということは、要するに映画の本質を、つねに、そして何度も暗黙の了解、つまりこの場合ドキュメンタリー映画あるいはノンフィクション映画を、ある一群の映画を指し示す便利な言葉として使い得るという、映画そのものの概念についての暗黙の了解に押し戻してしまうということだ。例えば、マイケル・レノフによる最近の論文は、歴史的問いへの欠如によって誤謬に陥った典型的な議論として挙げることができる。2 彼はメタ批評的なパラダイムとして、ドキュメンタリー・テクストの4つの機能を次のように示す。(1)記録し、示し、保存すること。(2)説得し、促進すること。(3)分析し、問うこと。(4)表現すること。だがこれら4つの機能は何らドキュメンタリー(よってノンフィクション)に固有のものではないし、非ドキュメンタリーを排除するものでもない。それどころか、これらの機能は通 常の劇映画に人がたいていは読み取るものであろう。なぜなら映画一般は何らかの形で、それが作られた時代と場所と文化コンテクストとイデオロギーの表現であるからだ。これら4つの機能によってドキュメンタリー映画は何ら差異化されていない。ここにあるのは単に映画一般 に読み取り得る、恣意的と思えるように選ばれた機能にすぎない。

 別の言い方を付け加えるなら、このようなドキュメンタリー・テクストなるものの誤謬の原因は、映画の学問がノンフィクションを避ける傾向にあることと、ある程度関係している。それはドキュメンタリー映画と言い換えたことで生じる明確さと反比例するかのような困難がここに存在しているという意味だ。それは概念の明確さと表象の不明確さ、あるいは/そして概念と表象のズレとも言える映画史の問題に直結する。

 ノンフィクションという言葉の接頭辞ノンが意味させる打消しは、概念を非常にはっきりさせている。すなわちノンフィクションはフィクションではない、ということである。だが実際の表象の問題となると、こうした対義語的な明確さは困難さを抱える。ノンフィクションは打消しの接頭辞を持つ概念であるために、当然打消される対象であるフィクションが前提にされねばならない。だがいったい、いつ誰がそのような概念の前提を持つのだろうか。それは映画のフィクションを知っている者たちではないだろうか。そうでなかったら、ノンフィクション映画などという概念は存在しないだろう。だから概念の発生の順番から言えば、明らかにフィクションはノンフィクションより前でなければならない。しかし筆者がかつて論じたように、映画史においては概念は往々にして表象の後から生じる。3 つまり映画史における思索は、知覚と認識より遥かに遅れるのが普通 のことである。ある映画をノンフィクションだと理解するものは、その映画の作られた時代や場所や文化的コンテクストやイデオロギーを知っており、何より映画のフィクションの存在を前提にしているはずなのだ。

 このような観点から推論するなら、映画はもっとも初期の段階ではノンフィクションではなく、フィクションであったかもしれないが、それは後に発生するフィクションとは異なっていたはずだ、という仮設が作られる。そしてもっとも初期の映画が仮にノンフィクションであると断言し得るなら、その接頭辞ノンはすでにフィクションを前提にしているはずだから、後の段階に生じたフィクションを打消すという時間的前後関係の矛盾を抱えることになる。もしくは映画以外のそれ以前にあったフィクションの形式を前提にもっとも初期の映画をノンフィクションであると断言するなら、映画は異なったメディアを打消してその形式を発生させるという矛盾を抱えることになる。要するにここで問題とならざるを得ないのは概念が表象とズレてしまうという事実なのだ。こうしてみると便利なように思えたノンフィクションという概念が、実は知覚及び認識のための純粋に操作的な概念であることがわかる。すなわち、こうした概念は表象の客観的性質を何も保証してはくれないのだ。

 とはいえ、グリアソン以前を、そしてとりわけ初期の映画を問題とするに際して、映画の学術的言説があえて避けようとしているノンフィクションという概念の正体にせまることは、それがたとえ純粋に操作的な概念であろうとも意味あることであろう。その正体にせまることで、なぜ多くの人々がドキュメンタリー映画についての漠然としたイメージを持ち得るのかを解く鍵が得られると思えるからだ。まず我々はフィクションという前提がない言説を見るべきであろう。次に引用する文章は明治43年(1910年)に書かれた映画史に関する書きものの一部分である。

 「…其の時分の活動写真は未だ幼稚なものであったが、入場料と云へば数十(銭――小松註)乃至一圓で、しかも観客がよく満足して居たと思ふ。然し断って置くが欺(ママ)く云ふ小生も実は其見物の一人だった。今も能く覚えて居る。其時分の写 真は恐らく一、二分以上写るのはなく、且つ初めと終りを続けた輪のやうなフィルムであった故、同じ画が繰返され、映画とても幻燈の一歩進んだ様な物で、兵士進軍や小供の喧嘩等の単純な物が多く、丁度目下のミュートスコープの様な画の種類、長さであった。而し数年ならずして、漸次長尺物が見られる様になり、火事とか、景色、鹿狩、競馬とか、殊に魔術物が多かった。然し目下流行を極めて居る滑稽物、演劇物等は殆んど見る事が出来ず、特に活動写 真に於てのみ為し得らるる反対撮影等は絶対に見る事が出来なんだ。然るに幸か不幸か当時起った日露の戦争は従来の種類を絶って、活動と云へば直ちに戦争物を想像する程であったが、日露の平和も克復した三十九年後(明治39年以降――小松註)は、従来さしも盛んであった戦争物も追々廃れて、之に代ったのが、滑稽、喜劇、悲劇、史劇、お伽噺等の演劇物で、此時分から、フランスのパリーのパテ・フレールが頭をもたげ始めたのである。」4

 この文章の筆者には、フィクションという前提を持った映画に対する見方はない。よってノンフィクションも存在しない。例えばここにあるのはもっとも初期の映画が<単純>であることと、現在見られる映画の流行が――恐らくそれよりも長くそして複雑な――滑稽物や演劇物であるという差異である。日露戦争映画は、恐らくそこには実写 の戦争ルポルタージュもいわゆるフェイク・ドキュメンタリーもあったに違いないが、ほとんど滑稽物や演劇物と同じ資格で<戦争物>を意味したのである。もちろん明治38年から明治39年頃(1905年〜1906年)の観客の目に、フェイク・ドキュメンタリーは明らかに真正なる戦争場面 とは違う偽物に見えていたことは、筆者がかつて指摘した通りである。5 だがそれは必ずしも、この時期の多くの人々がノンフィクション映画という概念を持っていたことを意味するわけではない。上に引用した文章が書かれた1910年になっても、映画への言説はすでに19世紀末に存在したような分類に依存している。この分類、映画会社の販売カタログに古くから記載されていた分類は、映画上映の際のプログラム作りに役立てられた。すなわち1910年頃――映画が長篇化され始める直前の時期――の映画館の上映番組は、1巻ないし2巻の映画が6本から10本位 がセットになって、しかも喜劇・悲劇・風景・旅行映画などが混ぜ合わさって構成されていたのである。フランスでは「パテ・ジュルナル」が1908年から1909年にかけて組織的にニュース映画という形式を生み出し始めており、映画の新聞・雑誌化、あるいは言語化という新たな傾向が見られていたが、日本においては日露戦争時において戦争ルポルタージュが数多く上映された時でさえ、映像による組織的報道は実質的に不可能であり、戦争映画によって映画に対する関心を増大させた結果 は必ずしも、映画に対するフィクションの概念の発生には繋らなかった。第1次世界大戦の直前、すなわち大正3年(1914年)前半期に至ってもなお、この映画カタログ的な分類は支配的であり、映画に対する別 の見方、すなわちそれが真か偽か、フィクションかノンフィクションかという二項対立的な認識の仕方は支配的ではなかったようだ。長篇映画が上映されるようになり、映画の上映番組の構成も、呼びものとなるいわゆるフィーチャー映画と添えものとしての短篇映画の区別 が次第にはっきりしてくるこの時期ですら、かつては魔法幻燈のカタログの分類から借用した映画の類概念が、依然として風景映画や教育・産業映画を、歴史映画や文芸映画と質的な隔たりのないものとしていた。6 別の言い方をするなら、あらゆる映画は等質的に受容され続けていたということだ。

 例えば日露戦争の時代に、戦争の実写映画の不足がフェイク・ドキュメンタリーを生んだ。その中には実際の戦闘と見紛うばかりのフェイクが存在する一方で、明らかにミニチュア模型の海戦であることがわかるトリック映画もある。だが映画を受容するというレヴェルでの真偽はあまり重要ではなかった。それらはすべて等質的な映画表象であった。目の前に展開される戦争の映像が偽物であるとして観客が怒り出すのは、それが真正には見えない表象であるということに対する怒りによるものであって、決してフィクションに対するノンフィクションという概念に基づいているのではない。フランス製の日本劇映画を見た大正初期の映画観客が、それは真正さを欠いた日本劇であると判断するのと同様なのである。あるいはほぼ同時期にヨーロッパ製の西部劇映画を見たアメリカの観客が感ずる――我々日本人には普通 認識し得ない――真正さの欠如とも同じであろう。そこにはフィクション及びノンフィクションという二分法が識別 するのとは全く異なった真偽判断が存在するに違いない。だがいずれにせよ、日露戦争の実写 映画が不足すれば、ミニチュア模型の海戦フィルムですら、いわゆる<戦争物>として受容されることになる。それを見て怒り出すか否かは別 にして、それは新聞・雑誌で報道される戦況の図解として機能し、観客たちにとっては、この動く図解は――ミニチュア模型であろうと――ある種のリアリティーを持った情報となり、あるいは感情を高めてくれる情動的な対象となったのである。

 以上のように見てくると、ノンフィクション映画という概念は初期の映画には(あるいは/よって初期の映画観客・製作者には)存在せず、映画史のいくつかの段階を経ることで、いくつかの意味論的・番組構成的・受容的変化を経て、歴史的にのみ形成されたに違いないという事情が明らかになるのではないか。そして、いつノンフィクションの概念が定められたかという問いは、国によって異なるだろうし、単一の年代によって答えられるべき性質の問いでもないだろう。さらに製作者と観客とジャーナリズムの間にも、ノンフィクションに対する意識の差異があったに違いない。そしてとりわけ映画が言語化される(記号論的にではなく、歴史の、そして意識のレヴェルにおいて)とともに、言語とのアナロジーがフィクションやノンフィクションといった文学ジャンルを映画に適用させたことは十分に考えられよう。

 日本映画の観客にとっては、映画表象のフィクション/ノンフィクションの分離は、長い間ほとんど問題にならなかった。これはヨーロッパやアメリカの映画から見られた場合、プリミティヴィズムの温存以外の何ものでもなかった。もっとも初期の名高い例を挙げるなら、柴田常吉が撮影した「紅葉狩」は、それ以降の日本映画の型をほぼ決定したと言えるだろう。すなわち九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が出演したこの映画は、確かにこの二人の名優の演技の記録に違いないのだ。その意味では、舞台上の芝居を16ミリ・フィルムやテレビ・カメラで記録した後のドキュメンタリーと類似した意味的表象に相違ない。しかし「紅葉狩」そのものは歌舞伎のコンテクストにおいては明らかにフィクションである。ここには作られた物語を俳優が演ずるという、あの誰もが劇映画に対して持つ了解が存在している。背後にある描かれた背景幕や演技者のコスチューム及び身振りは、映画学の用語で言えばいわゆるダイエジェティックな機能を持つ。ここに揃っているあらゆるフィクションのための要素を認めながらもなお、「紅葉狩」に対象を記録したもの、実写 、踊られ演ぜられた事実・情報の記録、保存という、人が一般にノンフィクション映画に付与しがちな属性が厳然としてここに存在することも確かであろう。無論、我々の見地においては、そもそもフィクションとノンフィクションという対立する概念の発生自体が映画史の後の時期に起こるものであり、初期の映画の表象はこうした二分法を拒否する一種の絶対表象であるために、「紅葉狩」のこのような性質はそれほど驚くべき発見ではない。むしろ驚くべきは、この絶対表象が型となってその後の日本映画を支配し続けることである。実際、日本映画は多くの場合、旧劇も新派も、フィクションとノンフィクションの概念の発生を拒否する状態にあり続けた。もちろん明治40年代の新派活劇や大正初期の一部の連鎖劇にあるような伝統的演劇を継承しない映画など、西欧的な型に沿ったいくつかの例外は存在するが、それらは模倣として決してドミナントな型とはならなかった。日本映画が1910年代の後半になってもなお、知られた物語の動く図解として映画を機能させ、字幕は脚本構成上の場の表題としてのみ使用され、アメリカ的な映画のイリュージョニズムを極度にきらい、語られる物語を演じる俳優の類型的な演技と弁士たちの詳細なナレーションに依存したことは、展開される映画表象がフィクションとしてもノンフィクションとしても見做されないイリュージョニズムを排した絶対表象に留まり続けることが望まれていたからなのである。

 日本映画が1910年代に至るまでこのような特殊な状態にあり、よっていわゆるノンフィクション映画と見做される分野が――無くはなかったが――活性化されなかったのに対し、欧米では、量的には劇映画と同数かもしくはそれ以上に、1910年代になるとノンフィクションが概念として明確化され、数多くの非劇映画が撮影された。とりわけ第一次世界大戦はルポルタージュ映画を活性化させた。それにもかかわらず、ノンフィクションをフィクションから分離させるものを学問的に捉えることには困難がある。ノンフィクションのノンフィクション性を保証してくれるものが、結局は表象それ自体ではなく、分節された言語的な付加であるからだ。例えば上映される状況が、ある映画をノンフィクションにする。その状況には、その映画に与えられた題名や宣伝や新聞・雑誌による言及や人々の噂など様々な分節された言語が付加される。もしそこに表象それ自体も加わるとしたら、その表象は得体の知れないノンフィクション映画らしさを持つであろう。人間のイコノグラフィー、人物たちのカメラに向けられた視線、カメラのブレ、光の具合などが、そのような表象の記号となるはずである。しかしこれらの記号が完全にノンフィクション性を保証してはくれないことは、映画史が証明している。1910年代を通じて、欧米のいわゆるノンフィクション映画が技法的にフィクション映画と極めて類似してイリュージョニズムを形成していたことは、筆者自身最近のオランダ映画博物館におけるワークショップで確認したことである。この時期(1909年〜1918年頃)にノンフィクションが完全に映画において概念化され、ノンフィクション映画のノンフィクション性が形成されたのだとしたら、ハリウッドが古典的なハリウッド映画、すなわちイリュージョニズムに基づく古典的システムを形成しつつあった時期とそれはほぼ一致する。ところで皮肉なことにフィクションの信憑性を増大させるためのこのシステムは、その明らかな特徴によって、現在ではその人為性、人工性が顕著に認められる。それと同様のことが、それと対概念を持つノンフィクションについても言えないだろうか。ノンフィクションは、1910年代を通じてその明らかなノンフィクション性を形成したがゆえに、ノンフィクション性は現在では極めて特徴的な記号になっており、それが事実や現実からの乖離をしるしているのではないだろうか。

 


(注)

1. Paul Rotha, The Film Till Now (London: Jonathan Cape, 1930): pp. 65-66.

2. Michael Renov, "Toward a Poetics of Documentary," Theorizing Documentary, ed. Renov (New York: Routledge, 1993): pp. 25-35.

3. 小松弘「起源の映画」(1991年、青土社)。

4.「活動写真界」(明治43年7月号)21ページ。

5. 小松:前掲書及び次の論文も参照のこと。Hiroshi Komatsu, "Some Characteristics of Japanese Cinema before World War I," Reframing Japanese Cinema, ed. David Desser and Arthur Nolletti, Jr. (Bloomington: Indiana University Press, 1992): p. 238.

6.“キネマ・レコード・フィルム総覧 自大正3年1月上期・至同年5月下期”「キネマ・レコード」(大正3年7月号)を参照のこと。

 


小松弘


1956年生まれ。映画史家。東京芸術大学在学中、デンマーク政府給費留学生としてコペンハーゲン大学映画学研究所に留学。東京芸術大学大学院博士課程修了。著書に「起源の映画」(青土社)がある。現在、明治学院大学文学部、早稲田大学文学部、国学院大学文学部、埼玉 大学教養学部にて、映画史学、美学、ドイツ文化史などを教えている。