日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 16
黒木和雄
聞き手:安井喜雄
1. 植民地体験と被爆体験
安井喜雄(以下Y):私が黒木さんの名前を知ったのは、アートシアターギルド、略してATGの映画館が各地にあり、そこで『とべない沈黙』(1966)を見てからで、それまで黒木さんの名前は全然知らなかったんです。この映画でかなり衝撃を受けまして、その後ATGで『日本の悪霊』(1970)、『竜馬暗殺』(1974)、その次に『祭りの準備』(1975)、それから『原子力戦争』(1978)が出まして、このあたりまで、ATGの映画はほとんど見ているものですから、ATGの顔でもある重要な監督だと思っておりますので、なぜこういう映画を撮り始めたのかという前歴から現在に至るまでのあらましを今日はお聞きしたいなと思っております。以前に東京のアテネ・フランセ文化センター、大阪ではシネ・ヌーヴォ梅田というところで、回顧上映の「黒木和雄の全貌」というのがございまして、そこで劇映画に至るまでの短編映画などを見させていただいたんですが、短編映画を作るまでの、まず子どもの頃の思い出などをお聞きしたいと思います。話しによると満州育ちということらしいんですけども、日本から行かれたんですよね?
黒木和雄(以下K):僕は宮崎県のえびの市の出身なんですけど、生まれは三重県の松阪市なんですね。親父はえびの市出身で、おふくろは松阪市の出身なんですね。親父はドイツ系の電気会社に電気技師で就職していたんですが、あまり会社がうまくいかなくて、それでつてを頼って、満州の電気会社に就職しまして、私が小学校に入る前に満州に渡ったんですね。着いた日に、妹が日本家屋から長春(新京)の、今でいうマンションに移って慣れていなくて、妹が窓に乗っかって外を眺めているうちに開いて落ちて死んじゃったんです。そういうことがありまして、両親は相当ショックを受けまして、それは生涯トラウマになっていたような気がします。そのことがあってすぐ遼陽という町に転勤しました。小学校2年まで遼陽で育って、あとまた3年から新京に戻り、小学校は3つ転校したわけです。6年生の時、だんだん目が悪くなってきまして、眼鏡をかけるのが嫌でね。教室でかけるのが嫌なこともあったり、勉強や学校があまり好きじゃないものですから、だんだん不登校児になりましてね。朝、家を出ると、学校と反対側の繁華街の映画館の方に行っていました。確か日本映画館が8つあったんですね。それに通っていまして、ほとんど学校を行かずに、落第して当然だったのが、戦時下もあって、結局卒業させられましてね。ところがビリの方だったものですから、上級学校を受ける資格がないんです。両親が非常に困り、爺さん婆さんが、孫を手元に引き寄せて軍人にさせようということになって、急遽満州から僕だけが引揚げることになりました。
Y:その満州でご覧になったという映画に、かなり影響されているんじゃないかと思うんですが、どんな映画をご覧になったんでしょうか?
K:嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』や『右門捕物帖』とか、全然筋がわからないのに一番感動したのは、『暖流』(1939)。吉村公三郎の『暖流』に感動しましたね。なんかよくわかんないんだけど、とっても新鮮でモダンでしたね。日本というとこは、非常に文化的な国だなあと思って。チャンバラ映画、『綴方教室』(山本嘉次郎監督、1938)、『風の又三郎』(島耕二監督、1940)、『路傍の石』(田坂具隆監督、1938)、ドイツ映画で『民族の祭典』(レニ・リーフェンシュタール監督、1938)とかね。
Y:日本映画が一番面白かったような時期と重なっているかもしれませんね。
K:そうかもしれませんね。それで引揚げてきたら、今度は大きな壁がありまして、鹿児島弁が全然わからないんです。しかも成績は劣等だったものですから、中学受けたけれども、3、4人しか不合格がいなかったんですけど、その中に入りましてね。それで小学校の高等科に通ったんです。そこで言葉を、やっと鹿児島弁が少しわかるという感じになって、1年遅れで中学に入ったんです。それから勤労動員、軍事教練、学徒動員とでほとんど勉強しない。3年の時に工場に動員されて、その時グラマンっていうのにやられて被爆しましてね。10人くらいクラスメートが死んだんですね。この植民地体験と被爆体験っていうのが私の中では大きい。
Y:その10人と一緒にいらしたんですか?
K:そうなんです。突然、グラマンが、上から急降下して落としたんでしょう。それで一緒に歩いていた勉強家の連中は、日常茶飯なんで、空襲警報が出ても防空豪に本を読みながらブラブラ歩いて行くんです。僕は例によってあまり勉強してなかったものですから、早めにその爆弾を発見したんですね。カラスがね、3匹急降下してくるみたいな感じで。瞬間、本能的に伏せたんですけども。あとはもう、轟音と爆風と土砂が空から降ってくるみたいな感じで、阿鼻叫喚になりましてね。近くの一緒に歩いていた友人が、尻餅ついているのを、やっと起き上がって、助かったというふうに自覚したんですけど、その男の子の顔がみるみるうちに2つに割れましてね。こう眉間の上からスイカ割みたいに。脳漿が噴き出しているんですけど、空に向かって手を差し伸べているんです。とにかく恐怖感とショックで置いてきぼりにしてそのまま逃げ出したんですね。友人の中には、足を片一方無くなった奴を駆け寄って抱き起こして、病院に連れて行った連中がいる中で、一緒に歩いていた友人を見捨てて、逃げるみたいなことがありまして。それも僕の中の非常に大きなトラウマで、生涯それを引きずっているみたいな感じがします。植民地体験と、言語の壁の中で、五木寛之さんなんかがよく言う「デラシネ」って言いますかね、根無し草的な感じが常につきまとっていましたね。それで、ものすごいノイローゼになり、また休学して、2年遅れてしまって。それから、10人の級友のことを考えたりして、なんとなく転校したくなって…。3年生の時、都城の高校に。その時の文芸部の部長をしていた山口聖二先生が、たまたま同志社大学の哲学を出てて、親友が同志社で先生をしているから、そこに行けと言うんですね。早稲田にでも行こうと思っていたのですが。推薦した山口先生と僕を受け入れた大学の政治学の岡本清一先生の期待に沿わず、マルクス主義の方に転換しまして。ものを考えないっていうか、影響されやすいというか、それでほとんど学生運動に明け暮れまして。結局ほとんど学校出ませんから、当然卒業できませんよね。それで岡本先生にでっちあげの卒業見込とマキノ光雄への紹介文を書いてもらって、東映の助監督試験を受けたんです。
2. 映画世界に入ったきっかけと岩波時代
Y:そのときは映画を志しておられた?
K:いえ、全然。就職しようと思って考えたんですけど、どこに就職しても、とにかく続かないだろうと。映画監督が映画を作るっていうことも知らなかったですよ。(片岡)千恵蔵とか、(嵐)寛寿郎とか、スターが作っているものだと(笑)。ちょうど受けたら助監督の試験しかないんです。映画は、考えてみれば小学校時代から好きだったから、映画の世界に入れば、興味は失せないでその末端に居れるかな、という漠然たる感じがしまして。たまたま東映の募集が貼ってあったものですから、それで先生に頼んだら、同志社中学時代にマキノと同級だったんです。それで推薦書を書いてもらって、東京に行きました。冬の寒い時に、その試験に、4〜5人しか通らないのに、800人並んでいるんです。こりゃ全然駄目で、もう遊んでかえろうかなと思ったけど、まあとにかく受けるだけ受けないと、卒業見込のインチキ証明書まで書いてもらった先生に面目がないと。
Y:東映っていうのは、要するに満州から帰ってきた人が結構いらしたんですけど、そういう影響もあったんですか?
K:それは全然関係ないです。東映の(募集が)貼ってあって、東京と京都というんで、京都では非合法活動ばっかりしていましたから、留置所にも入っていましたし、もうとても京都じゃ暮らせないと思って、東京撮影所の希望で受けまして。800人も受けてほとんど通るはずもないと、全くなんの期待もしてなかったら、面接の通知が来たんですね。おそらく、マキノ光雄のコネで仮採用の補欠みたいな形で京都配属になったんですね。それで、とにかく京都は1日も居たくないものですから、そのまま逃げ出して東京にきちゃったんですね。
Y:それは東映を辞めてということですか?
K:ええ、もう補欠だし、雰因気がまるでやくざの集団みたいな感じでね(笑)。学生運動ともどこか似ているんで、京都からは早く逃げ出そうという感じがしまして。それで東京に行ったんですね。東大出の親戚に同級生だった大映の増村保造ともう1人新聞記者を辞めて、岩波映画っていうところに入った高村武次がいたんですね。それで、早速そっちに連絡してもらって、行ったんです。彼は佐久間ダムっていう現場に行っていまして、要するに短編の監督だったんです。
Y:あの有名な『佐久間ダム』三部作(1954-57)の高村武次さんですか?
K:ドキュメンタリーを見たことがなくて、吉野馨治(役員)に「何を作りたいの?」と質問されて、「劇映画をやりたい」と言うと、「うちは全然だめだ」と。劇映画は、後に羽仁進さんが作ることになったんですが、その時は「劇映画は全く関係ないから場違いだ」っていう話でした。でも、僕をちょっとは気に入ったんでしょうね。劇映画とは関係ないけども、カメラとフィルムがあれば映画は撮れると。少人数スタッフで短編の勉強をするのも、一見回り道だけど、面白いんじゃないかと。真意は、PR映画が非常に盛んになって、人がいなかったわけですね。無条件で身体強健で、学力を問わず、すぐ土方仕事ができる青年を探していたんですよ(笑)。
Y:その後、『ひとりの母の記録』(京極高英監督 1954)とか『東京ガス』(矢部正男監督 1954)、『フジフィルム』(矢部正男監督 1954)、『オール東芝』(各務洋一 1954)と助監督の経験をされて、話しによるとそこで伊勢長之助さんの編集にずっと立ち合って、色々な影響を受けられたんではないかということも言われていますね。
K:ですから、助監督という職業があって、監督がいて、映画ができるということを、初めて岩波映画に入って知ったんですね。スターが全く出てこない別の世界なんです。作業現場とか工場とか、そういう物しか撮っていない世界に放り込まれて、どうも居心地がずっと良くない。だけど当時は撮影所に入らないと劇映画は撮れないんじゃないかっていうことが、ほとんど決定的なことでしたから。短編の世界に入ったら生涯短編で、劇映画は撮れないっていうそんな雰囲気の中だったですね。4人くらいで監督と助監督とカメラマンとカメラ助手で、助監督が全部やるわけです。撮影照明の助手、それから編集、仕上げ、宿泊・弁当の手配や汽車の切符を買うことまで、全てやった。たぶん映画の基本的な仕組みが分かったんですね。これに俳優とか脚本とか色んなものが総合された時に、劇映画ができるっていうことが、即物的に分かってきて。そういう点は撮影所に入った助監督さんより、レンズとかカメラとかフィルムを手にすることが出来たし、身近な存在として映画の仕組みが、分かったっていいますかね。カメラワークが大事っていうことも分かったんですけど、短編、ドキュメンタリーの編集も大事だというのが分かってきた。伊勢長之助っていう人はその当時、羽仁(進)さんと羽田(澄子)さんたちを除いては、伊勢長之助が産業映画のほとんどを編集していたんですね。
現場であんまり優秀な助監督じゃなかったものですから、伊勢長之助の編集の助手でもさせて、一見地味な編集の勉強でもさせようと。当時、土本(典昭)と鈴木達夫と黒木の3人は永遠に1本になれないというのが、定評だったんですね。だから、編集部でも入れとけっていうことだったんでしょうけども、ただ、伊勢長之助というのは非常に魅力的な人で、バラバラのフィルムの断片が、彼の手にかかると魔法のように繋がって、一種の見事なフォルムになるっていうことを見て、彼の仕事を通して、演出とか脚本も大事だけど編集もすごく大事だな、と。
Y:その頃、どのような編集をやっていたんでしょう? 今みたいにスティーンベックはありましたか?
K:ムビオラでフィルムを全部繋いでいくんです。
Y:なんか話しによると、手でぶっ千切って、繋いでいったみたいなことを聞いたりもするんですけど。
K:急ぐ時はそうでしたね。縦横無尽にフィルムと戯れるというか、自在な感じでした。フィルムも伊勢長之助の手の中で踊っているみたいなね。ほとんど切っちゃうとあんまり余ったり、短くなったりしすぎないんですね。非常にオーソドックスな奇をてらわない形だったのが、却って僕にとっては良かったですね。非常に前衛的な繋ぎじゃなくて、非常にオーソドックスな、万民が分かる映画の文法に則ったものですね。
Y:そういう時の監督との力関係は、編集者が偉かったら監督があまり口出しできないとか?
K:ほとんどの監督はあって無きがごとくです。彼には監督に対する遠慮は全く無かったですね。一種の編集の神様扱いで、監督は伊勢さんには何も言えない。
Y:それでいよいよ1本目を撮られるわけですけど、これがPR映画の『東芝車輌(ELECTRIC ROLLING STOCK of Toshiba)』(1958)で、どういうふうに処女作は生れれたのでしょうか?
K:処女作というか、監督がちょうどいなかったんですね。僕は『海壁』(1959)まで助監督の身分で監督になってないんです。監督の間に合わせで撮らされたって言いますかね。普通は伊勢長之助ですが、例によってあまのじゃくで、何となく伊勢さんには手を触れさせたくないとう。まあ、大変な先輩で恩師なんですけど、自分で繋いだんです。だけど、結局『東芝車輌』は伊勢さんに遠く及ばない感じがしましたね。
Y:で、いよいよ有名な『海壁』という火力発電所の記録…。
K:有名かどうか知りませんけど、これも結局、助監督の身分のままだった。桑野茂という高名な戦前からの記録映画作家がいまして、彼が脚本書いていたんですが、やっぱり長丁場の仕事は4〜5本掛け持ちでやらないとギャラ的に折り合わないんですよね。で、3年かかるわけですから面倒くさかったんですね。3年間工事現場に張り付いて撮る奴はいないかっていうと、やっぱり臨時雇いのどうでもいいや、と思っている青年を見つけるということで、僕に白羽の矢が立ったんですね。結局、現場監督みたいなことでカメラマンとスタッフと行っていたんですね。鈴木達夫は助手でしたけどね。加藤(和三)さんがカメラマンなんですが、僕は『佐久間ダム』第二部の時、あまりにつまらない仕事なものですから逃げだした。そして京都中探して、スタッフが僕を連れ戻してくれたんです。その時に、「とにかく頑張って、劇映画を作れるように頑張れ」と、僕を慰めてくれたカメラマンだったこともあって、「じゃあ、やるか」ということで、やったんですね。
3. レネとゴダールとの衝撃的な出会い
Y:この頃、アラン・レネの『二十四時間の情事』(1959)とか、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)にえらい影響をされたという…。
K:この2本がもう決定的でしたね。日本映画では岡本喜八さんや中平康さんが非常に新鮮な感じがしていましたけど、決定的だったのが、『勝手にしやがれ』と『二十四時間の情事』。見終わった時、一番衝撃を受けたのは、「あっ、つまり俺もひょっとしたら劇映画を撮れるんじゃないか?」という。生涯、しがない短編かPR映画の演出家で終わると思っていたのが、ゴダールと出会って、「誰にでも映画は撮れるじゃない」ということを啓示された気がした、ええ、ええ。
Y:その頃、60年の安保の頃ですね、なんか国会議事堂へ行ったっていう話しも聞いたんですけど(笑)。
K:長靴とヘルメットを被ったまま、撮影車に乗って、撮影現場に行かないで、そのまま国会議事堂に(笑)。レネを見た時はやっぱり、さらにショックでしたね。松本俊夫風に言えば、「映画っていうのは外的現実だけでなく、内的現実も描けるんだな」と。ゴダールとレネで、「あっ、これはもう、いつでも岩波を辞めて、劇映画に自分を備えることができるな」と。
Y:その次にミュージカルを撮られるんですよね?『恋の羊が海いっぱい』(1961)。その時に外国から誘いがあったというようなことを聞いたんですけど。
K:『恋の羊が海いっぱい』と、岩波辞めた後、僕が路頭に迷っているものですから松川八洲雄さんの頼みで、『日本10ドル旅行』(1962)という英語だけの、ヤンキーの若い娘が東京から東海道をずっと旅するという、ちょっとミュージカル風なやつと、『恋の羊が海いっぱい』という寺山修司が付けたタイトルなんですけど、その2本作りましたら、2本とも劇場公開になったんですね。それをどこで見たんだか知らないですけど、ショウ・ブラザーズのおっちゃんが、香港かどっかで見たらしくって、「いま東京のホテルにいるんだけど、至急会いたい」という電話が来まして、会いに行きまして、香港で3年くらいミュージカル撮らないかと。ちゃんと生活は保証するし、英語の勉強もさせるし、やらないかという話しだったんですが、チビの変なおっちゃんで、胡散臭い感じで、なんかよくわからない。みんなも用心したほうがいい、っていう感じで。2回チャンスを、その後も失うんですけど、この時も断わったんです。その後、日本人が行き出したらしいんですけど、井上梅次さんとか。
Y:その後は、小川紳介さんがよく言っていた『わが愛北海道』(1962)。PR映画としては、ちょっと異色な映画だったと思うんですが。
K:北海道を1年間撮って、北海道電力と北海道の明るい将来を非常に前向きに肯定的に描いてほしいというのが、注文なわけですね。もう、ゴダールともレネとも出会っていますから、その四季折々の観光地や工場の将来性なんか謳うっていうのはちょっとしんどくて、劇映画仕立てにしよう、ということにしたんですね。大学を卒業した新入社員が就職して、旅をしているうちに、小樽の長靴を作る工場の女子労働者に一目惚れをするという話しにしまして、まあ片思いに終わるんですが、彼の口を借りて、北海道をいくらでも賛美できるんですね。それは仮そめの言葉で、結局、北海道の大地と自然、人々の魂には触れぬままに終わったという形にしたんです。清水邦夫さんのナレーションは良かったし、カメラの清水一彦、助監督の東陽一、小川紳介たちと楽しいロケ現場でした。トップシーンは、それこそあのレネの真似をしまして、全裸で鰊御殿で抱き合っているシーンを延々と撮りましてね。そしたらラッシュを見た重役その他が激昂しまして、即座に全面カットされたわけですね。それで大幅にカットされた中で、かろうじてOKフィルムを繋いだのが今の『わが愛北海道』なんです。(笑)そんなNG作品です。
4.『マラソンランナー』事件と『とべない沈黙』
Y:岩波時代に7本で、フリーになってから28本もリストアップされるんですけれども、例えばこの『あるマラソンランナーの記録』(1964)、これも当時の映画雑誌なんかを読みますと、色々物議を醸した作品らしいんですが。
K:松川(八洲雄)さんの『日本10ドル旅行』を撮った後に、『佐久間ダム』の時出会ったカメラマンの加藤さんが、東京シネマという所で仕事をされていまして、「来ないか?」ということで、東京シネマにスカウトされたんです。岡田桑三さんが社長で、岩崎昶さんとか、小林米作、吉見泰さん、錚々たる短編界の人達がいて、岡田桑三以外はおそらく共産党員で、組合もほとんど党員だったんではないでしょうか。そこで最初、『海壁』なんかが評価されたんでしょうけど、東洋レーヨンの世界1周するPR映画を撮らせようってことで。
Y:それは『太陽の糸』(1963)?
K:『太陽の糸』と、全工場の製品、生産の状況を撮るっていうやつを。これは非常に無難にまとめて、納品しましたからね。東京シネマは割合安心したんでしょう。その富士フイルムの創立記念でオリンピックで富士フイルムが多く使われるような意図で、オリンピックを賛歌する映画を作ってほしいという注文がきたんです。40数種目全部入れてほしい、という条件があったんですよ。スポーツは本当に生来苦手なんで、あんまりやりたくなかったんですけど、何となく考えているうちに、単純に足を前後左右に振って走るだけのマラソンだったら少し描けるんじゃないかと。太宰治の『走れメロス』に感銘を受けたこともあったりして、「よし、“走れメロス”だ」と。でもマラソンだけに絞っては、映画にならないと猛然たる反対で。まあ乗ってないもんですから、適任者を演出家に選べばと言いましたら、マラソンランナーに絞っていいんじゃないかとスポンサーの方がOKしたんです。ただし、僕はマラソンランナーは、円谷幸吉以外は知らないんですが、円谷は暗くて好きじゃなくて。で、海外遠征していた連中が帰ってくるっていうんで、羽田空港で待っていたんですね。僕の好きだった市川雷蔵にそっくりの、僕の主観ですが、ひとりいるんですね。「あっ、彼にしよう」と。もう顔とスタイルだけで決めたのが、君原健二だったんです。彼に絞って、撮り始めたんですが、撮り始めて3日目ぐらいに、当分、回復見込みなしみたいな感じで足の故障でダウンしちゃったんですね。会社は欣喜雀躍して、引き揚げ命令をだし、「多種目を撮れ」という命令と、旅館代とかフィルム代をストップしたんです。そこでスタッフを集めて、協議して、断固篭城しようということで、北九州に粘りまして、撮り続けたんです。助監督の泉田昌慶君は、全国のPR映画とか岩波映画とかをやっている連中に、電話か電報か手紙を送りまして、フィルムをくすねて送れ、っていう訳でどんどん全国からフィルムが送られてきまして、35mmカラーのイーストマンでしたけど。
Y:富士フイルムのPR映画でイーストマン使ったら駄目じゃない(笑)!
K:(笑)イーストマンで撮ったんです。富士フイルムもイーストマンで撮ってくれって言うの、富士フイルムが自社の製品を一番知っていますから、当時は。撮り続けていましたら、(君原健二が)奇跡的に回復しまして、会社も匙を投げたんですね。しょうがないってことで、またフィルムとロケ費を送ってくれるようになりまして。これからが、大変なんです。『青年』というタイトルだったんですが、ラッシュを見まして、字幕だけで一切ナレーションなしだったんです。会社全体が、とにかく監督チェンジだと。それで、ナレーション入れて、タイトルも別のタイトルにしてくれって言うんで、『ひとりの母の記録』は京極(高英)さんの時、私が作ったタイトルなんですが、「母の記録」をもじって『あるマラソンランナーの記録』と。タイトルは一応向こうがのんだものですから。結局、妥協点としては、ナレーションを最小限度入れるということと、頭に何十秒か富士フイルムのコマーシャルを入れるということで、歩み寄りました。ダビングが始まったんですが、製作部長っていうのが、とにかく暴力的なんですね。柔道何段の奴で、ダビング中、僕の後ろに居ては壁を蹴るんですよ(笑)。ちょっとでもナレーションが減ったりなんかすると恐喝するんですよ。そういうので、30、40時間、監視付きで一睡もしないで。何かちょっと、変わったことやるとすぐストップされて、会社側の首脳部が話し合うんですね。このときに、永久に、2度と短編の仕事は無いなとそのときに感じましたけど。ダビングが終わって、早朝だったですが、出たら「青の会」の連中がみんな拍手して迎えるという(笑)、感じだったですね。その代わり、タイトルは永久に入れさせないと。だから未だ、『あるマラソンランナーの記録』にはスタッフタイトルが一切ありません。
Y:なるほど。そこから、劇映画の方へだんだんと行かれますよね?
K:それで、皮肉なことに、日活で全国上映がすぐ決まったんですね。それと、仲間たちが「マラソンランナーの事件」という本を出したり、集会をやってもらったりで、何かちょっと政治的な問題になって。共産党からも呼び出されまして、「反革命的だ」と。つまり東京シネマは革命のための資金を蓄積するために、「革命的に」PR映画を作っている会社であると。君はその中で、その反革命的な行為をしていると。つまり、ちゃんと富士フイルムの言うとおり、多種目の、スポンサーが喜ぶ映画を作ることが革命的な任務であると。それを監督の恣意的な、個性的な作り方は許されないと。僕は党員じゃないのに、これは完全な作品侵害で言論の自由の弾圧だと反論した。そこは、むかし非合法活動をしていたものですから、そういうやり合いはこっちも平気なんですね。で、共産党も動かなくなってしまって。組合にも直訴したんですが、組合決定が首脳部と同じですから。まあ結局、それ以来一切仕事が無くなったんですよね。毎日どうしようもなくて、新宿でツケで飲んだり、喫茶店でたむろしていました。松川八洲雄君が、非常に心配をしてくれて。当時『砂の女』(勅使河原宏監督、1964)が大分当ったんですね。それで東宝が経営危機の中で松川君に2本目の、素人に劇映画を作らすと当るかもしれないっていう…。それが『とべない沈黙』のそもそもの発足だったんですね。この松川君が、幸か不幸か劇映画は全く嫌いなんですよ。「黒木君、ちょっとこれをやってくれないか?」っていうことで持ってきたのが、「ひとりぼっちの蝶々」っていうタイトルの短編シナリオなんですね。「あなたこれで劇映画作るつもりなの?」って言うと、いや、劇映画作りたくないと。それで、東宝の子会社の日映新社に堀場伸世というプロデューサーがいて、そこから話しが来たんで、「僕は君を推薦するから何とか僕になり代わってくれ」、という話しで。本当に棚からぼた餅って言うか、大変僥倖な話しだったんですけどね。彼は劇映画を一生涯撮らないって言うんですね。変わった人でね、せっかくのチャンスを全部僕に振っちゃったんですね。その恩義は今でも感じています。それで、「ひとりぼっちの蝶々」を全面的に膨らませてですね、今の『とべない沈黙』の形にでっちあげたんですよ。引き伸ばして、水増しして(笑)。『とべない沈黙』という名前は、ロルカの詩の中にある言葉なんですね。
Y:これは元々、ATG向けに作られたんではないんですよね?
K:ええ、東宝の全国公開。それで封切日が決まっていまして、全国の映画館にポスター、チラシが全部撒かれて。それで封切る数日前に重役全員が見たんです。で、即座にオクラ入りです!これは「きちがい映画だ」、「映画じゃない」と。全国公開が一気にポスターが外されまして、別の映画に急遽なりました。
Y:これまで見ていた劇映画とはかなり作り方が違うというので、みな驚いたと思うんですけど、そこらの変革するというか、新たなことはどういうふうに発想されたんでしょうか?
K:要するに、レネとゴダールの影響下に依然としてありましたから、とにかく存在しないものが存在するって言うか、松本俊夫君みたいになりますけど、そういう映画を作ってみようかなということで、蝶々を設定しましてね。狂った天皇主義からマッカーサー主義って言うか、戦後民主主義に変わった思いを、やっぱり蝶々に当てはめましてね。戦中から戦後の昭和ひと桁の怨念みたいなものを、塗り込めたつもりなんですけどね。必ず第9条は将来変わって、世界でも有数の軍事国家になって再び戦争をするだろう、という「予感」を映像化したのが『とべない沈黙』です。
1930年三重県松阪市生まれ。1954年より岩波映画製作所演出部で助監督を務め、1957年監督デビュー、『わが愛北海道』(1993年本映画祭で上映)などを発表し、1962年にフリーに。ドキュメンタリーだけでなく劇映画も手掛けるようになり、1970年代のATGを代表する監督のひとりとして『竜馬暗殺』(1974)、『祭りの準備』(1975)などで高い評価を受ける。1990年『浪人街』を発表後、映画監督山中貞雄(『人情紙風船』など)の伝記映画に取り組むも実現せず、2000年に10年ぶりの新作『スリ』が絶賛を浴びる。新作『美しい夏・キリシマ』を準備中。
監督フィルモグラフィ
1958 『東芝車輌(ELECTRIC ROLLING STOCK of Toshiba)』 [戻る] |