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[山形国際ドキュメンタリー映画祭2003]関連特集
舞台の裏側
――中国、台湾、香港のドキュメンタリー

マギー・リー


 デジタルビデオ技術が広まり、世界中でドキュメンタリー製作のルールが変わった。中国、台湾、香港も例外ではない。より安価で軽く、コンパクトになった撮影機材は、ドキュメンタリー製作の壁を低くし、フィルムでは考えられないような撮影対象と相対する関係をビデオ製作者が築くことを可能にした。しかし中国、台湾と香港のドキュメンタリー製作者が経験する制限やチャンスは個々に違ってくる。それぞれの国の政治的状況、そして資金調達や配給方法と密接に関係するからだ。

中国――海外へ支援を求めて

 それを的確に現しているのは、YIDFF 2003「インターナショナル・コンペティション」で、ロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)を受賞した9時間余の大作『鉄西区』(2003)の監督、王兵(ワン・ビン)だ。彼は生活を自力でまかないつつ2年もの間、中国の東北にある瀋陽の重工業地帯で、そこの人々と寝食を共にしながら記録を撮った。借りてきたパナソニック製デジタルビデオカメラが生命線である。

 しかし、作品の完成費用や上映される機会は海外頼みである。最初に作られた300分バージョンは、2002年ベルリン国際映画祭フォーラム部門でプレミア上映され、その後ロッテルダム映画祭のフーベルト・バルズ・ファンド助成によって編集機材を購入し再編集して完成させた。以来、フランスの投資家たちの援助を受けて次回作となる長編劇映画を製作する予定。王のようなインディペンデント・ドキュメンタリストたちは、国内の公式配給ルート網から抜け落ち、大学内での上映会、アンダーグラウンド・バーや、友達関係などを主に頼って上映している。『鉄西区』は世界で10以上もの映画祭から招待されているが、それでも国内テレビ、ましてや国営テレビ局の中央電視台(CCTV)で放送できるとは王自身思っていない。

 公的な資金援助や配給チャンスが中国に無いのは、その政治風土と密接に関係している。『鉄西区』の扱う主題はいろいろな意味で微妙な題材を孕んでいる――労働者に生活もままならない額をあてがう工場側、土地開発を理由に区域一帯の立ち退きを命じる者まで、中国の国家事業の構造内部にはびこる汚職や管理ミスをあらわにする。主人公たちは王の小型カメラの前でメタファーとして、また文字どおり丸裸になり、王はかなり親密な関係を得る。――シャワーを出たり入ったり、療養中にアダルトビデオを見たりするシーンは、どれひとつとして検閲を逃れられないはずだ。しかし公共テレビ製作者たちや役人の一層の不快を買うのは、鉛中毒や事故予防措置がなされない状況の苦情が公にされ、中国が国際安全基準からは程遠いことを証明しているからである。

 YIDFF 2003でFIPRESCI(国際批評家連盟)賞を受賞した『350元の子』(2001)の監督、李林(リー・リン)もまた、麻薬中毒の少年少女の衝撃的な暴露という主題があまりに論議を呼ぶため、国内に資金援助や配給の道はないと思っている。子どもたちが麻薬を打つ動揺を呼ぶシーンや、李が直接的に描く四川省都・成都の酷い犯罪社会は政府検閲には過激すぎるのだ。李によると、警察と闇社会が共謀して路上の子どもたちを虐待、利用している事実を自分が暴き、双方の逆鱗に触れたため撮影中に自らの命も危険にさらされていた。「地元のボスたちは私のすべての行動を把握していました。最終的には、成都を出ろ、と脅迫されたのです。」王兵と同様に、彼女はこの長編デビュー作をウィーン、ミュンヘン、釜山、アムステルダムのシャドウ・ドキュメンタリー映画祭やクレテイユ国際女性映画祭などの国際映画祭に出品している。

 李は中国国内の学校や地域に密着した施設等の非公式な場での上映を企画し、非公式ルートからでも作品が社会的影響を与えられると信じている。「国レベルでの社会意識を喚起したいから、中国の一般人に見て欲しいのです。完成から1年後、陳麗(チェン・リー、主人公のひとり)に会いました。彼女はHIVに感染していました。麻薬仲間の胡健(フー・ジェン) と田波(ティエン・ポー)が血液検査をしに保健所へ行ったら、看護士が血液採取を拒み、自分たちで注射針を入れるように言ったのです。我々が抱える社会問題に人々を直視させることで、このような無知や不寛容に私は立ち向かいたいのです。」と、李は話している。

 政治的にデリケートな内容か否かは別にしてもインディペンデント・ドキュメンタリーが中国国内の映画祭で上映されることは難しい。まだ新しい映画祭ばかりであると同時に、ドキュメンタリーは社会一般、そして映画祭の観客にとってさえも関心が薄い領域である。例外は、雲南省博物館が開催した第1回雲之南人類学映像展のドキュメンタリー(専門の)プログラムだ。YIDFF 2003「アジア千波万波」で小川紳介賞を受賞した『一緒の時』(2002)の監督、沙青(シャー・チン)はこの映画祭に参加した。しかし少数民族についての民俗学的でエキゾチックなテレビ番組が多く占めるこの映画祭のプログラムの中で、彼の控えめな映像スタイルや、脳性マヒの息子を抱える貧しい田舎の家族の親密な描き方はいささか場違いな感じもする。

台湾――パーソナルとポリティカルの発見

 1989年の李登輝総統就任によって進展した民主化と、社会の時事問題への関心、歴史の集団的記憶の保持を喚起した天安門事件の強烈な衝撃に特徴づけられ、中国とは全く違う政治的背景が台湾のドキュメンタリストにはある。多くの人が街頭に現れた社会運動を撮影しようとグループを形成し、かつて “アンダーグラウンド”と見なされていたデジタルビデオ撮影の低予算ドキュメンタリー作品は、露店から作品が売られるということになった。台湾全土には映画祭やカルチャー・センター、読書クラブなどでの通常の上映機会も数多く存在するようになった。加えて、1980年後半以降の台湾商業映画業界の低迷は、新参者はもちろんのこと、映像製作に経験豊かな監督や製作スタッフたちの流入をドキュメンタリーの世界に招いた。毎年、およそ200〜300人の学生が大学のドキュメンタリー・コースに入る。国家文化芸術基金会、行政院文化建設委員会、行政院新聞局、台北市文化局などからの公的助成や、公共テレビに作品を売るチャンスもある。ドキュメンタリストたちにとって道はまだまだ険しいが、これらの要因によって未だかつて無いほどにドキュメンタリーが広まり身近なメディアになったのだ。

 台湾の第一波ドキュメンタリストを代表する、呉乙峰(ウー・イフォン)は小川紳介や原一男の影響を受け、このメディアを社会改善や弱者代弁の手段ととらえている。台湾の公共メディア運動の先駆者である呉は、行政院文化建設委員会を通じてドキュメンタリー製作のトレーニング・ワークショップを運営している。YIDFF 2003「インターナショナル・コンペティション」の優秀賞を受賞した 『生命(いのち)』(2003)は、1999年9月21日の台湾大地震を経験した人々の心の傷跡を追う。そこに全身全霊をそそぐ呉は、他の仕事すべてを中断して3年間無収入で、主人公たちと緊密な関係を築いた。生きることもままならない10代の少女から、若いワーキング・クラスの夫婦まで様々だ。全景の他のメンバーもそれぞれにテーマを見つけ撮影、現在ポストプロダクション中である。

 対照的に、新世代のドキュメンタリー製作者は撮影対象に同情よりも共感を持って、時には友のように接し、大きな社会問題を重視していない。特に1990年代からは、より個人主義的で、時に周囲の環境に対して感情的に呼応しながら、故郷、家族そして個人精神史というテーマを中心にすえてきている。『雑菜記』(2003、YIDFF 2003「アジア千波万波」奨励賞)を監督した映画専攻の許慧如(シュウ・ホイルー)は、このカテゴリーに入る。彼女はこの2作目の作品について“生活風景のようなもの”と説明し、完全なる主観と親密な視点で、言葉を交わさない彼女と父の関係を記録する。

 同じく上映された『指月記』(2002)の監督、黄庭輔(ホァン・ティンフー)も同様の心情を表し、こう観察する。台湾のドキュメンタリストの「自国への眼差しは、さほど意欲的でなく、自分たちの小世界に留まりがちです。そのため製作者は、撮影対象者と同レベルに立つ傾向があるのです。」中国のドキュメンタリーとの比較では黄は「中国のインディペンデント・ドキュメンタリー製作者は、人権や政治的問題に対してより深い知的側面からの懸念を抱いています。違う政治制度下、彼らは論理的な推論をする歴史背景があります。彼らは中国の良心であると同時に、知的エリート出身というのは時として、撮影対象者を高いところから見下ろすことにもなります。」

 また黄は、ドキュメンタリー製作者と撮影対象の関係に人々の法的権利意識が影響すると考えている。中国ではプライバシーの権利意識がほとんど無いために、完成作品が何か知らなくても人々はカメラの前に身をさらけ出す。比べて台湾人は、法的権利について自覚的すぎるくらいである。「彼らは私利私欲の達成のためにメディアが操作される様を目にしてきました。同時に自分たちの権利は防護しているため、利用されることは恐れていないのです。どちらかと言えば、製作者の意図を予測して、カメラの前では自ら監督するほどまでに“演じる”こともあります。」より自然で意識的ではない反応をカメラに収めるため、黄はロング・ショットを多用し、『指月記』の龍山寺の撮影には隠し撮りもした。

香港――悪戦苦闘するジャンル

 台湾同様、香港も公的助成のルートはある。1995年に香港政府が設立した、HKADC(香港芸術発展局)から助成を受けたひとりが林健雄(ラム・キンホン)だ。YIDFF 2003「アジア千波万波」で上映された『円のカド』(2002)は、カリフォルニア芸術学院フィルム・ビデオ修士の課題であった。学院から機材を借りることは容易であったが、資金を調達するのは困難であった。「授業料と生活費だけで大変でした。」と、林は話す。彼は銀行ローンや、HKADCの助成を得て資金をかき集めた。撮影も半分を終えた頃、林の師であるベレニス・レノー教授の助力で得たコダックのスポンサーによって、すべての撮影を完了した。

 しかし、香港の劇映画、ドキュメンタリー双方の製作者たちにとって、HKADCから助成金を得るのは年々難しくなっている。2000年以降、助成金申請の締め切りは年4回から、年2回に減った。審査期間が長くなることは、その結果起こりうる多くの要素(テーマや事件の時事性、撮影許可がとれた対象者たちが考えを変える、あるいはいなくなってしまうなど)を考慮していないために、特にドキュメンタリーにとっては障害となる。

 上映場所や配給ルートで香港は台湾よりも遅れている。最大の場所はインディペンデント短編映画・ビデオ賞(IFVA)という毎年行われるコンペティションと香港映画祭内の数少ない上映枠である。香港アートセンターでは香港ドキュメンタリーを通年上映している。香港の4つの主要テレビ局で放送されることはほとんど無いが(自社制作の時事番組なら放送する)、時々、アート系映画館(単館)でドキュメンタリーが数日上映されることもある。

 しかし昨年、新たな上映基盤も登場した――ブロードバンド・インターネットテレビ(now.com)だ。さらに、インディペンデント・フィルムメーカーたちは、もうひとつ期待の配給ルートに目を向けている。中国のDVD市場である。中国社会には海外や香港で起きているすべてのことへの強い関心があり、香港のドキュメンタリーは商業マーケットでは(時として海賊市場でも)マイナーでオルタナティヴすぎると見なされる当地香港よりも人気が出ている。中国での配給権を買いきって、あるいはDVDの売れた枚数につき歩合を得ることができるなど、香港と中国双方のDVD配給会社に働きかけ始めた者もいる。

 1997年のイギリス植民地・香港の中国への返還以来、アイデンティティ・クライシスやルーツ探しは商業映画やアート系映画、劇映画やノンフィクションを通じて主要なテーマとなった。しかし何年もの間、長編ドキュメンタリーは、平均して年1本程度しか製作されず、メディアの関心や社会の反応は、あまり得られていない。ドキュメンタリーとは教育的あるいは情報メディアであり、テレビで無料で見るものだと、香港では一般的に認識されているからだ。事実、映画館にドキュメンタリーを見に多くの人が足を運んだのは、閉ざされた中国への唯一の窓として、政府お墨つきの異国情緒あふれる軽妙な映画が製作されていた1970年代のみであった。

 「ここでのドキュメンタリーの発展に私は落胆しています。」と、アメリカで映画を学ぶ以前はフォト・ジャーナリストだった林健雄が話す。「1997年以前、香港の人々は歴史的観点を持たなかったため、ドキュメンタリー製作の伝統もありませんでした。香港が返還されて、安価なデジタルビデオカメラや機器が普及してきた状況で、若い世代は歴史を撮るべきです。香港では天安門事件(6月4日)追悼デモ以降、最大となった7月1日のデモなど歴史を揺るがすような事件が起きる中、“香港の人々は何に反対しているのか? なぜデモするのか? なぜデモしないのか?”等の問いを発するべきです。しかし、ごく少数の人しか発していない。」

 政府系ラジオ・テレビ局RTHK(香港電台)の局内制作を除くと香港で製作されるドキュメンタリーは、学生製作の短編が多い。YIDFF 2003「アジア千波万波」で最年少22才、林智恒(ラム・チーハン)の作品『ホームシック』(2003)は、香港理工大学デジタルビデオ製作上級コースの課題として製作した24分の彼の住む地域とSARSについてのビデオ・ダイアリーである。彼には映像製作者になるという意欲はない――「製作は楽しかったし、山形で多くの映像製作者たちと出会えてたくさんのことを学んだけれど、夢は漫画家です。」


 結論としていえるのは、中国の製作者にとって最大のチャレンジは、言論の自由と製作コスト(時として、最低限の生活コストさえも)である。しかし、海外で最も注目され、海外投資家たちの支援を受けるチャンスも多い。また国内の観客向けに上映する非公式の場が最も豊富である。台湾はドキュメンタリー製作で最も長い伝統があり、インディペンデント・フィルムメーカーたちはより多くの公的支援を受け、作品の理解も得やすい。中国作品が草の根のマジョリティーの苦境を映しだすのに対して、台湾のフィルムメーカーたちはミドルクラスで、内向的、センセーショナルではない傾向がある。だからなのか、これらの作品は海外に出品されても、話題を集めることは少ない。中国に比べて香港には、公的支援が多くあるが限定的である。言論の自由が大きいにも関わらず、香港のドキュメンタリーは方向が定まらずに模索している状態だ。問題はドキュメンタリーの製作、鑑賞、議論への全般的な無関心ではないだろうか。これらの相違は、資金調達、配給方法、そしてそれぞれの政治、歴史的状況の差と密接に対応している。

――翻訳:若井真木子

 


マギー・リー Maggie Lee

映画に関するライター、編集者、翻訳・通訳者。2001−2004年まで香港国際映画祭のカタログ編集に携わる。2004年5月より日本で開催されるショートショートフィルムフェスティバルアジアの企画・準備に着手する。

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