ホワット・アバウト・チャイナ?
What About China?- アメリカ、中国/2022/英語/カラー/DCP/135分
監督、脚本、撮影、編集:トリン・T・ミンハ
音楽:ウー・ウェイ
ナレーション:シャオルー・グオ、シャオ・ユエ・シャン、イー・ジョン、トリン・T・ミンハ
歌:ツァオ・シーユン、リズ・リィウ、ミン・ボー、チン・ウー
詠唱:ホァン・チョン
スチル写真、製作:ジャン=ポール・ブルディ
提供:Moongift Films
中国南東部で1993、94年に撮影されたHi8ビデオ映像が、30年後の今日、作家自らの手で新たに組み直された。客家の伝統的な円形集合住宅をイメージの中心に置き、さらに古代の詩や歌謡、水墨画、そして自叙伝や詩、哲学的考察を語る複数の「私」の声が重ねられる。その映像と音響の独特なモンタージュが、中国という国とその社会的変容についての豊かな連想を誘う。農村部の急激な都市化、生活のデジタル化、そしてパンデミックが襲った現代の中国社会。「調和」の概念をキーワードに、その過去と現在、未来を考察する。(HA)
【監督のことば】表象の政治や倫理においては、(ただ「ある話題について」というよりもむしろ)その近くで語るという困難な課題が、映画が作られるたびに新たに息を吹き返す。パッケージ化された専門知識という既製のものを拒むことは、撮影や執筆や研究調査をする上で生じる、有限ななかで無限なるものが持つ関係に対してつねに風通しをよくしておくことである。知らないというモードで動く時、人は思いがけない仕方で物事が自身のもとに訪れても変わらずそれを風通しよく認めるものなのだ。例えば、耳と目と声は互いに決して重複することがない。それぞれが対位旋律となり、シンコペーションとなり、オフビートとなり、ポリリズムとなって相互作用する。形式が作られ解体される基盤としてのリズムが、社会的な関係性と感覚同士の関係性のいずれをも決定づけるのである。「聞く」と「見る」の戯れは聞く目と見る耳をたえず呼び込むのであり、複数の声はその多感覚にまたがる身体的多様性において親密に体験されうる。
使われる映像の大半が中国文明の遠い起源と共通の伝承でつながる同国東南部の村々で1993〜94年に撮影されたものである『ホワット・アバウト・チャイナ?』は、中国における調和の概念を創造的な表れの場として取り上げる。
この映画において調和とは、音楽が現実を根本から限定づけるその仕方や、空間が日常生活を組織立てるその在りようばかりでなく、社会的に公正な世界の持つ「円さ」を守ってゆく継続的プロセスにおける動的作用因にも関わるものである。中国伝統建築の至宝への旅にいざないつつ自他の後背地をその邂逅において探索する本作は、国の都市化大躍進政策の一環として辺境地域を「調和させる」プロセスを問題にする。「正確には何が消えてゆこうとしているのか、またそれはどのようにしてか」と問うことで、映画は観る者をさらなる関与に引き込もうとするのである。
ヴェトナム生まれの映画作家、著述家、作曲家。主な長編映画作品として『ルアッサンブラージュ』(1982)、『姓はヴェト、名はナム』(1989)、『愛のお話』(1995)、『四次元』(2001)、『夜のうつろい』(2004)などがある。書き手としては『女性・ネイティヴ・他者 ポストコロニアリズムとフェミニズム』(1989)、『月が赤く満ちる時 ジェンダー・表象・文化の政治学』(1991)、『Cinema Interval』(1999)、『ここのなかの何処かへ 移住・難民・境界的出来事』(2010)、『Lovecidal: Walking with the Disappeared』(2016)、『Traveling in the Dark』(2023、著書の年号はいずれも原著の刊行年)など、これまでに12冊の著書を出版している。YIDFF '91インターナショナル・コンペティションでは審査員を務めた。現在、カリフォルニア大学バークレー校大学院特別教授。