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抵抗の映画

インド・ドキュメンタリー映画の最近の傾向

マンジュナス・ペンダクール


インドにおけるドキュメンタリー映画製作はつい最近までほとんど政府の独占状態にあり、そうした公共組織の外で作られた映画をみることができるようになったのはここ20年ほどのことである。中央政府の映画庁は1948年に、政府の諸官庁でプロパガンダや情報化政策が必要となってきたことに応えて設立された。映画省では年間160本の映画が製作されるが、そのうち3分の1がドキュメンタリー、他が短編とアニメーション映画で、このため世界最大級のドキュメンタリー映画製作機関と言われている。このうち外部からフリーランスの立場で参加する人間が製作する映画は10パーセントに過ぎない。ここからは毎週ドキュメンタリー映画1本とニュース映画1本の上映プリントが700本ほど、全国の約1万の映画館に発送されている。劇場主のほうではこの見返りに興行の1パーセントを支払うことが法律で義務づけられている1。他にも各々の州政府の情報省庁からの資金を受けて、各地方の映画館か、あるいは中心部の特別 上映で配給・上映されているドキュメンタリー映画作品もある。この製作・配給システムは極度に官僚的なものになっており、そのなかで創造的な表現や革新的なものに出会えることは非常に稀だ。実際、映画省製作のドキュメンタリー映画については、お目当ての劇映画が始まるまでのあいだ劇場の外で待っているというのが、観客のごく一般 的な反応である。そこでこの記事では、この製作・配給のシステムから外れたところにあり、それ故にインディペンデント・ドキュメンタリー映画と呼ばれる作品に光を当てることにしたい。このインディペンデント映画運動は全国規模の政治的動きに端を発しており、インド社会のさまざまな大変動に対して、実に興味深い方法で反応を示し続けている。

  独立以後のインドの政治的歴史の分水嶺となった事件に、1975年、当時の首相インディラ・ガンジーの行った「国家非常事態」宣言がある。これが実効を持っていたのは2年間の暗い歳月の間だったが、いまだに消えないその傷痕はインドの国全体の心理に暗い陰を落としている。憲法で保証されていた市民と個人の権利は否定され、何千何万もの無実の市民が、裁判にかけられることもなく国家の安全に対する脅威という名目で獄舎につながれた2。なかには「警官との衝突」と呼ばれる事態のなかで命を奪われたものも少なくない。アナンド・パトワルダンという名の若い学生が、この非常事態に先立つ大規模な学生の抗議運動と市民の抵抗の姿を捉えた『革命の波』(1976年)という短編ドキュメンタリーを作っている。この映画の撮影フィルムは密かに国外に持ち出され、そこで編集された。サタジット・レイ、シャーム・ベネガル、マニ・コウルと言ったインド映画で指導的な役割にあった映画作家の多くは映画庁のために映画を作ってきたが、真のインディペンデント・ドキュメンタリー映画運動の萌芽が、この国家非常事態体制という歴史的事件のなかで生まれていたのだ。この運動がその根を育て上げるのに重要な役割を果 たしたもうひとつの映画に、タパン・K・ボースの『インディアン・ストーリー』(1981年)がある。この映画は、ビハール州の州警察がでっちあげた罪状で投獄され失明させられた37人の農民の悲劇を語っている。ボース監督は、資産の60パーセントを全世帯のうちわずか16パーセントが独占し農民階級が奴隷同然に扱われている、インドの田園地帯における地主層による抑圧的な階級支配の文脈のなかで、この農民たちに押しつけられた恐怖を捉えている。この映画は裁判所と映画中央検閲委員会との長年にわたる法廷闘争の末公開され、市民生活と個人の自由がいかに危ういものとなってしまっているかというメッセージを訴えるのに大きな役割を果 たした。全国規模の市民の人権と民主主義的な諸権利を求める運動は1975年にその源をたどることができるが、バガルプールの失明事件の余波のなかでまだ大仕事が残されている。『革命の波』や『インディアン・ストーリ』以後、インド全土のより多くの芸術家たちが、今日のインド社会が抱えている多くの問題に取り組んだ映画を作ろうと闘いを続けており、そのことがインディペンデント・ドキュメンタリー映画運動をより強固なものとしている。


美学上の諸問題

 1980年代以降に作られた数多くのドキュメンタリー映画を引き合いに出せば、インドの映画作家たちには作品のためにより複雑なサウンド・トラックを作りだす傾向が強いということが言えるであろう。音声、ナレーション、それに場合によっては音楽の伴奏はインドのように多くの異文化が入り交じった社会では当然複雑なものとなる。数多くの言語と方言が混在するなかでは、ある特定の言語を話すグループを対象にした語りは、他の言語コミュニティにはうまく翻訳されて伝わらないかもしれない。英語で行われたインタビューにも同様の問題が浮上してくる――エリート階級は英語を解するが、インド国民の大部分は自分たちの住む地方の言葉を用いている。ドキュメンタリーがテレビ放映される場合でも、そのインタビューの発言内容を理解できるかどうかで同じ問題が起こりうる。字幕はこの問題への有効な解決法のひとつと考えられるが、もし英語の字幕であれば大部分のインド国民には理解できない。この結果 、映画作家には難しい選択が残されることになる。その大多数は資金が限られているため、その多くは英語字幕をつけることを選び、作品が組合のホールや地域センターで上映されるときにその場で音声を観客が使っている言葉に訳しなおすことにしている。

 最近はドキュメンタリーの表現モードのなかでも、音楽や歌がより大きな役割を果たす例が多くなってきている。音楽や歌を映画に受け入れるには二通 りのやり方が考えられる。まず、たとえば『バリアパルからの声』(1988年)や『サフダル』(1992年)、『我々が歴史を作る』(1993年)、あるいは『ボンベイ、我が街』(パトワルダン監督、1985年)のように、映画ではまずその中心的な対象となるコミュニティで演奏される音楽や歌を捉えることができる。こうしたコミュニティの人々相手の娯楽には音楽やダンスをふんだんに盛り込んだ街頭芸があり、その担い手は地域社会のなかからの場合も、あるいは外部からやって来た者たちの場合もある。『我々が歴史を作る』はTVSインダストリーズの労働者たちが会社側の御用組合に対抗して自分たち自身の組合を作ろうとする話を取り上げた映画だが、フィリップ・パダチラ監督はそのなかで労働者たち自身が演ずる街頭芸をいくつか取り上げている。こうした上演は大勢の見物人を集め、共通 の問題点をとりあげてコミュニティの結束を強めるものとなる。『サフダル』は全国的に知られた街頭演劇運動の旗手サフダル・ハシュミが1989年、上演中に雇われ者の殺し屋たちに撲殺された政治的暗殺事件の真相を探る映画だ。シャシ・クマール監督はインドの民主化へ向けたハシュミの情熱と、彼が音楽と演劇を通 していかにしてファシズム的な傾向に抗する全国的な運動を組織しようとしていたかを取り上げ、心を打たずにはおかない彼の肖像を描きだしている。

 インドのドキュメンタリー映画のなかに見られる音楽や歌のもうひとつの使い方は、映画作家がその伝えんとするメッセージを強調するための特定の歌を選ぶことである。タパン・ボースの『インディアン・ストーリー』は人々が水浴びをし、洗濯をしているガンジス河のほとりに日が昇る光景から始まる。この場面 には古典的なラーガが流れている。この映画の最後には、共産主義運動で歌われたアジット・プロップ調の音楽が観客に不正の鎖を断ち切るよう訴えかける。冒頭シーンはインドを精神主義と伝統の大地と見る紋切り型のイメージを想起させるが、最後には歌と一面 に赤旗が振られるデモの光景によって劇的な変革を訴えて終わるのだ。ワスダ・ジョシとランジャン・パリットも映画『バリアパルからの声』の冒頭で歌を創造力豊かな手法で使っている。この映画は、オリッサの東岸の村バリアパルで核ミサイルのテスト発射場を作ろうとする政府の計画に対し、村人たちが草の根の反対運動を組織してゆく様を追っている。映画はまず白い砂浜に打ち寄せる波の映像から始まり、キャメラがパンして離れた海上の漁船を映すと、一人の漁師が神は何故目を閉じて神殿の石像と化してしまったのかというきわめて皮肉に満ちた歌を歌いはじめる。この歌のあと、映画の根幹となる物語はインタビューによって語られるが、そこに再び歌を用いた間奏部分が入る。この歌に付けられた映像は、パリアパル周辺の自然がいかに豊かで美しいかの証言となり、なぜこの地方の人々がここを楽園と呼び、なぜ政府からこの湾を守ろうとしているのかを説くのだ。

 ヒンドゥー原理主義の台頭を扱ったパトワルダンの『神の名のもとに』(1992年)〔山形国際ドキュメンタリー映画祭'93出品作品、市民賞受賞=訳者〕では、背景で奏でられる歌は、かつてインドの歴史のなかにはヒンドゥー教徒とイスラム教徒のあいだに調和と蜜月の時代があったことを観客に想起させる、いくつかの意義ある事柄を示している。パトワルダンは新作の長編ドキュメンタリー『父、息子、聖なる戦い』(1994年)〔山形国際ドキュメンタリー映画祭'95コンペティション出品作品=訳者〕では歌を別 の目的で使っている――歌は音楽的な間奏曲であり、また社会を批評し、風刺のこもった観察を示し、ついには結束のための機縁ともなりうる。とくに事態の皮肉さを強調するのには見事な効果 を見せている。たとえば、監督は人気のあるヒンドゥー語の映画の歌を聞かせながら、映画のポスターや宣伝材料のモンタージュを見せて、そのなかでいかに男性のアイデンティティが武器や暴力と結びつけられているかが示される。大群衆となった女たちと男たちが、異なる宗教グループのあいだの融和を訴えてボンベイの街を行進するときには、群衆は寛容とヒューマニズムを訴える歌を合唱している。パトワルダンが映画で描き出すこの荒涼とした社会=政治的ドラマのなかで、このようなシーンは進歩的な勢力がいまなお活動していることを示し、希望をもって光り輝いているのだ。

 音楽や歌はインドの観客に対してはたいへん大きなアピールを持つ極めて重要なコミュニケーションの道具となるのだが、ヨーロッパやその他の西洋の観客にも同じように働くというわけではない。しかし、ここで挙げたような映画が政治意識を高めてインド社会のなかのヒューマニズム的で進歩的な動きに大きな役割を果 たすことを目的としているのなら、彼ら映画作家にとっては、山形やカルロヴィ・ヴァリで映画が評価されることよりも、インドの大衆に訴えかけうる手法を選択することのほうが、より大事なのだ。

 こうしたインディペンデント・ドキュメンタリー映画では、カメラを直接対象に向けたインタビューによる口頭の証言がきわめてよく用いられている。だが彼らのような映画作家は、西洋での場合とは異なり、証言をしている人間を周りから切り離して自分の考えを述べさせることが必ずしもできていない。屋外で誰かにカメラを向ければその周りには、まるでなにが起こっているのかを見届けなければならないとでも言うように、人々が集まってしまうのが常だ。その一人一人が皆そろって言うべきことや、人の意見につけ加えたり、あるいは反論したりすべきものを持っているのだ。『ボンベイ、我が街』のなかでもこのような状況になった場面 があり、その時にはカメラが都市から強制退去させられた掘っ建て小屋暮らしの人々の集団全員を捉えられるようにズームアウトされる。彼らは口をそろえて、そのささやかな所有物を奪取し「家」を破壊してしまった警察の横暴を非難する証言をする。そのような場面 のひとつでは、女性たちが市の監査官の邸宅の周囲に集まって立ち退きに抗議の声を挙げるが、パトワルダンのカメラはそこでまったく普通 では考えられないような光景に向けられる。貧しい女性が映画作りについてきわめて真実をついていて、うろたえずにはいられない質問を投げかけてくるのだ―「あんたたちはあたしたちを映画に撮りにきたという。でもあんたたちはあたしたちに何をしてくれると言うの?あたしたちは今夜泊まるところもないというのに。あんたが家を取り戻してくれるとでも言うの?」この女性は映画作家の社会のなかでの役割の限界を堂々と問いかけている。あえてこの光景を完成作品のなかに残したことで、パトワルダンはこの映画をさらに豊かなものとしているのである。彼は映画製作のプロセスに対する批評的な視点を盛り込んだだけでなく、個人としての芸術家が、自分自身ではどれだけ善意でやっていることであろうと、同じように批評・批判の対象となることを示しているのだ。実際、パトワルダンはこの映画の前後を通 じて彼らのような貧民を支援して、彼らのために弁護士を見つけ、また市の貧民階級の悲惨な住宅事情にボンベイのマスメディアの注目を向けさせもしたのだと言われている。映画のなかの女性の問いかけは、映画作家に自分の撮った人々に対して責任を持つことを促し、歴史のくびきにつながれた人々の姿を描く中での芸術家の役割のあり方に一石を投じている。

 『ボンベイ、我が街』には他にもわれわれがここで考慮に挙げるべき場面がある。社会の現実を観察してそれを解説することと、ただ覗き見をすることの間には、明確な一線がある。ドキュメンタリー映画作家にとっては、人間の営みならば何でも映画の「題材」となる―人生のドラマをこっそり覗き見る誘惑が強烈なものとなる危険は否定できない。映画が取り上げている貧しい家族のなかには、赤ん坊を高熱で失ってしまう一家がある。パトワルダンはこの子の葬儀と、親や近所の人々の嘆きを撮っている。わたしがアメリカの学生にこの映画を見せたときには、生徒たちはこのシーンに嫌悪の情を隠さなかった。彼らの目には映画がこの家族の悲劇を利用していると映り、監督の倫理感を疑う声も出た。この映画で撮影を担当したランジャン・パリットはインタビューに答えて、この場面 がどのようにして映画のなかに入ることになったのかを明らかにしている。「アナンドがある日わたしに電話をくれて、この子が死んだことを教えてくれました。彼はこれを撮るのを躊躇していたのですが、子供の両親が頼んだのです。両親は葬儀が映画に撮影されれば、それがこの子供の遺すたったひとつの記録になるのだからと主張したのです。実をいえば、この子の熱がひどくなったのも、母親が家を破壊されたことに対する抗議運動のために、激しい雨のなかでもこの子をおぶっていたからでした。アナンドは赤ん坊の死が、映画の伝えていることにも深い有機的な関わりを持っていると感じたのです3

 パトワルダン、ワスーダ・ジョシ、ランジャン・パリット、チャラム・ベヌラカル(『ミニ・ジャパンの子供たち』、1990年〔山形国際ドキュメンタリー映画祭'91出品作品、奨励賞、市民賞受賞=訳者〕)らの映画では、インタビューの技法がきわめて成熟してきている。そのインタビューは落ちついた声で話され、押しつけがましくなく、質問のアプローチもあからさまではない。インタビューされる側も自分から望んでカメラの前に自分の魂をあらわにしているのであり、その結果 、それは彼らの人格、その感情、それに苦悶を説得力を持って描きだす肖像へと結晶している。彼らはナレーションを最小限に抑え、インタビューによって現実の体験の事実を作品の全体像に織り上げていくのだ。


結論

 インドにおける若いインディペンデント・ドキュメンタリー映画運動は、さまざまな試練や障害に直面 しなければならない。資金源は手薄で、検閲が重くのしかかり、国内での上映配給網はまだ組織化されていない。彼らには海外で注目され、海外からの資金を集めることに頼らざるをえない面 がある。だがこうした不利な条件にもかかわらず、いまやインド国内ではかつてないほど多くの映画作家がインディペンデント・ドキュメンタリー映画運動の道を探究している。なかには共同製作される映画も多く、たとえばデリーのメディアストームや、ボンベイのジャナマデャム・シード・コレクティヴなどが活動している。16ミリ映画は国内で使用が難しいが、ビデオ技術の普及は明るい見通 しの材料となっている。筆者は1994年2月にニューデリーで行われた「視聴覚コミュニケーションの新しい技術と民主化」の国際シンポジウムに出席し、そこに多くのドキュメンタリー映画作家が出席していて、彼らがそれぞれに多種多様な関心を持っていることを知って強く勇気づけられた。たとえば、ジャミア・ミリア大学を卒業した若い女性は、発言力を得るための道具としてのビデオの使い方を都市近郊の女性たちに教えているし、インドの田園地方でいまだ続く文盲や不可触賤民、性差別 の問題に農民たちとともに取り組んでいるボランティア活動家たちの姿もあった。彼らはともに手をとり合って、この国のレジスタンス映画運動を築いているのだ。この努力はインドの国営テレビ放送が商業的媒体としての色彩 を急速に強め、平等な社会の建設というその本来の責務をなおざりにしている現状のなかでは、さらに大きな緊急性を帯びることになる。インディペンデント・ドキュメンタリー映画運動の作りだしている作品は、社会の現状や今日の政治的方針の決定のあり方に影響を与えていく可能性を持っている。それはこうした映画が、宗教的原理主義やファシズム、そして貧欲さがかつてないほど激烈なきしみを立てている現状のなかに挙げられた、良識と、寛容さ、そして抵抗の声だからだ。

翻訳:藤原敏史


(注)

1. Keval J. Kumar, Mass Communication in India (New Delhi: Jaico Books, 1981): pp. 128-129.

2. 国家非常事態宣言がメディアに与えた様々な影響の詳細な分析については、Manjunath Pendakur, "Mass Media During the 1975 National Emergency in India," Canadian Journal of Communication 13.4 (1988): pp. 32-48を参照のこと。

3. この映画のビデオ・テープを提供してくれたトーマス・ ウォーフ、コンコーディア大学教授に感謝する。

1995, Manjunath Pendakur


マンジュナス・ペンダクール


米国ノースウェスタン大学(イリノイ州イヴァンストン)国際コミュニーケーション学教授。ラジオ=テレビ=映画学部長を勤め、スピーチ学学部の学科間専攻プログラムであるコミュニケーションおよび開発学プログラムを指導している。インドで映画撮影技術を学び、カナダに移住する以前は劇映画およびドキュメンタリー映画の撮影にも参画している。著書に「Canadian Dreams and American Control: The Political Economy of the Canadian Film Industry」(Wayne State University Press、1990年)。現在インド大衆映画についての著書を執筆中。