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台湾ドキュメンタリー映画における
アイデンティティ

王墨林


台湾のドキュメンタリーは、統治者階級によって社会的矛盾を覆い隠すための道具として利用された時代を経て、現在では新世代の作家たちにとって自分たちが主体の民衆史を記録するために欠かせないものにまでなっている。こうした変遷の過程こそが、まさに台湾人自身によるアイデンティティ形成の過程だと言えるのではないだろうか

近代的視点から台湾を見るならば、そこにはひたすら自己のアイデンティティを模索してきた台湾の姿を発見することができる。すなわち台湾の歴史とは、そのアイデンティティ形成の歴史でもある。50年間におよぶ日本植民地時代と、国民党に統治された40年間の戒厳令時代、このおよそ100年間は台湾から自分たちが主体となった民衆史が奪われていた時代であった。ドキュメンタリー映画も例外ではなく、現在、台湾映画史の中から探し出せるものといえば、ニューズリールか、プロパガンダ映画、教育映画くらいのものでしかない。

 1945年に日本から台湾を接収した国民党政府は、「台湾映画協会」にさっそく一連の「ニュース映画」を撮らせている。その中には、行政長官の公邸や、陳儀長官の台湾到着、安藤〔訳者注:安藤利吉。日本植民地時代の最後の台湾総督〕の降伏書署名、台湾の各界が光復を祝う様子などか含まれている。1950年以降は、軍に属する「中国電影製片庁」が軍事関係のニュース映画と教育映画を、台湾省政府が管轄する「台湾電影製片庁」が社会教育の短編映画を、国民党の党営機関である「中央電影公司」が主として反共の劇映画を製作することになった。

 台湾における最初の真の意味でのドキュメンタリーは、1966年の陳耀圻監督『劉必稼』だと見るべきだろう。この作品はもともと陳耀圻のカリフォルニア大学ロサンゼルス校映画学部での修士修了作品として作られ、台湾で発表されたのは、前衛的な雑誌『劇場』の主催する「実験映画創作発表会」の場であった。

 『劉必稼』は、1953年に台湾に渡り1964年に退役した国民党の軍人、劉必稼が、台湾の山地に分け入り農地を開墾する姿を記録したものである。それにしても、西洋世界で映画を学んだ陳耀圻がこんなに平凡で写 実的なテーマを選んだのはなぜなのか。また、60年代西洋のアヴァンギャルドの影響を強く受けた雑誌に注目されたのはなぜなのか。この背景にあって見逃すことができないのは、民衆の身体が政治に抑圧されてきた悲劇の歴史である。まさにこうした政治的要因のゆえに、ドキュメンタリー作家の陳耀圻と、カウンターカルチャーの創造を目指す雑誌『劇場』は接点を持つことになったのである。台湾の50年代とは白色テロの時代であり、ひたすら国家や民族や儒教道徳に忠誠を尽くす人間を描くことだけが許され、血のかよった人間をありのままに描くことは政治的タブーだった。ところが劉必稼というこの主人公は、歴史の変遷によっていたずらに運命を翻弄される存在として描かれている。自己の知る余地もない政治状況の変化によって運命を左右されてしまう劉必稼の姿は、1945年以後に中国共産党から逃れて台湾にやって来た下層階級の外省人の身体イメージにも重なる。その後陳耀圻は、マルクス主義を研究する読書会に参加したとして逮捕されることになった。

 戒厳令下の40年間というもの、映画と社会は完全に分断されており、この『劉必稼』以外に、当時の台湾の社会状況をわずかなりとも切り取ったドキュメンタリーは生まれなかった。それどころか、当時の青年にとってドキュメンタリーという概念自体、劇映画のそれに較べて極めて漠然としたものでしかなかった。60年代になると台湾にテレビが登場し、70年代からは16ミリフィルムで撮影したドキュメンタリーがテレビ放映用に製作されるようになった。当時テレビ放映され大いに話題になった『芬芳宝島(うるわしの台湾)』がその一例である。この作品は結果 的に、小説家の黄春明やカメラマンの張照堂、実験映画の監督である王菊金など、多数の芸術家や文化人を結びつけることになった。彼らの多くは芸術創作上のモダニズムの立場を共有していたが、彼らが共同製作した『芬芳宝島』全13編に流れるのは濃厚な台湾郷土主義であった。新世代のドキュメンタリー作家である李道明は、このシリーズを「カメラが初めて台湾のヒューマニティを正面 からとらえた作品だった」と評している。しかしこの作品の中で、モダニズムの特徴であるはずの批判精神は、社会的矛盾の存在を無視したヒューマニズムに還元されてしまっていた。一方これと同時期に文学の分野では、いわゆる「郷土文学論争」が激しく展開されていた。台湾文学は西洋的モダニズムに支えられた美意識を模倣すべきなのか、それとも下層階級が抑圧されている台湾の社会的矛盾を描くべきなのか、といった問題がそこで問われたのである。台湾人のアイデンティティの問い直しを迫ったこの文学運動は、しかし国民党の側からは一律に「共産党」と非難されることになった。

 『芬芳宝島』が好評だったので、1980年にはその続編、全13編が製作され、テレビ放映された。さらに1981年には『美不勝収(いとも麗し)』が、1982年には『映像之旅』が作られた。これら台湾の郷土文化の記録はみな、70年代から現れたヒューマニズムに根ざした芸術創作の一環であった。戒厳令下にあった当時は、一定の許容範囲の中でしか社会を描くことはできなかった。もしもその禁を犯せば、社会矛盾を故意に煽る共産党ときめつけられることになっただろう。こうした状況下では、オーソドックスな、さらにはナロードニキ的な郷土主義が唯一の逃げ道であった。たとえば、張照堂のようにシュールレアリズムと言ってもよいスタイルを持つカメラマンでさえ、彼が撮影したドキュメンタリーは、論争を呼ぶテーマなどとは無縁な、無難なものにまとめられていた。台湾におけるドキュメンタリーは、長期にわたってこの戒厳令下の文化的制約にしばられていたため、台湾社会の本当の問題に取り組んだ作品は皆無と言ってよかった。しかし、このようなドキュメンタリーの冬の時代は、戒厳令解除の前夜になってようやく転機を迎えることになる。

 80年代になると、ビデオ撮影はフィルムによる映画撮影よりも大幅にコストダウンがはかれるだけでなく、その録画技術においてもかなりの画質の向上をとげた。またマスコミ文化の浸透により、人々は情報の受け手としてだけではなく、自ら送り手としてマスメディアというものをとらえるようになってきていた。たとえば1986年に成立した「緑色小組(緑のグループ)」は、街中やデモや集会の場に家庭用ビデオカメラを持ち込んで、当局の見解とは食い違う様々な証拠資料を撮影したドキュメンタリーを製作した。1987年、40年間の長きに及んだ戒厳令体制はついに終結し、「緑色小組」のほかにもビデオカメラを用いて様々な社会的運動を記録するグループが次々と誕生した。しかし、その中でも最も継続的な活動を行ったのが「緑色小組」であり、彼らが製作した戒厳令解除後の社会運動のドキュメンタリーの連作は、台湾の現代史を研究する資料として最も重要なものなのである。

 戒厳令時代のドキュメンタリーのほとんどが「論争を呼ぶテーマなどとは無縁な、無難なテーマ」で占められていたのにひきかえ、戒厳令解除後のそれはひたすら社会運動をテーマとするものに一変した。いったい、人々が一団となって拳を振り挙げ、政治的スローガンを叫ぶ姿を撮る以外に、台湾という島国に暮らす人々の身体と声を映像で表現することはできないのだろうか? 極端から極端へ移行したこの時期に、ドキュメンタリー作家がこうした問題をじっくり思索すべき余地はほとんど残されてはいなかった。

 「緑色小組」の製作した社会運動のドキュメンタリーの中でも、林信誼が一人で作った労働者運動のドキュメンタリーのうち後期の作品からは、彼の数年来の蓄積の大きさをうかがうことができる。それは単に技術的向上にとどまるものではない。たとえば『基隆客運罷工(基隆の旅客運搬業者ストライキ)』を見ると、展開する場面 ごとに、労働者の妻や子供たちが夫や父親を懸命に支えていることが語られるインタビューが挿入されている。家族たちが、労働者の抵抗を支援し、受け入れていることを伝えるその映像は、観る者にある種の静寂さと同時に心暖まる何かを感じさせるのである。これらの労働者運動のドキュメンタリーは、何よりもまず、その作家たちが労働者階級に同情する立場を自覚的にとっていたために、台湾のドキュメンタリーを論じる上で無視できない政治的急進主義を体現していた。「緑色小組」は強い社会的意識を持ったドキュメンタリー製作集団であった。中でも林信誼の後期の作品は、台湾の労働者が経済的繁栄の名の下に抑圧された歴史を証拠だてる貴重な史料にもなったのである。

 90年代以降を見ると、董振良の登場が台湾のドキュメンタリーの歴史を画するものであった。董は1961年に台湾と福建省の間の小島、金門島に生まれた。この出自はすでに、台湾の主流から隔ることになる彼の行方を暗示しているとも言えよう。そして、この主流からの距離のゆえに、董振良は台湾史の見直しをはかることになるのである。たとえば『反攻歴史』(1993年)は、“大陸反攻”が国是とされた50年代を、それまで表立って語られることのなかった、金門島の人々の視点から描き出したものである。金門島民自身が語る、反攻の最前線に立たされた日々の記憶は、砲撃戦を撮影した当時のフィルムと折り重なって、一般 民衆が否応もなく苦難の歴史に巻き込まれてしまう悲惨さを観る者に強く訴える。作家自身の言葉によれば、

「ここに描かれているのは、民衆の内から沸き起こる真実の声であり、民衆が実際に体験したことそのものなのだ。だからこそ、それまで押さえつけられていた本当の心情があふれ出すとき、政権側が宣伝してきた“神聖なる戦役”、“名誉の戦役”といった歴史像は大きく揺らぎ始める。ここに来て、名誉の歴史も遂に“反攻”を食らい、民衆はやっと自らの歴史を語れることになったのである。」

 1994年、董振良はフィクションとドキュメンタリーを融合させた長編映画『単打双不打(奇数日は攻撃日)』を完成させた。この作品に登場するのはすべて金門島民で、彼らは島の歴史を「再現」するドラマを演じる役者でもあり、実際に砲撃を避けてじっと身を潜めていた奇数日の夜のことを証言する語り手でもある。この作品は一般 的な製作、興行ルートからは全く外れた作品であった。製作資金も、「故郷、金門の映画を作ろう」という掛け声のもとに寄せられた島民からの寄付金によってまかなわれ、百万元〔訳者注:日本円で約330万円〕余りを集めてからやっとクランクインに漕ぎつけたほどであった。また、映画の中で島民たちが自分の体験を語るシーンも、すべて彼らのボランティア出演である。董は、金門島の歴史が台湾の歴史の重要な一部分である以上、「二・二八事件」や「白色テロ」以外にも、人の身体の記憶の中にこの冷戦の歴史があることをすべての台湾人に知ってほしいと願っていた。そのため、この種の映画が商業的興行ルートにのる可能性は極めて薄いと考えていた董は、あらゆるパイプを通 して自らフィルムを携えての地下上映を試みたのである。

 90年代のもう一人の注目すべき台湾のドキュメンタリー作家は黄明川である。彼は今、『台湾文学家紀事』というシリーズもののドキュメンタリーを作っているが、この企画は、日本占領時代から現在にいたるまでの台湾の作家をテーマとするものである。作家についての資料に基づく「再現」部と、実在する人物へのインタビューの融合によって、黄明川は、交錯する時間と空間、そして虚と実の狭間に、作家たちが歴史の激動の中でまさに血を吐くようにして文学を創作していった過程と、作家の成長過程を浮び上がらせようとする。黄明川のこうした仕事は、台湾の新しい世代が自らのアイデンティティを改めて模索していることを示すものである。

 台湾のドキュメンタリーは、統治者階級によって社会的矛盾を覆い隠すための道具として利用された時代を経て、現在では新世代の作家たちにとって自分たちが主体の民衆史を記録するために欠かせないものにまでなっている。こうした変遷の過程こそが、まさに台湾人自身によるアイデンティティ形成の過程だと言えるのではないだろうか。

翻訳:秋山珠子

 


王墨林


1949年、台湾の台南市生まれ。台湾の非主流映画、演劇など前衛芸術の評論家。1982年に日本に留学、それ以前は映画評論家として活動。当時の著作には『導演与作品(監督と作品)』(1978年)、『中国的電影与戯劇(中国の映画と演劇)』(1981年)がある。日本留学中の3年間に、菅孝行に思想的に強く影響を受ける。1985年、台湾へ帰国。その後小劇場運動にたずさわり、野外公演、行動演劇、ルポルタージュ演劇など、多くの新たな前衛的な演劇形式を試み、台湾小劇場運動の新しい流れを形成する。『都市劇場与身体(都市劇場と身体)』(1990年)、『後昭和的日本像(ポスト昭和の日本イメージ)』(1991年)を出版。1992年に「身体気象館」という演劇事務所を設立。1994年には、講演のために香港、第一回ブリュッセル芸術祭のためにベルギー、ロンドンのICAアートセンターの招きでイギリスを、それぞれ訪れている。