1 チェコにおける映画の伝統はきわめて古く、その最初の作品は1898年にさかのぼる。組織的なドキュメンタリー映画の製作は20年代半ばに始まり、定期的なフィルムによる記録(ニュース映画)が次々と現れだした。1930年代の初めには早くもドキュメンタリー映画において作家たちは独特のスタイルを持つようになり、ドキュメンタリー映画は、映画産業においても映画芸術においても、次第に完全な一分野としての評価を獲得していった。
しかし戦後、チェコのドキュメンタリーの運命は政治に大きく支配されることになった。専門的な映画製作はすべて1945年にいち早く国家の下で行われるようになり、1948年の共産主義政変以後は、共産主義イデオロギーに基づく無慈悲な統制が敷かれた。その結果 、チェコの長い国家的伝統に培われた価値感、特に両大戦間の民主主義国家、チェコスロヴァキア人民共和国時代に創られた価値感は、急速に荒廃していった。チェコ映画の発展は、継承されることなくそこで途切れた。国家に独占された中央集権的なドキュメンタリーの製作は、政治的なプロパガンダの領域に追いやられた。必然的に劇映画もまた深刻な主観的、道徳的な立場の危機に陥ることになり、その主たる役割は多かれ少なかれ、洗練され隠蔽された共産主義のイデオロギーへの追従に過ぎなくなった。
1950年代を通じてチェコの文化は何度か深刻な打撃に見舞われたが、もちろん映画もその例外ではなかった。その後共産主義政権は世界における甚だしい悪評を多少とも回復しようと試みたが、民主化への明確な歩みは60年代半ばまで見られることはなかった。しかしやがてこの民主化の波は60年代末にかけて頂点を迎える。共産党はまだ全盛を誇っていたが、同時に文化的および社会的な生活も著しい復興を遂げようとしていたのである。
比較的自由であった期間は短かったにも関わらず、チェコスロヴァキアでは様々な方面 の芸術家集団によって、即座に衝撃がもたらされた。それまで自分の作品に公然と取り組むことができなかった様々な世代のグラフィック・アーティストたち、第一線に立つ舞台芸術家や劇作家、そして最後に決して軽んじることができないのが、チェコのヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちの出現である。彼ら、プラハ国立映画学校(FAMU)の卒業生の多くは劇映画の監督(ヴェラ・ヒティロヴァ、イェルジー・メンツェル、エヴァルド・ショーム、その他)で、1960年代のドキュメンタリーにさほど大きな影響を発揮したわけではない。にもかかわらず、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作品は、全体として、映画史上に稀に見る解放的で示唆的な貢献を残した。これはいわゆる「プラハの春」、つまり「人間の顔をした社会主義」の短い季節の一種の象徴と見られることが多いが、そのことは、特別 に賞揚すべきことでも貶めるべきことでもないだろう。
2 このようなチェコの情況にあって、1960年代のドキュメンタリー映画は大衆にとって大変人気の高い、魅力的な表現形式になっていった。一般 的な社会批評の風潮にのっとり、ドキュメンタリー作家は社会の状態やそのトラウマ、あるいは関心について、より深い分析へと乗り出していった。主としてこの点には、社会的感受性の強さが如実に表れており、これはチェコのドキュメンタリーの重要な特徴のひとつにもなっている。チェコのドキュメンタリー作家は、若者の生活態度や考え方により強い興味を示すようになり、映像言語によって与えられる幅広い機会を利用し始めた。
例えば、特に数々の各メディア分野にわたる作家でもあったラドゥーズ・チンチェラは、1963年、シェークスピア古典演劇の現代的な演出の誕生に伴う創作的な緊張を簡潔に記録した、魅惑的な『ロミオとジュリエット'63』を製作した。若者世代に向けたこの舞台自体が若者世代に強くアピールしたように、チンチェラの映画も時代の精神を敏感に記録することになった。一方、チンチェラの『霧』(1966)は、現代世界を純粋に隠喩的に反映したもので、プラハの知的な小劇団の特別 な雰囲気が、当時の漠然とした実存主義の空気を完全に凌駕している(現在のチェコ大統領ヴァツラフ・ハヴェルも新作のリハーサル場面 に登場している)。
ヤン・シュパータは、60年代以降、最も良く知られたドキュメンタリー作家である。彼は最初撮影技師として顕著な功績を残し、それからまもなく独特なスタイルを持った芸術家へと転身した。『大いなる望み』(1964)は意義深い大作で、この映画には、映画作家が若者たちに一見単純そうな質問(これは映画の題名にも使われている)をして彼らを調査するという、社会学的アプローチが採用されている。シュパータは、表現の効率的な使用や細部の意味に対する感覚を含めて、純粋に映画的な才能を示した。彼は25年後に、『大いなる望みII』という作品で、再び若者という主題に戻って来る。それは1989年のことで、この映画のおかげで、シュパータは自らその特別 な年の張りつめた革命的な雰囲気を記録する役割を担うことが出来たのである。
『終わりを想え』(1967)で、シュパータはひとり暮らしの未亡人たちの生活を描いた。彼は未亡人たちに死を待つ自分たちの物語を語らせたが、彼女たちにとってそれは忍耐についての物語であるだけでなく希望についての物語でもあった。シュパータは後年の作品においても同様に、非常に情緒的な主題を見つけ出している。しかし、病気や障害を持つ人々に関する彼の映画の倫理的な調子と感情的な加担は、シュパータをもっぱら感傷に耽らせることになる。このことは、彼が自らの技術の虜となった、70年代、80年代の作品に顕著である。
カレル・ヴァヘックの映画は、シュパータとは異なるスタイル、すなわちシュパータほど「美しく」ないスタイルにその特徴がある。ヴァヘックの『モラヴィアのヘラス』(1963)は、村落の民俗伝承の魔術と、そのグロテスクな商品化についての作品である。1968年に、カレル・ヴァヘックは、チェコスロヴァキアの新大統領選挙とそれを取り巻く政治思潮に関する長編ドキュメント、『選挙における親和力』(1968)を製作した。かくして彼は、当時の共産主義政権の隆盛にもかかわらず、政治の核心に関する独特な歴史的記録の撮影に成功し、事実上、プラハの春への序曲を収録することができたのである。
この短期間のある種の自由化は、悲劇的な結末を迎えた。すなわち、ソビエト連邦と他のソビエト圏のヨーロッパ諸国の軍隊によるチェコスロヴァキア占領である。1968年8月、ソビエトの戦車がプラハと共和国全土に侵攻した時、自力で戦車や機関銃の砲弾をかいくぐり、この歴史上の矛盾と、その結果 人々が被った受難の悲劇的な衝撃をなんとか証拠として映画に収めようとした映画作家たちが何人もいた。私たちがこの証言を目にすることができるようになるまでには、それからさらに20年の歳月を待たなければならなかった。しかしそれでもなお、それだけの長い年月を経てさえ、エヴァルド・ショームの『混乱』(1968)のようなドキュメントは、その真実の、胸を揺さぶる力を失ってはいない。それは、単に国家の運命的な歴史体験をどうにか短編映画の形に集約することができたからだけではない。監督がその瞬間の悲哀感に屈服せず、映画作家でありドキュメンタリー作家であることを忘れなかったからである。そのような瞬間にあってさえ、チェコのドキュメンタリーの伝統の力は、力強い倫理的主題と職業的な純粋さ、創作力とに明確に結びついていたのだ。
その後の年月、公式には正常化の時代と呼ばれた期間は、抑圧の新しい波、イデオロギーに基づく政策の強化をもたらし、社会全体の人々の意欲を一層低下させた。自由の欠如は、見せかけの経済的な繁栄や社会の安定によって覆い隠された。チェコのドキュメンタリーは、60年代末に急激な盛り上がりをみせた後、深刻な危機に突入した。他のすべての分野と同様、映画もまた、広範囲にわたる粛清を経験した。それは、権力者や意志決定を行う者のみならず、あらゆる創造的な職業に従事する者にも影響を及ぼしたのである。
3 チェコ映画の発展の継承は、70年代初めに全領域において中断された。ドキュメンタリー映画芸術は、近年まで、国家の起源の発見やその隆盛と衰退に関わり、個人や集団の歴史についての痛ましい話題を暴いてきたが、ここに至ってもう一度奉仕者の役に貶められることになったのである。比較的多額の資金を扱う映画製作の、国家による独占は疑う余地もなかった。これらの資金はもちろん政権を賛美するために用いられ、ドキュメンタリーの分野では、その傾向は、劇場で本編の劇映画の前に上映されるニュース映画によく現われてきた。その目的はプロパガンダとイデオロギーの完全な強制であり、これはドキュメンタリーによる報道を、時に思わぬ グロテスクな地平へと追いやることになった。
国家によって押しつけられたマルクス主義的イデオロギーは、多くの話題をタブーにした。それは、支配政権やその指導者たちの直接的な賛美に加担したくないと考える芸術家たちに、現実逃避的な主題を選ばせることを強いた。例えば、ソビエトによる占領後に初の長編劇映画を完成させたドラホミーラ・ヴィハノヴァ監督は、何年もの沈黙を強いられた後に、ようやく映画製作の仕事に復帰することができた。それも「単に」ドキュメンタリー製作に限っての話である。彼女のドキュメンタリーは、例えば、炭坑の主任技術者の仕事(『主任技術者の一日』(1981))や、原子力発電所の食堂の運営(『ドゥコヴァニ、沸騰する大鍋』(1987))や、あるいは収穫機の運転手たちの一団などについての作品である。しかしヴィハノヴァは、これらのそれほど魅力的とは思えない課題にも、十分な責任と偉大な映画的才能をもって臨んだ。彼女はまず最初に彼女の「主人公たち」と共に多くの時間を過ごし、その後今度は編集室での作業に長い時間を費やした。話題が何であれ、彼女は自分の映画に対して常に出来うる限りの最大限の努力を払った。その成果 として、人間の努力や仕事にまつわる強迫観念、さらには人間同士の関係の脆さについての、今日でもなお生き生きと感じられる証言を描き出している。
1960年代の初頭以来、ヴェラ・ヒティロヴァの映画には、ある特別なドキュメンタリーの要素が見受けられるようになった。彼女は、活動が著しく制限されていた70年代に、ドキュメンタリー『時は無慈悲』(1978)を作ったが、そこには、様々なやり方で自らの運命に甘んじてそれを受け入れていこうとする何人かの老人たちの姿が描かれている。監督は彼らにありのままを正直に語らせているが、と同時に、種々の関連したイメージを挿入し、それによって映画の叙述を増殖させ、多層化させている。
1970年代のチェコのドキュメンタリー芸術、とくに1980年代のそれは、高度な専門的才能によって特徴づけられる。年間の短編ドキュメンタリー映画の製作は何百という数にのぼり、時にはこのメディアにも、論議を呼ぶ主題、すなわち当時の「実在しない」検閲に難しい戦いを挑まなければならないものも出てくるようになった。政治的あるいはイデオロギー的な理由から、劇映画やテレビの分野で働くことができなかった多くの熟練した芸術家たちが、ドキュメンタリーの領域における表現にはけ口を見いだしていった。16ミリや35ミリのフィルムで作られたドキュメンタリー映画は、通 常、劇場用映画に付随する形で上映された。当時、テレビはまだフィルム・ドキュメントをそれほど大々的には放映していなかったのである。
80年代を通じて、いくつかの素晴らしいドキュメンタリーのプロジェクトが実現することになった。まず最初に、ヘレナ・トルシュティコヴァ監督の長期連続ドキュメンタリー映画『牛・の研究』(16ミリで撮影され、後に35ミリ版で劇場に配給された)。作家は6年間にわたって、6組の若い夫婦を研究した。彼女は彼らの運命を追いかけ、記録した。そして遂にそこから、個人的な時間と一般 的な時間の、両方の時間の経過に関する複数の証言が浮かび上がってきた。監督はそれらを素材にして2本の長編ドキュメンタリーを編集した。作品はテレビ放映されるとともに劇場網を通 じて上映された。
4 1989年の民主化動乱は、チェコ人のみならず、全ヨーロッパ人にとっても、共産党政権が次から次へと倒れていく、特別 な輝かしい瞬間であった。チェコのドキュメンタリー作家たちはちょうどその場に居あわせた。転換点となった、平和的なデモ学生たちと国家警察との対決からは、珍しいドキュメンタリーのショットがいくつも生まれた。「ビロード革命」の間、ストライキをしていた学生たちはビデオによる証言を多数複製し、それを全国にくまなく配布した。テレビはまだ共産主義の支配者の手中にあり、発作的な情報操作に躍起になっていたので、事は一刻を争った。この瞬間、誰もが、メディアの持つ心理的な力や、時宜を得た映像による報道のインパクトが、きわめて実用的であることに気がついた。
1989年末の革命の数週間は、不変である思われていた規則を直ちに変えてしまった。それまでの独占的な国営テレビは、決して学生たちを生放送に登場させなかった。彼らは一番最初から革命の主要な推進力だったからである。いわゆる学生放送は、ほとんどが非専門的な環境(実際、多くは街頭やFAMUのスタジオにあった)に設けられていたが、それはドキュメンタリーと言うよりもむしろ政治報道の一形態であった。最も若い世代の映画作家たち、特に早くから大学で優れた人物として名を知られていた人たちは、ここから貴重な経験と将来の職業活動に対する特別 な刺激を得ることになった。そのうちの一人が、若きイゴル・ハウンである。彼は作家として、政治状況に対してすばやく、しかも創造的な考えを作品に表現することに成功した。例えば彼は、現在のチェコ首相ヴァツラフ・クラウスについて、その人物像を従来とは違う手法で約4時間の作品に描いている。しかしハウンのその後の活動は劇映画が中心となった。
自由になったチェコスロヴァキアの生活を簡明に描き、作家のコミットメントが全面 的に反映されていると思われる唯一のドキュメンタリーは、カレル・ヴァヘックの三時間半に及ぶドキュメンタリー・エッセイ、『新ヒュペリオン』(1992)である。この国の社会的・政治的な生活の、中心的な側面 と周辺的な側面の両方を大胆に組み合わせることによって、ヴァヘックは人々とその時代に関する魅惑的な証言を表現しようとしている。彼の映像表現の感覚と隠蔽された歴史の茶番に対する感情が、映画を際立って豊かなものにしている。
1992年の終わり、国内政治の展開により、チェコスロヴァキア連邦は解体されることになった。この政治の展開の様子は、若きドキュメンタリー作家パヴェル・コテツキの映画『チェコスロヴァキア議会の終焉』(1993)に、優れた手法で捉えられている。
50年以上にわたる自由なき年月、チェコ人が忘れていた普通の民主主義の多くの兆候と同様に、この政治の創生がドキュメンタリー作家を激しく魅了したのは明らかである。新しい現状は新しいドキュメンタリーの形式を必要とする。重厚で心理的な探究を求める作品の数は減り、反対に、部分的でモザイク風な時事問題の捉え方が、観衆にとってより魅力的になってきた。それらの作品はたいへん人気のあるテレビの政治報道において、公共放送と民間テレビ局の双方を通 じ、大衆向けに放映された。
5 1989年以後まもなく、機敏な独立製作会社、フェビオ映画テレビスタジオは、年間に80本近いドキュメンタリーやニュース映画を製作し、一躍名を馳せた。ドキュメンタリー映画の市場というものは存在しなかったので、フェビオも他のインディペンデントのプロデューサーと同じく、テレビの公共放送に依存していた。視聴者たちは、フェビオが単独で製作した『視点』という単一の主題を持つドキュメンタリー番組を、隔週ごとに公共放送テレビの枠内で見ていた。『視点』シリーズの約20分間の映画を担当した作家の多くは、最新の時事問題を扱う著名な映画作家たちであった。
フェビオ創設の父フェロ・フェニッチ監督は、ユニークな『真相』というプロジェクトを創案した。定期的に放映された15分のドキュメンタリー映画で、毎回異なるチェコのドキュメンタリー作家が、チェコの文化、政治、科学を代表する100人の選ばれた存命中の重要人物を取材した。このシリーズは少し改訂を加えて引き続き放映され、信じ難い高視聴率を誇った。60年代から80年代にかけてのチェコのドキュメンタリー界を代表する大家のひとりとして前にも述べたヤン・シュパータも、近年フェビオのために頻繁に仕事をしている。シュパータは、『真相』シリーズのために、ほとんどはオルガ・ソメロヴァとの共作で、著名人の人物像を数多く撮影した。
チェコのドキュメンタリー映画に息づく伝統は、金銭的な問題の強制を受けてではあるが、新たな機会を見いだした。映像社会学協会は、ドキュメンタリー映画作家が社会学者と力を合わせともに社会や社会問題の変革を構想していく、独立した映画製作センターとして機能している。その成果 は通常、中編ドキュメンタリーとしてテレビで放映されている。ペトル・スラヴィーク、パヴェル・コテツキなどインディペンデント系の監督たちは、チェコの村の変質といったような話題を、個人の生活や現代の貧困、共同体内部での暴力、営利企業のチェコへの復帰、地方選挙、人種の共存に関する問題、などを例にあげて検証している。これらは常に、洗練された映像言語を語ろうとする真剣な試みであり、単なるニュース速報以上のものであった。
『一年後』、『さらにその一年後』、『数年後』など、映像社会学協会の長期プロジェクトは、1989年の革命とそれ以後に大きな活躍をした何人かの著名人による、チェコの政治や文化に関する一種の定期的な年度ごとの「要約」となっている。これらのプロジェクトの監督であり作家でもあるパヴェル・コテツキは、様々な人間生活についての継続的な証言のみならず、自分自身に関する独自の報告をも提示している。
ヘレナ・トルシュティコヴァ監督は、以前に「タイム・コレクティング」法という手法を開発し、それを彼女の非行少年もののシリーズに上手く応用した。プロジェクトの一環として、監督は不定期に自分の映画の主人公たちに会い、彼らの活動や態度の変化、人格の発達を観察し記録する。次に、編集室での非常に高度な作業が行われる。「物語」は時間の中で展開し、それによって、監督自らも、必要な部分で選ばれた主人公が十分雄弁にそのテーマを表わすという任務に応えられないかもしれないという危険にさらされることになる。それでもトルシュティコヴァの「タイム・コレクティング」映画は幸運に恵まれていた。もっとも、彼女はそのせいで創造性以外の問題まで抱え込むことにもなったのだが(彼女は自分の「ヒーロー」のひとりである幼い泥棒と知り合いになったが、彼はある日彼女のアパートに押し入り、すべてを盗み、それから謝罪の手紙を書いた(映画『レネ』(1992))。トルシュティコヴァは現在インディペンデントのプロデューサー(マン・アンド・タイム・ファウンデーション)であり、プラハの特別 な生活と日常の生活の両方に見られる、千年期の終末のイメージを表現することを狙った、長期の難しいプロジェクトに取り組んでいる。
6 様々な世代に属する様々な人物がチェコ映画の第一線で活躍してきたが、彼らは永続的な保証を求めるのではなく、直接の利益にはつながらない野心的なプロジェクトに自分たちの想像力を注いできた。例えば、ドラホミーラ・ヴィハノヴァのドキュメンタリー映画の共同作家として70年代、80年代に優れた評判を博した、撮影技師で監督でもあるイヴァン・ヴォイナールのスタイルがそれである。彼は現在、ドキュメンタリー監督として活動しており、精神病院という環境における精神上の健康の相対性に関するドキュメンタリー・エッセイや、実在するプラハのアヴァンギャルド劇団の若い俳優たちについての映画を完成させようとしている。彼よりやや若いヨセフ・ツィサジョフスキは、何よりもまずチェコスロヴァキアの戦後史に関するドキュメンタリー映画三部作の作家で、彼はその中で様々な政治的タブーや社会的ステレオタイプを克服する優れた試みを実行に移している。その他の彼の映画は、主にエコロジーや精神的な事柄に捧げられている。またドキュメンタリーの分野で非常に個人的な仕事をしている作家たちの中で、アンゲリカ・ハナウェロヴァとトマーシュ・シュクルドラントは普段は自分たちの作品に取り組む一方、注目に値する合作ドキュメンタリー『禿げた共和国の毛むくじゃらの国』(1994)を製作してきた。彼らはその中で、未成熟な若者たちの25年に及ぶ未完の「群像描写 」を通して、若者たち自身の過去の態度や考え方について述べさせている。
自分のドキュメンタリー製作にとって可能な限り最良の状態を作り上げるという目的から、自分自身で小さな私企業を作り、製作施設を求めようとしていく芸術家たちもいる。例えば、パヴェル・シュティングル監督は、社会や人種の共存に関する話題や、政治が人間の日常生活に及ぼす影響の問題に絶えず強い興味を抱き、K2という自分の製作会社を設立した。彼は、現代社会の社会的、政治的な側面 についてのより深い理解を目指す、新しいドキュメンタリーの創造を手助けしたいと考えている。その活動範囲はチェコ国内や中央ヨーロッパに限らず、バルカン半島、南アフリカ、その他の世界中の紛争地に及んでいる。K2は、未来の国際的なドキュメンタリー・プロジェクトの組織的な媒介者になろうとしている。
最も若い世代の映画作家のうち、FAMUの学生であるトマーシュ・ヘイトマーネクとマルティナ・クドラーチェックについても述べておく必要があるだろう。ヘイトマーネクは、限界に挑戦する、複雑に構成された映画によるコミュニケーションの困難な道のりを、自信を持って目指してきた。非凡な芸術家ヴラディミール・ボドニークの想像力あふれる人物描写 『百番目の部分』(1993)、あるいは列車の旅に関する映画エッセイ『旅の記録』(1992)など、彼の映画はその真剣さ、純粋な映像言語の中に言説を構築していこうとする努力によって、力強い作品となっている。チェコ系オーストリア人の監督マルティナ・クドラーチェックは、スロヴァキア出身の傑出した若い写 真家たちに関する素晴らしい映画『積極性』(1994)で、大きな衝撃を与えた。この作品は創造的な芸術家集団を独創的に描写 したもので、詩的な本質における個々の明らかな特徴や差異にも関わらず、彼らが多くの共通 点を持つことが描かれている。すなわち、彼らはみなそれぞれの過去を尊重し、互いのルーツを敬い、古典的な写 真における新しい道を模索しようとする意志を持っていたのである。
もう一人の最も若い世代の作家、ペトル・ヴァツラフは、FAMUに学んでいた間に、現代文明を追悼する一種の奇抜な墓碑銘的作品とも言える、かなり特殊な記録映画『ミュリー夫人』(1993)を製作した。この作品で、ヴァツラフはある高貴な出の老婦人の詩的でかつ劇的な運命を描いている。その婦人は、数十年前、困難な過去の時代に、余生を家族のために尽くしながら静かに引きこもって送ろうと決意した。家の伝統に対する責任は重荷ではなく、疑う余地のない義務であった。にもかかわらず、彼女はその全身で人の力では動かし難い自然の営みと共存し、やがて存在の自然な状態を排除しようとする文明の限界を理解するに至る。この魅力的な婦人は、ゆっくりとした速度で、しかし大きな精神的感動をもって、歴史の中の印象的な断片を交え自己の考察を展開していく。彼女は自然に溶け込んでいる。そして、高貴であるとともに、荒れ果 てた住居を囲む古い庭を世話する役としてグロテスクでもある。ペトル・ヴァツラフは、撮影技師シュテパーン・クチェラとの珍しい共同製作で、具体的で非常に特殊な例を示すことによって、人生や世界の神秘的な挿話に触れる、純粋で力強いイメージを創り出すことに成功している。映画の語りは洗練されていて、つつましい。それはあたかも時間が止まって、映画を通 じて私たちに自己の深淵を垣間見させてくれるかのようである。
7 幸いなことに、チェコのドキュメンタリー映画のさらなる発展については、まだ議論の余地が残されている。チェコの社会は、政治的、経済的、社会的、すべての面 での変革を目指しており、きわめて着実にその途上にある障害を克服しつつある。良い徴候であるのは、それを果 たすために生活における文化的、精神的な次元の事柄を軽んじていないことである。経済的、政治的発展に関する暗澹たる予測は外れ、チェコのドキュメンタリー映画の終焉を指摘する暗い予測も誤りであった。明らかに、未来の大半はチェコのドキュメンタリー作家の創造力にかかっている。それを無視することはできないだろう。なぜなら、新しい世代の作家たちが認知されつつあり、 チェコのドキュメンタリー映画の長い伝統は今も生き続けていると思われるからである。
翻訳:佐藤恭子
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プラハのチャールズ大学を卒業後、ナショナル・フィルム・アーカイヴに勤務。最初はチェコ映画コレクションの学芸員として、また1992年以後は、映画理論と歴史の部門の研究者として活躍。主に、チェコ映画を中心とした映像言語の歴史的発達を研究。プラハ国立映画学校(FAMU)映像美学担当講師。
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