ドキュメンタリーの変遷シリーズは1995年の映画100年を記念して本誌にて映画と現実の関係と歴史を探るべく、小松弘氏(DB#5)、ビル・ニコルズ氏(DB#6)、マイケル・レノフ氏(DB#7)、粉川哲夫氏(DB#8)を執筆者に迎え連載を掲載させていただきました。あれから10年、山形映画祭のインターナショナル・コンペティションでは応募条件のフィルムのみからビデオへの拡大があり、小型なカメラで撮影された作品はフィルムと同様に上映されるようになりました。一方で、今やかなりプライベートな領域にまで及んでいる作品もめずらしくなくなり、時には大きな議論に発展するときもあります。作家と対象の関係は既に多くの研究者に語られている問題でありますが、最近のニュースを見るとその関係はさらに複雑化しているようでもあります。さらにはそれを見る観客も忘れてはならない存在です。ドキュメンタリーと現実の変遷を軸に作家、対象、観客、そしてそれを提供する側(テレビ、配給会社、映画祭)、異なる国と倫理観等、多様な視点を含めた連載を各国からの新たなる執筆者を迎えて、今再び、探究いたします。ケース・バカー氏(DB#24)、ナム・イニョン氏(DB#25)に引き続き、今号は現代中国ドキュメンタリーについてYIDFF '99「アジア千波万波」の審査員であった林旭東氏に執筆していただきました。
編集部
I 新ドキュメンタリー
中国大陸では1990年代初め頃から、取材対象から叙事形式、表現方法、制作技術に至るまで、それまで一般に「ドキュメンタリー」と考えられていたものとは全く趣を異にする作品群が様々なルートを通して人びとの目に触れるようになった。
1991年冬、北京広播学院主催の第1回ドキュメンタリー学術シンポジウムで、これらの作品群は中国で初めて比較的集中的に上映される機会を得た。上映作品には『流浪北京:最後の夢想家たち(原題:流浪北京:最后的夢想者)』、『望長城(長城を望む)』、『沙与海(砂と海)』、『蔵北人家(北チベットの人びと)』、『天安門』などが含まれていた。その後、北京の一部関係者の間では、『望長城』の誕生は「ドキュメンタリーと特集番組」が主流テレビメディアの中で「分化し始めた」メルクマールであり、『流浪北京』は「インディペンデント」ドキュメンタリーの先駆けであると見なされるようになった。
興味深いことに、これらの作品群が生まれる契機となったのは、中央電視台という政府系メディアとの種々の直接的結びつきであった。1988年、建国40周年祝賀事業の一環として、中央電視台の一部の部局では、『中国人』(対外部)、『天安門』(社教部)などの大型ドキュメンタリー・シリーズの製作班が相前後して組織されたほか、中日合作による『長城』(中央電視台〔中国〕、TBS〔日本〕製作班も立ち上げられようとしていた。
当時のテレビ局の関係幹部は、発想の枠組みを一新するために、一連の「内部参考作品」を集めて製作班向けの鑑賞会を実施した。上映作品の中には『中国』(ミケランジェロ・アントニオーニ、1972)、『龍之心』(アンテロープ・プロダクション〔イギリス〕、天龍影業公司〔香港〕、中央電視台〔中国〕、中国新聞社〔中国〕、合作、12回シリーズ、1984)など、西側テレビ局のために製作された中国関連作品も含まれていた。これらの作品を観ることによって、当時の人びとは1960年代以降の国際的なドキュメンタリー製作の発展について一定の専門知識を得ることになった。同時に、若手テレビ関係者たちは、自分の周囲に展開する社会や個人という一見取るに足らない日常的存在も、実は今まさに訪れつつある変容の時代の有力な語り部であり、生き生きとした表現のための有効な資源となり得ることを漠然とながら意識するようになった。折しも当時の各テレビ局では既に、磁気録画システムを採用することが一般的になっていた。このような中国特有の映像制作環境は、新たに喚起された映像表現への意欲に対し、絶妙のタイミングで技術面での可能性を付与することになったのである。
「6・4」事件1 以降、中央電視台では大幅な番組編成上の調整が行なわれ、時宜に適さないと判断された番組はすべて製作を中止された。その対象となったのものの中には『中国人』と『天安門』もあった。『中国人』のディレクターだった呉文光(ウー・ウェンガン)は、この時期、仕事上の便宜を利用してプライベートな記録映像を撮りためていたが、それを編集し、作品化したのが『流浪北京:最後の夢想家たち』(1990)であった。
1989年の後、中日合作の『長城』は、一度は日本側資本の撤退寸前まで行ったが、関係者の不断の努力により遂に完成を見た。1991年11月18日のゴールデンタイムに、中央電視台は中日合作作品『長城』の中国版である『望長城』(12回シリーズ、各回50分)を全国放送し、大きな社会的反響を呼んだ。視聴率はそれまでの中央電視台の同種の番組を上回るものであったし、その影響は台湾地区にまで及び、台湾だけで70万戸の視聴者を獲得するなど、熱烈な反響を引き起こしたのである。
上記の第1回ドキュメンタリー学術シンポジウムでは、一部の作品が賛否両論の議論を巻き起こしただけでなく、非公開の「新ドキュメンタリー宣言」の存在が噂になっていた。実はその数日前、西単(シータン)の路地に立つ張元(チャン・ユァン)の自宅(1994年取り壊し)では、ある小規模な集会が開かれ、大いに盛り上がりを見せていた。数ヵ月後、第16回香港国際映画祭では『天安門』が上映されたが、監督のひとりである時間(シー・ジェン)は、自らの作品を「新ドキュメンタリー」と位置付ける文章をカタログに寄せた。これが「新ドキュメンタリー」という概念が文字資料として公式に用いられた最初のものであろう。
1949年以来中国大陸では、ドキュメンタリーとは国家イデオロギーの媒介物であり、世情に応じたイメージを世間に流布するための道具――「イメージ化された政論」――であると見なされていた。このため中国ドキュメンタリーは、数十年間一貫したスタイルとして、ナレーションが作品の叙述構造を規定していくという表現方法を歴史的に確立させてきたのである。効果音楽を背景に、アナウンサーが粛然として朗々とした職業的な口調で語るナレーションによって、画面で起こりつつある一切に、疑問を差し挟む余地のない解釈を与えていく。このような作品の構造において、カメラがとらえる現実の光景は、ナレーションの内容に対するイメージ上の補足物であるか、単なる背景であるに過ぎない。さらに同時録音などは、あっても無くても構わないほどの補助的位置付けしか与えられないのが常であり、特定の状況下において叙事的な雰囲気を高めるためにのみ用いられるのが普通であった。言うまでもないことだが、こうした作品を製作する際には、当然、事前に綿密に作りこまれたシナリオにのっとった撮影が行なわれる。イギリスの民主的伝統の中で育まれたドキュメンタリー映画の古典的モデル(ジョン・グリアスン「私にとって映画は講壇である」)は、現代中国のディスクール(新中国成立、社会主義建設、文化革命、思想解放)の中で政治的意義を強調されながら発展した。すなわち、本質的にエリート主義の立場から、20世紀中国の不運な近代化の過程をロマンティックに叙述するのである。このような歴史的パースペクティブの中では、様々な事件に対するイデオロギー化された叙述の中で、社会を構成する個人という具体的存在は埋没せざるを得ない。
ドキュメンタリー・シリーズ『天安門』の冒頭部分は、毎回次のように始まる。絵の具を染み込ませた筆を持つ一本の手が、人の眼を描こうとしており、それが毛沢東の眼だということが明らかになる。天安門前には、完成した国家指導者の巨大な絵画が、蒼然とした夜の風景の中にゆっくりと吊り上げられ、その裏側があらわになる。直後に続く黒い画面には次の文字が現れる。「私たちは歴史を尊重する。私たちが生活を尊重するのと同じように」――。「新ドキュメンタリー」という命名は、明確な理論的主張であるというよりもむしろ、何かを表現することへの強烈な願望を表すものだと言えるだろう。1980年代から1990年代への移行期という中国の歴史的ディスクールの中で、一時の狂熱が過ぎ去った後の一見空白となった舞台には、見慣れぬ顔がぽつりぽつりと登場し始めていた。業界内部で行なわれた「ドキュメンタリーの本質」についての討論では、「真実」が「在ること」という概念を戦略的に用い、80年代の大仰で壮大な叙事の転覆が試みられた。そこで皆が申し合わせたかのように念頭に置いていたのは、捲土重来を目論む政治的教条主義であった。そこでは、相対的、具体的、開放的かつ個別的な、ひいては瑣末な「現実」によって、絶対的、全体的かつ空疎で硬直した教条主義的な世界を溶解させることが目論まれたのである。こうして人びとは、ドキュメンタリーの世界で、内容から形式に至るあらゆる領域に及ぶ更新作業が進んでいることに気付き始めた。もはや中国ドキュメンタリーは、得意満面で自説をまくしたてるようなものではなくなろうとしていた。中国的特色を持つ「改名」儀式の中で、よどみない雄弁と教誨に彩られたタイプの作品群には、「専題片(特集番組)」という名の領域が割り当てられた。そこで人びとに示されたのは次のようなことである。ドキュメンタリー作家は、開かれた解釈の空間を平和的方法で観客に提示すべきであり、観客が作品に対して抱くイメージを事細かに規定するべきではない。すなわち、作品の枠組みの重点を、ナレーションから、作品が映し出す事件の過程そのものに移すべきである。カメラは、現場で繰り広げられる種々の生活とその変化をじっと見据え、重要な細部のすべてを可能な限りとらえなければならない。こうして、事態がつねに進行する現場で、事物の行方を臨機応変にとらえる能力は、ドキュメンタリー・カメラマンに必須の職業的資質であると見なされるようになっていった。今や、観客にあたかもその場に居合わせているかのように感じさせる制作上の技術は、何であれ、ドキュメンタリー作家の重んじるところとなった。こうして同時録音の質量もまた、ドキュメンタリー作品の水準をはかる基本的な技術指標と見なされるようになった。これらのことすべては、結果として、より高次の文化建設的意義を持つドキュメンタリー現象を形成した。すなわち、程度の差こそあれ、個としての人間がレンズの前に具体的な存在として立ち現れ始めたのである。
体制内部の作品として『望長城』の新しい点は、個としての人間が登場したことにある。彼らは時に現れ、時に隠れながらも、その姿を、その声を、その生活を、その物語を、その具体的で日常的な存在を、連綿と続く歴史の地層に生じた裂け目から浮かび上がらせた。
『流浪北京』が中国大陸に登場したことの意義はさらに格別なものであった。体制の周縁に位置する若い芸術家たちが「流浪」するさまを描いたこの作品で、呉文光は、個人の視点からこの特殊な時期に生きる人のありようをとらえただけではない。彼は、当時の中国大陸の現実の空間において周縁化された映像製作の方法を実践した。この方法を用いることにより、より大きな可能性をもつ空間を獲得し、目の前で進行するさまざまな事物を現場の直感でとらえることが可能になったのである。
1993年10月の第3回山形国際ドキュメンタリー映画祭では、中国大陸から参加した6作品がアジア・プログラム(後のアジア千波万波)で上映された。『私の紅衛兵時代(原題:1966、我的紅衛兵生活)』(呉文光)、『卒業(原題:我畢業了、SWYCグループ)、『大樹郷』(郝智強)、『青朴――修行者たちの聖地(原題:青朴)』(温普林)、『チベットのカトリック(原題:天主在西蔵)』(蒋樾)、『カムの一座(原題:甘孜喇嘛蔵戯団)』(傅紅星)。これだけの中国大陸のドキュメンタリー作品が国際的なドキュメンタリー映画祭で集中して上映されたのは初めてのことであり、6作品のうち『カムの一座』のみが中央新聞記録映画制作所の製作である以外、残りすべての作品は個人の名義で出品されていた。この映画祭では『私の紅衛兵時代(1966、我的紅衛兵生活)』が、実行委員会がアジア・プログラムのために新設した第1回小川紳介賞を受賞した。監督の呉文光は受賞の後こう語った。「この賞は自分にとってあまりにも重要なものだ」(『新新週刊』)と。
II 中央新聞記録映画制作所
1953年7月7日に設立された中央新聞記録映画制作所は、かつて中国大陸において最も主要なドキュメンタリーの生産拠点であった。その起源は1938年に誕生した延安電影団に遡るが、延安電影団とは、八路軍2 総部(政治部副主任、潭震林(タン・チェンリン)が団長を務めた)直轄の組織であり、中国共産党が直接指揮した最初の映画製作機構であった。
1938年10月1日、陝西省黄陵県黄帝陵前で、延安電影団は、ドキュメンタリー映画『延安与八路軍(延安と八路軍)』(監督:袁牧之、撮影:呉印咸、徐肖冰)のために初めてカメラを廻した。これが彼らが製作した最初の作品であった。当時の物質的条件下においては、映画製作が贅沢な所業であることは間違いなかった。延安電影団のなけなしの資財だった35ミリカメラ1台と5,000フィートの撮影用フィルムは、『四億(四万万人民)』(1939)を撮ったヨリス・イヴェンスの置き土産だったし、もう1台あった16mmカメラとフィルムは、香港から回りまわってやっと手に入れたものであった。『延安与八路軍』の撮影後、ほどなくしてフィルムは使い果たされ、作品の残りの部分は、根拠地3 にあった数少ない写真館からフィルムをかき集めて撮影され、やっと完成にこぎつけた。1997年の山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局ではこの作品を映画祭で上映しようと考えていた。しかし、わざわざ北京に出張に訪れた門間貴志氏が関係機関をくまなく探し回ったものの、さしたる収穫をあげられずに帰国の途につくという結果に終わった。実は、監督本人を除いて中国大陸でこの作品を観た者はいない。現在は中国電影資料館の東、郊外にあるフィルム・アーカイブにこの作品の十数分ぶんの素材が保管されているのみだが、それは1950年代に映画『中国人民的勝利(中国人民の勝利)』を編集する際にソ連の監督がモスクワから取り寄せたものである。1940年、袁牧之(ユアン・ムージー)は、撮り終えたすべてのネガを携えてポスト・プロダクションのためソ連に渡ったが、間もなく独ソ戦が始まったため、そのままソ連に留まることになった。数年後、袁牧之は「空手で」延安に戻ったのである。
当時の中国共産党軍の兵士や、農村根拠地を支えた大多数の民衆は、基本的には識字能力のない人たちによって占められていた。そのため、直感に訴える映画の映像を通してこれらの人びとを教育することは、延安では非常に有効な政治的措置のひとつと見なされていた。戦火の中で製作班を結成し短編ドキュメンタリーを撮影するというスタイルは次第に普及し、国共内戦期には数多くのドキュメンタリー製作班が各戦闘部隊の中で活発に活動した。1949年以降、こうした制作要員の多くが、中央新聞記録映画制作所に集結したのである。
中央新聞記録映画制作所は、『新華社』や『人民日報』と同じく、全国区の国家メディア機構であり、中国国内各地にあまねく記者を駐在させていた。1955年、中央新聞記録映画制作所は短編ニュース映画シリーズを製作の機軸に据える決定を下した。少数の大作ドキュメンタリー映画(『紅旗渠』、『全国人民的心願(全国人民の願い)』、『世界人民公敵(世界人民の共通の敵)』)を除いては、『新聞簡報(ニュース・ダイジェスト)』、『世界見聞』などが同制作所の主要な作品となった。これらの映画は、映画館で本編が始まる前に上映されるのが一般的なスタイルであった。『新聞簡報』は、1本10分の長さで、週に1本ずつ製作され、タイムリーに国政の大事を報道し、テレビが普及する以前の中国大陸では、唯一の視聴覚メディアとして機能したのである。
このような現実的機能を担うことから、中央新聞記録映画制作所の基本的な表現パターンは自ずと定まっていった。すなわち、ナレーションが画面上の出来事の意味を逐一説明するというものである。新聞の読めない人びとにも、目の前で起きていることの意味を誤りなく理解させるという、延安の映画的伝統がここでも引き継がれたのである。
一方、世界のドキュメンタリー界では、1950年代から1960年代にかけて、技術面での飛躍的な進歩を経て、観念から実践に至るあらゆる面で決定的な変化が起こっていた。しかしこうした情報が、中国大陸においてイデオロギーと技術的水準という二重の制約を免れることはなかった。
国内外の政治情勢に迫られ、当時の中国大陸では極めて閉鎖的で鎖国的なイデオロギー体制がとられていた。毛沢東の「階級闘争を決して忘れるな」という呼び掛けのもと、あらゆる外来文化の情報は、帝国主義や修正主義4 の「和平演変」5 の戦略の一環として厳しく警戒されたのである。
1972年のニクソン訪中後、西側から2つのドキュメンタリー撮影チームが中国を訪問した。イタリア外務省の手配で、ミケランジェロ・アントニオーニは、イタリア国営テレビ製作のドキュメンタリー『中国』を撮るため北京を訪れた。1973年1月、『中国』はイタリアで公開された。1974年1月30日、中国共産党の機関紙『人民日報』には、「悪辣なたくらみ、卑劣な手法」と題する文章が掲載され、『中国』を激しく攻撃した。アントニオーニは「反中国の道化役者」、「ソ連修正主義社会帝国主義の共犯者」であるとされ、その後長らく中国大陸で「アントニオーニ」と言えば、陰険で腹黒く、社会主義新中国の恥部ばかりをあげつらって因縁をつける輩の代名詞となった。とは言え、当時、中国の大多数の一般民衆はこの作品を観たことはなかったのだが。
マルセリーヌ・ロリダンの述懐によれば、アントニオーニの「悪行」は、中国の関係当局から、当時『愚公山を移す』(1976)を撮影していたヨリス・イヴェンスにも伝えられた。当局側としては、イヴェンスが表立ってアントニオーニを批判することを期待したのだが、その意図は汲み取られなかった。『愚公山を移す』の完成後、中国文化部の担当官が検閲し、修正意見を出したため、映画は原型をとどめないほどに変わってしまった。微妙な立場に立たされたイヴェンスに、周恩来(チョウ・エンライ)は外務省の随員を通して密かにその意を伝えた。「すぐさまフィルムを携えてここを離れ、二度と戻って来ないように」と。イヴェンスは周恩来の忠告を受け入れた。
様々な思惑が渦巻く政治的空気の中で、中央新聞記録映画制作所の内部では(とりわけ制作の現場に携わる撮影スタッフの間では)、密かに西側の監督の制作方法が議論されていた。長廻しのカメラ、同時録音の使い方、現場での関係性の樹立…。だがイデオロギー的障壁を抜きにしても、当時の貧弱な産業水準から言って、中国ドキュメンタリー映画関係者たちは、ダイレクトシネマが最終的な作品の長さに比べてはるかに多くのフィルムを使うことを前に、ただ尻込みするしかなかった。中国では長期にわたって、国産フィルムの品質が不安定だったために、外国から映画撮影用フィルムを輸入していたが、その使用には厳しい統制がしかれていた(1960年代初めの国民経済の危機と、国際社会からの孤立政策により、中国政府は著しい外貨不足に陥っていたのである)。カメラマンには、できるだけフィルムを無駄にしないような撮影をすることが求められ、時には撮影したフィルムすべてを作品に使用した。1980年代に入っても、某映画教育機関では、授業において次のように教えられていたほどである。「全景8秒、中景6秒、クローズアップおよび近景3〜4秒」と。
1958年5月1日午後7時、北京地区にわずか数十台しかない白黒テレビの画面に、中国で製作された最初のテレビ番組が映し出された。1976年には、北京で放送されるテレビ番組は、極超短波の伝送によって、全国23都市に同時に送られることが可能となった。当時、テレビの保有台数は全国で60万台を超えていたが、テレビの輸入量増加と、海外からの生産ラインの技術移転にともなって、その台数はますます急激な上昇カーブを描こうとしていた。1990年代初めには、保有台数は2億台を超え、今や衛星、極超短波、光ケーブルに乗せられたテレビ信号は網の目のように中国全土を覆っている。
テレビ産業の急速な発展は、まず中央新聞記録映画制作所の存在を脅かした。とりわけ1978年1月にテレビ局によって最初に製作、放送された『新聞聯播』は、『新聞簡報』の役割に完全に取って代わるものであったし、即時性という点では『新聞簡報』をはるかにしのぐものであった。こうした状況に対処するため、同年、『新聞簡報』は『祖国新貌(祖国の新しい姿)』へと形を改め、内容も一部変更した。
1990年代に入ると、中国映画産業は全面的な市場化への転換を迫られた。それ以前からすでに、経済上の損益を自ら引き受ける末端の映画館では、上映コストを考慮して、人気のないニュース映画の上映には極めて消極的だった。1992年、中国電影発行公司(中国映画配給公司)は今後、各映画制作所の作品に対する統一買い付けを行なわないことになった。同年、中央新聞記録映画制作所の短編ニュース映画シリーズはすべて製作中止に追い込まれた(それまでの歴史においては、『新聞簡報』の配給量は毎回300コピー以上になっていた)。中央新聞記録映画制作所は、創業以来の苦境に陥った。1993年、同制作所では、90分の長編が2本と、短編が数十本、合計109本の作品が製作されたが、そのコピーはほとんど売れず、大量の資金が滞留した。
人的資源もテレビ局へ流出した。撮影部に限って見ると、中央新聞記録映画制作所の本来の制度に基けば、新人はまず5〜8年の撮影助手を務めた後、実習課題として4、5本の作品の撮影に撮影助手として参加する。撮影フィルムが500フィートに達し、製作した短編作品が基準を満たした場合、初めて独立して仕事をすることができる。しかし、業務が日々縮小する中、仕事の機会は更に減少した。そこで一部のスタッフ(とりわけ、創造力に富み、やる気のある若手の中核的メンバー)は、「出向」という形で、機会と資金に恵まれているテレビ局に移動したのである。それが、当初、「新ドキュメンタリー」の登場が中央電視台と深い関わりを持つに至った背景でもあった。
1993年10月29日、すなわち一部の中国「新ドキュメンタリー」が山形でまとまって紹介されてから数日後、中国広播電影電視部(中国ラジオ・映画・テレビ省)の副部長・田聡明(ティエン・ツォンミン)は、40年の歴史を持つ中央新聞記録映画制作所を、今後は中央電視台の傘下に組み入れることを正式に発表した。
今日、中央新聞記録映画制作所の正門を通ると、「中央電視台中央新聞記録映画センター」と書かれた小さなプレートを見つけることができる。中央新聞記録映画制作所の現在の所長は、中央電視台の副社長・高峰(ガオ・フォン)が兼任している。高峰によれば、入札方式により、現在同制作所は中央電視台の7番組を製作しているが、これら『記録片之窗(ドキュメンタリーの窓)』、『見証親歴(目撃と体験)』、『名段欣賞(名作鑑賞)』などの番組はみな、実は視聴率の良くない「周縁化」された番組である。中央新聞記録映画制作所の目的は、中央電視台の割当金を得ることによって、当面の運転資金を捻出することにあると言う。
中央新聞記録映画制作所が現在有する最大の資源は、アーカイブに眠る42,000本、合計約7,000時間余の素材である。1997年、傅紅星(フー・ホンシン)はこうした素材を用いて編集した『周恩来的外交生活(周恩来の外交生活)』を完成させ、1998年に公開した。同作は低迷する映画市場にあって3,000万元という興行収入を上げた。2004年、中央新聞記録映画制作所が販売した資料使用権料による収入は190万元に及んだ。
III 中央電視台
中央電視台が正式に開業したのは1978年5月1日であるが、実はそれ以前の20年間は「北京電視台」の名で操業していた。1980年5月、中央電視台は大型ドキュメンタリー・シリーズ『絲綢之道(シルクロード)』の第1回を放送した。この17回シリーズのドキュメンタリー番組は、日本のNHKとの共同出資により、双方の協力体制のもと製作された。撮影されたフィルムはすべて日本で現像し、各自が独自に編集したヴァージョンをそれぞれの国で放送した。中央電視台が同様の方式で製作した番組には次のようなものがある。『話説長江』(1983年放送、25回シリーズ、さだ企画6 との共同製作)、『黄河』(1988年放送、30回シリーズ、NHKとの共同製作)、『望長城』(『万里の長城』、1991年放送、12回シリーズ、TBSとの共同製作)。
『黄河』の素材の一部はテレビプログラム『河殤』にも使用された。このプログラムのスタッフロールには、「走向未来(未来に向かって)叢書」の編集長・金観涛(ジン・グワンタオ)をはじめとするエリート知識人が名を連ねている。当時、中国大陸では開放政策がとられて10年が経とうとしていたが、すでに深刻な構造的問題が露呈しつつあった。当時一部のエリート知識人たちは、中国の伝統文化をたてに、実は敏感な体制構造問題に切り込もうとしていた。『河殤』の制作者たちも、黄河という特殊なイメージを借りながら、「青い大海」を抱こうと極めて象徴的な呼びかけを行なったのである。『河殤』は1988年に放映されるや、国内外の中国語世界で大きな反響を巻き起こしたが、同時に、国内の一部保守的な人びとの激しい怒りも買うことになった。当時の総書記・趙紫陽(ヂャオ・ヅーヤン)の後ろ盾を得て、中央電視台は『河殤』を改めて再放送し、事態はいったん収束したかに見えた。しかし「6・4」以降、趙紫陽は下野し、『河殤』はテレビ界の「ブルジョワ自由化」の代表格として、再び激しい批判にさらされたのである。
『河殤』に対する異議を唱えたのは、保守的勢力のみではなかった。一部の研究者たちの考えによれば、『河殤』の中で重要な事実の根拠として挙げられているものの中にはこじつけに過ぎるものがあり、過度に文学化された政治的主張は新たな形の偏狭さに通じる可能性があると言う。「6・4」後、こうした考えは「新ドキュメンタリー」の実践において多かれ少なかれ影響を与えていく。
1979年9月30日、中央電視台は初めて、広告料を取るという形で、アメリカのウェスティングハウス社の電気機器のコマーシャルを放映した。これは、市場の要素が国家の宣伝機関の具体的運営に既に組み込まれたことを意味するものである。それ以後、テレビ番組の視聴率は、単にイデオロギー的効果の成否を示すのみならず、市場的価値をはかる参考指標ともなったのである。
1993年3月1日から、中央電視台は24時間連続のニュース放送を開始した。国際的な巨大テレビ局の方法を参考に、1993年5月1日午前7時からは、一日の最初の番組として総合ニュース番組『東方時空』をスタートさせることになった。準備のための時間的余裕もなく、資金、人員ともに不足していたため、『東方時空』はその準備過程において前例を見ない2つの特別な許可を得た。1点目は、番組放送時の5分間ぶんの広告収入を番組の製作費に直接当ててよいことである。これにより、番組の視聴率と広告収入は初めて直接的な関係を結ぶことになった。2点目は、番組の実際の製作に際し、プロデューサー請負制を導入することであった。すなわち各コーナーのプロデューサーには、問題なく放送できることを保証するという前提に立った上で、その具体的内容、形式、経費、周期、機材の使用、人員の採用について斟酌する裁量が与えられ、テレビ局側は完成後の作品と、毎年の製作費の予算総額についてのみ関知することになった。
『東方時空』の放送時間は45分であり、当初4つのコーナー――『東方之子』、『生活空間』、『東方金曲榜』、『焦点時刻』――が設定された。その中で『生活空間』は、放送開始時は生活情報番組(「夫婦関係を語る――男性のへそくりは許されるか」、「中年女性の魅力」、「野菜の栄養と家庭での料理」など)として位置付けられていたが、その視聴率は当初から振るわなかった。『東方時空』の製作形態から言って、こうしたコーナーの存続は大いに危ぶまれるものである。当時『生活空間』のプロデューサーであった盧望平(ルー・ワンピン、『流浪北京』のカメラマン)は万策尽きてインディペンデント監督の蒋樾(ジァン・ユエ)に会った。蒋樾は、底辺の民衆の生活を描いた短編ドキュメンタリーを撮ることを提案し受け入れられた。1993年6月13日、老人数人の日常の逸事を語る『東方三侠』が放送されたが、従来のテレビにはないその新鮮さは人びとの耳目を一新するものであった。こうした系統の作品の放送をしばらく続けた後、1993年11月8日、『生活空間』は、「庶民が自らの物語を語る」というモットーを掲げ、普通の中国人の生活を描くことを旨とする短編ドキュメンタリーのコーナーとして自らを正式に位置付けたのである。
具体的条件の差異こそあれ、今やプロデューサー請負制は、中国大陸のテレビ番組製作の基本的形態となっている。これによりインディペンデントのドキュメンタリー作家たちは、プロデューサーと一定の認識を共有するという前提のもとで、テレビ局の各種資源を利用しながら自分の作品を完成させることが可能になった。こうした方法によって、段錦川(ドゥアン・ジンチャン)は『八廓南街16号』(製作:魏斌・紮西達娃、1996)、『天辺(天の果て)』(製作:紮西達娃、1996)、『加達村的男人和女人(加達村の男と女)』(製作:紮西達娃、1996)、『沈んだ財宝(原題:沈船)』(製作:魏斌、1998)を撮り、蒋樾は『停められた河(原題:被静止的河)』(製作:魏斌、1999)を撮り、李紅(リー・ホン)は『鳳凰橋を離れて(原題:回到鳳凰橋)』(製作:李暁山、1997)を撮ったのである。
とは言え、中央電視台が政府の「宣伝」機関であるという性質上、上記のような共同製作の空間は限定的なものとならざるを得ない。『八廓南街16号』が1997年のパリのシネマ・ドゥ・レエルでグランプリを受賞すると、同作は、中央電視台制作のドキュメンタリーが「国際的水準」に達したことを示す一例として『中央電視台発展史』(北京出版社、1998年8月)に書き加えられたが、『八廓南街16号』がテレビ放映されたのは2001年8月になってからのことである。それも100分のオリジナル・ヴァージョンではなく30分に編集されたヴァージョンが、深夜23時30分という時間に放映されたのである。
中国大陸のドキュメンタリー番組としては、『生活空間』は最大の影響力と最長の寿命を誇る番組のひとつであった。その実践の中で次第に「普通の庶民の運命を通して、ある時代の歴史を記録する」というプログラムの主旨が明確になり、7年の長きにわたって、週に5、6本のペースで短編ドキュメンタリー(8〜10分)を放送し、その水準にばらつきはあったものの、安定した視聴者を一定期間獲得した。1995年5月22日からはリニューアルされた『生活空間』が放送された。このリニューアルにより、毎日ひとつの「庶民の物語」を「語る」という形式から、毎日一段落ずつ「語る」ことにより、1週間を通してひとつの「庶民の物語」を構成するという方式に改められた。それは、中国の伝統的な章回体7 小説に着想を得たもので、次回の展開に寄せる思いによって高められた叙事のテンションが、その後に続く表現空間に入り込むことによって、より一層人の心に迫る生活の物語が展開された。
『我想飛(飛びたい)』(龍鴻雁、1995年5月22〜27日放送)は四川の普通の農夫を描いた作品である。その農夫には、自分で組み立てた飛行機を操縦して飛ぶという夢があった。ついに彼が空を飛ぶ日がやってくる。
『母親』(海天、1995年5月29日〜6月3日放送)の主人公は90歳の老女である。彼女はある問題のために子女とともに法廷で審問を受ける。その背景には、ひとつの家族の変わり行く姿と、情と恨みが折り重なる。
『考試(試験)』(郭佳、1995年6月19〜24日)が始まるのは、中国大陸の音楽の最高学府である中央音楽学院の入試が迫る時期である。地方出身の数人の女子生徒たちが親に付き添われて北京にやって来て入試に備える。年齢にそぐわない過度の重圧に耐えながら、彼女たちは皆落第してしまう。
これらの諸番組は放送されるや大きな反響を呼び、その視聴率は一時『新聞聯播』を上回るほどであった。こうして特に否定的反応も聞かれない中で突如、リニューアルされた『生活空間』は、第8シーズンを終えたとき打ち切りを命じられた。理由は不明である。非公式な伝聞によれば、その要求は中国共産党の中央宣伝部からのものだと言う。確証も得られぬまま、その命令は厳格に実行された。この事件を通して、「中国的特色」を持つ体制の力の所在を感じることができよう。
中央電視台のような組織においては、ある事業の成否や進退は、制度的要素というよりも、偶然的な人的要素によって決まることが多い。2001年9月、当初のプロデューサーの栄転にともない、『生活空間』の栄光はついえ、製作に携わったスタッフは四散し、視聴者は流出した。
現在、中央電視台が常設しているドキュメンタリー番組は以下の通りである。『見証』(30分番組、毎日深夜1時16分放送)、『紀事・行進中的中国影像』(45分番組、土曜日23時15分放送、日曜日11時10分再放送)。番組の放送時間から見ても、これらの番組の周縁化された状況がうかがわれる。経済の全面的市場化にともなって、中国大陸の政府系テレビ局は、経済とイデオロギーの狭間にあって、消費および娯楽メディア時代への適応を推し進めている。視聴率は番組のてこであり、中央電視台では「最下位淘汰制」を設けている。つまり、長期間視聴率調査の最下位を占める番組は打ち切りになるのであるが、これはプロデューサーを強く規制するものとして働いている。
IV 民間ドキュメンタリー
今日の中国大陸で、最も深い洞察に富み、活力に満ちたドキュメンタリー作品は、ほぼすべて民間から生まれていると言っても過言ではない。かつての「新ドキュメンタリー」の担い手たちは、そのほとんどが今は実践の現場から離れている。新世代のインディペンデント作家の成長と、中国大陸に次第に広まるデジタルビデオ技術は、密接不可分な関係にあるため、彼らはデジタルビデオ世代とも呼ばれている。
1997年前後から、様々な規格とサイズのデジタルビデオ機器が北京の市場に出回り始めた。この、相対的に安価で、比較的取り扱いやすいデジタルビデオカメラの映像の品質が知られるようになると、デジタルビデオを用いて自分の作品を撮ろうとする人びとが現れ始めた。とりわけ、もともと各種の映像制作組織とは無縁で、映像による表現を実現する機会に恵まれなかった人たちの参入が目立ったが、その突出した例が、『老人(原題:老頭)』の監督である楊天乙(ヤン・ティエンイー)である。彼女はそれまで体系的な映像の専門的訓練を一切受けていなかったが、その作品は女性ならではの暖かさと細やかさに満ち、老人たちの生命の帰趨は、彼女のレンズの前で人間性の挽歌を織り成したのである。
王兵(ワン・ビン)の『鉄西区』のポリフォニックな叙述は、作品の中で叙事詩的構造を作り上げる。ただれたような工場地域で、監督は、全体の広がりを視野に収めつつ、悪夢のような実存について細部をたゆまず掘り下げる。9時間を超える作品は、ゆっくりと展開する長編小説のように、数十人の生活世界を油絵のような映像の中に質感豊かに描き出し、登場人物たちの運命は説得力を持って大多数の人びとの日常的経験に引き寄せられる。
胡新宇(フー・シンユィ)の『男人們(男たち)』は、再び「真実の現れ」についての興味深い問い投げかける。現在は恐らく過去のどの時代よりも、映像を用いた「真実の現れ」について習熟した時代である。その基礎の上で我々がさらに考えなければならないのは、次のような問題である。こうした「真実の映像」を用いて、人の心の中と、人の想像をいかにして表現するのか。また人間の精神の存在に向き合うとき、ドキュメンタリー作家は一体何をなすべきなのか。
今日、中国大陸でデジタルビデオを用いて自分の周囲の生活を記録している人はすでに何千何万人にも及び、自覚的に映像を使った表現を試みている人も決して少なくはない。こうした自発的な民間の創作物は、一種サロンのような形式で、バーや大学といった場所で非公式かつ小規模に上映されるのが一般的だ。
ごく少数の作品は、国際映画祭のルートを通して国際市場に参入する。BBCは『鳳凰橋を離れて』を買い付け、ARTは相前後して『老人』と『水没の前に(原題:淹没)』を買い、MK2は『鉄西区』を配給した。
しかし大多数の作品は、いつの間にか生まれてはいつの間にか民間の中に埋もれていく。中国ドキュメンタリーの健全な成長を望む人びとは、こうした民間の記録のために、中国国内に交流のための共通のプラットフォームを設けることを目標に、長年努力し続けてきた。
『南方週末』はその独立した観点により、読者から高い信望を集めている新聞である。2001年9月、『南方週末』の肝入りで北京電影学院を会場に「インディペンデント映像展」が開かれた。映像展は実験映画、劇映画、ドキュメンタリーの3つのセクションから構成され、杜海濱(ドゥ・ハイビン)の『線路沿い(原題:鉄路沿線)』がグランプリを獲得した。しかし、この映像展は政府当局からの訴えにより日程途中で中止になった。その後『南方週末』関係者全員が上級組織に対して自己批判を行なった。
2002年1月、香港に登記している「鳳凰衛視(フェニックス衛生テレビ)」は、『DV新世代』という番組をスタートさせた。このテレビ局の特殊な性質のおかげで、一部インディペンデント作家の作品は、この番組を窓口に次々と観客との出会いを果たした。その中には楊天乙の『老人』や杜海濱の『線路沿い』、朱伝明(ジュー・チュアンミン)の『群衆演員(エキストラ)』などがあった。しかし、政府系テレビ局のような厳格なイデオロギー検閲はないものの、放送形態がボトルネックであった。番組の放送時間は毎回15分しかない上、途中にコマーシャルが1回入る。そこで最終的にはやむなく折衷的な方法が採られることになった。すなわち、作品全体を50分前後に編集し、5回に分けて放送するのである。さらなる難題は、これら民間の作品の質と量を把握することだったが、それが解決されることはなかった。クオリティの一定しない作品群に、なかなかスポンサーはつかず、2003年に番組は打ち切りとなってしまった。
雲南という特殊な人文地理環境は、これまで様々なタイプのドキュメンタリー製作者たちを引き付けて来た。2003年3月、「雲之南人類学映像展」で上映された、1950〜60年代撮影の民族誌映画を人びとは驚きをもって再発見し、当時の中国ドキュメンタリーのすべてをニュース映画と同一視する認識は変更を迫られた。この映像展は、中国ドキュメンタリー界の様々な「声」の「対話」のためにひとつの場所を提供することを主旨として、雲南省博物館によって主催された。2年後には、雲南社会科学院の主催により第2回「雲之南映像展」が、昆明に新たに落成した雲南図書館を会場に開催された。映像展では、98本の、その多くが民間に埋もれていたドキュメンタリー作品が3つのセクションに分かれて上映され、4つの上映会場は興味を持つ観客すべてに無料で開放された。主催者は、「思想宣伝と商業主義的動機」以外の地平に「国内ドキュメンタリー」発展の「方向性」を探ろうと心血を注いでいた。
V 牛戦宗(ニゥ・ジャンゾン)の物語
――決して結びではなく
それはあたかも小川紳介のレンズがとらえた三里塚のようであった。2005年6月11日、北京から200キロ足らずの中国河北省定州縄油村。早朝4時30分頃、乗用車やトラックに乗せられて来た、ヘルメットと迷彩服姿の、棍棒や鉄パイプを手にした300余人が、村南部の空き地に臨時のバラックを建て寝泊りをしていた村民たちを襲った。混戦の中、村民6人が死亡し、48人が負傷した。事件の原因は、378ムー8 の肥沃な田畑の徴用に対して、現地住民と河北国華定州電力会社が衝突したことにあった。村民の牛戦宗は、現場に自分のデジタルビデオカメラを持ち込み、混戦の場面を撮影した。この3分間の映像のために彼は追っ手の襲撃にあった。ビデオには、少なくとも6人の男が牛戦宗に殴りかかる様子が記録されている。牛戦宗が村の仲間に助けられた時、その体は無数の傷に覆われ、左腕は骨折していた。しかしそれと引き換えに守り通した3分間の映像はすでに、暴力行為者の凶行を暴く重要な証拠となったのである。
この物語は、いかなる美学とも無縁に思われるし、さらには従来の撮影倫理の討論を無効にしかねないものである。しかし、映像が過剰に使用され解釈される時代にあって、牛戦宗の物語は、最も普遍的な常識の地平から、我々に映像の基本的効能を説き、今の中国になぜ記録が必要なのかを説くのである。
(2005年8月北京)
――翻訳:秋山珠子
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訳注:
1. 1989年6月4日の天安門事件。
2. 国民革命軍第八路軍。中国共産党指導下の抗日革命武装勢力。のちに改編され、中国人民解放軍として編入される。
3. 武装闘争を展開するために中国共産党が中国各地に作った革命根拠地。
4. マルクス・レーニン主義を修正、改竄しようとする勢力の意。
5. 社会主義から資本主義へ平和的に変化、転覆させること。
6. さだまさし。日本での公開タイトルは『長江』
7. 中国の長編小説の形式のひとつ。全編を分割して各回にタイトルをつけ、その回の内容を概括する形式。
8. 土地面積の単位。1ムーは6.667アール、15分の1ヘクタール。
映画評論家。映画の研究と批評を専門とし、『中国の映画:第六世代か?』(1995)『中国の「新ドキュメンタリー」について』(1996)などを執筆。YIDFF '99「アジア千波万波」では審査員を務める。
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