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映画のドキュメンタリー性の変遷第2弾

韓国のコミッティド・ドキュメンタリーの15年
――『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』から
『送還日記』にいたるまで

ナム・イニョン


 映画のドキュメンタリー性の変遷シリーズは1995年の映画100年を記念して本誌にて映画と現実の関係と歴史を探るべく、小松弘氏(DB#5)、ビル・ニコルズ氏(DB#6)、マイケル・レノフ氏(DB#7)、粉川哲夫氏(DB#8)を執筆者に迎え連載を掲載させていただきました。あれから10年、山形映画祭のインターナショナル・コンペティションでは応募条件のフィルムのみからビデオへの拡大があり、小型なカメラで撮影された作品はフィルムと同様に上映されるようになりました。一方で、今やかなりプライベートな領域にまで及んでいる作品もめずらしくなくなり、時には大きな議論に発展するときもあります。作家と対象の関係は既に多くの研究者に語られている問題でありますが、最近のニュースを見るとその関係はさらに複雑化しているようでもあります。さらにはそれを見る観客も忘れてはならない存在です。ドキュメンタリーと現実の変遷を軸に作家、対象、観客、そしてそれを提供する側(テレビ、配給会社、映画祭)、異なる国と倫理観等、多様な視点を含めた連載を各国からの新たなる執筆者を迎えて、今再び、探究いたします。前回のケース・バカー氏に引き続いて、今回はナム・イニョン氏に韓国におけるこれまでの15年間のドキュメンタリー映画の状況を執筆していただきました。

編集部


 「重要なのは映画自体ではなく映画によって触発されたものだということを悟った。」1

 社会の民主化と映画の関係を探求する多くの研究者と制作者がドキュメンタリー映画に注目してきた。社会の民主化とドキュメンタリー、ひいては社会の変化を引き起こすうえでドキュメンタリー映画がどのような影響を与えたかという問題は、多くの争点を提起している。学会からも実践的な制作者たちからも、これに対する明快な答えが提出されたことはない。ジェーン・ゲインズは、ドキュメンタリー映画が社会の変化を “生産”したと何を根拠に言えるのかと問うている。コミッティド・ドキュメンタリーの定点と呼ばれているグリアスンの『流網船』(1929)、『住宅問題』(1935、エドガー・アンスティ、アーサー・エルトン)などの遺産は、政治的な観点を採ることを回避するにすぎない“バランスのとれた”現代のテレビ・ドキュメンタリーに受け継がれたのであり、グリアスンのドキュメンタリーは実際に社会的闘争の文脈から上映されたことはなかった、というのである。2 ブライアン・ウィンストンは、グリアスンのドキュメンタリーは極めて限られた人々のみが見ているという点で、社会の変化どころか“影響”を与えたとみることも難しいと指摘している。3

 ドキュメンタリーが社会変化の正統性をもつという神話は、ドキュメンタリーが社会現実に対して強力な主張をなしうる特定の種類の映画だと思われていたことと関係がある。ドキュメンタリーのこのような威力についての考えは、記録されたイメージと、それが表象される現実との特殊な連関性に基づいている。ドキュメンタリーは実際の歴史と人物をカメラを通して記録するという点で、現実と存在論的連携をもつということである。このようなドキュメンタリー映画の指標性は、真実の主張において重大な役割を担っている。ビル・ニコルズは、劇映画のリアリズムが現実に対する“不信の停止”に基づくならば、ドキュメンタリーのリアリズムは映画が扱っている事実がいかに信頼しうるかに基づいていると指摘している。私たちは、ドキュメンタリーによって再現された世界が、私たちが居住して共有している歴史世界の一部だという感をもつ。状況と事件を相当に忠実にフィルムとオーディオテープの性能を通して、私たちは自分で実際に見られる人々や場所、事物を映画の中に見い出す。これらの性質だけでもしばしば信頼の基礎を提供するのである。4 このようなドキュメンタリー映画のイメージの特性は、観客を映画に関与させる方法にも差をもたらす。ドキュメンタリーが表象する現実が観客の属する現実と同一線上で始まっている点は、観客にドキュメンタリーをイマジネーションやエンターティメント用の物語と思わせることを妨げ、自分が属する現実への痛みと関連させるのである。コメンテイターやインタビューの存在は、しばしば観客に直接言葉を投じることによって、このような観客の位置を確認させる。このようなドキュメンタリーの慣習は、ドキュメンタリーが現実に対する強力な主張を展開して、ひいては観客の現実認識と行動に変化をもたらしうるのだという神話を維持することに寄与してきた。

 ドキュメンタリーが社会変化に影響を与えたということが証明不可能な神話にすぎないとしても、私には制作者自身がもっている社会現実に対する問題意識と社会の変化に対する熱望によって充電されたドキュメンタリー映画のほうがいっそう興味深い。ジガ・ヴェルトフの作品、“第三映画”の範疇に入ることのできる非西欧ドキュメンタリー、西欧社会の周辺化された主体の声を盛り込んだドキュメンタリー、いくつかのケースだけを思い浮かべてみても、社会の変化を熱望するドキュメンタリーは、“真実”と共に/あるいは“真実”に反して戦いを挑まざるをえないからである。そして、このように“真実”に疑問を呈することによって、既存ドキュメンタリー映画の言語を反省させ、オルタナティブな真実構築の場を開いてきた。このような点で本当に「ドキュメンタリーが社会の変化に影響を与えたのか」という実証主義的疑問は、変えていくべきだと思われる。ドキュメンタリーが世の中を変えるという命題は、啓蒙主義的な落とし穴に嵌りやすい。またこれは特定のドキュメンタリーの慣行を何の問いもせずに仮定してしまいやすい。カメラの後ろにいる人を見えない主体とし、カメラの前にいる人を見せる対象として分離する制作方式、その結果、観客は見世物の消費者となり、カメラの後ろにいる人は啓蒙されるべき対象となってしまう。トーマス・ウォーはコミッティド・ドキュメンタリー を、社会を変えたドキュメンタリーではなく、社会を変えようとする進歩的な熱望によって作られたドキュメンタリーと定義しようと提案している。そのような熱望が制作主体と対象の分離からくる権力関係を変えて、相互的で水平的なコミュニケーションの方式を探求すべく推進力となる。同じように、ナイーヴすぎる、あるいは最悪の場合にはイデオロギー的なペテンだ、としばしば評価されてきた映画の指標性とドキュメンタリー・リアリズムに対しての疑問も変えてみる必要がある。主流から追いやられた集団が社会の変化を渇望する時に、リアリスト・ドキュメンタリーを媒介として変化に対する確信と意志をどのように強化させるのかというようにである。アレクサンドラ・ジュハズは、リアリズムは過去数十年間に評価されてきたよりもはるかに、より大衆的で多元的な政治的効力をあげられると言う。リアリズムの様式も、制作費の調達方法、装備、様々な権力や資本と結託する慣習的イデオロギーの立場などによって変化しうる。新たな見解や新たな主観性、個人の柔軟で潜在的な政治力、集団的アイデンティティや集団的行動などの関連性を認識しうるディスクールの領域と関係する場合、自身の実際の経験を語る女性の“リアルな”イメージは、アイデンティティを再構築するひとつの戦力となりうるということである。5

 このようなドキュメンタリー制作において重要な点は、制作側である主体と対象との関係である。主体はカメラの後ろでイメージを操縦する隠れた権力者ではなく、ドキュメンタリーのイメージを通して自らの声と存在を可視化しようとしている表象される人々との水平的な対話相手となる。このような制作方法においては、フィルムメーカーと対象間のヒエラルキーが崩壊し、区分が不可能になる。いまや彼らは主体と対象の関係ではなく、ドキュメンタリーイメージを通して共に意味を作り出していく主体/パートナーとなるのである。

 キム・ドンウォン監督の2作品、『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』(1988)と『送還日記』(2003)は、このような諸問題を探るうえで興味深い事例を提供している。おそらくこの2作品は、韓国インディペンデント・ドキュメンタリー作品の中で、国内外を通じてもっともよく知られた作品でもある。1988年のソウルオリンピックを前に、都市景観の浄化という趣旨で実施されたソウルの貧民村住宅強制撤去と、これに対する居住民の抵抗を扱った『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』は、韓国インディペンデント・ドキュメンタリーの試金石となった。15年後に発表された『送還日記』は、北朝鮮の政治工作員として南に派遣されて逮捕され、韓国政府から政治的転向を求めて懐柔と脅迫を受けつつも、それに屈せず自らの信念を守ってほとんど半生を監獄で送らねばならなかった人々の物語である。この2作品もまた韓国インディペンデント・ドキュメンタリー映画におこった転換をあらわす作品である。2作品とも共同体的なアイデンティティが主題となっているが、それを眺める視点は同一ではない。本論ではこの2作品を中心に、このような変化の文脈を推し量り、ドキュメンタリーの主体性の意味を探ってみようと思う。

コミッティド・ドキュメンタリーとしての『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』

 韓国映画におけるドキュメンタリージャンルは1980年代後半に“誕生”したといってもよいであろう。あれほど多くのドキュメンタリーが突然に登場して注目を惹いたことはなかった。ドキュメンタリー的な要素は、単にドキュメンタリーと呼ばれていた作品群にのみに限られるものではない。実際に農民が自分たちの生き方をもとに構成されたシナリオに従って演技している『青い鳥』(1985、ソウル映画集団)や、 実際にストライキ中の事業所でストライキ中の労働者とともに撮影された『ストライキ前夜』(1989、チャン・ドンホン、チャンサンコメ)にも発見することができる。劇映画に現実を記録した資料画面を入れる手法は多くの短編映画で採られているだけでなく、『波羅羯諦/ハラギャティ』(1989、イム・グオンテク)のような既存の劇場上映用の劇映画でも、学生デモのニューズリールを挿入する場合が見受けられる。ならばなぜドキュメンタリーなのか? 特にドキュメンタリー的再現がストライキやデモなどの社会的葛藤が爆発する場所に、特に集中していたという点は何を意味しているのか?

 多くの学者たちは、リアリズムとは、意地悪なステレオタイプや偽りに対抗することを願う抑圧された集団が最初に拠り頼むものだと指摘してきた。リアリズム的表象は、政治的に重要でありながらも視野からは通常隠されてきたものを見せてくれるというところが効果的だというのである。ジェーン・ゲインズは 「左派メディア活動家たちは、自らが“残忍な現実”のイデオロギー的ヴァージョンに対抗するために、その残忍な現実を指摘する表象が政治的に緊要である場合には、表象に“対して”抽象的な分析をおこなったり、教育的な言明に着手するような余裕はもてない」と指摘している。6 このような指摘は少なくとも1980年代の韓国社会においてドキュメンタリーがいかなる性格を帯びていたのかを理解するうえの一助となる。

 1980年代は韓国社会の“残忍な現実”が皮膚で感じられた時期だといえる。なによりも1980年代は社会的危機が全面に表出した時期であった。1960年のクーデターによって民主的な手続きを踏みにじって登場したパク・チョンヒ政権の長期執権は、政治経済的な対外従属性と軍部の権威主義による民主的な諸権利の剥奪、独占資本の膨張と抑圧的な労使関係の深まりを生み出した。権力基盤が揺れるたびにパク・チョンヒ政権は、強圧的で物理的な統制政策をとらざるをえず、言論と芸術に対する法的、政治的統制もいっそう露骨に変化した。このため社会運動は、平素は地下運動の方式をとっておいて一挙に爆発するという形態を帯びた。1980年の光州抗争(光州事件)をきっかけに社会運動は大衆運動へと転換しはじめ、1987年の6月抗争と7、8月の労働者闘争を経て、知識人や学生だけではなく労働者、農民、都市貧民などが参加する“民衆”運動へと変貌しはじめた。大衆闘争の空間が形成され、労働者たちのストライキとデモが全国的な規模で展開されるなかで、1880年代後半にはこのような大衆闘争が韓国社会の現在と未来の方向を定める核心的な指標となった。

 韓国インディペンデント・ドキュメンタリー映画が1980年代に“誕生”したという表現が可能なのは、それ以前にドキュメンタリーと呼べる作品がなかったからではなく、このような歴史的状況と分離できない関係があるからである。大衆空間と大衆組織の出現は、それにみあう大衆的な疎通方式の必要性を台頭させ、映像メディアがもつ大衆的吸引力に対する関心を触発した。1982年のソウル映画集団を始まりに、1980年代後半には民族映画研究所、ハンギョレ映画製作所、労働者ニュース・プロダクション、チャンサンコメ等、いわゆる映画小集団群が生まれた。これらの団体の存在方式は韓国映画の地形に新たな流れを示すものであった。人員構成面では、既存の映画界内部で活動してきた人々ではなく大学生や大学を卒業した人々で、抵抗的民族主義や共同体文化論を基盤として展開してきた文化運動の影響下で成長した人々が大多数をしめていた。共同体文化論は、堕落した資本主義文化に対するオータナティヴとして健康な生活様式としての共同体を対立させ、映画小集団の概念はこのような共同体性を創作組織の構成にも影響を与えるものであった。彼らは自分たちの映画制作活動を社会運動として考えた。大衆闘争の展開は、映画小集団に属してきた制作者たちがそのような共同体的イメージを確認して再生産する道を開いた。大衆闘争が本格化する1987年以降、映画運動として制作された諸作品は、大衆闘争の現実を“記録”するという点に集中していた。このような作品群の中心となった事件は大衆集会や大衆デモである。大規模デモと集会は、国家権力や矛盾構造に対する不満と、このような権力関係を変えようとする大衆の熱望の程度を表す標識となる。このような作品群が社会的な呼応を得ることができたのは、作品自体の論理的訴求以前に、社会変革に対する大衆的熱望が噴出していた当時の状況との関連が深い。

 教育やプロパガンダ用として制作され、配給された作品群が韓国インディペンデント・ドキュメンタリー映画の出発点であったということは重要な意味を帯びているといえる。このような作業はビデオアクティヴィズムとして定着し、現在も多数のインディペンデント・ドキュメンタリー作品がこのようなビデオアクティヴィズムの一環として制作、配給されている。ビデオアクティヴィズムは、美学的な側面に注意を傾けるよりは、情報共有という側面でメディア権力を平らにして、分散させることを追及している。したがって、メディア権力から疎外されてきた社会的他者の共同体がメディアをどのように組織するのかが鍵となる。7 韓国のアクティヴィストビデオは、制作者と他者共同体が関係を結ぶ方式によって、いくつかの系列に分類することができる。第1に、制作者あるいは制作団体と他者共同体が企画、制作(撮影及び編集)、配給にいたるまでの全過程を共同で担当する場合である。現代重工業労働組合と合同で制作された『戦列』(1991、ドキュメンタリー作家会議)、保険医療労組青丘ソンシム病院支部と合同で制作された『しっかりと一歩ずつ』(1999、テ・ジュンシク、労働者ニュース・プロダクション)等がこのケースである。『しっかりと一歩ずつ』は、ストライキ中の病院労組員たちの篭城場所にゴロツキを動員して暴行を加える雇用者側の非倫理的な妨害活動を告発する作品で、労働者らが撮影した映像が大きな比重を占めている。第2に、社会団体や地域共同体のメンバーが、インディペンデント・ドキュメンタリー制作者から映像制作方法や技術を教えられ自ら映像物を制作する場合である。インディペンデント・インターネット放送局「労働の声」や労働映画祭、市民映像祭等を通して紹介される諸作品がこのケースに属する。第3に、フィルムメーカーが社会運動団体あるいは市民団体の注文を受けたり、これらの団体と共同で企画し製作する場合である。作品が製作された後はこれらの団体が作品の主な配給窓口となる。このケースに属す作品としては『メディアの森の中の人々』(1995、プルン・プロダクションとクリスチャン・アカデミーが共同製作)、プルン・プロダクションとカトリック都市貧民司牧会が共同製作した『ヘンダン洞の人々』(1996、キム・ドンウォン)とその続編である『もうひとつの世界』(2000、キム・ドンウォン)、『太陽を射て!―韓国映画人が熱く燃えた日』(1999、ソウル映像集団とスクリーン・クォーター監視団の共同製作)、『私は日ごとに明日を夢見る』(2001、女性労働者会製作)等をあげることができる。第4に、制作者自らが共同体の一員となって彼らと生活を共にしつつ、制作を遂行しているケースである。生活訓練を受ける精神障害の人たちを扱った『幸せということ』(2000、リュ・ミレ)は、教師という職業を得て共同体の一員として生活しながら制作した作品である。サブク鉱業所の職場閉鎖を扱った『塵の家』(1999、イ・ミヨン、ユ・ホング、アン・セジョン)、米軍の爆撃練習場問題を描いた『梅香里へ帰る遠い道』(2001、コ・アン・ウォンソク)等は、制作者はこのような具体的な役割を担ってはいないが、共同体内に長期間滞在しながら制作した作品である。このような制作方式においては、制作の結果よりは制作過程がより重要な意味を帯びている。制作過程でおこる共同参与と相互作用は、共同体のメンバーそれぞれが共同体の意味を再構築して自覚を向上させるのである。

 キム・ドンウォンが撤去される人々とともに生活しながら作った『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』は、フィルムメーカーが共同体の一員となって生活しながら制作するアクティヴィストビデオの原型だといえる。この作品は「上渓洞撤去」シリーズの3部にあたる作品で、「上渓洞撤去」第1部は1986年10月に3日間続いた撤去の過程を入れたニューズリール形式のビデオとして制作された。「上渓洞撤去」第2部は、1986年11月と12月にあった強制撤去の執行過程と、これに抵抗する住民たちを制圧するために再開発業者が雇用したゴロツキらの横暴を中心に構成された。第3部にあたる『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』は、1部と2部に使われたフィルムと新たに撮影したフィルムを合わせて作った、より長い作品で、1986年から1年余りを上渓洞から明洞聖堂の篭城場所へ、再びソウル郊外へと追いやられつつも、散り散りになることなく強制撤去に抵抗する撤去民共同体の旅程を描いている。

 上渓洞撤去民共同体は200余名の借家人と、彼らと生活をともにしてきた神父や修道女、大学生らで構成され、1年以上も闘っていた。キム・ドンウォンは子どもたちのための塾を運営しながらこの共同体の中で生活することになる。このように、制作者自身が共同体の一員となっていく過程は「上渓洞撤去」シリーズのナレーションの変化からも読みとれる。もっとも明らかな変化はナレーション担当者と視点に表れている。第1部のナレーションはキム・ドンウォン自身が書き、自分の声で録音した。3人称の観察者の視点である。第2部は住民のひとりが1人称で書き、自分の声で録音した。第3部のナレーションはキム・ドンウォンが書き、住民たちの検討を受けた。1人称ではあるがキム・ドンウォンではない住民の声で録音した。第2部のナレーションのやり方を決めた脈絡についてキム・ドンウォンは、3人称を使うには自分があまりにも住民たちと近づきすぎていて、1人称を使って自分で書くには自信がなかったからだと語っている。一方、第3部は自信をもって書くことができたと語る。このようなナレーション作業の変化は、ドキュメンタリーの制作者が対象とどのような関係を結んでいくのか、そしてその関係がどのように変化するのかを示している。第1部で制作者は、表象された共同体の外部に位置している。制作者と対象の分離も明らかである。第2部で制作主体は、制作者と制作対象がともに担当している。しかし第1部とたいした時差をおかずに制作された第2部で、制作者と制作対象の関係は、互いに干渉しない機能的な役割分担の次元であったといえる。しかしこのような過程を通して撤去民共同体の住民は、制作者と分離された撮影される“対象”から制作主体へと転化されはじめる。第3部では制作主体はすでに共同体の外部に位置してはいない。カメラをもつキム・ドンウォンは上渓洞住民のひとりとなっており、他の住民たちにも撮影を任せた。集団的な声はこのように制作者と制作対象が相互浸透する経験を基盤として正当化されうるのである。

 『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』によく登場する子どもたちのイメージは、カメラが共同体の一部であることを示す代表的な例である。子どもたちは時々カメラを意識してそれを正面から眺めて親密感を示したり、まるで家族を出迎えて喜ぶ子どものように、カメラに向かって近づいてきたりする。子どもたちにとってはカメラの凝視が、外部との不慣れで怖いものではなく、カメラをもった塾の先生、あるいは隣のおばさん、おじさんとの嬉しい出会いを意味しているのである。カメラとカメラの前の対象の分離や境界は崩れている。このドキュメンタリーの最後の部分に登場するクレジットには、作った人たちの具体的な名前がまったく記されていない。ただ「制作:上渓洞撤去民」とクレジットされている。より重要な点は、このビデオドキュメンタリー制作過程が、住民たちの闘争に直接的な影響を与えたという点である。

「上渓洞で最初に経験したことだが、機動隊が写真を撮り始めると、闘っていたおばさんたちがとにかく臆してしまう。では私が機動隊にカメラを向けるとあちらの気勢が衰えるのではないか。ああ、だからカメラは権力だというんだなあと実感した。」8

「昼間の闘いを撮影した画面を夜住民たちに見せると反応がとてもよかった。自分が主人公として出てきた画面を見ながら、自分たちを改めて考える力を与えているようだった。撤去がおこなわれると、警察とゴロツキらがその前にのさばっているので、住民たちは萎縮したりもした。しかしカメラがあれば住民たちは進んで出て行った。カメラで撮り、撮られつつ、自負心をもつように思えた。」9

 この映画におけるヴォイスオーバーのナレーションの独特な使用は、共同体的映画制作の特徴をより鮮明にしている。トーマス・ウォーは、コミッティド・ドキュメンタリーの先駆的作品として知られるヨリス・イヴェンスの『スペインの大地』(1937、アメリカ)を分析して、作家であるヘミングウェイが担当したナレーションの声について論じている。当時の観客にもっとも衝撃的であった点は、ナレーションの人格的な性質であった。低くて荒っぽく正直な声は、この作品に個人的な思いを伝えている。この声は、プロの声優によって読まれる、すべらかで艶のある権威的な“神の声”のごときナレーションで有名となって当時多くのドキュメンタリー制作者たちが模倣していた『時の進行』(1935)とは実に対照的である。匿名の声の代わりに、ナレーターは生き生きとした登場人物となって、事件の主観的な目撃者であり参加者となっている。10 1980年代に韓国の主流をなしたテレビ・ドキュメンタリーもまた、プロの声優のすべらかな声で進む、全知全能で権威的なナレーションの使用が慣行化されていた。特に政治的な主題を扱うドキュメンタリーは男性がナレーションの声を担当することが多かったが、このような慣行は家父長的な権威に拠り頼むものだといえる。これと対照的に『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』のナレーションを担当する女性の声は、そっけなく不器用で脱権威的である。11 上渓洞で強制撤去により家を失い明洞聖堂に追いやられた後、その声は、臨時のテントを張って“乞食のように暮らす姿”を恥かしく感じたり、新しい土地をなんとか手に入れて移っていったプチョン(富川)で区役所が彼らの住宅建設を阻止すると言って憤り、震えている。

 ナレーションは住民のひとりである中年女性の声で伝達される。ヴォイスオーバーのナレーションはオリンピックのレトリックに対する憤りを表している。民族の栄光、人類の祝祭だといってすべてが大騒ぎだけれど、「うちの上渓洞をはじめ、200余箇所の撤去される人々にとって、オリンピックなんてむしろ無かったほうがよかった恨めしい対象である」だけなのだ。ナレーションに主語として使用される“うちの(私たちの)”という呼び方は、声の主人公を一個人ではない集団的な主体として構築されている。撤去される人々による共同体の集団的経験を証言して主張を代弁する声なのである。このようにして構築された主体性は、矛盾した社会現実を観客に伝達する一種のフィルターとなる。私たちは彼らの声と凝視を通して再現される現実を認知するのである。このような1人称の集団的話者を通してナレーションを構成する方式は『カンスニ、シュア・プロダクツ労働者』(1988、イ・サンイン、民族映画研究所)、『戦列』(1991、ドキュメンタリー作家会議)、『オクポ湾に響き渡る我らの歌のために』(1991、ドキュメンタリー作家会議)等、『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』と同じ頃に制作されたインディペンデント・ドキュメンタリー群にも見受けられる。これらのドキュメンタリー作品群は、このような1人称の集団的話者のナレーションを通して、社会の権力関係と映しだされた権力関係において他者化されてきた集団を、社会運動の主体として転換させようという意図を共有している。12

 しかし『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』には、当時の教育・プロパガンダ用に制作されたドキュメンタリーには見られない独特な面がある。1980年5月に噴出した大衆の民主化の熱望が光州抗争(光州事件)を経て踏みにじられて挫折し、この経験は運動陣営に新たな覚醒を促した。大衆の民主化熱を組織して指導するという“目的意識”が強調されて、そのために民衆あるいは労働者階級の主導性を強調する傾向が強く現われるようになる。マルクス主義はこのような目的意識的な変革運動の必要から導入され、それは以前の時代の人間主義的、民族主義的な認識との断絶を伴うものであった。このような目的意識性は1980年代後半に現われた大多数の作品に目立っている特徴である。運動の楽観的展望を伝達すべきだという強迫は、民衆あるいは労働者階級の象徴的勝利に帰結する目的論的叙事と、そのために民衆を犠牲者から英雄へと転換させるロマン化された図式を生み出した。一方『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』は、このようなロマン化された英雄図式から抜け出している。この作品もまた民衆を社会運動の主体とみる視点を共有しており共同体外部の敵という葛藤の構図に従ってはいるが、叙事は終りの見えない闘争の連続である。この映画は、上渓洞撤去民たちが新たな定着地に向けて移動するが、そこにも彼らの定着を阻む当局との緊張が張りつめている中で終わるという、一種の開かれた結末の形をとっている。このような共同体の表象が作り出す意味は、民衆の理念的正当性ではなく倫理的正当性である。倫理という最小限の生存権さえも剥奪される危機に瀕した人々に対する関心を促しているのである。雇われたゴロツキに対抗する闘いだけでなく、共に食事を分かちあい子どもたちの世話をする住民たちの日常が映画の多くの部分を占めているのも同じ文脈である。闘争は彼らの生活の一部でしかなく、彼らの生活を通して強調される価値は、制作者がその構成員の一部として参与した共同体の、共有された経験を通して形成される分かちあいと愛である。このような価値は資本と権力では買うことができないと語っているのだ。『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』は15年以上の歳月を経た時点でもなお、韓国の多くの制作者と観客によく知られておりインスピレーションを与えている。何よりもこの作品が“私たちに生きざまを見せて欲しい”という、ドキュメンタリーに対する古典的な命題に忠実に符合しているからであろう。

コミッティド・ドキュメンタリー15年後:『送還日記』

 キム・ドンウォンは『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』を制作した後、強圧的な撤去が問題となった別の地域で生活しながら『ヘンダン洞の人々』(1994)や『もうひとつの世界(ヘンダン洞の人々2)』(2000)を制作した。共同体的アイデンティティの問題はこの2作品でも主題となっているが、特にこの地域で住民たちが実験したオータナティヴな経済活動の描写を通して、所有と競争を煽る資本主義的価値に対するオータナティヴとしての経済的文化的分かちあいの共同体性を紹介している。キム・ドンウォンはまた、1991年にはドキュメンタリー専門制作団体を標榜するプルン・プロダクションを設立し、キム・テイル、オ・ジョンフンらとともに、政治的理由で長い間収監生活を送らねばならなかった長期囚問題に注目しはじめる。2003年に発表された『送還日記』は、政治的長期囚に対するキム・ドンウォンの持続的な関心を指し示すと同時に、『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』から始まった共同体的アイデンティティと人間的な生き方に対する問いかけを深めている作品だといえる。

 『送還日記』は2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭での特別上映を通して初めて世間に公開された。韓国では2003年のソウル・インディペンデント・ドキュメンタリー 映画祭のクロージング作品として初めて上映されて熱い関心をもたれた。その翌年の初めにサンダンス映画祭で表現の自由賞を受賞した後、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭、ロバート・フラハティ・フィルム・セミナー等、世界各地の映画祭や各種セミナーに招待されている。韓国内では2004年に映画振興委員会の支援を得て、芸術映画専用館ネットワークであるアートプレイスを通じて全国の8劇場で同時上映された。インディペンデント映画、それもドキュメンタリー映画としては、劇場を通じて全国的に封切られるのは初めてのことであった。『送還日記』を製作したプルン・プロダクションは、劇場公開と同時に韓国インディペンテント・ドキュメンタリーの伝統的な配給方式を並行させた。各地域の社会運動団体と学校に接触して上映行事をつくり、プルン・プロダクションが直接テープを持って出かけて上映するのである。上映は映画が扱う主題についての討論会を伴うこともある。

 国家分断と南北朝鮮間の政治的、軍事的緊張はあいかわらず続いており、韓国では今もなお反共イデオロギーが強力な意識の統制を伴っている状況の中で、北朝鮮のスパイ出身の長期囚を扱った『送還日記』が集めている関心は注目に値する。この作品が公開されたのは2003年であるが、作品制作が始まったのは1990年代のはじめであったといえる。キム・ドンウォンは、北朝鮮の政治工作員出身で長期間の服役生活を終えて出てきた老人たちと隣人として暮らすことになる。『送還日記』はキム・ドンウォンがこれらの老人たちと個人的に親しく過ごしながら、10余年の間、片手間に撮りためておいたフィルムを編集して、それらの出会いについての自身の記憶を付け加えて完成された。作品として作ろうという具体的な企画をもって、事前企画に沿って撮影を進めたのではなく、制作者がひとりの隣人として老人たちと出会い、また撮影がそのような私的な状況の中で大部分おこなわれたという点で、この作品は一種のホームビデオの延長だといえる。キム・ドンウォン自身が、出会った人々に対する自身の偏見と不安、愛情を含んだ心理的変化を隠さずに暴露する1人称のヴォイスオーバーのナレーションは、この映画に日記のような色彩を加えている。『送還日記』は個人的なエッセイがいかにして公的なディスクールと結合し、ひいては公的なディスクールを超える政治的な効果をもたらし得るかについての重要な事例を提供している。

 同じように『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』も、一種のホームビデオに基盤をおいた政治的エッセイだといえるが、フィルムメーカーが撮影されたイメージの内部に骨と肉のある個人としては見えてこない。“うちの(私たちの)”が主語となるナレーションは、共同体外部の敵と対峙している共同体内部の集団的同質性を強調している。これとは異なり『送還日記』では、フィルムメーカーが集団の一部ではなく“個人”として登場する。自叙伝的記述を通してフィルムメーカーは、集団的意識によって作られる“自我”と理念的に、また経験的に葛藤をもたらしている個別的な自我を発見する。他者に投射される自我、あるいは主観性を客観性のイデオロギーと偽装してきた慣習的なドキュメンタリーとは異なり、この作品ではドキュメンタリーの対象と主体を分離することはできず、自我もまた別の他者である。このような意味で、“個人的なこと”は『送還日記』においては強固な反共イデオロギーに挑戦する重要な政治的武器だといえる。

 “個人”の記入は『送還日記』のみならず1990年代後半から韓国インディペンデント・ドキュメンタリー作品に登場して次第に拡がっているのが現状である。このような側面を理解するためには、1990年代以降の韓国社会の変化の文脈から、インディペンデント・ドキュメンタリーの変貌を見ていく必要がある。1993年の文民政府(キム・ヨンサム政権)、1995年の地方自治の開幕(30年ぶりの復活)、自立的な“市民社会”の領域と新社会運動が出現し、その過程で抑圧的な国家権力と市民の関係はかなり弛緩した。1980年代の国家権力の抑圧的な性格が、抵抗運動の主体をして個人の犠牲を正当化しうる集団的英雄叙事と運動の歴史的必然性を強調するマルキシズムを真理として受け入れさせたとするならば、社会権力関係の変化と現実社会主義の没落は、1980年代の社会運動において強い道徳的結束力を発揮してきた“変革的真理”に懐疑する談論が登場する契機となった。

 映画小集団の中でも、ドキュメンタリー映画を教育・プロパガンダ用の映画と同列なものとして見た慣行から抜け出して、ドキュメンタリーをジャンルとして見ようとする視角が登場し始めた。キム・ドンウォンが率いるプルン・プロダクションや、ビョン・ヨンジュ監督下で作られた「ナヌムの家」シリーズを作ったドキュ・ファクトリー・ヴィスタの場合のように、ドキュメンタリー専門制作を標榜する団体が生まれたのはこのような兆候だといえる。これらの変化は制作方式にも表れている。ソウル映像集団やドキュ・ファクトリー・ヴィスタの場合は制作の全過程を共同でおこなう方式を、企画、演出、撮影等に専門化させてメンバーが分担することで制作の完成度を高めようとしたし、プルン・プロダクションの場合は団体の構成員たちそれぞれが制作の全過程をひとりで担当する、いわゆるひとりプロダクション・システムを試みた。1990年代後半から韓国に登場しはじめた各種の映画祭は、芸術映画や作家主義のディスクールと結合して、インディペンデント・ドキュメンタリーの作品群を個人の意味ある表現行為の側面として受けとめさせる道を開いた。またデジタル技術の普及と大衆化は、ドキュメンタリー制作のプロフェッショナリズムや慣習的倫理の束縛を受けずに多様な形式的実験を可能にする個人作家たちの出現の契機となった。新社会運動が日常的な生活に作動する多様な抑圧のメカニズムに注目させる一方で、運動の複数の主体は単一のアイデンティティで統一されるよりは各々の主体間の違いを認め、それらの違いをもつ複数の主体がいかにして相互にコンタクトし得るかという問題へと、知識のパラダイムを転換させた。

 1990年代後半からインディペンデント・ドキュメンタリーの地形に現われた新たな傾向は、これらの変化と轍を共にしている。新たな傾向とは、いわゆるセルフ・ドキュメンタリーと呼ばれる作品群が登場して、既存のドキュメンタリー制作慣習では忌避されてきた主観性を異にする視点が出現したことをいう。韓国でいう“セルフ・ドキュメンタリー”はふたつの若干異なる次元の論議を包括している。即ち、自叙伝的な形式を導入して伝統的に私的なことと考えられてきた領域の意味に別の解釈を与えることや、ドキュメンタリー映画の主観的な性格を偽装せずにフィルムメーカーの認識論的限界をテキスト中に表示する映画全体をさしているのである。例えば「ナヌムの家」シリーズや『3本足のカラス』(1997、オ・ジョンフン)等、フィルムメーカーの肉体と声が画面に登場するドキュメンタリーはインディペンデント・ドキュメンタリーの地形にそれ以前からも存在していたが、それらのドキュメンタリーにおいてはフィルムメーカーの存在が、対象を観察する過程で不可避に挿入された制作過程の痕跡であったり、対象を説明するための修飾的な性格を帯びていたとするならば、“セルフ・ドキュメンタリー”と呼ばれる作品群ではフィルムメーカーの存在が、不完全な制作過程を示す汚点や説明の修飾的な次元ではなく、意味構築のための戦略的な選択であるといえる。

 このような戦略的な選択は、さまざまな方向でおこなわれている。第1に、形式的な省察を通じてドキュメンタリーの表象慣習を認識論的基礎から問題にする作品群である。これらのドキュメンタリーでは、作品の制作過程自体が核心的な主題となる。『万華鏡』(2001、キム・イジン)、『ほっといて』(1999、パク・キボク)、『天日干し赤唐辛子を作る』(1999、チャン・ヒソン)はその代表的な作品だといえる。これらの作品は、厳粛かつ真摯なディスクールとして位置づけられてきたインディペンデント・ドキュメンタリーの伝統に拘束されることなく、ユーモアと風刺を導入している。『愛国ゲーム』(2001、イ・ギョンスン、チェ・ハ・ドンハ)や『ファッキュメンタリー―朴統真理教』(2001、チェ・ジンソン)、『彼らだけのワールドカップ』(2002、チェ・ジンソン)等の作品もまた、劇映画、ミュージックビデオ、アニメーション、広告等、他ジャンルの修辞法を借用してユーモアと風刺の逆説的効果を狙っている。このような逆説的装置を通して説明と観察に基づいたドキュメンタリーの修辞学的権威を弱める一方で、民族主義イデオロギーの解体のような政治的省察を試みている。第2に、自叙伝的な形式を通じて私的な領域の意味を政治的に再構築する戦略である。制作者自身の肉体を社会的抑圧が内面化された場所で意味化する『ジーナのビデオ日記』(2002、キム・ジナ)、自分と自分の家族との関係からそれぞれの植民主義と家父長的権力の作用を読みとっていく『私の父』(2002、キム・ヒチョル)や『家族プロジェクト:父の家』(2002、チョ・ユンギョン)等がこのケースに当てはまる代表的な作品である。拒食症、軍隊にのめり込む父親、父親の家出等、突出した人物や事件は逆説的で、正常と呼ばれる文化と知識の境界を探らせようとする。第3に、特定の政治的立場を隠している普遍的な自我ではなく、社会的意味の構築に作用する権力の場から自由になれない個別的な自我として、八方ふさがりになったフィルムメーカーの肉体や声がテキストに記入される場合である。『愛国ゲーム』にそのような兆しを見ることができるが、『住民証を引き裂け!』 (2001、イ・マリオ)、『塵に埋もれて』(2002、イ・ミヨン)、『私はドキュメンタリー監督になりたかった』(2002、イ・ウナ)、『八頭身に変えろって?』(2002、ファン・チョルミン)等の作品をあげることができる。『送還日記』では、フィルムメーカーのキム・ドンウォンは長期囚に対する自身のイデオロギー的限界を暴いた後、このようなイデオロギー的限界の外で結ばれる長期囚たちとの関係を通して、自身の意識を統制してきた知識の正しさを疑いはじめる。

 マイケル・レノフは、文化人類学ドキュメンタリーの参与観察の方法が、長い間西欧の自己防御や征服の道具となってきた自我と他者、主体と対象の二分法を抜け出せずにいると指摘している。このような批判を土台として、自我と他者との境界の上で独特の方式で作動する家庭内文化人類学ドキュメンタリーを紹介している。家庭内文化人類学ドキュメンタリーとは文字通りフィルムメーカーの家族や、フィルムメーカーが長い間日常的関係を維持し日常レベルでの親密さをもっている人々を記録する作業である。家庭内文化人類学ドキュメンタリーではフィルムメーカーと対象が共同体や血縁等で結ばれているために、そのうちのひとりを記録することは、対象である他者との関係性を作ることを難しくさせる。このような相互的な関係性は家庭内文化人類学ドキュメンタリーの決定的な特徴である。相互的な関係性とは、主体/対象各々のアイデンティティの複雑性と相互浸透を共に意味している。家庭内文化人類学ドキュメンタリーは一種の補充的な自叙伝的実践であるといえる。一種の自己反射を運搬するもの、即ち家族や共同体内の他者に頼ることによって、自己に対する知識を構築する手段として機能しているのである。13

 『送還日記』のキム・ドンウォンが会いつづける人物たちは、北朝鮮のスパイ出身で半生を監獄で過ごして出所したキム・ソッキョン、チョ・チャンソンの2人の老人である。特に彼らは、服役中であった1970年代初頭、韓国の体制の優越性を誇示するために思想転向を強要するパク・チョンヒ政権の激しい殴打や懐柔にも負けずに耐えぬいた“非転向”長期囚たちである。映画はキム・ドンウォンが出所していくらもたたない彼らに初めて会った1992年から、彼らが北朝鮮に送還された後の2002年に、ピョンヤンを訪問して彼らと再会しようとしたキム・ドンウォンの計画が実現を目前にして挫折するまでの10年の時間を扱っている。軍部の権威主義体制の変化を意味する文民政府の登場と、非転向長期囚らの段階的な釈放、南北朝鮮首脳の出会いによって絶頂に達していた南北関係の宥和的局面と、このような状況で実現された北朝鮮政治工作員出身たちの北送(北朝鮮への送還)、北朝鮮の食糧難とアメリカの北朝鮮封鎖政策等、南北関係の変化と関連する1990年代の大きな社会的諸事件は、キム・ドンウォンと隣人となったチョ・チャンソン老人との個人的な関係が変化する過程と重なっている。

 映画は1992年の、彼らとの最初の出会いについてのキム・ドンウォンの回顧から始まっている。出所後、無料療養院に暮らしていた2人の老人を、キム・ドンウォンが暮らす町内に招くので運転をしてくれという神父の頼みによるものであった。キム・ドンウォンは習慣のままにカメラを持って行った。この最初の出会いの場面では、キム・ドンウォンがマイクをもって2人の老人の間に座っている姿が見える。キム・ドンウォンはヴォイスオーバーによるナレーションを通して、自分の位置が撮影には引っかかるなと思ったものの撮影の為に自分が場所を動くことで雰囲気をぎこちなくしたくなかったと回顧している。制作過程についての陳述や撮影装備を持つキム・ドンウォンの姿は映画全般にわたってしばしば登場する。キム・ドンウォンがこの過程について言及している内容は、画面に込めることができたことよりは、主に画面に盛り込めなかった事情である。雰囲気をこわすのではないか、あるいは思想犯として長い間経てきた苦痛を表現しているのに“礼を失している”ようでカメラを向けられなかったという彼の指摘は、生き方に対する尊重が現実を捉えるべきドキュメンタリストたちの欲望に先立つという職業倫理を想起させる。ひいてはこのような場面は、フィルムメーカーとしてのキム・ドンウォンとそのカメラの前にいることになる人々との緊張を表している。この緊張は、反共イデオロギーによって社会的烙印を押されたままで暮らさねばならなかった人々がもつ被害意識と、イデオロギー的機構として積極的に奉仕してきた主流メディアの機能を意識させることになる。この映画ではアーカイヴ資料を使用して、ニューズリール、ドラマ、テレビ討論会、国策広報映像物、新聞等、マスメディアにおいて北朝鮮工作員たちがどのように再現されてきたかにしばしば言及している。キム・ドンウォンはこのような主流メディアによる映像イメージを、自分が老人たちに直接会って感じた点と比較する。この過程はキム・ドンウォン自身の知識を検討して矯正する過程でもある。イデオロギー的に構築された諸“事実”を、アーカイヴフィルムを通して再び見るということは、一種の治癒過程である。“事実”の構築される様を、そして自身の理念的アイデンティティがそれらのイデオロギー作用から自由ではありえないことを悟っていくのである。

 主流メディアによって、不穏な犯罪者であり国家的危機を引き起こす可能性さえもある敵対勢力として描かれてきた老人たちとの人間的で個人的な出会いは、キム・ドンウォン自身が帯びてきた理念的アイデンティティを検討するきっかけとなった。特にチョ・チャンソン氏はキム・ドンウォンと隣人として過ごすうちにキム・ドンウォンの家族とも親しくなり、住民運動が活発な地域共同体の一員として受け入れられる。しかし、だからといってキム・ドンウォンと彼らの関係が『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』のように同質的なアイデンティティに収斂されるわけではない。10年余りの関係を結びながらも、理念的、文化的、情緒的な違いによる緊張は続く。『送還日記』はこのような違いが、人間が互いに関係を結ぶうえでの障害とはなりえないことを見せてくれる。政治的長期囚たちを支える集まりで、ある女性は「関係において、ある線を越えることは難しいけれど、線を越えないからってどうだっていうの。親しくはなれるのよ」と語っている。キム・ドンウォンは「イデオロギーは人間の理性の一部分に過ぎない、理性もまた人間の様々な性質の一部分に過ぎないのだ」と悟る。違いをなくそうと強要することは“征服”の欲望にほかならない。パク・チョンヒ政権が無慈悲に実行した思想転向工作のように、征服は暴力を同伴せざるをえないのである。長期囚たちが厳しい思想転向工作に耐えてこられたのは、暴力に屈服するということが人間としての品性と自尊心を損ねるものだったからだという。

 『送還日記』は南北分断と反共イデオロギーが、いかにして個々人の生活やアイデンティティに深い傷跡を生み出したかを見せてくれる。同時に統一運動の哲学的基礎を提示している。思想的、文化的な差を解消することよりは、互いに認めあい尊重しつつ、関係を結ぶことのできる方法を求めているのである。そしてピョンヤンに行かれないキム・ドンウォンとソウルに来られないチョ・チャンスンが互いに通信できるように助けてくれるビデオレターのように、ドキュメンタリーが、多様な違いをもつ他者たちが権力が行使する障害を乗り越えて互いにコンタクトすることに寄与できるよう希望しているのである。

――翻訳:矢野百合子

 


脚注:

1. Fernando Solanas, "Cinema as a Gun," Cineaste Vol. 3, No. 2 (Fall 1969), p. 20.

2. Jane Gaines, "Political Mimesis," Collecting Visible Evidence, eds. Jane Gaines and Michael Renov (Minneapolis: University of Minnesota, 1999), p. 85.

3. Brian Winston, Claiming the Real: Documentary Film Revisited (London: BFI Publishing, 1995), pp. 61-62.

4. Bill Nichols, Introduction to Documentary (Bloomington: Indiana University Press, 2001), pp. 1-4.

5. Alexandra Juhasz, "They Said We Were Trying to Show Reality--All I Want to Show Is My Video: The Politics of Realist Feminist Documentary," Collecting Visible Evidence, eds. Jane Gaines and Michael Renov (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1999), pp. 216-239.

6. Jane Gaines, "Women and Representation: Can We Enjoy Alternate Pleasure?," Issues in Feminist Film Criticism, ed. Patricia Erns (Bloomington: Indiana University Press, 1990), p. 83.

7. キム・サンフィは「オータナティヴ・メディア・プロダクション運動に関する研究」(ソウル大学校大学院修士論文/1995)23pでオータナティヴ・メディア運動の性格と目的を次のように整理している。「第1に、メディアがもつ相互作用性と双方向性を認知してその社会的、人間的な役割を新たに規定、利用することによって、これを社会発展と民主主義の実現に重要な媒介体として積極活用する。第2に、既存メディアのエリート主義、商業主義、情報の一方的伝達と内容の画一化、単純化を批判する。第3に、民主的可能性をもった新たな諸技術を積極的に活用する。第4に、受容者や市民たちの自発的な出会いと参与を誘導し、国家的にはもちろん地域的な媒体ネットワークを形成することである。」
『映画運動の歴史:見世物から解放の武器ヘ』(ソウル出版メディア、進歩的メディア運動研究センター/プリズム編/ 2002)、はこのようなオータナティヴ・メディア運動の観点から世界各地域の歴史的経験を探っている。

8. キム・ドンウォンとのインタビュー、アン・ジョンスク、「真実を撮って希望を演出する」(ハンギョレ新聞/1996年6月22日)

9. キム・ドンウォンとのインタビュー(2003年1月)

10. Thomas Waugh, "Joris Ivens's the Spanish Earth: Committed Documentary and the Popular Front," Show Us Life: Toward a History and Aesthetics of the Committed Documentary, ed. Thomas Waugh (Metuchen: The Scarecrow Press, Inc., 1984), p. 124. トーマス・ウォーは『スペインの大地』でサウンドのみならずイメージ構成においても人格化が起こると指摘している。

11. ジュリアンヌ・バートンは南米ドキュメンタリー映画について論じつつ、マヌエル・オクタヴィオ・ゴメスの『戦闘の話』のナレーションは主観的な要素を通して権威主義的モデルから離脱していると指摘する。この映画のナレーションは全知的な匿名の男性が担当しているが、詩的で感情を呼び起こす話し方で、民衆集団について語りながら2人称の“あなた”を使用したり、1人称複数の“私たち”を使用したりする。このようなナレーションは労働者たちの歌などとオーバーラップする。バートンはこのようなヴァリエーションが「神の声を民衆の代理人へと変換させることによって、権威主義的話法を民主化しようとする試みを見せてくれる」と評価している。
Julianne Burton, "Democratizing Documentary: Modes of Address in the Latin American Cinema, 1958-72," ed. Julianne Burton, The Social Documentary in Latin America (Pittsburgh: University of Pittsburgh Press, 1990), p. 55.

12. 個人を共同体の一員として位置づけるこのような共同体的結束力を強調する方式は、80年代の韓国社会の抵抗運動の文化的特徴であったといえる。キム・ドンチュンは「80年代の民主変革運動は“光州”の記憶を喚起させようとする勢力と、その記憶を消し去ろうとする勢力との間の歴史的高地を占領するための闘争だ」と語る。80年代の変革運動に参加した人々は「生きのびた者としての羞恥心を権力者に対する憎悪に転化した」というのである。各種の集会や討論では「光州を忘れるな」という修辞が常連メニューとして登場した。「彼らはその記憶を絶えず確認することによって、敵が誰であるかを喚起させようとした。その記憶は未来の共同体に向けて絶えず再生産された。この記憶は運動に積極的に参加しない人々にも強い影響を与えて、ひとつの世代的羞恥心と責任意識の共感帯を作り上げた。この世代論的特徴をもつ共感帯は、解放後(1945年以降)の私たちの社会に初めて形成された公共の倫理、集団的道徳性であったといえる。彼らが口で“語ったこと”は急進的な革命のスローガンであったが、実際の行動は徹底した反個人主義と共同体的徳目で満ち溢れていた。」キム・ドンチュン、「1980年代民主変革運動の成長とその性格」(『6月民主抗争と韓国社会の10年』/タンデ/学術団体協議会編/1997)、 p. 99.

13. Michael Renov, "Domestic Ethnography and the Construction of the Other Self," eds. Jane Gaines and Michael Renov, 前掲書, p. 141.


ナム・イニョン Nam In-young

映画批評家、韓国の弘益大学で教鞭をとる。ニューヨーク大学映画学科でMAを取得、ソウルの中央大学で博士課程。ソウル・インディペンデント・ドキュメンタリー映画祭のプログラマー。YIDFF 2001ではNETPACの審査員を務める。

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