english

セルフ・ドキュメンタリーの起源と現在

那田尚史


 現在日本で「日記映画」という時には、普通ジョナス・メカスの『リトアニアヘの旅の追憶』(1972)が紹介されてから後の作品を言う。しかし、映画を日記的に使うというほどの意昧合いならばホームムービーもそこへ付け加えるべきだろうし、私的な視線に特徴を持つドキュメンタリーも、エッセーや書簡的な機能を含んだ映画もそこに入れても構わない。

 事実、日記映画と言っても、1日の終わりにその日を回想する文字通りの日記的機能によって作られた作品は数少ないし(その希少な例外として『15日間』鈴木志郎康、1980、を挙げることが出来る)、言うまでもなくそれさえ厳密に言えば文章を書く行為と同様ではない。

 そこで日記映画という言葉は、現在でもそれなりに定着しているものの、時として随筆映画、身辺映画などと言い換えられることもあり、筆者は日本における私小説の伝統と関連付け、その私性と暴露趣味を共通項とすることから、私映画(わたくしえいが)と名付けたこともある。また現在ではほとんどの作品がビデオになっているために、「○○映画」と呼称すること自体が意味を成さなくなり、プライベート・ドキュメンタリー、あるいはセルフ・ドキュメンタリーと呼ばれるのが最も新しい呼び名である。そこで、ここでは「セルフ・ドキュメンタリー」という呼称でひとくくりにして、これらの個人的、身辺的な記録映画全般を示していくことにする。簡単な定義を施すならば、基本的に映像作家が自ら撮影し、自らの身辺の事実を記録した作品がセルフ・ドキュメンタリーである。

 まずメカスがセルフ・ドキュメンタリーを生み出した源流について考えるならば、ニューヨーク派の歴史と合わせ、第二次大戦中のニューズ映画の氾濫と、過去の映像を歴史的視点から見つめ直す戦後の「編集もの」の流行、及び文化人類学者達による映画へのアプローチを挙げねばならないだろう。

 これは非常に重要なことだが、美意識の変動という面から言えば、第二次大戦における戦争行為がもたらした衝撃が底辺にあり、戦後多く作られた再編集ドキュメンタリーは、事実を映す映像のすさまじい喚起力を人々に知らせた。それはメカスの尊敬するリチャード・リーコック達のように過剰演出を嫌う倫理的で静的なリアリズムと、ジャン・ルーシュ達のように被写体に積極的にショックを与えてその反応の中に人間の真の姿を見ようとする動的なリアリズムを生み出してきた。

 これらの影響の下に、メカスは個人的でありながら、同時に人類史的な趣のある独特のセルフ・ドキュメンタリーを作るようになる。メカスは難民だが、被抑圧者意識を越えて、その眼差しが「人間の歴史の観察者」として働く点にオリジナリティがある。彼自身の言葉を借りれば「ウイルヘルムマイスターと難民が一体となる」視点であり、現実をありのままに見る下からの視線と、それを人類学者のように超越論的にみる上からの視線が交差したところにメカスの瞳の魅力がある。別記した年表を見れば分かるように、メカスの「セルフ・ドキュメンタリーの発見 」はおよそ1960年代の初頭のころと思われる。

 同時にその頃、「アヴァンギャルド・ホームムービー」を作っていたスタン・ブラッケージがいた。例えば彼の『窓のしずくと動く赤ん坊』(1959)は妻の出産シーンを夫婦が撮り合う、というものであり、その他にも人間の生と死を凝視する、極端に私的でありながらも普遍的で、「聖書以前」とでもいいたい純粋無垢な眼差しをもった作品を作っていた。

***

 さてここで日本に視点を移してみよう。

 日本ではパテベビーと呼ばれた9.5mmフィルムを使うカメラと16mmカメラが1923年に、8mmカメラが1932年に輸入され、20年代末から40年代初頭まで小型映画作家と呼ばれる人々によるアマチュア映画運動が展開されていた。

 その中には当然のように「家庭映画(ホームムービー)」がジャンルとして存在していたが、そこには大きな特徴があった。日常(ケ)と非日常(ハレ)に分けるならば、家庭映画は基本的にハレの時空間を撮影した。例えば四季に沿ってみるならば、春の花見、夏の海水浴、秋の紅葉狩りなどを写すのが好例であり、これを横糸とすれば、縦糸として人間の一生の節目である、子どもの誕生、七五三、入学式、卒業式、結婚式などがこれら家庭映画の題材として選ばれた。またそれに加わって大人の娯楽も映画の題材になった。当時の近代スポーツの興隆に影響を受けて、テニス、野球、登山、スキーなどが盛んに撮影対象となり、また地方の名所への行楽を記録した紀行映画も数多く作られている。

 40年代になると映画法による文化映画(国策に従った啓蒙的な記録映画)の強制上映が始まり、これに平行して記録映画の需要が増えてくる。中でも亀井文夫は戦中戦後を通して反戦的反権力的な優れた映画を撮り続けた記録映画作家として余りに有名で、すでに神格化された人物となっている。

 戦後、60年代にはドキュメンタリーが映画史の前面に現れてくる。かわなかのぶひろ氏によれは60年代の後半から自主制作によるドキュメンタリー作家たち、例えば野田真吉、粕三平、東陽一、土本典昭、小川紳介、長野千秋、間宮則夫、岩佐寿弥、西江孝之、羽田澄子、平野克己、北村皆雄、星紀市、黒田輝彦、山谷哲夫、布川徹郎、城之内元晴、原一男、鈴木志郎康、高嶺剛などの先駆者の活躍があったと指摘されている。 1

 例えば「三里塚」シリーズで有名な小川紳介は、反国家的で闘争的な映画を撮り続ける一方、農村に土着し農民として生きながら日本人の精神の深層をあぶりだす作風へと変化し、例えば『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1986)では集団演出や舞踏などを導入して極めて前衛的な特徴を示すようになる。また土本典昭は「水俣」シリーズによって企業による公害の実態を徹底的に告発し、水俣問題は世界的に知られるようになる。この小川、土本という2人の反体制的かつ闘争的記録映画作家は日本の記録映画に大きなインパクトを与え、亀井文夫に始まる記録映画作家の倫理性を継承していった。

 ところでこれらの記録映画作家たちは国家犯罪や企業犯罪の告発という「太文字で書かれる歴史」を題材とした、という点では「非日常」に視点を据えていることには違いない。その一方で、独自の方法論から「日常」を題材とした作品を作っていた作家に今村昌平と原一男がいる。

 後年は劇映画監督として巨匠となっていく今村だが、『人間蒸発』(1967)は、ある男が婚約者の前から突然失踪し、その行方を追っていくうちにその男を取り巻く様々な謎が紐解かれていく、という一見したところでは「記録映画」である。これは当時社会現象となってしばしばマスメディアを騒がせていた庶民の突然の失踪問題にヒントを得て作られた作品であり、ごく平凡な小市民の中に起こった事件を取り上げている。この作品は次のような実験性を持っている。ひとつは、映画の中に映画制作者たちが登場して、画面の中で作品を反省したり今後の撮影方針を語り合う、という「自己反射的」映画であるということ。もうひとつは、最後にこの映画全体の虚構性が明かされる、という点であり、記録映画を語るときには切っても切れない議論、すなわち「真実と虚構」の関係が堂々と正面から取り上げられているのである。「日常性」「自己反射性」「記録映画の虚構性」の3点において、『人間蒸発』は前衛的であり、この時代において突出した作品だと言えよう。

 やや時代が飛ぶが原一男の『極私的エロス・恋歌 1974』(1974)もまた社会的事件や政治と直接関わらない、ひとりの男(原一男)と2人の女性の三角関係が描かれる。原自身の最初の結婚相手だった女が自己の主体性を模索する過程で、当時もっとも政治的に複雑な立場にあった沖縄に旅立って黒人と男女関係になり、最後には自力出産をする、という記録映画である。最後の自力出産の場面がセンセーションを巻き起こした話題作だが、カメラワークに注意してこの作品を見ると、あちこちに演出の跡が見られる。そういう意味ではこれも『人間蒸発』と同様に記録映画の真実と虚構の問題を提示している。と同時に、自力出産の撮影という圧倒的な事実性の提示もあり、後年の原作品の特徴となる、異常な迫力で対象に切り込んでいく切れ味の鋭さがこの作品にも既にあらわれている。

***

 さて、これからは日本のアマチュア映像作家におけるセルフ・ドキュメンタリーの系譜に絞って俯瞰していきたい。

 上記の日本における記録映画の系譜を「メカス以前」とするならば、1973年に『リトアニアへの旅の追憶』が公開された後、この作品に直接的な影響を受けて作られた『日没の印象』(鈴木志郎康、1975)以降を、「メカス以後」と区分できるだろう。

 『リトアニアへの旅の追憶』は3部構成になっており、第1部はメカスがアメリカに移民した1950年から1953年までの日常が写される。弟やブルクッリンにすむ様々な移民たちとの交流である。第2部は、1971年にリトアニアで撮影されたもので、故郷に住む老母や親族たちの姿を、35年の空白を経てメカスは感動的なナレーションとともに歌い上げる。第3部はハンブルグの郊外、戦争の間の1年間そこの強制労働収容所で過ごした場所から始まり、ウィーンに移動して、ペーター・クーベルカやケン・ジェイコブスなどの映像作家の仲間達と出会い、町の風景が写される。特に感動的なのは第2部で、長い空白を隔てて再会した老母のシワだらけの顔の微笑みや、家の井戸水を「この世でもっとも美味しい水」と言って飲み干す様子など、決して大きな事件は起きないのだが、メカスは個人の身辺にまつわる出来事の中にポエジーと感動があることを教えたのだった。

 既に述べたように、ホームムービーの伝統は戦前20年代の小型映画の時代から存在したが、それはあくまでもハレの時空間の記録であり、ケの時空間が撮影対象になるとは誰も想像しなかった。従ってメカスの作品における、日常生活そのものが作品になるという「セルフ・ドキュメンタリーの発見」は、日本のアマチュア映画作家たちに非常に大きなインパクトを与えた。

 メカスにインスピレーションを受けた鈴木志郎康の『日没の印象』は、戦前の16mmカメラ「シネコダック16」を中古カメラ店で手に入れた作者が、その喜びの余りに愛する妻を撮り、生まれたばかりの赤ん坊を撮り、そのカメラを自慢するために職場に持っていって同僚を撮り、そして、東京の日没の夕焼け空を撮る、という外見上は全くのホームムービーである。しかし、この作品は次の2点において実験性を持っている。ひとつは、この映画の主人公はあくまでもカメラであるという点である。この作品のファーストシーンもラストシーンも、被写体はシネコダック16であり、ナレーションで語られる内容も、ほとんどがカメラへの愛着と映像論である。ホームムービーのように見えながら、実はカメラのための映画、映画のための映画なのである。もうひとつは、構造映画的な要素を持っていることで、この作品は最初から最後までフィルムにパンチ穴が無数に打たれているために、映像には常に白丸の模様がダンスをしている。これは観客に「これはフィルム作品ですよ」と訴えているわけで、強い異化効果を画面に生じさせている。構造映画というのは、映画のテーマが映画の構成要素そのものである作品を示す。とすると、作品の主人公がカメラであるという点も含めて、『日没の印象』は根底に構造映画の性質をもったセルフ・ドキュメンタリーといえる。

 さらに、この作品はさらに複雑な要素を持っている。上記のように「これは映画である」というメッセージを作品が発し続けることで、「映画とは過去の時間を現在化させるものである」というテーゼが前景化し、そのテーゼの逆もまた真となって、「映画においては現在写っているものがすでに過去化されている」という新しいテーゼが発生する。すると今現在見ている映画の風景が、すでに現在は存在しない遠い過去のものであり、時間の流れは食い止めることが出来ない、という強い無常観が観客の心に発生する。これは、作者がそれを意図したかどうかには関わらない、きわめて批評的な視点だが、哀愁をそそるハーモニカ音楽の効果もあって、私にはこの映画に写される風呂屋の煙突の煙が火葬場の煙に見え、またラストシーン近くの赤ん坊の寝顔のクロースアップが、まるで死体であるかのように見えてしまう。カメラマニアが大好きなカメラを買い、愛する家族や友人達を写す、といった「至福の日常」が、こうして批評的観点に立つと、無常観の寂しさを激しく感じさせる作品へと180度転換するわけである。

 こうして鈴木志郎康の『日没の印象』は日本におけるセルフ・ドキュメンタリーの記念碑的作品となったわけだが、現在に連なるセルフ・ドキュメンタリーの展開は実はこの作品の後に生まれてくる。

 つまり、この作品がセルフ・ドキュメンタリーの傑作として映像専門の学校などで上映されるようになると、この作品を見てセルフ・ドキュメンタリーという形式の存在を知った若い映像作家たちは、「競争原理」に従って、この作品に対するアンチテーゼとして、この作品に無い部分を強調した作品を、具体的には、この作品を一見取り巻いているように見える小市民的な幸福に反逆するタイプの作品を作り始める。一言で言えば、戦前のアマチュアたちはハレの時空間を映画にし、メカスや鈴木志郎康はケの時空間を映画にしたのに対して、「ポスト鈴木」の世代は、禁忌(タブー)の時空間を捉えるようになるのである。

 その先駆的な作品が石井秀人の『家、回帰』(1984)である。この作品の冒頭は、病院の廊下と祖父の遺影が二重露光で写され、ナレーションにより、この病院の廊下で祖父が死ぬ前に大便を漏らしたことが語られる。そしてカメラは自分の家に住む、認知症(老人ボケ)の祖母を被写体に選ぶ。筆者の母は祖母を裸にして風呂に入れ、そのシワだらけで象の皮膚のようにたるんだ体を丁寧に洗う。そして祖母は何かにつけて「家に帰りたい」と言うのだ。

 私はこの作品に関して個人的なエピソードがある。15人ほどの学生が集まるある映像専門学校の授業でこの作品を上映したところ、その中に3人いたはずの女子学生が、この作品の上映中に席を立って教室から消えてしまったのである。若い女子学生にとっては、老女の生々しい裸を凝視し、将来の自分の姿を連想することが耐えられなかったのだろう。

 認知症になり、風呂にも自分の力で入れなくなった老人という存在は、我々の眼の周りにありながら誰もが目をそむける日常生活の中の死角であり、これまでそのような老人を正面から捉え映像化することはタブーとして避けられてきた。まさに『日没の印象』における小市民的幸福に対する反作用の作品が『家、回帰』に他ならない。

 なおこの作品には、母親に祖母の乳房を吸わせる、という演出場面がある。シワだらけで垂れ下がった祖母の乳房を母親が吸うと、なんと祖母はその母親(祖母にとっては娘)の頭を撫ぜ始めるのだ。祖母の乳房を吸わせる、というところまでは演出だが、その娘の頭を撫ぜる、という行為は演出を超えた事実であり、認知症の祖母にとってはごく自然に出た行動である。しばしば芸術家は、傑作が生まれるには「神様と協力する必要がある」とか「神が舞い降りる」とかいうが、この場面はまさに作者が意図せずして生まれた感動的な場面であり、石井秀人を指導したベテラン映像作家の金井勝氏は、この場面を絶賛したと聞く。

 普通の感覚では見せたくないタブーを暴露する、というセルフ・ドキュメンタリーの方向性を決定的にしたのが、この『家、回帰』であると私は考えている。この作品が生まれる前に類似した傾向を持つ作品が何本か見られるが、この作品はその影響力において圧倒的だった。

 例えばこの方向性に沿った話題作として『MaMa』(江口幸子、1986)が挙げられる。作者の父親と、作者の母親の父はともに在日朝鮮人という環境に生まれた作者は、明らかに潔癖症や被害妄想に苦しんでいる。その根源には母との対立があり、母はその夫(入籍はしていない)を恨んで作者が子どものときに家出をし、水商売を転々としながら、客の子ども(作者にとっては弟)を生む。母もまた自分の母親(作者にとっては祖母)を憎んでおり、彼女の母親は夫の死後、酒と男に溺れたあげく母親達兄弟を捨てて男とともに失踪したのだった。作品の前半は、作者と作者の母親(本当の母とは別人の声)のナレーションによって交互に思い出が語られ、作品の最後は実際の母親に対する作者のインタビューで構成されている。

 この作品では作者の神経症の暴露があり、在日韓国人であるという出生の暴露がある。また暗示的ではあるが作者の母親が芸者時代に体を売っていたことを想像させるナレーションもある。(在日韓国人については若者や外国人には説明が必要なので補足しておくが、現在では在日韓国人に対する差別はほとんど見られないが、戦中戦後にかけて彼らは明らかに差別対象とされた。日本において同和(部落民)と在日韓国人は長い間被差別階級であり、現在でも、同和部落、朝鮮人部落の残っている地域があり、かつてはその階級出身者であることは結婚などの障害となっていた)

 『MaMa』は、自分がその在日の血筋を引くものであることを告白し、また一般には隠される神経症患者であることを告白する点において「タブーの暴露」の映画であり、また私小説的な「不幸の告白」を特徴とするセルフ・ドキュメンタリーの典型的な特徴を持っている。

 『萌の朱雀』(1996)でカンヌ国際映画祭カメラドール賞を受賞し、一躍女流映画監督として時の人となった河瀨直美の出世作も『につつまれて』(1992)というセルフ・ドキュメンタリーだった。これは、両親が離婚し、祖母の幼女となった作者が、まだ見ぬ父を探し出して対面するという作品であり、これもまた「不幸の告白」の作品であると同時に「父探し」の映画でもあった。

 また同じように話題になった作品に大月奈都子の『さよなら映画』(1995、一部ビデオ)がある。ある大学の映像科の学生である大月は、同棲相手がいるにもかかわらず町で別の男に声をかけられセックスフレンドとして関係を持つようになる。このように二股の恋愛を続けている一方で、彼女の母親は末期癌で入院している。父親から「母親が危篤」との留守番電話が入るが彼女は家に帰らない。ついに、母死亡の電話を受けた彼女は帰郷して母親の死に顔を撫ぜる、という内容である。

 この作品で大月は始終独り言のように喋り続けているが、「何もかもが消えてしまうことが悲しい」という無常観溢れる言葉がほとんどである。また、「撮影してないことが本当で、後は全部嘘」とも言っているので、この作品についても、男女の関係が真実かどうかは謎であり、記録映画における虚構性の問題も提起している。一般の暴露的セルフ・ドキュメンタリーと逆に、病気入院中の母を直接撮影するということが出来ず、だらだらと二股の恋愛に溺れている行為がかえってリアリティを感じさせ、切羽詰った状態で映画を撮影する行為そのものの無力さ、表現することの限界を示した点において異色の作品である。

 近年この種のセルフ・ドキュメンタリーで非常に高い評価を受けた作品が『home』(小林貴裕、2001、ビデオ)である。ビデオを片手に故郷に帰った作者は、7年間引きこもり続けている兄と、鬱病に苦しんでいる母と、癌に蝕まれている祖母とに直面する。父親はこの家庭を回復することを諦めて家を去っている。引きこもりを治そうとする作者に対して兄は暴力を振るうが、作者の懸命の努力と話し合いの末に、兄は再起を誓って家を出て行く、という話である。

 この作品はサスペンスドラマのような波乱万丈の展開があり、息をつく暇もなく様々な困難な状況が目の前に現れるのだが、例えば兄に投げ飛ばされたときのカメラワークや、鬱病の母が失踪(自殺を連想させる)したのを知った作者が近所を探し回ってひとり佇む母をほとんどワンショットで見つけるシーンなど、余りにも「出来すぎた」場面が続くために、私は巧妙に演出されたフェイク・ドキュメンタリーだろうと思っていた。ところが作者に直接問い合わせたところ、全てが事実であるという。この作品を通して私は、この種のセルフ・ドキュメンタリーが、どこまでが真実でどこからが虚構であるか、客観的に判別するのが不可能であることを知った。なお、この作品は様々な映画祭で受賞しただけでなく、ミニシアターでも公開され、またテレビでも取り上げられた。この種の作品としては近年最も話題を呼んだ傑作である。

 このように鈴木志郎康以後の若い世代によるセルフ・ドキュメンタリーは、タブーを暴露する、不幸を告白するという点において共通項を持っているが、一方で極限まで日常性(ケ)にカメラを当てて「個人映像の極北」と呼ばれているのが大川戸洋介の作品群である。

 大川戸は多作な作家だが、その作風はおおよそ共通している。まずストーリー性が無く、登場人物は「寝る」か「だらだらと遊ぶ」か「食事」をしているだけである。彼の代表作『夢主人』(1987)を見ても、眠る父親、ふざけあう仲間たちが淡々と撮影されているだけで、そこに構成の原理を見つけることは難しい。しかし、大川戸は2つのテクニックを使ってこの「何も起こらない日常」を一種の「聖なる映画」に変貌させる。ひとつは音楽の使い方であり、例えば夕食のテーブルの映像に荘厳なミサ曲を被せる、といった使い方をすると、日常の平凡な風景があたかも神の恩寵に彩られた神秘的な世界のように見えてくる。もうひとつは彼のカメラワークにあり、特に光に対する彼の天性の露出テクニックは素晴らしい。例えば部屋の中でボンヤリと座っている友人を撮るとき、大川戸は瞬時の露出操作によってその友人の胸の上に大きな光の玉を作る。すると、劇的なことが何も無い日常の瞬間が、二度と返らない神々しい時間であるということを観客は気づく仕掛けになっている。

 映像作家の居田伊佐雄氏は、これらの大川戸作品を「境界線上の映画」2 と呼んだ。余りにも変化の無い日常を撮るために、これ以上進むと「作品」となりえないギリギリのところで成立しているからである。彼の美学には、人生は一瞬一瞬が二度とやり直しの利かない貴重な時間であるという「NG無しの美学」があると同時に、人間は特別な修行や努力をしなくても、ただ生きているだけで仏性を持っているという、日本大乗仏教における「本覚思想的な人間観」が横たわっている。大川戸作品については、このように極端な作風であるために賛否両論があるが、本人がどこまで意図的に作っているかどうかは別にして、批評的視点から見たとき、非常に深い美意識と思想を読み取ることのできるきわめて重要な作家であると私は考えている。

***

 以上、ジョナス・メカスの「セルフ・ドキュメンタリーの発見」の背景、日本における戦前の小型映画作家たちによるホームムービーの作成、戦後日本における自主製作の記録映画作家たちの活動、そしてメカス以後、鈴木志郎康以後のセルフ・ドキュメンタリーの特性について述べてきた。

 最後に、現在におけるセルフ・ドキュメンタリーの価値と問題点について少々考察してみたい。

 不幸の告白、というテーマを考察した場合、例えば精神医学における森田療法のように、事実を確認することにより、例えば神経症などを克服できるという効能がある。従って、心を病んだ作者達はそれを作品化する中で病を昇華し人間的に成長を遂げる、というメカニズムが存在するために、暴露主義的なセルフ・ドキュメンタリーは今後も消えることは無いと思われる。考えてみれば人間は誰でも多少は狂気をはらんでおり、誰にでも触れたくない心の傷がある以上、どんな人間でも1本はセルフ・ドキュメンタリーの傑作を撮る可能性を有しているのである。

 もっとも、この不幸の告白という傾向は、「露悪趣味」とギリギリのところにある。特に90年代以降、ぴあ・フィルム・フェスティバル(PFF)やイメージフォーラム・フェスティバル(IFF)などでこの種のセルフ・ドキュメンタリーが次々と大賞を受賞するようになると、競ってこの分野の作品を若手が作るようになり、一部には受賞を狙うためにわざと身辺の不幸を探し回るような行き過ぎた傾向も現れるようになった。このために暴露趣味的なセルフ・ドキュメンタリーは「不幸自慢」と揶揄される現象が起こってきたのも事実である。

 また、文中何度も指摘した、映像における真実と虚構の問題もセルフ・ドキュメンタリーの大きな争点だろう。実際、記録映画の宿命として、どこまでが事実でどこまでが虚構かは観客には判別することが不可能であり、その真相は作り手にしか分からない。山崎幹夫の傑作『虚港』(1996)のように、その虚実皮膜を作品のテーマとする作品や、明らかにフェイク・ドキュメンタリーと分かる作品は別だが、個人の抱える不幸や困難に対していかにカメラを持って切り込み、人生の事実を掴み取るかが問題とされるセルフ・ドキュメンタリーにおいて、作品を面白くするために安易に演出を施すことは、やはり倫理的な問題があると言わねばならない。とは言え、私は賛同しないが、私小説の作家達がしばしば事実と虚構を交えて作品を作っていたことを思えば、表現として面白ければ作品の真実性は問わない、という考え方も理論上は成り立つ。

 最後に、ほとんどのセルフ・ドキュメンタリーがいわゆる「素材主義」に偏りすぎている問題がある。これは記録映画における事実と虚構の問題に深くかかわることだが、事実を提示しようとすればするほど素材主義に偏り、作品に形式的な実験を施そうとすると、どうしても演出的になり事実性が希薄になる。セルフ・ドキュメンタリーは素材主義でいい、と居直ればそれまでだが、そこに素材主義以上の何かを求めるのは不可能だろうか?

***

 おそらく世界中のアマチュア映像の中で、セルフ・ドキュメンタリーの分野がこれほど特異に発達しているのは日本だけだと思われる。その根底には壮大な物語よりも身辺的な小さな物語を好む日本人の伝統的な感受性というものがあり、私小説におけるプライバシーの暴露や不幸の告白を好む観客が、現在はセルフ・ドキュメンタリーの中にその好奇心を満足させているという構図が見られる。すでにこの分野は日本のアマチュア映像の中で大きなジャンルとなって成立しており、我々はこれからもカメラを持った志賀直哉や太宰治や葛西善蔵の末裔達を発見していくことになるだろう。

 


脚注:

1. かわなかのぶひろ「日本のドキュメンタリー映画のかたち―セルフ・ドキュメンタリーの現在(5)」(メールマガジン『neoneo』10号/2004年4月1日発行)。

2. 居田伊佐雄「境界線上の映画」(『ムエン通信』12号/1992年11月11日発行/45頁)

* なお、作品名のあとの( )の中に、ビデオと明記していない場合は全てフィルム作品である。


那田尚史 Nada Hisashi

早稲田大学第一文学部卒業後、同大学院修士課程修了。映像研究者。とくに前衛映画、個人映像、小型映画などが専門分野。現在、早稲田大学および東京工芸大学非常勤講師。

[戻る]


セルフ・ドキュメンタリー前史 年表


1895  リュミエール『赤ん坊の食事』『海水浴』他ホームムービーを連作

1919  光学サウンドトラックの発明

1929  『カメラを持った男』(ジガ・ヴェルトフ、ロシア)

1935  国産シネさくら(16mm)発売

1939  映画法公布。文化映画強制上映が決まる(日本)

1940  今村太平、日記映画を予言

1946  アメリカで商業テレビ放送開始

1948  『ニュルンベルグ裁判』(米軍政府製作)

1952  人類学者グレゴリー・ベイトソン、マーガレット・ミードの調査映画公開(アメリカ)

1953  『オー・ドリームランド』(リンゼイ・アンダースン、イギリス)

1955  『夜と霧』(アラン・レネ、フランス)

1958  『シベリヤ便り』(クリス・マルケル、フランス)

1959  『窓のしずくと動く赤ん坊』(スタン・ブラッケージ、アメリカ)
『ひな菊を摘め』(アルフレッド・レスリー、ロバート・フランク、アメリカ)

1960  リチャード・リーコック等のグループ、同録のより自在な16mmカメラとレコーダーを開発。TV用作品を作る(『大統領予備選挙』、『ヤンキー・ノー』)

1961  『ある夏の記録』(ジャン・ルーシュ他、TV用)

1962  『樹々の大砲』(ジョナス・メカス、アメリカ)

1963  『スリープ』(アンディ・ウォーホル、アメリカ)

1967  カナダ国立映画製作庁「変革への挑戦」活動開始。市民参加の映画製作を試みる。
『人間蒸発』(今村昌平)

1968  『日記・ノート・スケッチ(ウォールデン)』(ジョナス・メカス、アメリカ)
『サマー・ハプニングス・USA』(飯村隆彦)

1970  『チカヘオリル・シンジュクステーション』(城之内元晴)

1972  『リトアニアへの旅の記憶』(ジョナス・メカス)

解説

この年表に取り上げた作品及び諸事項は、メカスが将来「本物の映画」を作るために修行で撮り溜めていたフィルムを見直しているうちに日記映画の形式に目覚めた1961、2年頃「意識的な日記映画」が誕生したのではないか、という前提にそって主に構成されている。ちょうどその頃には、ブラッケージが「アヴァンギャルド・ホームムービー」を作り、またTV放送の要請からエクレールカメラとナグラ式録音機による身軽な同録撮影が開始され、それを駆使したダイレクトシネマが登場してきた時期とも重なる。いわば「熱いドキュメンタリー」が製作された時期なのである。

(那田尚史)