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歴史の思考の最期
――ギー・ドゥボールとシチュアシオニストの映画

ジャン=フランソワ・ロジェ


 シチュアシオニストの映画は、今日ではむしろ唾棄すべきものとなったひとつの考え(転用)と、ギー・ドゥボールというひとりの重要な映画作家を後世に残すことになるだろう。そのドゥボールの全作品は、『スペクタクルの社会』(1973)の著者〔=ドゥボール〕の著作権を持つ者たちが異なる決定を行うまで、何年もの長い間、ほとんど見ることができなかった。この奇妙な遺産も、プロ−シチュ〔=シチュアシオニストのシンパ〕と呼ばれていた者たちが今や広告業界の人間となることで、彼らによって回収される運命を免れることはなかった。

 シチュアシオニストの映画はまず、転用の実践をメディアに適用する一手段であった。この転用の理論的諸前提は1956年、雑誌『裸の唇(Les Lèvres nues)』にギー・エルネスト・ドゥボールとジル・J・ヴォルマンの署名入りで発表されたテクストに見いだすことができるが、こうした考えは、芸術の終焉という基本原理、すなわち、芸術のブルジョワ的理解を単に否定するだけ(それは単なる否定の否定だ)では今や無意味であると確認されたという基本原理によって正当化されていた。このテクストの著者らにとって、「人類の文学的、芸術的遺産は、党派的プロパガンダの諸目的で使用されるべき」なのである。ロートレアモンこそが、もちろん、彼らの依拠する人物である。ドゥボールはその後、『スペクタクルの社会』の中で、転用に「反イデオロギーの流動的言語」を認める際に、他のさまざまな理論的正当化を行うことになる。

 転用は、引用――これもまた、ドゥボールがしばしば(時には隠れたやり方で)使用する手法ではあるが――とは区別され、転用に使われる元の要素に優れた特質がないと思われていることにつけ込むものである。それゆえ、シチュアシオニストによって転用されることになったのは、まったくありふれた商業映画である。ワン・ピンの〔映画を転用した〕『Du sang chez les Taoïstes(道士(タオイスト)の家での血)』、トー・クァン・クーとラム・ニン・トゥンの〔映画を転用した〕『La dialectique peut-elle casser des briques ?(弁証法は煉瓦を壊すことができるか?)』、鈴木則文の〔映画を転用した〕『Les Filles de Ka-ma-ré(カマレの娘たち)』というのが、ルネ・ヴィエネによって「変形された」3本の映画のタイトルである。ヴィエネは風俗(ジャンル)映画に対して特別の処置を施したのである。それは、70年代の初め、イタリア製ウェスタンが流行らなくなりはじめ、地域の映画館では、アジアの武術映画に少しずつ取って代わられつつあった時代だ。字幕とアフレコのおかげで、徒手での闘いがイデオロギーあるいは現実の闘争を描くものに変わる。敵は、ブルジョワとしても官僚主義者としても、まったく同様にして示される。さまざまな体制、政治家、著名人(とりわけ、左翼政治家や左翼知識人など公認左翼の代表)が、しばしば的を射た爽快な愚弄のなかで、軽々と罵倒され嘲笑される。しかし、この手法はたちまち、どうにもならない対象のことは放っておいて観客の暗黙の了解だけを誘い出す一種のメタ言語の表現のように見えだす。転用はここで、自らの限界をさらけ出し、残念にも今やどこにでもある、突出して冷笑的な態度を取ることへの呼びかけに広く培われた単なる冷やかしにすぎなくなってしまう。「それはまさに、広告の言説の技術そのものである」と、パスカル・ボニツェルは『カイエ・デュ・シネマ』誌の中で的確に述べるだろう。先に挙げた映画のうち最初の2つはどうでもよい武術映画に属するものだとしても、3番目の、もとは日本の映画監督鈴木則文が作った映画は、非常に奇妙なフィルムで、一種の反逆の称讃(映画は犯罪を行った少女らの矯正施設の中で展開する)であり、「悪しき欲動」の称讃(拷問の場面が数多くある)である。この映画は、「女性用監獄映画」というサブジャンルに入るもので、このジャンルにおいて日本は傑出した作品をいくつか生み出してきた(『女囚さそり』シリーズ)。字幕は、単に悪いものであったであろう本来の意味を転用するどころか、同語反復(トートロジー)の限界まで注釈を加えるだけで、映画のラディカルなエネルギーを和らげるのである。警官たちとの最後の衝突のあとで、ヒロインのひとりが字幕によって「これにはポチョムキンのようなところがあった」という指摘をなされるとき、この指摘は、ひとつのシークエンスの形態的暴力をただなぞっているにすぎない。この暴力は、つい今し方この目で確認したものについての「おもしろい」注釈などなくても分かる。実際、シチュアシオニストの転用は、その奥に、《歴史》に関する詳細な知識を盛り込んでいたが、その《歴史》は、批判的思考を構造化する大形式としては、その最後の瞬間を生きていたのである。したがって、転用とは、《大文化》が、今日の現実の遊びに支配された文盲状態によって破壊される前の、最後の演劇的表現、その断末魔の身震いであると同時に、二流品によって無駄もの扱いされた質を欠いた事物の使用のなかで、《大文化》が嘲弄の種として片づけられてしまう先駆けでもあることになる。

 しかし、ドゥボールの作品は、このような転用された教訓話を超えたところに存在する。そのドゥボールはかつて、誇り高く、次のような言葉で自らを正当化したことがある。「そのとおり、私は、どんな物でも用いてひとつの映画を作ったことを誇りに感じている。そして、自分の人生を全部使ってどんな物でも作らせてきた者たちがこれを見て文句を言うのを楽しみにしている」。ドゥボールの作品(4本の短編と2本の長編――『サドのための絶叫』(1952)、『かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について』(1959)、『分離の批判』(1961)、『スペクタクルの社会』、『映画「スペクタクルの社会」に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁』(1975)、『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』(1978)は、1981年から1984年までパリの映画館ステュディオ・キュジャスで、毎日見ることができた。この映画館の所有者であり、さらには商業映画のプロデューサー兼配給者にしてフランス映画の主要な芸能エージェントでもあったジェラール・ルボヴィッシが不可解なやり方で暗殺された後、ドゥボールは自分の映画を引き上げ、以後、それらが上映されることを拒否した。彼は最後に、ブリジット・コルナンとともに1時間の映画、『ギー・ドゥボール、その芸術とその時代』(1994)を作るが、それは彼の自殺の1カ月後、1995年1月に、テレビ局キャナル・プリュスの番組として放映される。

 ドゥボールは、まず、レトリスト運動のただ中で映画作家としてのデビューを行った。1952年の『サドのための絶叫』は、上映のたびにちょっとしたスキャンダルを引き起こした。その映画は、さまざまな声が重なり合う真っ白な画面と、無声の黒画面とが交互に映されるものだったからだ。そこには既に、美学的−政治的反抗に混じって映画の死に対する予言が示されていた。これ以降のドゥボールの作品には、彼が撮ったシーンはほとんど含まれていない。それらの作品は、とりわけ既存の映像のコラージュでできており、そうした映像の多さが、厳密に個人的な諸要素に多大な価値を与えていることは明白である。才気に乏しい広告映像が、そこでは、さまざまな映画――そのいくつかは有名で、立派な崇拝対象(フェティッシュ)と化している――の抜粋と隣り合っている。

 最後の作品、『ギー・ドゥボール、その芸術とその時代』では、「理論的」突出部としてのいくつかのカルトン〔=全面に文字の書かれた画面〕と並んで、既に広告ポスターにまで成り下がってしまった視聴覚の紋切り型映像(クリシェ)(天安門の戦車隊を前に抗議する中国人、〔洪水の後の〕泥の池に閉じこめられたコロンビア人の少女)や、いくつかのばかげたテレビ番組の場面(ドゥボールの本のひとつを攻撃するジャーナリズム的な文学討論番組、ベルナール・タピ自身による自己弁護)が次々と映される。これらの映像が現に存在する嘘を証明することしかしていないということは、すぐに自然と分かるので、もはやそうした現存の映像に手を加える必要はないかのようである。それでも、それまでの作品と比べると、この作品もたいしたことはない。

 ドゥボールの芸術は転用の実践に還元されるのだろうか? 1973年に作られた『スペクタクルの社会』によって、この映画作家は、マルクスの『資本論』に取り組もうと考えていたエイゼンシュテインの古い夢、すなわち、理論を映画にするということを実現しようとした。つまり、ドゥボールは自分の主要著作に映画としての存在を与えたのだ。この映画では、したがって、著者自身によって読まれるその本の広範囲にわたる抜粋に、さまざまな映像が重ねられる。映像と音との関係に意味を探し、時には明晰で時には難解な弁証法をとらえるのは観客の役目である。『スペクタクルの社会』(映画)は、最初のうち、スペクタクルと生との決定的となった分離を確認するラディカルな理論を提示する。映像とテクストが、モンタージュによって、もはや単に弁証法的であるだけでなく美学的でもある関係、単に意味論的なだけではなく音楽的でもある関係の中で、一体となったかに思われる時に、そして、観客もそのことを意識するまさにその瞬間に、次のようなカルトンが現れる。「このリズムが維持されるなら、まだこのフィルムに何らかの映画的価値を認めることもできるだろうに。でも、そのリズムはこれからは維持されない」。魅惑が感じ取られるまさにその瞬間に、その魅惑の危険を破綻させるこのような意志は、自分自身の芸術〔=技法〕の完璧な理解だけを拠り所としている。

 清澄な古典的言語を使って発せられる仮借ない理論に、その時、生ける者の痕跡として、ドゥボールにとって親密な者たちが付け加わる。『スペクタクルの社会』は、今では遠いものとなってしまった分割できない友情(クリスティアン・セバスティーニ、パトリック・シュヴァル、アスゲル・ヨルン、イヴァン・シュチェグロフとの友情)の想起で終わる(不鮮明な写真を背景にした「われわれ幸福な少数派、同志仲間のこのわれわれ(ウィー・ハッピー・ヒュー・ウィー・バンド・オブ・ブラザーズ)」の言葉)。この最初の長編映画に含まれていた映画の抜粋において既に、作者はジョニー・ギターに、スタンバーグの『The Shanghai Gesture(上海ジェスチャー)』のドクター・オマールに(「ですから私はいちばん純粋な混血ということになります。この地球全体の人間の親戚なのです。全人類が私の家族、というわけです。」)、そしてもちろん、アーカディンに(「ここでは人生の年月に数えるのは、友情が続いた年月だけなのです。」)同一化されていた。だが、ドゥボールのメランコリックな理性が完全に告白されるのは『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』(1990)においてである。過ぎし時代への回顧的な展望であるとともに喪の作業でもある『われわれは夜に彷徨い歩こう』は、今や、過去形で語られ、68年5月にカルティエ・ラタンに出現したちっぽけなバリケードの中に古い世界への攻撃の最初の急襲を見ようとしていた信念に、おそらく決着が付けられる。クープランの音に乗せて移動撮影されたヴェネツィアの運河、ベニー・ゴールソンとアート・ブレイキーの『ウィスパー・ノット』をバックグラウンドミュージックにして次々にアップで映されるパリの地図、これらによって『われわれは夜に彷徨い歩こう』は、映画を見る者たちが常に思い出すような希有で本物の感情、唯一無比の経験を引き起こす。エクリチュールと思考のヘーゲル的系統学は、そこでは、消え去った一時代への苦痛に満ちた知覚によって侵食され、内部から焼き尽くされてしまう。ドゥボールが「あまりにも美しい街だったので、多くの者が、他のどんなところで金持ちでいるよりも、その街で貧乏でいるほうがいいと考えた」と言ったパリが、現代の都市計画と本物の住民の追放によって破壊される以前の状態で呼び起こされる。偉大なフィクション映画の引用は、『スペクタクルの社会』の著者のたどった道を、アレゴリーによって描き出す。この著者は自分が、第七騎兵隊の隊長(ラオール・ウォルシュ監督の『壮烈第七騎兵隊』、1941)や軽騎兵旅団の旅団長(マイケル・カーティス監督の『進め龍騎兵』、1936)を演じているエロール・フリン、ラスネール(マルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』、1945)、この映画は、この新たな利用によってほとんど見るにたえるものとなった)、あるいは悪魔(マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』、1942)になることを夢見ている。映画によって解明された内省である『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』は、その存在自体が映画そのものを輝かせる方法の詩的な証明である。転用はそのとき、ひとつの生の夢想の中に解消されるのである。

――仏語翻訳:木下誠


ジャン=フランソワ・ロジェ Jean-François Rauger

シネマテーク・フランセーズのプログラマーであり『ル・モンド』のコラムニスト

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“転用”détournement

シチュアシオニストの用語で、既存の芸術作品を本来の文脈から切り離して、別の文脈に置くこと。彼らの機関誌『アンテルナシオナル・シチュアシオシスト』第1号(1958)に掲載された定義では、「前もって作られた美的要素の転用、という言い方を省略して用いられる。現在のまたは過去の芸術性産物を、環境のより高度の構築に統合すること」。彼らは文学、絵画、映画、建築、都市計画などさまざまな分野で、この「転用」を構想し、実際に、既存の小説の文章の切り貼りだけでできた「物語」や、既存の文章や言葉と種々の図版やコミック、広告や地図などの転用だけでできたドゥボールの『回想録』など、多くの「作品」を産み出した。

(木下誠)
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