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タイ・ドキュメンタリー映画の眠気

チャリダー・ウアバムルンジット


 数年間に映画祭で出会った数々の“良い”ドキュメンタリー作品によって私のドキュメンタリー映画への興味は培われていった。それが確固としたものになったのは、2001年に山形国際ドキュメンタリー映画祭のアジア千波万波の審査員として招かれるという贅沢な機会に恵まれてからだった。そこで私はドキュメンタリーが世界で特別な位置を占めていることに気づきだした。その後日本で半年間のドキュメンタリー研究をする機会が与えられたことで、私が理解するタイのドキュメンタリー映画というものを再考するに至った。

 タイ・ドキュメンタリー映画に対する私の意識は何故こうもぼやけているのか。

 私の意識を取り戻すために、タイでは唯一の映画史家ともいえる、ドーム・スックウォンにタイ・ドキュメンタリー映画について聞いた。国立フィルム・アーカイブの創設者でもある氏によれば、「タイにドキュメンタリー映画は無い」。皮肉なことに、4000作以上が“ドキュメンタリー”と分類されてアーカイブ・コレクションにある。故に、タイ・ドキュメンタリー映画そのものを否定する彼の言葉は興味深い。

 彼によると、ドキュメンタリー映画とは“創造的”かつ“批判的”でなければならない。その点からするとコレクションに所蔵されている、いわゆるドキュメンタリー映画といわれる作品は出来事や場所をそのまま記録したものにすぎない。これらの映画には歴史の証人としての重要性はあるが、製作者の創造性がほとんど反映されていないと彼は個人的に感じているようだ。この場合の製作者は、単なる撮影者にすぎない。例外もあるだろうが、多くはない。この彼の主張は、いかに良質なタイ・ドキュメンタリー映画が少ないかを裏づける。

 他の人たちの意識も探るために、タイ・ドキュメンタリー映画をどのように見ているかを何人かの友人に尋ねてみる。私の友人でもあり、私と同じくドキュメンタリー映画に情熱を持つ、映像作家のパヌ・アリーに聞いてみると、「タイにドキュメンタリーがまったくないとは言えないが、人はドキュメンタリー映画は退屈だと言う。リアリティから楽しい映画を作り出せるとは誰も考えていない」。

 私と同世代のアピチャッポン・ウィーラセタクンがタイ・ドキュメンタリー映画の特徴をうまくまとめてくれた。「ドキュメンタリー映画とは退屈なものだと教えられる。実際、授業で見るものは本当につまらない。何か問題を突き付けるようなドキュメンタリー作品を見る機会がまったくなかった。そして今、突然ディスカバリー・チャンネルの時代が来た。しかし、フレデリック・ワイズマンやイギリスの王道のドキュメンタリーなどの経緯が抜け落ちてしまっている。だからドキュメンタリー映画やその可能性を狭い範疇でしか考えられない。」

 実はドキュメンタリー映画の意識が欠如しているのではなくて、ドキュメンタリー映画に貼られた悪いレッテルに影響されて、過去に見たことがある作品さえも忘れ去りたいだけなのかもしれない。

 タイ・ドキュメンタリー映画が何故つまらないのかを探るために、そのルーツに戻ってみようと思う。タイではドキュメンタリー映画の定義はいくらか歪められている。それは“サラカディー”という、ドキュメンタリー映画やノンフィクション書物などを意味する言葉に原因があるのかもしれない。辞書によれば、“サラカディー”は「想像では無く、事実に基づいて書かれた話」とある。従って、一般的なドキュメンタリー映画というのは、主に事実を提供し、想像の片棒を担ぎかねない批判的な観点を避ける傾向を持つ。

 『サラカディー・マガジン(フィーチャーズ・マガジン)』のせいだけではないが、人気のあるこの雑誌が“サラカディー”という言葉の意味を固定化してしまったのだと思う。この一流誌には文化、環境問題に関する良質の記事が掲載され、人々のドキュメンタリー映画の概念を形作る傾向があり、多くのドキュメンタリー番組はこの雑誌の見出しから内容を決める。

 映画の歴史を振り返ってみて、ドキュメンタリー映画はタイ人にとって未知ではないが、情報を与えるという役割以上のものではなかった。1922年、一般劇場での公開用や家庭販売用の映画製作のために、トロピカル・フィルム・サービスという組織をタイ王立鉄道会社に設立した。理由のひとつは、ドキュメンタリー映画を国の宣伝に利用するためだった。戦後、アメリカ・インフォメーション・サービス(U.S.I.S.)の働きかけで、反共を命題にした、「情報および教育映画」という部類のドキュメンタリー製作のために映画製作部が設立された。U.S.I.S.は独自の映画製作ばかりではなくそのイデオロギー宣伝のために、映画製作を激励し、機材提供も行っていた。

 1955年にタイでテレビ放送が始まったことで、ドキュメンタリー映画のチャンネルが開局する可能性があった。社会経済開発計画と同じように、政府は観光業に多大な宣伝を費やし、援助した。『Tio Muang Thai Pai Kub Ovaltine(オーウァンティンと旅するタイ)』、や『Song Kan Thang Rot Fai(鉄道の旅)』、『Moradok Kong Thai(タイの宝)』などの多くの旅行記が製作された。これらの番組によって観光宣伝のための“自然と文化に関する映画”がドキュメンタリー映画だという概念を強固にした。

 ある意味、過去のタイ・ドキュメンタリー映画は直接的あるいは間接的に様々な権力者の目的に利用されてきた。そのため、リアリティーには真実の半分しか含まれない。国の名誉のために、常に“良い面だけを出す”ことが重要だったのだ。

 加えて、タイ社会の無意識の抑圧が関わってくる。タイは独立を保ち、西欧諸国の植民地にもならなかったが、抑圧は常に存在した。どのような権力にも管理される以前に、社会規律の中の多くのタブーが自己検閲のしくみを生み出した。

 タイ社会が唯一、表現の自由を堪能できた時期は1973年から76年までの短期間だった。長期圧政中、一度だけ1973年にタマサート大学で学生たちが軍政府に対して蜂起した。確かにこの時、批判的な作品が生み出される土壌があった。しかし歌や劇、ポスターなどはたくさん作られても、批判的な映画はほんの数本しか製作されなかった。

 そのひとつがイサン・フィルムスというグループが作った『Tongpan(トンパン)』(1975)というタイとアメリカが共同製作した映画だ。トンパンというカラシン県の農民が水力発電ダムによって土地を失い、バンコクのタマサート大学のセミナーに招待される、というセミ・ドキュメンタリーだ。スラク・シワラクや サネ・ジャマリクなどのエリート知識人たちも参加している実際のセミナーの様子が映画に入っている。

 もうひとつは、現在は上院議員でエイズ活動家のジョン・ウンパコーンによる『Kamakorn Ying Hara(ハラ工場の女性労働者たち)』(1976)。労働者たちの主張を描き、工場などで上映され、不正義に立ち向かおうと労働者たちを勇気づけた。しかし、映画が作られた数カ月後に「1976年の10月虐殺」が起き、かつての軍部が再び権力を握った。軍や右翼集団によって吹き荒れる暴力の嵐の中、タマサート大学の学生で共産党員と疑われた者は虐殺された。自由の芽は摘みとられ、多くの学生はジャングルに逃げ込んだ。世の中は恐怖と混乱で震え上がり、再び社会は沈黙してしまった。突如として自由が失われた。

 しかし、この時期にはここで注記すべき、いくつか重要なドキュメンタリー作品が製作された。スーラポン・ピニカによる『!』(1976)はバンコク銀行主催のドキュメンタリー映画コンペティションに選出された。この映画はコーントゥエのスラムの子どもたちのモンタージュに「Chanchoka(月に祈りを)」という童謡を重ねて貧困に対して声をあげる。左翼的だとする審査員もいて意見がわかれて最終的に特別賞をもらったが、民主主義を学校で教えるという政治的に正しいドキュメンタリーが受賞したのだ。

 『社会の周辺で(別名:『ウボンからの手紙』YIDFF '89で上映)』(Prachachon nok、1981)はカソリック・コミッション・フォー・ヒューマン・デベロップメントの支援を受けて、マノップ・ウドムデートが監督、ピニカが編集した作品。この映画は不正義が横行する社会での2つの下層階級の闘いを描く。彼らは共産党員だと疑われ、自分たち自身で立ち向かう。これはドキュメンタリーではないと監督自身が否定しているにも関わらず、常にタイ・ドキュメンタリー映画の代表に選ばれる。

 その後、ピニカは独自に『Sampheng(チャイナタウン・モンタージュ)』(1985)を製作した。バンコクのチャイナタウンを半年かけて撮影し、当初ナレーションはつけない予定だった。しかし映画が完成するとバンコク銀行の文化センターの目にとまるように、過度のナレーションをつけた別バージョンも作った。

 多くのドキュメンタリー映画を製作している作家の中でピニカだけはドキュメンタリー映画を意識していた。他にもドキュメンタリー作品を製作したが成功せず、コマーシャル制作に移行し、ウドムデートは映画業界入りを果たした。その後2人ともドキュメンタリー作家としては活動していない。

 タイ・ドキュメンタリー映画の歴史を振り返ってみてスックウォンのタイ・ドキュメンタリーに関する結論が正しいのかもしれないと思う。過去にタイにドキュメンタリーはほとんど存在しなかったのだ。

 ドキュメンタリー作品に残された唯一の場所はテレビだった。テレビ・ドキュメンタリーは80年代にビデオ技術の発展と共に栄えた。数々のドキュメンタリー製作会社が設立されたが、テレビの検閲は厳しく、批判的な内容は放送できなかった。検閲に引っかからないために、プロデューサーたちは主に教育番組ばかりを製作するようになる。ようやく最近になって、番組で重要な問題を多少取り上げられる自由が出てきた。90年代初頭の緑の運動によって、ほとんどのテレビ・ドキュメンタリーは自然についての番組に変ぼうした。この時期、ドキュメンタリー映画の技術面の質は向上したが、内容は依然、自然や文化などに限られていた。

 昨年、大手テレビ・プロダクションのパノラマ・ドキュメンタリーはケーブルテレビにドキュメンタリーチャンネルを創設したが、24時間番組を持続させることができずに終わってしまった。近年ようやくテレビ・ドキュメンタリー作品に広がりが見られるようになった。過去には扱えなかった問題に取り組む番組が増えてきている。しかし、今のところ十分な数の番組を見ていないため、どれだけテレビ・ドキュメンタリーに変化がもたらされたかは判断できない。

 限定的な理解しか持たない観客と限定的な表現の自由しか許されないドキュメンタリー製作者たちにも望みがまったくないわけではない。近年の短編映画やインディペンデント映画の台頭で、ドキュメンタリー映画の製作と鑑賞の場が広がってきている。授業で使われるドキュメンタリー映画は相変わらずだが、面白いドキュメンタリー作品が学生の手で作られている。

 チュラローンコーン大学のパヌッタ・ユーソワクトとソラヤ・ナカスクンが製作した『Amazing Thailand(素晴らしいタイ)』(1998)はタイ観光局(TAT)の政策を批判し、パタヤの地元観光局職員に立ち向かう。モンクット王工科大学のランチャナ・サヌーは『Karen Po(カレン・ポー)』(1999)で、カレン族の米に関する儀式と信仰を説明するために、民謡をナレーション代わりに使う。ウルポン・ラクササドの『時の行進(Kan)』(2000、YIDFF 2001「アジア千波万波」で上映)と『Kan 2(時の行進2)』(2000)は変わりゆく世界と向き合う北タイの老いた村人の質素な生活を描く。映画製作の上でリアリティそのものを扱い、それが主軸になっている作品も多く存在する。ブーンソン・ナプーの『Ta Kub Lan(おじいちゃん)』(1998)やアティト・アサラットの『モーターサイクル(Motorcycle)』(2000)は地元の人々を俳優として使うことで田舎の生活を映し出す。

 リアリティを面白い手法で作品に取り込んでいる作家も何人かいる。いわゆる純粋なドキュメンタリー作品とは違い、フィクション、ドキュメンタリーと実験映画の間に存在する。例えば、シロワットとナ・イン・タノンによる『Muang Nang Fa(天使の街)』(2001)は彼が撮った実在する売春婦の写真のコラージュに創作された台詞が重なる。『Looking through the Glasses(ガラスを通して見ると)』(2001)では、パタナ・ジラウォン監督自身が「ジョン・レノンが生きていたら、タイをどう見るだろう」と問いかける。

 数は少ないが、ドキュメンタリーの意識を持って作り続ける作家もいる。タンサカ・パンシティウォラクンは多くの自己投影的な短編を作った後、彼自身と親しい友人らをめぐる、愛、セックス、恋人についてのドキュメンタリー『Huajai Tong Sab(ブードウー・ガールズ)』(2002)を製作。彼の作品はドキュメンタリーではないと言われたりもする。どちらにせよ、カメラの後ろとはまた違うカメラの前で起きる出来事を彼は楽しんでいた。彼もまた何がリアリティなのか思いを巡らしている。

 パヌ・アリーもドキュメンタリーの短編作品を作り続け、3年間で8つの短編を作った。彼の最初の映画、『昔むかし(Karn Lakrung Neung)』(2000、YIDFF 2001「アジア千波万波」で上映)は撮影中に閉鎖が決まったダン・ネラミットという人気遊園地についての彼の子ども時代の記憶と人々の記憶の証言を重ね合わせる。彼の家族(父、母、弟)の現在の映像を背景に、遊園地について書かれている文章を挿入する。この映画には何重にも重なる記憶のコラージュがひしめきあう。彼のほとんどの作品は、周囲の個人に焦点を当てている。例えば彼自身(『昔むかし』)、彼の友人(『Destiny(運命)』)、彼の同僚(『Magic Water(魔法の水)』)、事務所のお手伝いさん(『Parallel(パラレル)』)などだが、個々人の話が社会全体を映し出すと彼は説明する。彼が自分自身を理解する方法でもある。そして、彼のすべての作品に共通しているメッセージは“何がおきても人生は続く”。

 これら近年の作品の中でアピチャッポン・ウィーラセタクンは最も有望だろう。彼によると、ドキュメンタリーは「作家それぞれのリアリティが作られる。それは真実ではない(それはありえない)が、作家を映し出すのだ。」彼は全作品の中で、リアリティから材料を拾っては様々な方法で調理する。『弾丸(Bullet)』(1993)ではニュース映像を使う、『ダイヤル0116643225059をまわせ!(0116643225059)』(1994)は電話の録音した音を使って母親の肖像を重ねる、『第三世界(Goh Gayasit)』(1998、YIDFF '99「アジア千波万波」で上映)は彼が撮影した映像の中から音声と映像を使う、『メー・ナヤンの伝説(別名:『絶えまなく打ち寄せる激しい波のように(Mae Ya Nang)』)』(1995)はラジオドラマと通りの映像を使う、そして『マレーと少年(Malee and the Boy)』(1999)では歩きまわる少年にマイクを付けた。

 ウィーラセタクンによると「映画製作は日記をつけることのように、果てしなく継続するものだ。私にとって、映画製作は私の存在意義そのもの。だから、本当に起こった出来事や実際、目にしたり、聞いたりしたものをスクリーンに投影する。そうすると、映画が記録になる。撮影時、製作準備段階や製作時に起きた出来事なども映画に入れたりする――そうすることで、後々映画を見た時に思い出せる。記憶を保存するような感じだ。」

 『真昼の不思議な物体(Dogfahr Nai Meu Marn)』(2000、YIDFF 2001「インターナショナル・コンペティション」優秀賞)を初めて見た時、最初のシーンに感動した。そこには普通にどこにでもある小さい通りが登場するが、映画の中では今まで見たことがないものだった。また大抵の映画では登場させるにはつまらないと見なされる、商売人や労働者たちのような普通の人たちが常に登場することが気に入った。

 ウィーラセタクンの説明はこうだ。「私はタイの階級差別に関心を持っている。それはとても明瞭で――テレビドラマやコマーシャルで常に目にすることができる。映画の中で特に好んで下層階級の人々だけを描きたいとは考えていない。むしろ結果的に、私が一番よく知る存在が彼らであり、より自然に接することができるからだ。彼らの感情や環境を共有できると私は感じている――それを忠実に表すのは難しいと同時にタイのメディアから流れるものとは矛盾する。どの階級出身者にも、タイ社会は抑圧的だ。しかしそれは下層階級にかかる、無言の抑圧のようでもある。これを映画で追求している。貧しいことについてではない。むしろ、彼らの人生観と抑圧の産物についてだ。将来は、もっと様々な人を自然に描けるようになりたい。」『ブリスフリー・ユアーズ(Sud Sanaeha)』(2002)という成功を収めた最新作では、純粋なドキュメンタリー作品ではないが、リアリティを原材料として使いこなす彼の才能が見て取れる。

 インディペンデント映画の人気は、リアリティをとらえるための新たな映画手法を広げ、より創造的かつ批判的な映画を見る機会を増やしてくれる。長い休眠状態を経て、もうすぐ、タイ・ドキュメンタリーの意識は新たな日に目覚めるだろう。

――翻訳:若井真木子


チャリダー・ウアバムルンジット Chalida Uabumrungjit

フィルム・アーキヴィスト、タイ・フィルム・ファンデーションのプロジェクト・デイレクター、タイ短編映画祭のディレクター。日本財団からのAPI奨学金で2002−03年度の半年間、日本でドキュメンタリーの研究をしている。

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