english

韓国のネット・ドキュメンタリーと
ブロックバスター(大ヒット作)

金素榮(キム・ソヨン)


1. ブロックバスター(大ヒット作)とネット・ドキュメンタリー

 韓国産ブロックバスターが韓国国内およびアジア諸国の映画市場でヒットをとばす昨今。ベンチャー資本が続々と参入する韓国映画業界の心臓部で1つの欲望が生まれ、沸騰する。韓国のブロックバスター作品群はみずからをハリウッド、アジア、そして韓国の中間であると位置づけ、その落ち着きどころのない性質が、観客の視覚および聴覚の無意識と共存するすべを必死に模索している。そのため、デジタル効果の多用、大規模なマーケティングと宣伝、さらに各地方を総なめにする一斉公開という手法によって成り立っているようにみえるのは当然であるであろう。しかし、このような手法のみでブロックバスター指向の映画業界を支えることはできない。相次ぐ大作の製作とその順調な受容を推進しているのは、過剰なナショナリズムをもってアジア市場およびグローバル市場を席巻せんとする野望である。

 外来の様式にローカルな素材、さらにローカルな様式を大がかりに表現すること――韓国のブロックバスターがこれらを折衷するものであることは明らかである。ハリウッド産ブロックバスターは、グローバルな文化産業にあってアイデンティティ(自己同一性)と差異の論理を骨抜きにする。韓国産ブロックバスターはハリウッドを模倣しながらも、同時に抵抗する。民族国家と国家文化に支えられた韓国式ブロックバスターは、ハリウッド映画の均質なアイデンティティに対し、自らを差異として提示する。しかし、それは「アイデンティティのアイデンティティと、アイデンティティの不在」の2者の間の対立なのである。つまり、韓国式ブロックバスターとはそれ自体が矛盾した存在である。1

 近刊の『韓国式ブロックバスター:アメリカあるいはアトランティス』で映画評論家や研究者たちがこう述べている―一般娯楽映画の社会への影響は広範囲にわたり、文化のナショナリズムやグローバリゼーションの役割を再定義することから、道徳、欲望、日常といった観念の形成にまでかかわる、と。2  韓国の映画週刊誌『Cine-21』は国産ブロックバスターの驚異的な成功を以下の言葉でまとめている。「天井知らず――昨今の韓国映画の驚異的成功を端的に表現するフレーズだ。『友へ/チング』(クァク・キョンテク監督、2001)は8百万人の観客を動員し国内総配給の38.3%を占めた。『新羅の月夜(Shillaui Talbam)』(キム・サンジン監督、2001)や『猟奇的な彼女(Yopkichoin Kuyon)』(クァク・チェヨン監督、2001)をはじめとする作品も配給収入を競っている。国内市場の40%は国産映画が占めるであろうと予測されていた。かつてのスローガンが、現実となったのだ。」3

 国産ブロックバスター映画が全面に押しだすのは金銭的な利益よりもむしろ、費やされた国家文化的価値である。その上、1990年代以降、映画業界は公害(スモッグ)と無縁な、ポスト産業時代の優等生であると政府から称賛されており、大衆のおぼえもめでたいというわけである。

 べらぼうな広告収入とチケット収入にもかかわらず、映画業界全体が2001年にはじきだした利益は中規模の企業1つ分にしかならない。ブロックバスター・モードで動く現在の映画業界が提示するのは、金融資本と大量投資文化が大衆レベルで機能するモデルである。映画会社がネット上で展開している「Netizen[Net Citizenの略]ファンド」は数多くの熱心な投資家をひきつけている。一瞬にして投資枠がうまってしまうために、投資しそこねた人々から苦情がでるほどである。ブロックバスター映画とそれに伴うブロックバスター文化の普及によって、韓国は投資文化シーンに参入したようである。

「広範囲な“投資文化”の登場は、一方で金融資本のヘゲモニー(覇権主義)的な支配の強化に重大な役割を果たす――何千万人もの労働者の日常生活に“投資実践”を組み込むことによって、彼らが認識している自分たちの利益を金融資本のそれとリンクさせ、さらに、ネオ・リベラル秩序(オーダー)における利害関係とみえるものを与えるという形で。この意味において、ミューチュアルファンド業界は、グローバルな投資の構造とプロセスを大衆レベルでマーケティングするものといえる。」4

 シネコンとともに展開するブロックバスター・モードの一方で映画祭が増殖している。プサン、プチョン、チョンジュの3つの国際映画祭はもちろんのこと、女性、クィア、労働、人権といったオルタナティヴなテーマの映画祭も観客でにぎわっている。1990年代のシネフィル的社会は1997年のIMF(国際通貨基金)危機以降も続いているのである。グローバル/ローカル、そしてジェンダーと階級の問題が個々の映画作品のなかでの表現をとおし、映画祭という公共圏において荒々しくも過剰なまでに提示されるのである。まさしく映画的社会と社会的映画である。韓国社会を読むための特権的な場が映画であるといえる。また、その逆もしかりである。

 オルタナティヴな公共圏としてインターネット・サイトを構築しようという動きがアクティヴィストや知識人の間でたかまるなか、ネット上でのストリーミング技術への変換が容易なデジタルビデオに転換する映像作家がでてきている。DSLサービスは手ごろかつ手軽になってきている(家庭で使うなら1ヶ月15ドル程度、PCラウンジで1時間1ドル以下)。このためにもたらされた変化のうちでも重要なものは2つある。1つはサイバー・トレーディングと株式投資の一般化であり、もう1つは短期間のうちにサイバー・デモクラシーという名称で呼ばれるようになった公共圏の形成に向かっての一歩である(http://soback.kornet.nm.kr/~wipaik/)。大衆の投資文化とサイバー・デモクラシーは、ネットワーク社会とも呼ばれるグローバリゼーション時代の鏡(mise-en-abyme)となる。

 1980年代の労働運動や人民運動からうまれた(あるいは関係がある)戦闘的な独立系フィルム、ビデオグループは、批評空間構築の可能性を念頭に、自分たちのドキュメンタリー作品の全編に自由にアクセスできるウェブサイトを作っている。一例をあげるなら、ある女性労働者ネットワークはIMF危機以降、加速度的に増加した非・常勤雇用の問題を扱ったドキュメンタリー作品をサイト上で公開している(http://www.kwwnet.org/)。この作品によれば、現在、女性労働者10人中7人が福利厚生のない非・常勤形態で雇用されているという。

 1980年代以降、進歩的知識人の間ですらもナショナリズムの話題がタブー視されてきたのは、国家安全保障法そのものだけではなく、そこに表れた日本とアメリカのポスト植民地的かつ、ネオ帝国主義的影響力によるものであったが、ドキュメンタリー・サイト『愛国ゲーム(Patriotic Games)』(www.redsnowman.com)はまさにそれを鋭く攻撃する。『愛国ゲーム』の製作者たちはネットこそがカウンター・シネマのための空間であると宣言しており、作品のビデオ化販売を拒否し、ネット以外の場での映写会もごくまれにしか行っていない。

2. トランス・シネマ

 デジタル・シネマの増殖をきっかけに、トランス・シネマという概念を提案したい。これは独立系デジタル映像製作にみられる生産、配給、受容の変貌とネット上での映像作品の公開への注意を喚起すべきものである。トランス・シネマはまた、(地下鉄やタクシーやバスに取り付けられた)LCDスクリーンや街頭の巨大な電子ビルボード(広告、ニュース、および映画の予告編)を公共シネマとして提案する。集団としての鑑賞者との関係でいえば、この公共スクリーンはテレビよりも映画に近い。ソウル中心街光化門に設置された巨大なスクリーンは、ソウルという町の日常性に浸透しつつそれを構築する心象(ファンタズマティック)のスクリーンなのである。韓国近代化の象徴である聖水橋の倒壊が光化門街頭のスクリーンに投影され、何千人もの通行人や乗客の目にふれたとき、それは確かにブロックバスター映画を凌駕する見せ物であった。メディア・ソウル・プロジェクトがパブリック・アートとしてソウル市内の何千もの看板に短編映画やビデオ作品を上映したとき、ソウルのメディアスケープが変貌したのも確かである。短編映画のなかには10代の女の子が出産し嬰児をトイレに流すところをとらえたものがあり、マスコミと検閲委員会を激怒させた。この映画はパブリック・アート・プロジェクトから外されることとなった。分裂した近代性(モダーニティ)と制御不能な女性の身体が公共スクリーンをかく乱する。

 トランス・シネマは、ハイテク企業が鳴り物入りで祝うセンセーショナルかつ時期尚早な「映画の死」ではない。むしろ、顕在化しつつある鑑賞者と製作様式を理論化しようとするものである。トランス・シネマは映画を国家(ナショナル)的、もしくは超国家(トランスナショナル)的のどちらかであるとする支配的な説を覆すはずなのだ。トランス・シネマとは:

「トランスナショナル・シネマへの批判であり、映画製作と批評言説が緊密に絡み合った、変化を起こさせる力のある内省的な営みである。それは多様な映像実践と批評枠組みを創造する。それは、次のいずれにも還元されえない――新たなトランスナショナルな基準としてのハリウッド映画ののニセの普遍性にも、その鏡像である多文化主義および国家を越えた(トランスナショナル)資本主義が信奉するアイデンティティの特異性にも」5

 したがって、トランス・シネマという批評的一群を構築することは、映画研究のなかの比較研究の流れを刺激することである。皮肉なことに、それは、「“比較”を可能とする普遍主義とは、1950年度以来加速度的に世界全体が資本主義と遭遇したことからもたらされた」。6 この意味からいくと、韓国のブロックバスター映画は、ハリウッドへの解答であり、1つの普遍性を普遍性のスペクトルへと翻訳するものである。そのため、グローバルな金融資本主義の時代における普遍と特殊、グローバルな支配とローカルな抵抗、そしてジェンダーの政治学(ポリティクス)といった緊迫した問題を吟味する場となっている。初期の映画におけるオルタナティヴな公共圏の理論的構築が提案されつつある今――産業資本主義との関連において、または反対するものとして――トランスナショナルな資本主義時代における(映画の)オルタナティヴな公共圏を着想し、創造する必要性ができているように思われる。現在進行形の努力であるべきなのである。「たとえ、自律的公共圏が発生しつつあるという軌跡が、実証的にはまったく認められなくとも、推論はできるのだから――否定というパワーから、あるいは、オルタナティヴな(自己管理された、ローカルで、社会の特定の層による)経験の蓄積というものを許容するかもしれない諸条件を、抑圧するか、それに同化するヘゲモニック(覇権主義的)な活動から。」7

 つまり、トランス・シネマとは、いまのところ不安定な混合物からなる奇妙な存在なのである。フィルムとデジタルの境界を横断し、映画の体制化によって発生した規範的な鑑賞者たるものをゆるがす。ワールド・シネマとナショナル・シネマを対にして扱うことへの批判であると同時にその流れをくむトランス・シネマは、ローカルな映画というものをトランスナショナルな資本主義の文脈でとらえなおす緊急の必然性を提示する。そのため、トランス・シネマはトランスナショナル・シネマとは違い、ローカルなブロックバスター映画(香港、 中国、インド、韓国)とアートハウス系シネマ(台湾やイランなど)を含めた、近年顕在化しつつあるアジア限定ながら国際的なエリアにわたる(インター・サブ・グローバル)主体に対する認知であり回答である。とくにアジア複数国で流通する(インター・アジア)ブロックバスターは、ハリウッドの影響を受けたグローバルな文化産業構造を模倣する。ローカルもしくはサブ・グローバル(地域的)という概念がどのように解体されると同時に定義づけられていくのかを理解するためには、これらの映画を分析すればよい。

 わたしたちが知るところの映画装置の系譜は産業資本主義文化に組み込まれている。ということは、その装置を修正しなくてはならないということだ――変化する政治経済とそのグローバルな空間への変貌にあわせて。社会経済、政治、文化の状況が徹底的に変化しつつある公共圏に呼応して映画装置を定義づけるためには、映画によって補強された“公共圏”において多様な構成要員のそれぞれの存在範囲がどこからどこまでかを注意しなくてはならないことは明らかである。

 また、ユルゲン・ハーバマスによって構想されたブルジョワ公共圏のリベラル・モデルの構造と機能は、『公共性の構造転換』の序章に記されているとおり、社会的にも歴史的にも17世紀末の英国と18世紀フランスに特定のものである。8 ということは、発展途上の市場経済における公共圏の古典的モデルがもはやあてはまらず、ハーバマスの認識とは異なり民族国家がすでに統一性や一体性をもたらさなくなったネオ・リベラル時代において、公共圏という概念を持ち出すことに何の意味があるのだろうか?

次頁へ続く>>


1. Jameson, Fredric, "Notes on Globalization as a Philosophical Issue," The Cultures of Globalization, ed. Fredric Jameson and Masao Miyoshi (Duham NC: Duke University Press, 1998): 75-76.

2. Kim So-young et al., Hankukhyong blockbuster: Atlantis hokum America (Seoul: Hyonshilmunhwayongu, 2001).

3. Cine-21 (August 17, 2001)

4. Harmes, Adam, "Mass Investment Culture," NLR (II) no. 9, May-June 2001: 103.

5. Yoshimoto Mitsuhiro, "National/International/Transnational; The Concept of Trans-Asian Cinema and Cultural Politics of Film Criticism," paper delivered at the On Trans-Asian cinema panel at the Jeonju International Film Festival, 2000.

6. Willemen, Paul, "Korean Detour," forthcoming in InterAsia Cultural Studies, Vol 3 no.2 (August 2002).

7. Hansen, Miriam, Babel and Babylon (Cambridge: Harvard University Press, 1991): 91.

8. Habermas, Jurgen, The Structural Transformation of the Public Sphere (Cambridge: MIT Press, 1991). 『公共性の構造転換』未来社、1994、細谷貞雄訳