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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 18 川口肇(2/2)

AG:先ほどの媒体性を表現するためのコピーのコピーのコピーの場合でも、理論的にそれはボードリアール(Baudrillard)のシミュラークル論に共通していて、つまり媒体性によって現実は無くなって全てはコピーに過ぎない、という主張がでてくるんですが、『位相』や『異相』はメディアによる虚構を作るんですが、“全ては虚構に過ぎない”というシニカルな立場には陥っていないような気がします。『異相』では話す相手がでてきて、猫の話に対して「これはあなたの作り話ではないか?」と赤い字幕で表現されてますが、全てが作り話であるわけじゃない。理論上の“全ては虚構である”ということは理解できるんですが、川口さんはそれを理解しつつ現実を全部捨てずに別の現実をどこかに探っているような感じがしますね。

KH:厳密に、現実をビデオで何かを表現しようと思ったら、ビデオってこと自体が虚構なんですよね。ビデオモニターに映っているものが現実だと信じること自体が間違っているわけです。だから、そこについては、どんなに現実に似ていても現実じゃないんだよ、ってことを一度キチンと言わなくちゃいけないのかな、とは思います。だけど虚構だからといって全てが嘘で、そこに価値はないかといえば、その虚構の中に真実が現れてくるわけで、それはどちらか片一方では絶対無いですよね。

AG:それを考えるには僕は『filmy』と『un-recognizable』(1988)にでてくる神林長平の作品からの引用に川口さんの立場が良く表現されているところがあると思ったんです。「全ては翻訳」という中で、“翻訳”によって私たちは他者との関係を作るのですが、神林は“誤訳”は虚構かもしれないんですけれども、それを否定してはいけない、誤訳そのものも重要である、と言うんですね。それは川口さんの作品にも関係してる立場だと思うんですけれども…。

KH:「誤訳は許容されなければならない」。

AG:自分の作った“誤訳”を肯定する試みが作品の中にあると感じました。

KH:それは凄くそう思います。“誤訳”とは一種のイレギュラーバウンドみたいなものなんですけれども、そこから面白いことってどんどん起こってきてますよね。“誤訳”だったり“誤解”だったり…。作品作りの中でそれは起こってくると思うんです。机上で考えたプランが現実にぶつかるとそういうことが色々と起こってきて、当初考えてもいなかった方向に転がっていったり跳ね返ったりしますよね。それこそが映像で作ることの意味なのかなと思います。純粋な論理展開だったら言葉を使えばより純粋に、より美しいものができると思うんですけれども、それを一回“撮影”っていう非常にカオスなものを通す、純粋でない、現実の猥雑さそのものをわざわざ使うっていうのは、そういうイレギュラーバウンドを起こすためではないかなと思います。

AG:川口さんの作品の中に一方では構造的で、一方ではノイズによる美しさで、その両方の関係性が出てくると思います。要するに構造的に作りながら、期待しているのはノイズのような“誤訳”から生まれてくる美しさではないか。その象徴としては『異相』にでてくる死んだ猫のクリシェの残像があります。それは構造から生まれてきたノイズとはいえないかもしれないが、それを1つのメタファーとして、川口さんの作品は“心霊写真”を期待しているような…。

KH:あ、それはあります。

AG:つまり色々な技術を使って構造的に物理的に作りますけれども、期待しているのは説明もできない幽霊のような、不思議なもう1つの現実の断層という感じがしました。

KH:そういうものを期待していますね、確かに。現に『異相』では、そういう心霊写真のようなことが、実際に起こったんですけれど、やっぱりそういうことが起きるのを期待してますよね。さっき“呪術”と言いましたけど、そういうのに結構近いのかもしれないです。人形に五寸釘を打つと実際の人間が痛くなる、そういう常識ではナンセンスなことがどこかで起こってくれないか、というふうに思ったりするんですよね。そしてそれが起こりうる方法があるのではないか、と。

AG:それももう1つの“両面性”なんですが、つまり一方では構造的で、一方ではパーソナルであるということなんです。それが呪術になるかどうか分からないんですが、構造的に作りながら、どこかで、家族の霊とか猫の霊が、自分のパーソナルな世界の何かの霊がどこかにでてくる、というような作りが見えてくるわけですね。

KH:ただ“死”ということが続いているんですけれど、それはちょっと、なんて言うかな、払拭したいなと思ってるんですけどね。偶然もあるし、仰るように“幽霊”ということが1つの象徴になってるのかなとも思うんですけれどね。

AG:方法論について訊きたいんですが、全ての構造的な作家がそうであるかは分からないんですが、構造にこだわる作家はコントロールにもこだわるんですよ。つまり自分が作ったものを自分の思う通りに作ろうとし、それを越えるようなものを排除する“完璧主義者”もいないわけではないのです。川口さんは自分の作る方法論の中に自分を越えるものとか、思う通りになっていないものを受け入れながら作品を作ってる感じがします。

KH:僕はそうですよね。そうでないとあまり意味がないんじゃないかと思っちゃうんですよね。自分を越えるものができてくれないと、自分の考えを引き上げてもらえないわけですから。最初に考えていたプランの再現であれば、何も映像っていうイレギュラーバウンドを起こすようなものを選ばない方が向いているだろうし…。

AG:そこで自分の作家性を考えるには、『Point 1415』の最後では“監督川口肇”というクレジットではなく、“ビデオ・サンプリング”というクレジットがでてますけど、これはどういう意味で入れましたか?

KH:あれは後から考えると色々意味深だなと思うんですけど、当時は撮影っていうことは現実の単なるサンプリングに過ぎなくて、だから著作者なんていないんじゃないかって…。

AG:ここで“コピーライトフリー”とも書いてありますね。

KH:当時考えたことは“著作権無し”ってことはあり得るんじゃないかと。フリーウェアってありますよね。フリーソフトウェア。あんな感じでビデオの著作権も放棄しちゃったら一体どうなるんだろうな、という気持ちもあってあれはそうしてみたんですけど。後々考えるとそれもかなり本質的なところのような気もするんですよね。“作者”って一体何なのかっていうところですよね。『異相』ではそこが1つの焦点になっているんですけど、作者って一体何処にいるのかって。

AG:そして今はどうお考えですか?

KH:“作者のいる場所”についてはまだ自分の中で明快な考えは見つかっていません。ただ、作品世界の中での“特異点”であることは確かだと考えていますが。『異相』では“作者の不在”ということに結びついてきているんですけど、その当時は“作者の不在”にそんなに意識的ではなかったんです。

AG: 『異相』では一方では“作者の不在”があって、一方ではちゃんと川口さんご自身の話もでてきて、その“存在”もあるわけですが、その2つの側面の関係は、どのようにお考えでしょうか?

KH:いわゆる“作者”っていうことと、“私=川口肇”っていうことですよね。僕自身がでて、それをカメラで撮っててそのカメラの後ろにはいったい誰がいるのか、って。作者って一体何なのか、誰なのかって問題ですよね。

AG:作者とは誰かに関係してるのは『異相』はクレジットに“ヴァージョン7.5”とかがでて来るわけです。つまり色んなヴァージョンがあるわけで、この作品は完結していない理由の1つとしては“作家がいない”こともあるわけですね。

KH:話しが逸れてしまうかもしれないんですが、ヴァージョンナンバーに関しては、コンピュータで作品を作るという事を意識してつけています。今後こういうあり方もあるんじゃないか、というふうに思うんです。ノンリニア編集って、後でいくらでも変更できますよね。だから発表するたびにヴァージョンが変わっていくことは、今までは作るのが大変で無かったんですが、今ではハードディスクレコーダーがもう家庭の中にすら入り始めているという現実があるわけです。だから最終形態がハードディスクの中のデータってこともあり得るわけで、そうなると作品内容が見るたびに変わっていってもおかしくはないんですよね。最終ヴァージョンがあり得ないってことは、作品のあり方として“ある”んじゃないかなという考察もあって(笑)。

AG:これも面白い形として、随分前の作品のフィルムをフィルムで撮って、そして更にまたフィルムで撮って、という方法に共通してるところがありますね。『異相』ではいくつかの“Phase”があって、1つ目を人に見せて、反響を受け入れながら2つ目を作って…

KH:あ、それはそうですね、他の人の反応ってこともありますし、自分が観客として作者の、あるいは作品のメッセージを受ける側に立つっていうことでもありますね。それも1つの作者であることから離れようとするやり方だったんです。

AG:それは山形映画祭2001のカタログにお書きになった“共振”という言葉もかなり合ってると思います。川口さんの方法論は、ただ現実を撮るのではなく、また現実を否定する“虚構”を撮るのでもなく、媒体をその間に振動させながら、“心霊写真”のような現実との不思議な“共振”――先程川口さんが“共鳴”という言葉もお使いになりました――それがでてくることを期待しているところがあるのではないかと感じたのです。繰り返しコピーをコピーすることによって現実を否定するのではなく、現実のもう1つの断層が生まれてくるような方法論があると思いました。

 次に、今現在考えていること、制作しているもの、これからの方向についてお聞かせ願いたいんですが。

KH:いろいろとやってみたいことはあります。フィルムでやりたいと思っているのは、特に長時間露光のシリーズの延長として、画を描くようにフィルムを使って描いてみるっていう方法論で、構造を見るっていうものよりは、画を見るように見られる映画というか、そういう方向での作品もやりたいと思ってますし、その一方で『異相』の次に来るようなもの、現実について考えるものをそろそろ始めなくちゃいけないとは思ってるんですが(笑)。具体的にはまだ動いてないですね。

AG:最後の質問にしますが、東北芸術工科大学で教えてらっしゃいますが、教育者としての自分と今の学生について何かお話しいただけますか?

KH:学生の制作に係わるというか、つきあうというか、いわゆる“教育”でしょうけど、それはそれで面白くなってきてますね、僕の中では。自分の作品に対する関わりと自分が学生の制作の場に関わるスタンスがちょっと近くなってるのかなという気がしますね。いろいろと学生と付き合う方法論を考えてとか…。それこそ思ってもみなかったものが返ってきたりするのが凄く面白いですよね。

AG:最近の学生は何か面白いものを作ってますか?

KH:作ってますね(笑)。ただ難しいのは僕らの価値観で「これは面白い、これは面白くない」というふうに決めつけてしまっては新しいものが生まれないような気がするんです。だから、僕らのやる仕事は可能性をピックアップしていくことなんじゃないかと。何だか僕には分からないけれども、もしかしたら面白くなるのかもしれないっていうことを、これは分からないからダメだってそこで叩き潰しちゃうんじゃなくて、一個一個ピックアップしていく。で、それらはその後面白くなるかもしれないし、もしかしたらそれはダメな芽かもしれないけど、それは僕らが決めつけちゃいけない、そうしないと新しいことは何も起こってこないんじゃないかと思ってます。それをピックアップする作業は結構楽しいですね。

AG:それは作品を作る方法に共通していますね。

KH:そういう気はしますね。

AG:構造だけにこだわらず、自分だけにこだわらず、それを越えるものを、ダメになるかもしれないけども、可能性としては期待しているということですよね。

KH:ある種無責任といえば無責任ですけど、突き詰めたら責任なんて教員が持てるものじゃないんですよね。それは学生が作家として自分で持たなくちゃいけない責任で、それに対して僕らができることは、もしかしたら可能性があるかもしれないということを、本人が気付いていないことがあればピックアップすること、それからもしかしたらそうかもしれないと本人が思っていても怖がって言わないことってあるんですよ。自信がないので表明できないってことがよくあるんです。そういうときに背中を押してあげて元気づけることくらいなのかなと思ってます。

AG:今日は本当にありがとうございました。

(2002年8月11日)

 


アーロン・ジェロー Aaron Gerow


『Documentary Box』の元編集者であり、現在横浜国立大学留学生センター助教授。研究テーマは日本映画史における戦前と現在の日本映画で、最近は北野武、青山真治や三池崇史などの研究を内外に発表。1990年代の日本映画に関する書籍を執筆中。

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