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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 15

久保田幸雄

聞き手:小林茂


 『Documentary Box』第1号(1992年9月29日発行)の羽田澄子監督へのインタビューから開始した日本のドキュメンタリー作家インタビューシリーズは今回で15回目を迎えました。その間、監督を主にインタビューさせていただきながらも、日本のドキュメンタリー映画を監督の視点のみならず、撮影の田村正毅氏(『Documentary Box』#8)やプロデューサーの工藤充氏(『Documentary Box』#10)へのインタビューと、その世界を複眼的に考察していく試みを続けてきました。録音の久保田幸雄氏にはここ数年間、インタビューをさせていただきたいと切望しておりましたが、編集部側の聞き手としての力不足もあり、実現できないままでおりましたが、この度、小林茂監督に聞き手をお願いして、ようやくご登場いただきました。ささやかに15回目を記念しつつ、この場を借りて、お二人に深く感謝いたします。

――編集部


1. 開局したばかりの民放で

小林:今もたくさんの仕事を抱えている久保田さんに今日は録音のことについてお話しを伺うわけですが、まず久保田さんの録音の仕事に入るきっかけを最初にお話ししていただきたいんです。少し略歴から起こしますと、1954年9月にラジオ佐世保の録音部になっていますけど。その前に大学を卒業されてからここに入ったわけですか?

久保田:九州大学工学部の電気通信科を出たんですよ。技術的なことをやりたいなということで、開局したばかりの長崎放送・ラジオ佐世保局に入りました。技術的な仕事は、録音しかないんですね。ラジオの録音は、ただ音を録るだけですから、ものすごく単純なんですよ。

小林:スタジオでしゃべっているアナウンスとかを録音したり…

久保田:それと、録音構成の番組を作るために現地に行って、いろいろな音を録るとかですね。その頃はデンスケ1っていう6mmテープの手巻きの録音機だった。それをスクーターの後ろに積んで、取材に行ったものです。半年もすると単純な録音の仕事にあきがきて、ディレクターに仕事を替えてもらったのです。地方の小さなラジオ局なので、そういう自由がきいたのですね。そうなると作品の企画から取材、そして最後の仕上げまでできる。1年半ほど、その仕事をやりました。九州の佐世保地方のいろいろな年間行事を録ったりと、言ってみればドキュメンタリーですよね。

 あるいは特別企画として、佐世保川の上流から海まで、そこで生活している人たち、橋の下に住むホームレスの人まで含めて取材しました。それで「録音構成」の番組を作るわけです。

小林:まだテレビ放送がない時代ですから、ラジオの、画がないドキュメンタリー番組みたいな感じですよね?

久保田:でも、その前後に東京でテレビが開局しはじめたんですね。2年ほどディレクターをやった頃、突然、大阪に営業部員として飛ばされました。ちょとね、組合を作って組合運動なんかやったもんですから(笑)、これはもう邪魔者だと大阪に飛ばされちゃた。ところが、営業という仕事は、芯から僕の体質には合わないんですね。

小林:まあ、向きそうもないですよね(笑)

久保田:毎日、朝からスポンサーの所を回って歩くわけですよ。小さなラジオ局など全く相手にされない。面白くないので、営業の雑費を手にして動物園に行ったり、海岸を散歩したりしてました。3ヶ月も経つと、その毎日がたまらなく辛くてね。それなら学生時代からやりたかった映画でもやるかと、東京に出てきたわけです。そして岩波映画に入ったのね。

2. 岩波映画製作所の録音部で

久保田:最初はドキュメントの演出をやりたかったんです。しかし岩波映画の重役さんは、「演出部は満杯です。録音部なら空きがあります」というわけで(笑)じゃー録音でいいや、と録音部に入ったんです。

小林:岩波の方も録音部だったということは知ってたんでしょうからね。岩波映画って言いますと当時錚々たる、今も活躍していらっしゃる監督もいらして、まだ土本さんも小川紳介さんも非常に若い時代ですよね? それで「青の会」2っていうのはそういう若い助監督たちが作った勉強の場だと聞いてるんですけども、久保田さんは録音部だけども「青の会」にも参加されてたと僕は聞いてたんですが。

久保田:ちょうど僕が岩波に入った頃、年齢順に言うとね、羽仁進、羽田澄子、黒木和雄、土本典昭さんたちがいたし、それに僕が入社したすぐ後から、東陽一や小川紳介が入ってきたんですね。そういう人達はみんな演出だけど、付き合っていくとなかなか優秀なんですね。自分で演出をやるより、こういう人達と一緒に仕事をしたいということで、録音の仕事をやることに決めたんです。それからの何十年かにわたって、今、名を挙げた全部の演出家と仕事をしています。

 たとえば昨年の劇映画『スリ』(2000)の監督をした黒木和雄さんとは、岩波映画で『ルポルタージュ・炎』(1960)など何本もやりましたし、『わが愛北海道』(1962)の時は、小川紳介や東陽一が助監督に付いているんですね。だから、そういう仕事や「青の会」で、みんなとはよく知り合う。数年後に岩波を辞めてフリーになった後も、その関係はずっと続いているわけです。

小林:岩波の映画の時、録音っていうのはどういうものだったんですか? 当時は同時録音もなかったわけですよね。そのような状況においてその音っていうのがどうやってこう、絡んでいくんですか?

久保田:企業のPR映画が多かったですね。工場の撮影とか、ダム建設の撮影とか。今はシンクロ撮影が常識ですが、当時は、ほとんどがサイレントキャメラでした。もちろん音は同時には録れない。

 たとえば『明日の鉄鋼』(狩谷篤監督、1962)という映画を撮る場合、まず全ての工程をサイレントキャメラで押さえるわけです。かなりの照明を使うので、多いときには800kwも使っていたことがあります。製鉄の全工程を撮ると、ひと月以上はかかるわけですよ。

 ところが録音部は、その全工程を1日で録って回ることができる。なにしろ製鉄の作業は、毎日同じことを最初から終わりまでずーっとやってるわけですからね。だから録音部は、撮影が終わりに入った頃、それまでのラッシュを見て、初めて現場に行って録音します。

小林:画の構成と録音の構成とパラレルに進めるというような感じですね。

久保田:帰ってきて、画が編集されたのを見ながら音を付けていくという作業ですね。

小林:あとはスタジオで効果音を入れたり、ナレーションを録音して、それからそれをミックスすると。それはもう今でも同じ作業ですよね? そして自分でその当時、今度フリーになられてドキュメンタリーでも劇でもいいんですけど、こうポイントになったような作品ってございますか?

3. 大変なオンリー録りを劇映画でも

久保田:1964年に岩波映画を辞めた後、劇映画もやり始めました。一方ではもちろん、ドキュメントも並行してやってるわけですが。劇映画を始めたとき、シンクロ録音ではなくて、またアフレコでもなくて、オンリー録音3というスタイルでやり始めました。シンクロ録音をするには、キャメラは音の出るサイレントキャメラは使えない。しかし、シンクロキャメラは借り賃が高くて、重く、とても手持ちで振り廻すことができない。当時のキャメラは特にそうでした。

 そこで、予算の少ない独立プロでは、オンリーという方法を始めたわけです。まず軽い手持ちのサイレントキャメラを使って、芝居を撮影する。それと同じ芝居をもう一度やってもらって、今度は音を録るというわけです。後で6mmの録音テープに鋏を入れて画に合わせていくわけですよ。もちろん編集部ではなくて録音部がやるわけです。このスタイルで、10本くらい作ったんじゃないかな。

小林:そのときは、台詞は口パクが画で撮られてるわけですよね。

久保田:その同じ現場で、その日にやるわけですよ。

小林:まあ言ってみたらアフレコをその場でやっちゃうみたいな感じですか?

久保田:そうそう。そうすると録音部は1人ですんじゃうわけですね。録音する時は、役者が芝居をやってもキャメラは廻ってないわけだから、マイクを何処に持っていこうと自由なわけで、音としては一番いい状態で録れるわけですね。

 ところが問題は、役者たちが本番のキャメラが廻った時と全く同じ芝居をやってくれないと困るわけです。人間の喋りは、同じ芝居をやる場合、テンポはほとんど同じなんですよ。ところが同じ台詞を喋っても、言葉の切れ目が違うことがよくあるのね。「僕はあなたが好きです」っていう場合にね、一気に喋ることもあるし、「僕は」の後で切ることもあるわけです。一気に喋った言葉を、録音した後で2つに分けることは無理なんですよ。音が壊れてしまうのでね。だから録音部としては、音の切れ目に神経質にならざるをえない。

 キャメラが廻る本番の時にも、もちろん音は録っておきます。そのテープにはキャメラ・ノイズが大きく入っていて、その上に台詞がのっかっている。それを何回も聞いて、できるだけその通りに役者にやってもらうわけです。役者も大変ですけどね。特に独りでやる長い芝居は大変ですね。

小林:あー、長いモノローグみたいなやつだと、大変?

久保田:もう、それは大変なの。『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971)という田原総一朗と清水邦夫が監督した作品なんかは、本当に大変だったねぇ。これは3人の主役のうちの2人が、口がきけない人なの。石橋蓮司が3人目で、ほとんどの芝居を彼ひとりが喋ることになるわけ。時には5分も8分もひとりで喋りつづける。それを後でオンリーで録ると、ほんとにね、もう可哀相なくらいでしたよ。

小林:現場アフレコ(笑)みたいな感じですね。

久保田:しかし、このやり方が、スタジオでのアフレコより、原始的だけどずっといいのね。

 違う場所でやれば、役者の気持ちだって全然異なるし。現場でやれば、その芝居をやった時の気持ちそのままでやれるんですね。そしてそのオンリーの元をたどると、岩波でPR映画をオンリーで録っていたところに行きつくような気がします。

小林:同時録音ができない故にオンリーの世界になったんだけれども、台詞をオンリーで録るっていうことはそれはそれで音が非常に明瞭に録れるっていうことと、感情も音で表現できるっていう部分もあったわけですね?

久保田:そうですね。こういうスタイルで劇映画をやったのは、日本だけじゃないのかなあ。何かそんな気がするのね。

小林:すごい(笑)、ちょっと職人肌的な感じですね。

4. ドキュメンタリーの音、劇映画の音

小林:それじゃ、ドキュメンタリーの方に入っていきたいと思うんですが、岩波の時代からのつきあいがあった人たちがそれぞれ監督として仕事されていくようになっていくわけですね。それがまあ、ドキュメンタリーだったり劇映画だったりなんですけど、久保田さんは両方ともつきあいがあるから両方の世界に、おつきあいをしながら一緒にスタッフとして参加していくという形だと思うんですけど。

 ま、余談ですけど『青年の海』(1966)は久保田さんがお付けになったタイトルだという…(笑)、小川紳介さんがつけると、硬いような(笑)『日本解放戦線』(1968)とか。

 『青年の海』、これ私大好きなモノクロ作品で、小川紳介監督第1作となってるんですけれども。一緒に若い時代からやってきて、小川さんが独立して、久保田さんが最初から録音として入って、現場も仕上げもやってらっしゃると、そういう作品ですよね。このあたりエピソードとか思い出とかございますか?

久保田:それより1年位前だと思うんだけど、岩波映画を辞めた後、PR映画を小川紳介も企画してたんですよ。京都の酒屋の杜氏の話で、PR映画といっても十分に面白いドキュメントになっていました。撮影に行く1週間ほど前、小川紳介とキャメラの鈴木達夫と僕の3人で、品川にあるそのプロダクションのプロデューサーに会いに行ったんですよ。2階に上がって、小川だけ向こうの部屋に入り、僕らは隣の部屋で待っていたんです。そしたら15分か20分して、小川が頬をひきつらして部屋から出てきた。「とにかく外に出よう、出よう」というので外に出たわけ。彼のシナリオで、彼が演出することになっていたんだけど、半分の予算でやるという人が現れて、小川紳介は断られたんですよ。

 寒い11月の夜だったけど、3人ともガッカリしちゃてね。小川紳介は道の真ん中で泣き出しちゃってさ。鈴木達夫と僕が一所懸命に慰め役に回ってね。ほんとにそれからですよ、「PR映画なんかやらん」「本当にちゃんとドキュメントを作ろう」って、彼は決心したんだと僕は思うのね。それから1年経たないうちに『青年の海』を作りました。

小林:私から見ると土本さんもそれから他の人たちも録音っていうと久保田さんが呼ばれたような感じがするんですけども、状況としては、1人の作家でみれば年代順になってますけど、何人かの作家となるとダブってるわけですから、かなり大変だったんじゃないんですか? それでもう1つは、こう見てもお金になるような仕事じゃないですねえ。

久保田:その他にもPR映画みたいなものを僕はやっていたんでね、だから食えないということはなかったな。

小林:現場に行けなくてもですね、最後の仕上げが久保田さんだっていうのは相当あるんですよね? それで『青年の海』の一通信生だった栗林さんが録音の仕事でそっちの方面に進まれますよね?その栗林さんが、現場を録音してきたやつを久保田さんが最後にスタジオ録音をするというようなことも出てくるわけなんですよね。人が録ってきたものであっても、面白いものですか?

久保田:面白いものですね。特にそれを画と合わせてシンクロの状態で見ていけば、いろんな事が分かってくるじゃないですか。他の人が録った音でも、編集以前の段階から見ていくと、いろんな事が分かるしね。

小林:僕も久保田さんとやった経験があるんですけど、意外なところの音をどっかから持ってきて、使っているようなのがありますよね。あれは逆に現場にいると発想できないものっていいますか…。

久保田:現場に行ってないので冷静に見れる、ということもあるんですね。現場に行った人が「このシーンは絶対に切れない」と思い込んでいても、僕は客観的に何回か見て、このシーンはないほうがいいと思ったら、そう主張することになるわけですよ。

小林:でもそうなるとかなり編集部分にも入ってきますよね?

久保田:うん、編集から付き合ってるとね、ある意味では見えてくるわけですよ、いろんな事がね。

小林:その辺はね、非常によくわかるんですね(笑)。だから編集も含めて久保田さんを頼りにするっていうか、そういうところはありますよね。以前ちょっと伺ったので、劇映画だったと思うんですけど、サイレンが鳴って…

久保田:あれは、熊井啓監督の『愛する』(1997)という映画だったけど、松本のある農協の大きな建物の横で撮影している時でした。主人公の若い男が、死んだ恋人のことを思いながら、その倉庫みたいな建物の横に立っている。それをキャメラは、じっと見つめている。遠い車の音と小鳥の声が聞こえる静かなシーンだったのね。数回のテストを終えて、助監督が「本番いきまーす!」と叫んで、スタッフ全員が静かな緊張に身を置いた時だったね、その鋭い音が鳴り出したのは…。すぐ近くで、もの凄い音量のサイレンが鳴り出したんです。バァーっと。

 じつは、横の建物の屋根にサイレンがあって、それが鳴ったんですよ。レシーバーに入ってくる音の大きさにも驚いたが、さらに驚いたのは、そのサイレンの消え方だった。
10秒程ですっと消えて、先の静寂が戻ってきた。その消え方が、僕にはとても印象的だったのね。サイレンは50数年前、日本が米軍機の空襲を受けていた頃、よく鳴っていました。それは長々と鳴るものなんですよ。それが戦後は、ぱたりと止んだ。だから、この突然の短いサイレンは、僕に強いインパクトを与えた。そこで「この作品のどこかに使えないかなぁ」と録音技師の思考は、そちらに行くんですね。その日の撮影中には、もちろん音は録れないわけだから、撮影が休みの日に改めてその現場に行って音は録ったわけです。

 編集が終わった段階で、何処かその音の使える場所を探す。だからロケーションに行った場合、現場でどんな音に出合ったかが後の仕上げに影響しますね。現場には絶対行ったほうがいい、ということですね。

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編集注:

1初期の携帯型磁気録音機。

2岩波社内でPR映画の現状を打開するために集まった若手監督を中心としたグループ。

3音だけ録ること。


久保田幸雄 Kubota Yukio


 1932年生まれ。54年九州大学工学部電気通信科を卒業後、ラジオ佐世保入社。録音技術部に配属されるが、半年で演出部に移る。57年岩波映画製作所に入社し、演出部を希望するが、空きなく録音部に入る。そこで演出部の羽仁進、黒木和雄、土本典昭、小川紳介等と出会い、64年岩波映画を退職しフリーとなる。1978年『サード』にて毎日映画コンクール録音賞、1993年日本アカデミー賞優秀録音賞を受賞。

主な作品歴


1962_ 『わが愛北海道』(黒木和雄監督)

1966 『青年の海―四人の通信教育生たち―』(小川紳介監督)

1967 『圧殺の森・高崎経済大学闘争の記録』(小川紳介監督)
『炎と女』(吉田喜重監督)

1968 『初恋地獄篇』(羽仁進監督)
『日本解放戦線・三里塚の夏』(小川紳介監督)

1969 『エロス+虐殺』(吉田喜重監督)
『沖縄列島』(東陽一監督)

1971 『水俣・患者さんとその世界』(土本典昭監督)
『あらかじめ失われた恋人たちよ』(清水邦夫、田原総一朗監督)

1973 『三里塚・辺田部落』(小川紳介監督)
『戒厳令』(吉田喜重監督)

1974 『極私的エロス・恋歌1974』(原一男監督)

1975 『祭りの準備』(黒木和雄監督)

1976 『青春の殺人者』(長谷川和彦監督)

1977 『サード』(東陽一監督)

1981 『水俣の図・物語』(土本典昭監督)

1986 『海と毒薬』(熊井啓監督)
『1000年刻みの日時計』(小川紳介監督)
『痴呆性老人の世界』(羽田澄子監督)

1991 『橋のない川』(東陽一監督)

1992 『阿賀に生きる』(佐藤真監督)

1994 『忘れられた子どもたち〜スカベンジャー』(四ノ宮浩監督)

1995 『深い河』(熊井啓監督)

1997 『放課後』(小林茂監督)

1998 『まひるのほし』(佐藤真監督)

1999 『自転車』(小林茂監督)

2000 『日本の黒い夏』(熊井啓監督)

など、現在までに200作品以上を手懸ける。

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