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ドキュメンタリーの地平(上・下)

佐藤真著/凱風社/2001年/ISBN: 4-7736-2505-8、4-7736-2506-6
評者:北小路隆志

 現在、僕たちはドキュメンタリー映像を巡る新しい理論を真摯に待ち望んでいる。それはなぜか。たとえば、デジタルビデオ・カメラの普及に象徴されるテクノロジーの進展が、以前と比較にならないほど容易にしかも低コストで、ドキュメンタリー映像を量産させる可能性を開きつつある。若い世代の間で、あるいはこれまでドキュメンタリー映像の伝統をほとんど持ち得なかった国や地域において、今後、夥しい量のドキュメンタリー映像が生み出されていくだろう。そんな環境――同様のテクノロジーの進展が劇映画をドキュメンタリーの領域に接近させる最近の世界的な動向も含む――のなかで、これまで僕たちの間で了解事項として存在していた(と錯覚してきた?)、ドキュメンタリーとは何か、といった基本的な枠組みさえ揺らぎつつあるのだ。

 ドキュメンタリー映像を巡る理論は、つねに映像を作る立場と見る立場が接触するエッジにおいて実践的に生起してきた。撮影現場で芽生えた新しいドキュメンタリー映像に向けた欲望が、そのまま理論や方法論、スタッフ論の創造に波及していく事態とでもいえばいいか。だから、日本においても、研究者や批評家の登場を待つ暇もなく、土本典昭、小川紳介、野田真吉、大島渚、福田克彦等々の映画作家たちが、現場での格闘をバネに自身の手でドキュメンタリー映画史を概観し、理論を立ち上げる必要性に駆られてきたし、今、全2巻から成る『ドキュメンタリー映画の地平』を上梓した佐藤真が、そうした系譜に敢然とその名を連ねることになる…。

 「一人の実作者の視点で、ドキュメンタリー映画の可能性を、あくまでその方法論に随伴して考えようとした」本書は、8つの章で構成され、それぞれのブロック(方法論)に国内外それぞれ二人の映画作家が配分される。そのなかには、大島渚とロバート・クレイマーといった同時代的な響きをもつ組み合わせ(第6章「挑発者」)だけでなく、亀井文夫とチャン・ヴァン・トゥイなど意表をついたカップル(第2章「言葉と別の意味を生む映像」)も出現するが、もちろん説得力のある筆致でそれぞれが一つの方法論の下に括られていく。なかでも冒頭に記したドキュメンタリー映像の現在や未来に直結してくるのは、ジョナス・メカスと福田克彦を取り上げる第4章「私的小宇宙の広がり」だろう。2人が全く異なる環境下での試行錯誤の末にそれぞれ「日記映画」(『リトアニアへの旅の追憶』)と「自伝映画」(『草とり草紙』)に到達する前提として、「映画技術の大衆化」と「テクノロジーの進歩」があった。撮影だけでなく資金調達や配給までも個人で行う「個人映画」の領域が映画産業の余白に開拓される必要があり、16ミリや8ミリなど「ハンディで廉価なフィルムと機材の普及」が不可欠な技術的条件として要請されたのだ。だから、テクノロジーの進展が開きつつある現在のドキュメンタリー映像の新たな地平は、彼ら優れた「個人映画」の作り手たちとの間に何らかの共通の課題を見出し、彼らの営為を糧とすることができる。佐藤によれば、メカスや福田の仕事を同様の機材で撮られた凡百のホームムービーや「山川地蔵映画」から隔てるのは、極めて私的な「わがこと」を対象にしながら、そこに「他者」の視線を介在させることができるか否かである。自分の姿を鏡に映して喜び傷つくだけなら、幼稚なナルシシズムに陥るばかりだ。そうした鏡像段階に亀裂を走らせるには、何らかのかたちで「他者」の視線を導入する必要がある。それがたとえばメカスにおいては、撮影からかなり時間を置いて編集にかかる「時間の熟成作用」であったり、偶発的なキャメラトラブルをあえて作品に活かす態度であったりする。そして、そうした試行錯誤は結局、機械(キャメラ等々)という「他者」といかに付き合うか…という主題に収斂されるだろう。キャメラは人間には真似のできない「機械的再現力」を備え、だからこそ、人間中心主義を粉砕するだけの「暴力」を漲らせる。そうしたキャメラがテクノロジーの進展で扱いやすくなればなるほど、僕たちはまるで毎朝寝ぼけながら鏡に自分の姿を映すかのような気安さでドキュメンタリー映像を撮ることができるようになるかもしれない。もちろん、そうした環境がドキュメンタリーの領域に別の可能性を開くだろうが、僕たちも著者と共にドキュメンタリーを「世界を批判的に受けとめるための映像表現」と見なす立場に固執したいし、そのためにはキャメラ=機械をあくまでも「他者」(OTHERS)と捉え、各々がそれとの生産的な関係性を独自に模索する態度が必要とされるはずだ。

 それにしても、本書の執筆中に構想が膨らむ部分もあったかもしれない、著者の最新作『SELF AND OTHERS』の素晴らしさはどうだろう。本書第7章で紹介される「いかなる素材(資料映像)をどのような観点で料理(再構成)するか」に賭ける「アーカイブ・ドキュメンタリー」的な方法論と、牛腸茂雄という夭折した写真家において育まれた「私的小宇宙」に愛情をこめて迫る試み、その双方が奇跡的に結合することで現れる全く新たなドキュメンタリー映画の地平…。僕たちは現在、ドキュメンタリー映像を巡る新たな理論だけでなく、新たなドキュメンタリー映像の誕生をも真摯に待望しているのだ。

 

北小路隆志 (きたこうじ たかし)
映画批評家。共編著に『《社会派シネマ》の戦い方』他


スクリーンにおける現実の実験
 ――ドキュメンタリー映画における現実の原則についての考察


フランソワ・ニネイ著/ブリュッセル、ドゥ=ブック大学/2000年/フランス語/ISBN 2-8041-3543-8
François Niney L'épreuve du réel à l'écran. Essai sur le principe de réalité documentaire
Bruxelles: De Boeck Université,
2000, ISBN 2-8041-3543-8

評者:ベルナール・エイゼンシッツ

 ドキュメンタリー映画作りの本質とは何であろうか。また、その限界とは? 作り手や映像と現実との関係はどうなっているのか。ドキュメンタリー映像によって、スクリーン上の現実だけでなく実際の現実社会が変わるのか。観客は映像とどう関わりを持つものなのか。「ドキュメンタリー」は常に「いわゆるドキュメンタリー」でしかないと考えるべきであろうか。こういった問題をフランソワ・ニネイが340ページの近著で提起している。『L'épreuve du réel à l'écran. Essai sur le principe de réalité documentaire(スクリーンにおける現実の実験――ドキュメンタリー映画における現実の原則についての考察)』というタイトルへの期待に違わず、同書はノンフィクション映画の新しい見解を示している。

 いくつもの複線が交差する同書は、歴史書と呼ぶべきかエッセイというべきか迷うところだ。その両方の側面を同時にあわせもつからである。リアリティについての哲学的な問いが、美学的な問題に切り替わり、シネフィルが好む傾向に見事に要約されている。ニネイが本の頭で述べているように、ドキュメンタリー映画は、「哲学と美学、この2つの問いが交差する試金石のようなもの」(p.7)なのだ。

 5章構成になっている同書の第1章には、ゴダールの語呂合わせを思わせる「Le (Re) production du monde(世界の(再)生産)」というタイトルがついている。著者の主張によれば、19世紀から20世紀の変わり目に出現した偉大な発見は、レントゲン写真や心理分析学、キュービズム、相対論そして映画であるという。それらはすべて新しい眼でそれぞれ別個の視点から現実を見つめ直す手段であり、科学的なところと美学的なところが融合している。映画創生期より脈々と続く2つの要因がある。一方はドキュメンタリーという本質であり、もう一方は舞台装置によるドキュメンタリーの干渉である。確かに舞台装置は空間的な構図および時間的な限界を補うために始まっている。すなわち『リミュエール工場の出口』だ。この2つの要因の曖昧な関係は、映画史において極端にまで展開されてきた。ニネイはオーソン・ウエルズの『市民ケーン』を例に挙げているが、実のところは同作ほどは知られていない独創的な傑作『オーソン・ウエルズのフェイク』を引き合いに出してもよかっただろう。同書のもっと後ろの章でニネイは『フェイク』の中からピカソの言葉を借用し、「芸術とは、真実を悟らせてくれる嘘」と述べている。

 著者は、モンタージュの発明を再構築する過程において、逆説的ではあるが、ヴェルトフの“映画=機械の目”――現実がよりよく見え、よりよく分析できるのは人間の眼よりレンズのほうであるという説――とフラハティの偏見も意図的な選択もないカメラ(p.49)とをあてはめて論じている。その要点は、ドキュメンタリーの傾向の疑わしい連続性とは違う別のところにある。つまり、著者の見方では、ほとんどの革新者は、ビジョン(映像)あるいはファンタジー(空想)としての映画と、「まことしやかな」映像との間の不協和音を、もしくはフィクションが現実を侵略すること、あるいはフィクションが現実を覆すことを、刺激しようとしてきた(p.53)。だとすれば、同書がドキュメンタリー映画史であると同時にそうでないともいえるのは不思議ではない。1930年代初頭のアバンギャルドからプロパガンダについての記述を読めば、読者はラウル・ルイスの最近の学説やヴァルター・ベンヤミンに思いをはせるかもしれない。

 第2章「Du parlé au parlant(話者の台詞)」では、監督の手腕は今や映画の働きそのものほどは問われていないと説いている。フランス・ヌーヴェルバーグの先駆者だった若い監督たちが、映像(フランス語の「イマージュ」が持つ特定の意味での映像)を、たとえ曲解された世界であれ、現実社会の投影というだけでなく、現実社会の手段として見るようになったことで、この必然的なターニングポイントがニネイの研究の核心となっている。ジョルジュ・フランジュ、アラン・レネ、ジャン・ルーシュ、クリス・マルケルといった監督たちの手によって、映画は現実世界に疑問を投げかけ、それを再び作り上げるという役割を持つようになり、後年、ゴダールをして「映画は20世紀の歴史を描いてきた」と主張せしめたのである。映画を再発明する必要性があるのは、第二次世界大戦後に世界を再定義する必要性があったこととよく似ている。映画製作者の姿勢は、かくも道徳観を帯びるものであるが、これはドキュメンタリー製作者だけに終わらない。要約すれば、フレデリック・ワイズマン、ジャン・ルーシュ、ジョン・カサヴェテスは各々のレベルで「現実」を介在し、小細工し、フィクション化し、またそれによって「現実のフィクション」と名付けられる領域に入れられる。

 60年代のシネマ・ヴェリテおよびディレクト・シネマが見せてくれるのは、観客との新しい関係を確立するものとしての映画とテレビとの関係性である。これは、ある程度は映画製作者たちが予測していたことではあったが、テレビのリアリティ・ショーやドキュメンタリー仕立てのソープドラマの出現まで予測していたわけではない。(たしかに最近のメディアないしマスイベントになっているフランス初のリアリティ・ショー「Loft Story」(2001年5月)を取り上げていれば、同書はさらに充実したかもしれないが、著者ニネイはそれらがなくても言うべき点は十分に言い尽くしている。)それにまた、この章では「シネマ・ヴェリテからテレ・レアリテまで」を解説しつつ、ジャック・タチの『プレイタイム』というフィクション映画が、自給自足的かつ明らかに麻痺性の究極のエンターテイメント性というテレビの理想概念を鮮やかに予期してくれたと言っている(p.175)。

 以上のような変化は「古典的なシネマ」の大黒柱である「視点」(ジャン・ヴィゴが造った「ドキュメントされた視点」)の消滅を許し、さらに監視カメラやCNNのような世界規模でのニュース報道における「視点なき視点」を招く。この新しい状況の先駆者は、ハルン・ファロッキが『この世界を覗く――戦争の資料から』の中に書いた戦争のエピソードに如実に描かれている。それによると、米国の諜報部隊がドイツの上空から撮影した航空写真にアウシュヴィッツの強制収容所が見つけられなかったのは、それが偵察の目的ではなかったためである。しかしニネイは尻込みせず、別の重大な「事実に基づく」事例、すなわちロジャー・コーマン監督の『X線の眼を持つ男』を繰り返し引用する。ニネイの学識はかくも広く、この寓話を通してさえも面白おかしく持論を強調することができる。

 また、本書では、資料映像の利用が、明らかに映画編集のための技術的な土台としてではなく、さまざまな「記憶の舞台」の手段として、クロード・ランズマンの『SHOAH〈ショア〉』、あるいはマルセル・オフュールスやリヒャルト・ディンドの作品に見られるように議論されている。最終章「Vertus du faux(虚偽の美徳)」は、4章までに述べられたさまざまな複線の最終的な弁明(の章)であり、クリス・マルケルの『大使館』、『ルート1/USA』のロバート・クレイマーなどを挙げている(なお、同書はロバート・クレイマーに捧げられている)。なるほど「フィクションとドキュメンタリーの干渉」という問いは、最近のフランスにおけるドキュメンタリー映画製作の格好のテーマではあるが、これほどまでに広範におよぶ資料が呈示されることは珍しい。

――訳:庄山則子

ベルナール・エイゼンシッツ(Bernard Eisenschitz)
映画翻訳者であり、映画史家。フリッツ・ラングやニコラス・レイに関する著書(英語版・日本語版/キネマ旬報)や、ドイツおよびロシア映画に関する著作がある。近著にロバート・クレイマーのインタビュー本『Points de départ, entretien avec Robert Kramer(出発点――ロバート・クレイマーとの対談)』がある。『Cinémathèque』の編集委員を18号までつとめ、現在はその後継誌『Cinéma 02』の編集長。

編集注:原文は英語