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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 15 久保田幸雄(2/2)

5. 気持ちのシンクロ

小林:ドキュメンタリーの場合は、久保田さんをお願いするようなことができなくて、結局助監督とか監督とかが録ったりするようなことも多いんですけどね。

 ちょっと話しがあちこちして申し訳ないんですけれでも、土本さんとは『水俣―患者さんとその世界』(1971)を撮られてますよね。それで非常に印象的なことがね、又聞きのように聞いてるんですけども、胎児性水俣病の子どもが、部屋のなかで歌いながら少し踊るようなシーンがあるんですよね。で、あれは全然シンクロじゃなかったと、いうふうに僕は聞いてるんですけど覚えてらっしゃいますか?

久保田:いやー、ほとんど覚えてないなー(笑)、まいったなー(笑)。

小林:当時『水俣―患者さんとその世界』はリアルタイムで見てるんですけど、後でもう1回自分が助監督とかで作る側からして見ると、音の使い方がすごく巧いんですよね。その体の不自由な子どもがぴょこたんぴょこたんと、踊りながら歌うシーンは心に残っています。

 そういう同時録音ではない時代の面白さっていうのがね、当時、土本さんの作品とか小川紳介の作品なんかにけっこうある気がしてしょうがないんですよね。

久保田:土本さんの作品で『パルチザン前史』(1969)というのがあります。学生運動と、その指導者を描いたドキュメントで、京都大学や大阪市立大学が舞台でした。時計台のある建物に学生たちが籠城して、そこを機動隊が攻撃するというシーンの話です。最後に機動隊は消防自動車を持ち出して、時計台の上に籠もる学生たちに強烈なホースの水を浴びせかける。その時、下で取材していたスタッフの耳に、時計台の上で学生たちが歌う「仰げば尊し」が聞こえてきたのですね。学生たちも抵抗はこれまでと思ったのか、最後に「仰げば尊し」を歌って城を明け渡すことになるわけです。

 録音部としては、その歌の録音がぜひ欲しい。しかし距離が遠すぎて、録音機には屋上を飛ぶヘリコプターと消防ホースの騒音しか入っていない。だけど最後の仕上げの時には、ぜひその歌を入れたいと願うわけです。この時は監督の土本さんが三里塚の青年行動隊にお願いして「仰げば尊し」を歌ってもらい、映画の中で生きることになりました。だから、こういう音を何と言うんだろうな。シンクロじゃないけど、シンクロですよね。

小林:
気持ちのシンクロですか(笑)?

久保田:(笑)そうですね。

6. シンクロの功罪

小林:じゃ、思いきってそのシンクロの話しに入っちゃっていきます。今度はシンクロの時代に入って、必ずキャメラが廻ってた時には同時録音で廻すというのが常套手段となりますよね。

 私もキャメラでやる時に、いわゆる自分の耳に聞こえているやつはほとんどそれが録音部が録ってくれるだろうという、すごい安心感があって撮るわけなんです。そこが録音部がいるといないではものすごい違いでね、録音部がいないような仕事も多いんです。そういう時に思うのは、意外とキャメラマンってのは音を聞きながら撮っているようですけども、覚えてないんですよね。内容的には、わかりながら撮ってるんですけど、その画をみてラッシュになった時に「はて、どういうふうなことかな?」っていうような。ぐっと画の方に力点がいくんですけども…。音が入るとね、自分が撮った画がね、活きてくる場合が多いんですよ。その辺が、そのいわゆるシンクロで録らない作り方をしてきた久保田さんが、ある時からシンクロの世界へずーっと入ってくるじゃないですか。その違いっていいますかね、その辺はどうですか?

久保田:
ええ、やっぱりシンクロのほうがいいですね(笑)、としか言いようがない(笑)。

 あれは『深い河』(熊井啓監督、1995)の時ですね。奈良の東大寺のお水取りのシーンが出てくるんですよ。大きな松明を持ったお坊さんが火の粉を撒き散らしながら、次々に寺の廊下を駆け抜けて行くんです。それをバックに役者の芝居があるわけですが、お水取りの行事そのものはクランクインの半年前に終わっていたんですね。『深い河』の撮影に入るかどうか、まだ確定してない時期ですから、熊井さんは撮影部だけを連れて行って撮影を終えていたわけです。

 編集の段階でラッシュを見た録音部としては、まさか来年のお水取りまで待ってもらうわけにもいかないので、音を作らなくてはいけない。松明の音とか、お坊さんが走っている音なんかは、効果屋さんに頼めば簡単に作れます。ただね、松明を持って走るお坊さんが、草履ばきなのか、下駄ばきなのか、それとも地下足袋を履いているのか。それを誰に聞いても分からないの。ラッシュでは足元は暗くて見えないけど、当然、足音は聞こえるはずですからね。キャメラマンに聞いても分からない。

小林:覚えてない(笑)?

久保田:覚えていないのね。「下駄の音がしたみたいだ」と言う人もいれば、「いやお経を唱えながら走ってた」という人もいる。監督に聞いても全然だめ。そういう時、監督は音のことなんか、まるで考えていないのね。

 この時期になって、どうやって音を探すか。その時は、NHKのビデオのライブラリーに行って探したんです。東大寺のお水取りを撮影したビデオが何本かありました。廊下を走る時は、草履を履いている、下駄ではない。お経は無し。スタッフの誰も口にしなかったことだけど、一番印象的だったのは、東大寺の鐘が始めから終わりまで鳴り続けていたことです。こういう音は、録音以外の人が行っても気付かない。普通すぎて耳の中を通り過ぎていっちゃう。音を録ろうと思って行くと、いろんな事が見え、いろんな音が聞こえてくるわけですよ。

 それでついでに言いますと、編集したラッシュを見る時、どんな音を付けるかを考えながら見ていくと、今度は逆に、その画のもっている緊張感がとてもよく分かるんですね。

小林:久保田さんと『闇を掘る』(藤本幸久監督、2001)でも一緒だったんですけど、確かにね、今シンクロって言うと、喋りのシンクロっていうふうにみなさん思いますよね。僕は音をもうアバウトに録ってるような柳澤監督の時代からも経験があるものですから言うんですが、いわゆる喋りがないですね、例えばコーヒーカップがガチャンとか、そういう音が画とシンクロしたものがあると、先程おっしゃた緊張感とか臨場感とかが、でると思うんですね。

 久保田さんは、僕の映画の『放課後』(1997)、あの時も全カットね、画コンテを書くんですよ。そしてそこにどういう音を付けていこうかっていう音の構成なんだよね。だから現場の録音は現場の録音であるんだけれども、本当の映画の録音っていうのは、言ってみたら全体の画の持っている基調を音でもう1つ構成していくっていう、そのために久保田さんはノートがあって、「久保田ノート」って言って有名なんだけども(笑)、これは誰もなかなか真似できないと思うけどね。それを作るようなきっかけってあったんですか?

久保田:それは今考えると、こんな事かな。岩波映画を辞めた後も、ドキュメントや劇映画の他にPR映画もやってました。岩波映画には、社内に録音スタジオがあったんです。だから岩波で仕事をする分には、音の準備をするのに、スタジオを幾ら長時間使っても平気だったんです。

小林:自分とこのスタジオだからね。

久保田:ところがフリーになった後、それをやったら大変なわけですよ、貸スタジオでしょ。1日に何十万という金を取られる。長時間の音の準備をスタジオですることは、とてもできない。そこで、いろいろ考えてね、編集室でフィルムを転がしながら、すべてのカットの画を描いていくことにしたんですよ。編集が終わった段階で、普通「カット表」というものが作られますが、僕はそれを画で描くことにしたんです。そして、その画に音を書き込んでいくわけです。たとえばスチームハンマーがあれば、その音の出る場所がカットの頭から何コマ目であるかを、編集台で調べて記録していくわけです。それを全部記録した後、自分の家で、音を細工します。この時は映写機は勿論なし、フィルムもなしで、カットを描いた画を頼りに6mmの録音テープを鋏で切って編集していくわけです。そういうことをやってましたね。じつは劇映画でオンリー録りをやり始めたのは、その流れなんですよ。

小林:それは今言った、ちょっと専門用語かもしれませんけど、音付けというね、いわゆるオールダビングにする前の段階ですよね? ナレーションがある、まあ劇映画でナレーションない場合もありますけど、いろいろ効果音があったり音楽があったりします。それを1つにまとめるのはオールダビングですよね。その前の段階、そこにいくまでの準備の段階で、スタジオを、いかに短く、効率良くやるためにでてきたのが久保田ノートと呼ばれる…(笑)まあカット表といいますか、画コンテ表みたいな感じなんですね。

久保田:先回りすると、そういうやり方というのは、いま映画の録音で主流になっているプロツール4のやり方と同じなんですね。これはパソコンを使って音の編集をしていくわけだけど、僕は6mmテープを鋏で切りながらやってたわけですね。最近プロツールを使い始めて、全く同じことだな、と僕は思うのね。

7. 音の世界での機材の変遷

小林:テクノロジーの変化のことでちょっと聞くとですね、前はあのナグラ5の、15分で、6mmテープですよね。廻っちゃうとけっこう早くて、それでよく「ちょっと録音のテープチェンジ」とか言ってやりますよね。今は、DAT6というのが大体主流になりつつあって、要するに廻しっぱなしっていう状態が可能になってきてるじゃないですか。その辺はね、例えばビデオで撮ると、すごく長く廻しちゃうんですよね。でもフィルムでやるとなれば、あまり廻せないからもうすごい緊張しながら自分でカット選んでいくみたいなところがあるんですけども、音の世界では機材の変化っていうのはどうなんですかね?

久保田:最近DATが主流になってきてるでしょう。DATは悪くないですね。つまり長時間録れるということが、いいですね。ドキュメントの場合、キャメラはいつ廻るか分からない。だからキャメラが廻った時だけ録音機を廻す、という今までのスタイルだと、録音機のスタートが何時も遅れるんですね。

 DATの場合は1時間とか2時間とか全部録れるので、もう廻しっぱなしにできる。何時でも音が録れる状態で現場に居ることができるから、すごくいいですね。

小林:特にドキュメンタリーの中で良さを感じてますか?

久保田:そうですね。キャメラがいつ廻ってもいいってことと、キャメラが廻った時に絶対音を録りこぼさないとかね。

小林:なるほどね。もう1つ、例えばテクノロジーの技術的な変化とかで感じる部分ありますか? なんか他に。マイクなんかはどうですか?

久保田:あんまり変わってないですね。録音機はナグラ、マイクはゼンハイザー7の416という組合せは、もう30年か40年ずーっと変わってないんですよね。だから1つの到達点だったんじゃないかな。それがこのところ録音機はDATに変わり、音の編集のスタイルもプロツールに変わってきましたね。そういえばシネテープ8は、もう中国の映画界では使ってないって言ってたな。

小林:あー、そうですか。日本はまだ使ってるんですけど(笑)。

 私なんかはビデオで、今も編集してきたんですけど、いやつらいんですよね。確かに今、ノンリニア編集って言って、まあ言ってみたら16mmフィルムと同じような形で、切って貼ったが事実上、コンピューターの画面でできるんですけどね。自分の気持ちから言うとね、そういう助監督時代から長いんですけども、なんかこう手の感触っていいますか、フィルムがね、ある程度の長さとこの画が見えてね、音もちゃんとシネテープっていうのにくっついているわけじゃないですか。この感覚を持ちながら作っていく、というのがね、すごく馴染みがいいって言いますかね…。

 だからある監督さんなんか、自分でそのフィルムをビデオに上げてね、それで一応編集してやったんだけど、それをじゃあ今度フィルムに置き換えて、それで映写機で見たら、ものすごく早くて、カット切れが早くて、結局参ったと。だからもう1回フィルムでやり直したみたいな話しも聞いてるんですけどもね。

久保田:それは多いですよね。劇映画でもそういう人がいるし、ドキュメントでもね。結局ビデオで編集して、それをフィルムに戻した時に、全然テンポが違うということがあるんですね。ビデオは画面が小さいから情報量が少ないわけですよ、同じ画面でもね。だから短めに切っちゃうんですね。それがフィルムになると情報量がずっと多いので……。ビデオで編集する場合、アメリカなんかでは大画面にしていると聞いたけど。

小林:そうですね、だから私も時々、たとえば自分の作品をビデオであらかじめ見てもらって、「こういう作品だから、じゃあ自主上映をして下さい」みたいな話しがありますよね。実を言うとあんまり見せたくないんですよね。たいていその主催者がちょっと見た後、本番で僕が行って、大きいスクリーンで見てもらって、みんな大勢いますよね。そうした時にね、「いや、こういう作品だったとは思いませんでした」っていうような意見がね、けっこうあるんですよね。

 それは2つあると思うんですよ。やっぱり暗いところで大きい画面でちゃんとした音が付いてるということが1つと、もう1つは大勢で見てるっていうね(笑)。

 先ほどの質問に戻って、ドキュメンタリー映画の音とですね、劇映画の音の違いを聞いてみたいんですけど…。

久保田:『ええ音やないか――橋本文雄・録音技師一代』(橋本文雄・上野昂志著、リトル・モア、1996)という厚い本があるんですが、その中で橋本さんが、ロケで劇映画を録音しているところがあります。著者が言うには、横で橋本さんの録音を見ていると、台詞が始まる直前にぱっとフェーダを持ち上げ、台詞が終わると同時に素速くフェーダを絞ると。それは、とても名人芸だと書いてあるんですね。橋本さん自身も、やっぱりこれがちゃんと出来なければ、いい音は録れないんだと言っているんですよ。僕はそれを読んでドキュメントは違うなと思いましたね。 

 ドキュメントでは、何時でもフェーダを上げておかないと駄目なんですよ。何時、誰かが、何を喋るか分からない。だから、もうそこが決定的に違う。実際に劇映画をやる時も、僕はやっぱりフェーダは、できるだけ上げておきたいのね。その辺はやっぱりねえ、出身の違いだと思いますね。ドキュメント出身か、最初から劇映画だけをやっているかっていう……。

8. 必要なナレーションもある

小林:話は変わりますが、最初『放課後』という映画を僕は撮って、それで久保田さんに「どうしても1本の映画にしてほしい」という話しで持って行った時に、他のスタッフが録ってくれたアバウトな音をね、聞かせながらスタジオで、見たじゃないですか。その時久保田さんが「小林さん、これは映画にしない方がいい」と言って(笑)、僕非常にショックを受けたんですよね。

久保田:ああ、そう(笑)。

小林:それで、「小林さんみたいに撮って、カセットで音を流してね、そうやって見せるやり方もあるよ」というふうに言われてね、そりゃ確かにそれでそうやってきたんだけども(笑)、なんとか映画にできないかっていう相談して、頼めるのは『阿賀に生きる』(佐藤真監督、1992)の時からのつきあいの中で久保田さんしか僕はいないなと思ってお願いした時にそういうふうに言われてですね…。「いや、それでもなんとか音を付けて映画にしたい」って言った時に、「それじゃ小林さんがいなくてもちゃんと1人歩きするように、作らないとだめだ」というふうに言ったんですね。僕は撮ったばっかりだから、もう全然ナレーションも何もなくても、もう子どもの顔だけでいいんじゃないかと思ってたところに、やっぱり少し解説も必要だし、こういうお父さんお母さんの中のインタビューも使ったり、いろいろありましたよね。

 若い作家のもう音も画もばらばらに撮ったやつを「まとめてくれ」みたいな話しですよね。そういう時引き受けるの嫌じゃないかと思うんですよ。

久保田:いや、画を見て面白ければ、やりたいと思いますね。小林さんは、キャメラを廻すと同時に演出もやっていますね。ドキュメントの場合、演出家の最大の仕事は何かと言えば、取材相手とどう接触し、どれだけ仲良くなれるかということだと思いますよ。小川紳介なんか、その点はとても優れていた。仲良くなればなるだけ、何でも自由に話してくれるようになるのね。特に山形に行った後は、相手がなんでも自由に話してくれるようになったということが、全部、作品の中に生きていると思うんだな。その関係を作っていくのが、監督にとって一番大きな仕事だなぁと思いますね。

小林:そういう中で音としてのフォローっていうのは、すごく大きいような気がするんですね。映画を見てて、録音が誰でやったかとか、普通そこまで見ないじゃないですか。でも実際自分がキャメラを廻してね、作品を作るようになってくると、もう音ですよね。それが構成まで含めて相談できる録音部であってほしいというふうに僕なんかは思うんです。もちろんそうでない監督さんもいると思いますけど、その辺どうですかね? 小川さんとも内容的なことも含めてかみ砕いて音を作っていったっていう感じですよね?

久保田:編集が決まる前の段階から、いろいろ話し合っていくということですね。最後の仕上げの段階で音楽やナレーションを入れますね。ところが今の若い人は、それをあまり入れたがらないのね。1つはテレビのドキュメントなんかで、ナレーションが過剰に入っているのが多々ありますよね。過剰に喋ることでダメになるというか、自分たちが言おうとしたことが言えなくなってしまうことが、すごくあると思うんです。だから若い人のドキュメントの場合、「もうナレーションはいりません」って言うのが多いのよ(笑)。そうやって自分の手を縛っていくのは、監督にとっては損なことだと思うんだけど。

 たとえば佐藤真さんの『まひるのほし』(1998)という作品があったでしょう。あの中に23歳のダウン症の人が出てくるんです。シュウジ君というんだけど、彼は毎日帰宅して自分の部屋に入ると「甲子園」を作り始めるんですよ。新聞の広告などでマッチ箱ほどの紙の箱を作り、それをレンガみたいに積み重ねて、甲子園の模型を作っていくわけです。それをもう10年ほども続けて未だ出来上がらないんですが、その作業をやるときには、必ずラジオとテレビのスイッチを入れ、そのうえCDで音楽をかけながら、やるわけです。

 ところが、その現場で録音した音では、3つの音源のことはまるで分からない。だけど3つの音に囲まれてシュウジ君が作業をしているということは、彼の気持ちを表しているので、僕にとってはとても重要なことなのね。そういう時には、やっぱりナレーションで語って欲しいな、と思っちゃうのね(笑)。

小林:(笑)なるほどね。

久保田:シュウジ君は、毎日その作業を続けているわけね。1年前におばあさんが、部屋の中があまり汚いというので10年かかって作り上げた「甲子園」を捨ててしまったらしいの。その翌日から彼は再び作り始め、撮影した時には1.2メートル程の壁が出来ていました。そういう話もね、僕は入れたいんですよ。

 しかし作品の長さの制限とか、ノーナレーションということで、入れられないわけでしょう。残念だけどしょうがないですね(笑)。もちろん、くだらないナレーションっていっぱいあるけど、本当に必要なナレーションというのも、確かにあるなあって思いますねぇ。

小林:
見ていてね、すごくいい映画とナレーションのマッチングが良いとあまりナレーションが気にならなくて、「えっ、ナレーションあったっけ?」っていう感じがあるんだよね。だから私もまあ、なるべくナレーションをない方向にと思うんですけど、その辺も含めてね、少し自由であってもいいなというふうに今は僕は思ってるんですけどね。だからまあ、最初の『放課後』なんてのは久保田さんに映画にさせてもらったような感じがするんですけど。

 次は『自転車』(1999)の時、久保田さんと一緒だったんです。あの時、子どもたちのインタビューが入るじゃないですか、走ってる自転車の上にかぶさるんですけど。あれはもう1ヵ月くらい経った後の録音です。そして音を編集されて、「どういう話しを聞こうか」という打ち合わせをしながらね、久保田さんが30秒なら30秒ぐらいのところに、自然な感じでこう音を作ってくれて、それで当てていきますよね。あの辺がすごく共同作業のような気がしてね。あの中では上手にある部分では無理のない程度に音を縮めてくれたり、そういう下地があるわけですよね。録音の人っていう仕事が、見えにくい部分だけれども、なんか土性骨を支えてるなあって、僕は撮影の側からするとすごくするんですね。

 音の側からのアプローチっていうのはなかなか聞けませんので、今日は面白かったですね。これから久保田さんは『闇を掘る』をはじめドキュメンタリーの録音の仕上げがつまっていますが、お体に気をつけて下さい。今日は本当にありがとうございました。

 


編集注:

4パソコンを使用したデジタル音声編集機。

5スイス、ナグラ.K社製の同時録音用携帯型磁気録音機。

6カセットテープを使用する同時録音用携帯型デジタル録音機。

7同時録音用の指向性の強いガンマイク。

8音の編集用に使用する磁気テープ。


小林茂 Kobayashi Shigeru


 1954年生まれ。記録映画の故・柳澤壽男監督の助監督を経て、『阿賀に生きる』(佐藤真監督、1992)の撮影により日本映画撮影監督協会JSC賞受賞。『地域をつむぐ』(時枝俊江監督、1996)、『闇を掘る』(藤本幸久監督、2001)を撮影。アフリカ・ウガンダの孤児たちの写真展「ウガンダに生まれて」を開催。

フィルモグラフィー(監督作品)

1997 『放課後』
1999 『自転車』
2000 『雪合戦』
2000 『こどものそら』上記の3編を構成
2001 『ちょっと青空』

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