日本のドキュメンタリー作家 No. 8
田村正毅
次に、名高い撮影監督田村正毅氏のインタビューを掲載します。私たちは、本「Documentary Box」において、単に監督のみでなく、ドキュメンタリー映画を創造するに欠かせない他の多くのスタッフ・メンバーも「ドキュメンタリスト」として考えています。多くの小川紳介監督作品のキャメラマンであった田村正毅氏に登場していただくことは、ドキュメンタリー映画製作に新たな視点が与えられることと信じています。田村正毅氏は、今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の「アジア百花繚乱」で、審査員を務めていただくことになっています。インタビュアーとして、前回1993年の審査員の金井勝監督にお願いしました。
金井 こんにちは。田村さんのキャメラを見ていると、やっぱりねばっこいところがあるんで、青森生まれのそういうのが出てるんじゃないかと思うんですけれど、生まれからちょっと簡単に。
田村 青森生まれだからと言われても…。よく東北人のネバリとかいうあれですか?でも、あれ、東北人だけの特徴でもないしね。とにかく青森市で育って…。とにかく、あの、今は映画やってるけど、高校中からテレビ放送とか演劇とか、そういう世界に入りたくてしょうがなかった。それで、大学進学もままならなかったし、東京にはそんな学校があるというので、飛び出しちゃった。でも飛び出しちゃったのはいいんだけど、なんだか入学してみたらテレビをつくる、テレビ受像機をつくるのを教える学校で大失敗。それはもうしょうがないので、途中でやめちゃって…。それでなんかしなくてはと探してたら、新聞広告にアニメーター募集というのがあって、それが「人形映画製作所」。映画のアニメーターってよくわかんなかったけど、うまいこと受かって、もっともたいした人数も応募してなかったから。そんなわけで、アニメーションというのを覚えていくんです。今、人気の動画でなくて人形でのアニメーション映画。プペット・アニメ。
金井 そこは、何年くらいいたんですか?
田村 そこには2年いたんですけど、なんか事情があってその会社潰れちゃうんですね、2年目に。ただそういう小さな会社というかプロですから、なにか作品作りになると、照明とか美術とかの人たちがちゃんと映画畑から出向いてくるんですね、あとでわかるんだけどそれは、当時でいえば独立プロ系の人たち。そういう専門家がきて……。
金井 自映連の人たちですか?
田村 そうそう。パージの人たち。それでそこで照明とかの技術を覚えていったわけ。で、潰れちゃった時には仕方なかったけど、映画このまま続けてやりたいし、ほんともうそのころ映画やりたくなってたから。それで頼んだら……、外の世界の技術の人は、その照明の人しか知らなかったから僕は。撮影の人はもとから人形映画製作所にいて、それで僕は撮影の助手をしながら同時に照明の手伝いもしてたから……。その頃はアニメでなく外の世界の撮影をやりたくなってたんだね。それでその人に頼んだんだけどいとも簡単に、おまえの体格とか性格では照明部はもたない無理だって。当時、照明部ってのは荒っぽいというか、機材も大きいし重かったし、そんなわけだったんじゃないかな。でも、ちゃんと自映連の撮影マネージの人を紹介してくれて、でそこから派遣されて岩波映画(製作所)へいく。
金井 じゃ、岩波は社員だったわけじゃないんだ。
田村 ええ、当然社員じゃなくて契約、岩波は大学卒しかとらないとこだから。
金井 撮影部も?
田村 正社員としてはね。(岩波)書店をうけたけど、イマイチって人が映画製作の方にまわされるんだとか、そんなこと聞いたことあるけど。社員みんながそうだかどうだかは知らない。
金井 でも田村さんにとって、岩波映画というのはすごい大きな存在ですね。いい先輩がいっぱいいて。あの頃岩波をはじめドキュメンタリーっていうのは勢いが出てきた、前衛的なドキュメンタリーも作られました。
田村 岩波映画の勢いっていうのは、ちょうど高度成長期にかかるところだったからだと思うけど、PR映画で。前衛の火種はあったけどまだ燃え出してない……。
金井 その前にね、羽仁進の存在があるんですね。
田村 羽仁さんのことは後で知るんです。僕はいたころはよく知らなかった。
金井 じゃあ、その後なんだ。
田村 たぶん、羽仁さんが岩波映画で製作しだしたのは、自分がいた2年のうちの後半で、僕が顔だしたころは、なんかすごく賑やかな会社でみんな右往左往してるみたいに見えて…ちょっとオロオロしたなぁ。それで始めの頃は何にもすることがなくて何ヵ月も…、でもちゃんとギャラはくれるし、あれはよかったなあ。毎日顔はだしてるわけだし…。そんなんで暇だったから試写 室で何かやってると勝手に入ってって人のラッシュフィルムをよく見た。ダムとか、どっかの製鉄所とか造船、ビルの工事現場、海、山なんていろいろ。何だかすごいもんだなって思ったけど……PR映画だったわけだ。人のラッシュを勝手に覗いちゃいけないなんて知らんかったんだな、その頃。咎められたりしたもんね一度。そんなふうでいても仕事の声はかかるんで、やっぱり。それで、撮影の助手の人、この人の下につくんだって紹介されて、その人が鈴木達夫さんだったわけ。あ、さっき言った、咎めた人、その人がその最初の仕事の監督で……。
金井 その頃のキャメラマンというのは、その頃鈴木さんはまだチーフの助手だよね。
田村 うん。僕が行った時は最後のチーフだったんですね。
金井 じゃあ、そのキャメラはだれ、その頃は。
田村 青島さんっていう人で、企業のほうをやめてきた人。
金井 あの頃商業用映画大手五社がおかしくなってきて、逆に岩波を先頭にドキュメンタリーが非常に勢いが出てきて、魅力があった。その魅力を作ったのがキャメラマンなんだというのがあってね、金宇満司とか、後に鈴木達夫もそうだし、かなり大勢のキャメラマンが、脚光を浴びたんだね。劇映画のほうでも。金宇さんは石原プロへ行きますよね。劇映画のキャメラマンとは違う何かを持っていると言われてね。
田村 たぶん、岩波の撮影技術っていうか機材のことにかかってたと思う。たとえば、当時五社のほうではちょうどシネマスコープなんかやりだしたはずだけど、まだ大部分が白黒で、それにキャメラはミッチェル、NCミッチェルにブリンプ(防音カバー)かぶせて、レンズも日本スコープとかいうレンズのクォリティでいえば、岩波のからみたらちょっと質の落ちるレンズで撮ってたと思う。
金井 大映の場合はね、マスターレンズがありますよね、その前にシネマスコープにするアナモレンズをつけて、両方を同時に送るんだよ。これをやってたんだけど。
田村 曲芸的技術であるんだ。
金井 そう、それで当時はね、ほら、ライトがね、さっきあなたも言ったようにでかくて重いくせに、光量 がなくて、それでフィルムもASAが低かったからね。だからセットの中は絞りは下2.8。で、ニッパチくらいで、クレーン移動で、100ミリレンズね。アナモとマスターと両方を送るんだから、これはもう至難の業ですよ。
田村 曲芸ですね。
金井 で、ほら、ミッチェルの場合は、ターンしちゃうから、キャメラマンは見てないんだよ。ピントはラッシュで勝負です。(笑)それで岩波の技術っていうのはね、技術的なものよりも、やっぱりセンスだと思うの。で、五社にいた人たちは、劇映画の撮り方はこうだ、と決めつけていたと思う。悪く言えば頭がカタイ。(笑)
田村 今でもあるでしょうけど…(笑)。それにミッチェルだと望遠レンズ使うの難しいでしょう。岩波はアリフレックス(一眼レフ)だから楽だったなあ。
金井 ところがドキュメンタリーっていうのはね、自分の方で工夫していかないとどうにもならないからね、頭が柔らかなキャメラマンが多いね。その辺が、技術って言うよりも、新しいセンスだと思うんだよね。で、先輩がそういうのを築いていけば、後輩も当然それが当り前になっていくみたいな。それが開花したのが、鈴木達夫の『とべない沈黙』のキャメラだと思うの。センスの頂点だね。キャメラマンの新しいセンス。僕は、あの頃までキャメラマンやってたわけだが、あれを見てね、これはやめようと思ったわけ。キャメラを持って薮の中を蝶々を微動だにもしないで追っかけてく、ああいうのを見ちゃうと、おれの肉体じゃ絶対に出来ない、と。その正月に実家に帰ってテレビ見てたら、「ボリショイ・サーカス」をやってるわけ。あ、こういう肉体を持ってるやつが、キャメラのセンスがあって、キャメラマンになって、ああいう蝶々を追っかけることが出来るのか、おれは体が固いから早くやめて、監督になろうと思ったね。(笑)で、あの『とべない沈黙』にもついてたの?
田村 ついてましたよ。岩波ではさっき言ったように、鈴木さんの最後のチーフの作品について、で、それが終わってから、鈴木さんの最初のキャメラマンの作品があって、それにもつくんです。それからその鈴木さんの紹介で黒木和雄さんの『わが愛、北海道』に、そのキャメラマンが清水さん。(清水→清水一彦)これは一年間かけて北海道をカラーで、シネマスコープで撮る作品で勉強になったなあ。この頃の岩波のシネスコのレンズはすばらしかった、最高。で、その間、鈴木さんはシリーズもののドキュメンタリーでいい仕事してるんだよね。とくに土本さんなんかと。だけど、鈴木さんと両方ともそれぞれの仕事、終わっちゃって、それからは岩波ではあまりいい仕事はなくて、誰かの作品B班、C班でこれこれのショット撮ってきてって鈴木さんにくるらしいんだ。すると僕が呼び出されてそれで二人して撮ってくる、そんなの岩波やめるまで、ずっとしてた。そんなこんなでまたまた2年目で、こんどは契約がきれちゃうし、2年というのはなんか節目なのかな。とにかく、営業もちょっとマイナーになってきてて、それよりもみんなPR映画ではもうあきたらないってなってたと思う。その後もずっとつきあっちゃってきた人たち、みんなその頃やめちゃうわけ。社員だったひとも。あの頃、刺激強かったからねー、とくにヨーロッパからの。それから当然いろいろあったわけだけど、でもみんな刺激的関係はちゃんとあってそれで何年目かで、また2年目かな、みんな集まって『とべない沈黙』ってなるんだ。鈴木さんのセンスというかキャメラ・ワークはもう天性のものですね。運動神経の良さ、スポーツ性っていうんだろうか。それとやっぱりミッチェル・キャメラだけだとああいうワーキングは当然考えられないよね。岩波ではアリフレックスが当たり前だったわけで。五社のほうでは、小型カメラっていってたって?
金井 まあドキュメンタリーでミッチェルって言っても特別な場面以外はね。
田村 ミッチェルカメラっていうのは当時は特別のものと思ってた。なんかシンクロ(撮影)のシーンがあるとか、そういうときにミッチェルを借りてきて使う、そんな感じだったかな岩波では。それからシネマスコープのカメラはアイモを改造して、さっき言った優れたレンズ、これは日本のコウワ製のプロミナーっていうレンズでアメリカ向けだったんだよね。そういうのを岩波では使ってた。だから金井さんたちが使ってたようなセパレートじゃなくて一体型。
金井 一体型になるとね、重いし、バランスが悪い。
田村 重いです、大きいし。
金井 あんなもんで手持ちやったら、前がこう、ね、重心が全然違うでしょ。
田村 いや、あのね。シネスコの手持ち用のは大きなレンズにカメラがついてるってかたち、アダプターって感じ。アイモは小さいから。だからレンズを支えればかえって安定がいい。そういうのを考えたり改造したりする人がいたんだよね岩波にも。
金井 ドキュメンタリーの場合は、「必要は発明の母」じゃないけど、やっぱりどこで撮るか、みたいなことでどんどん工夫をして、機械そのものをそうして作って、撮りいいようにどんどんやっていかなきゃね。その辺で、いわゆる商業映画のキャメラマンといろんな面 で違ってくるね。
田村 それはそうだろうなあ。あのね、最初の人形映画の処でもね、ちょっと思ってみれば当たり前なんだけどね、人形のキャラクターはもちろん、あの、えーと人形はたいてい15cmから20cmくらい、身長が。だからその人形の骨、関節。で、当然、彼らのセット、家や部屋ん中とかそこにある家具、小道具、それから風景もみんな手でつくるわけ、殆ど数人のメンバーだけで。そんなのが大かた出来てから専門の人たちも参加してきて撮影開始、そんな風だったなあ。だからもう、金工、木工、塗装とかいろんなことした。もともと好きだったし、面 白かったなあ。
金井 そういうのがまた田村さんの、特に小川プロに行って役立ってくるんだよね。
田村 そうなんだよね。次の岩波映画では必要なもの、欲しいもの、使う側のね、例えば大きいのではクレーンとか移動車は当たり前。それよりもエレクトロニクスのこととか光学系の何かとかね。要するに機材の改造やら、あったら便利な器具とかを要求に応じて作れる技術者がいたんですよ。そういうのずっと見ててそういうもんだと育ってきちゃったのかな。
金井 それで、岩波当時は小川紳介さんとは何か仕事をされたんですか。
田村 黒木さんの作品の後半、『わが愛、北海道』の。当初の助監督は東陽一さんだったけど、いろんな都合で小川がリリーフって感じで交替しにきて、それで知りあったんだ。だからそんときまでは、どちらも助手同士だったし、なんかそんな人はいるってのは知ってたけど一緒の仕事はなかったですね。
金井 それから今度、岩波の勢いがなくなってきた頃、あるいはどっちが先なのか知らないけど、優秀な監督、例えば黒木さんや、土本さんや、東さんなんかがやめてく。当然そういうことによっても勢いがなくなっていくのかもしれない。そういう連中が今度独立プロで自分たちの作品を作る。小川紳介の『青年の海』が最初ですよね?
田村 岩波の中でじゃなくて、飛び出した後でね。
金井 それは田村さんは関係してるの?
田村 ついてく。
金井 ああ、ついているの。ふーん。この前の山形映画祭で、見たんですよ、僕は。あれを見損なってたんだけどね。一番はじめの看板を持ってくる、あれが大変ユニークで面 白かったな。
田村 あのシーンは撮影の順番でいえば一番最後。もう、どうしたらいいか殆どわかんなくなっちゃって…、締めくくりが…。映画として…、ん、というよりも撮影行為としての締めくくり…。それで、もうこれで行こうかという発想、なんか切羽詰まった時、ぱーあっと生まれる、そんな発想だったなと思いますけど。
金井 それから今度、僕なんかもびっくりした作品なんだけど、『圧殺の森』。
田村 これにはついてない。
金井 これは誰、撮影助手は?
田村 たしか、川名という人だったと思うけど、よく覚えていない。
金井 『青年の海』は大津さんですよね?
田村 大津さんと奥村さん。(※大津→大津幸四郎、奥村→奥村祐治)
金井 奥村さんっていうのは、大津さんと同じくらいの年配の人だっけ?
田村 多分同じくらいですね。
金井 いよいよキャメラマンとしての田村正毅が出てくるんだけど、はじめは小川さんの三里塚なんですよね。
田村 『日本解放戦線 三里塚』。ほんとに自分で撮ったのはね。
金井 あれはどのくらいの期間かけて作ったんですか?
田村 2年だったかな、2年近いと思う。
金井 はじめて助手からキャメラマンになって、小川さんとのコンビでどうだったですか。
田村 これがいちばん、何ていうかな。その前の『三里塚の夏』っていうのは、大津さんがメイン・キャメラマンで僕は助手兼Bキャメラという形で参加していたんだけど、その頃はとても気楽だった。だって大津さんがちゃんといつもいるわけだし、僕は大津さんの目のとどかない処とか大津さんとは逆の考え方とか、そんな風にして好きなように撮っていけたから、楽しんでたんですよねその場を。それでそんな風のまんま、次のは自分だけで撮りたいなんて言って『三里塚』、通 称〈冬〉にはいるんだけど…。いったんはじまってみたら、以前みたいに現場で気楽に撮ってたことと、ちゃんと一本の作品をつくるということとの差の大きいこと。何もそんなこと考えてなかったから困っちゃったなあ。どう撮ったらいいのか、考えて組み立てて、先を読んでなんてなことを殆ど自己訓練してきてなかったから、その場の面 白いことをスポーツ的にしかこなしてきてなかったんだから。小川には当然、ずいぶん叱られた。さいわい叱られたり、叩かれたりしたんで、立ち直れたんだろうな。
金井 それに引き続いて『第二砦の人々』ですね。
田村 えーと、その前に2、3本短いのがあるんだけど、同じ三里塚を現場にして。〈冬〉とそれらとを撮りあげることで、訓練になったんじゃないかな…。後に"毎日、デッサンをしてるようなものだ"なんて黒木さんが言ってくれた。
金井 『第二砦』の、おばさんたちが杭に鎖を、ね、今でも覚えてるんですけど、田村キャメラマンが花開いたというのは、次の『辺田部落』だと思うんですよ。あれはやっぱりすごいなと思いましたよ。大津さんもね、 『圧殺の森』ではこう、アップアップでいきながらラストカット、ボーンと引いてね、アップアップでいくことによって学生運動が高まっているかな、と思うとラストカット、ポッと、ちょろちょろのデモ行進。かなり計算していて非常に面 白かったんだけど、田村の『辺田部 落』はそれと全く違う意味で、あそこに出てくる畑の名前、田んぼの名前、一枚一枚の名前が、田村キャメラマンだからすごく納得いくような気がした。それから僕はいつもこう思っているんだけど、いわゆる作り手が主体性を持つのは当り前なんだけど、超主体的っていうかね、偶然が味方しないとだめだと思う。特にドキュメンタリーはね。あそこの農家のおばあちゃんの所へ、インタビューに行って。
田村 縁側で話するとこ。
金井 で、あのおばあちゃんが「私の葬式写真を撮りに来たかや」なんて言ってると風が吹いてきて、障子の腰ガラスに映った風景がぺっこんぺっこん揺れるの。ああいうのが映像として残るんだよね。『辺田部落』はそういう偶然が味方してくれたのも含めて面 白い。小川さんの作品の中でも、その前の『三里塚シリーズ』というのは反対運動としてのあれだったけど、あそこで初めて、何で成田空港に反対するのかっていう根源的問いが出てきたと思うんだよね。そしてあの作品で初めてゆったりと流れる村の時間がでてくるんだよね。銚子から嫁に来たおばちゃんが、こう、大根のペニスの先に赤い人参を付けるんだよね。ああいうゆったりとした変化、時間の流れみたいのがね。空港を作って何でそんなに急ぐんだっていうのがね、もたらすのは公害だけじゃないかみたいなことを含めて。小川さんの三里塚に対する考え方なんかも出てきたし、キャメラの田村の…あなたも農家の生まれじゃないかなと思ったね、あの頃は。あの作品を見ていて。
田村 祖父は農家だったけど。
金井 何か農民の気持ちが伝わってくるようなキャメラを感じたんだよね。
田村 うん。でもやっぱり、自分のも初めの方のではアップがけっこう多いんだ。〈冬〉から『第二砦』あたりまで…。
金井 闘争だから、やっぱアップで撮りたくなるんだよな。
田村 そう。ああいう場ではある種こちらにも興奮があるし、対象もいい緊張してるからアップに耐えるんだよな。『辺田部落』はそんな興奮もおさまってる。イベント闘争もずーっと静まってる頃の作品だから。
金井 あれはすごい傑作、ドキュメンタリーの最高峰の一本だと思うんですよね。
田村 ちょっと落ち着いてというか、引いて見れるというか、あの、離れてじゃなくて客観的になれる。または彼らの中に溶け込んで居れるというか、そんな時間にいたんでしょうね。
金井 それが今度、田村さんは劇映画の方のキャメラマンとして東陽一の『サトリ』と黒木さんの『竜馬暗殺』、それからずっと何本か劇映画が続くんですけど、その辺はドキュメンタリーのキャメラマンをやってた田村さんが、劇映画で、ドキュメンタリーの時の培ったセンスなり技術なりが自分としてはどう生かされてると思うんですか。
田村 えーとね。いつもわかんなくなるんだけど、当時はとくにドキュメンタリーと劇映画との違いとかってなにも考えてなかったし、意識もしてなかったようでよくわからないんだなあ。格好よくいえば、撮れることが楽しかったなんて。
金井 たしかに『サトリ』の東陽一は劇映画初めてだし、黒木さんの『竜馬』もお金がないということにおいて非常にドキュメンタリー的で、みんなで工夫しながらやっていく、その辺では僕なんかかなり新鮮なキャメラを感じたんだけどね。
田村 うん、そうか。三里塚が一段落した後の劇映画の何本かはやっぱり岩波時代の、だからずーっと知ってる監督たちとなんだよね。別 の言い方をすれば、そのー、劇映画のやり方なんて知らないっていうよりも知らない分だけ反発してた。で知らないものは強いってとこもあったんじゃない。何をしたっていいみたいな。
金井 でも僕が見た中で、明らかにね、柳町との作品ってのはね、非常にあなたが活かされてるような気がするの。たとえば『さらば愛しき大地』のアパートの裏を抜いたのか、あれ?あの壁を抜いたの?
田村 そう、壁を抜いた…。
金井 壁抜いて、稲穂の田んぼがずーっと続くんだっけ?
田村 ああ、あれはロケ・セットの壁を抜いて窓にした。そちら側が田んぼだったから。
金井 あのシーンなんかすごい、やっぱりこれは劇映画の監督、キャメラマンではちょっと撮れないなっていうようなアングルで、それから『火まつり』なんかもねぇ〜。
田村 うん。知らない強みかな…。
金井 あの、特に風だね。ヘリコプターを使っての風。あのへんもこれはどうやって撮ったんだろうと、誰もが驚いたと思うよ。そういうところが非常にこう、なんかね。
田村 最近は、そういうことはちょこちょこやられてる様だけど。
金井 誰かがやればね、その後は「じゃ、ヘリコプターだ」と思ってやるだろうけどね、でも、二度目はもう駄 目。びっくりしませんよ。柳町との作品なんかにはあなたのドキュメンタリーで培ってきた技術って言うか才能って言うかセンスって言うか、柔らか頭なのかもしれないけど、うまくいってますよね。
田村 『さらば愛しき大地』では稲の生育のことがすごく大事で、田園地帯が舞台なわけだから、稲がいつも画面 にでてくる。その育ちの状態で4年間の話の中のいろんな時期を見せようってわけ。しかも、たった一月半くらいの撮影期間のうちでそれをやんなきゃならなくて。でもね、あの頃は一方で、後で『ニッポン国古屋敷村』なんかに出てくる稲のいろんなシーンを撮ってたから、山形で小川たちと。だから稲のことはある程度知ってたんで、なんとかうまくやれたねえ。あの辺りの、茨城の鹿島から霞ヶ浦一帯だけど、あちこち、風景とそこの稲の生長差を細かく調べあげて。それと風のことでは、田圃を風がさわさわって奥の方に伝わっていくシーン。これはこっちが先なんだけど、やっぱりヘリコプターに稲の上を飛んでもらってる。コースをきめてね。だけど稲、倒しちゃうとやばいんで、これはうんと小さいヘリにして。自然の風ではいつ、どう吹いてくるかなんて、よっぽど時間かけて観察してないと読めないし、それに待ってらんないしね。それで、走る風ならヘリでと。
金井 そうだろうな。うん、そこの発想は何とも分かるような気がするんだ。そこでもう『火まつり』の森でのあの風の下地が出来ていたんだ。
田村 『火まつり』の森は、これはこんどは大きいから、できる限り大きいヘリコプターでってことになるわけ。それを森の上をかきまわすみたいにぐるぐる回ってもらった。
金井 なるほどね。突然ヘリコプターの風って聞いてね、こいつらすごいなって思ったけど、そういう蓄積があるんですよね。
田村 発想して、工夫して、それが実現できるってのはいいですね。
金井 さて、僕の大好きな『ニッポン国古屋敷村』なんですけど、久々のドキュメンタリーはどうだったですか。
田村 えーと、そうだね。小川としては、そのう、作品発表としては久しぶりになるんだけど、自分では、そんな感じじゃないんだよね。もともと、劇(映画)もドキュメンタリーもわける意識はあまりなかったし、何でだかね。なんといってもあの間は実はずーっと毎年、あれは山形の牧野ってとこでだけど、撮影してたから。ま、いちばんやったのは稲の撮影。あと、気候とか山の木のこと水のこと、それをほんとに具体的にね。だから一年目に失敗するとまた次の年にってなるわけだよね、自然が相手だから。そんなこんなで7、8年だったかなあ。それと当然、村の人たちの話なんかを。これは、三里塚でなかなか出来なかった面 をやっていったということだね。小川の念願だったから。だからね、この間、得たものというかセンスは他の作品にも生かせるわけだ。
金井 自分たちが田んぼを作って、いわゆる土の問題。同じ田んぼでもこことここの土は違うんだって、やってますよね。
田村 そ、ほんとに違うんだよ。今の大きい田んぼは前の小さいのの寄せ集めだから。
金井 そういう調査から、あと霧の流れる装置を作って、実験。何て言ったっけ?
田村 古屋敷ではシロミナミって呼ぶ。古屋敷ってのは山の村で夏の始め頃、冷気が山を越えてくる、で、その山が決まって南側の山なんだよね。
金井 その辺の実験を、ドライアイス使って、非常に面白かったんですけど。あと、僕なんかは農家の生まれでずっと米を作ってたんだけどね。それで稲の受精シーンが顕微鏡撮影でありますよね。そのエロチックな描写 には驚きました。俺たちが行った時、小川さんはこう言うんですよ。室内でやったら絶対自然と違うはずだと。田んぼの中で撮るんだって。コマ撮りなんかも結構やってるでしょ、田んぼの中で。
田村 稲のいちばん大事な行為になる開花受粉ですね。どの植物でも当たり前だけど。えーと、コマ撮りじゃなく微速撮影だったけど、初めのトライの頃は。花が開いていくのを撮るなら微速でという常識が克ってたんだね。それで、撮ったのを観てもちっとも面 白くなくて、アクションはあるんだけど気持ちがないっていうか、撮れてないんだよね稲の。で、そんなことの繰り返しを何年かしてると誰にでも見えてくるよ、稲の微妙な反応が。えーと、気温、湿度これはその時のね、それからその年の気候、植わってるとこの土壌のぐあいとか。あ、少し、くどくなったけど、要するにそんな条件が、稲粒ひとつにも関係してて、それが、各稲粒の個性に見えてくるわけ。だから、小川が実際の田んぼにこだわったんですよ。でね、そんな気持ちをしっかり撮るならむしろ、ハイスピードで、となるわけなんです。
金井 それが後半は稲から離れてはいないんだろうけど、村の話になっていって、太平洋戦争への関わりが出てくるんですけど。
田村 古屋敷村へは、さっき言ったシロミナミのことに興味もちだして、それで入るんだな。で、そこで冷気と稲の生理とかって撮っていれば、これは自然とそこの人たちと関わりができてくるわけで。それで気がついてみれば、そこは山の村というわけで……。ただね、村にいる人たちはみんな年配の人たちばかりで…
金井 もう過疎でね。
田村 そう、だから山の樹の話や炭焼きの話も面白かったけど、じっくり語るとなるとやっぱり時代の話に、それと現在への不服。若い人とか中年はそこの山でなく街で生活立ててるからね。
金井 次の『1000年刻み』の間に他の劇映画を。
田村 えーと、『古屋敷村』と『1000年刻み』の間には5〜6本劇映画やってるけど。順調だったんだなあこの頃は。年に1〜2本撮ってるんだものね。とは言っても、小川とのこの2本は、この間ずーっといやその前から撮りためてきてたものと、古屋敷のシロミナミみたいに何かひっかかりが、ある時機にできて、そのことから生まれてくるものとの集成というかな、そうやって出来た作品で、『1000年刻み』もそんなで……。何というか、その間劇映画何本かやってるんだけど劇映画は一本ずつ終わって、だけど一方はずーっと続いてたって感じかな。
金井 『1000年刻み』では、役者を使ったり土方巽を使ったり、それがどうも活きてない気がするんだよな。
田村 活かせなかったんでしょうね。"役"の演出は苦手な方だったから。
金井 例えば原一男の『全身小説家』。本当はあっちが二番煎じなんだけど、あっちの方が粋なんだよな。朝鮮人の踊り子がね、こう…。
田村 粋だなあ。そう言えばそうだなあ。
金井 だから劇仕立てのシーンにするんなら、何かもっと、東北人の粋でもいいんだよ、何でもね。何だか古文書を全部やるみたいなね、ああいうのは悪い意味で泥臭いと思うんだよな。それをやるなら泥臭く撮りゃいいと思うんだけど、役者を使ってやるっていう、すごく良いアイデアなんだけど、その辺がもっと…。あの辺が見ててしんどいですよ。パッとしない小川作品の最後になっちゃったなー、という…。悲しいんだけどなあ。
田村 結果として最後の作品になったけど…、あの時、小川は限界だったんでしょうね。
金井 僕はそういう意味で『古屋敷村』で…
田村 うん、古屋敷でも話はいっぱい聴いてるんで、それを村の人たちに演じてもらうようなこと考えてたかな…。いや後で思ったんだ。『1000年刻み』では実際、村の人たちに出てもらったりしてるでしょう。
金井 だから考え方としてすごく面白いの。その撮り方であり、内容なんだよ、問題は。
田村 さらに、ほんとの役者もお願いして…。
金井 いや、役者も使っていいと思うの。あれはものすごく、もっと魅力的に撮らなきゃいけないんだな。
田村 えーとね、だいたいにね、農民というのに弱いんだよね、彼は。農民=困窮って史観があるんだけど、わりと捕らわれてるようなとこあったなあ。ひょっとするとブレーキに…。フィクションでもドキュメンタリーでも物語性が弱いとね。ちゃんと脚色がされてればもっと良かったのかな?
金井 ところで今度アジア部門の小川賞の審査員になられるんだけど、日本も含めてアジアのドキュメンタリーについて一言。
田村 え、うーん。えーと、あのね。なんというか今、今の日本ではドキュメンタリーってなに?というようなことが、また新たに言われだしてきてるんじゃないかな。先日もそんなインタビューを他で受けたけど、それだけのことじゃないよね。そんなこんなで、特にアジア人たちはどんな物語性をもって自分たちの作品に携わってるんだろうか、で、なんてったってその作品はそれを保証してるかなって考えるわけだけど、これは反面 、怖いなあ。きっと、怖い目にあうかも。
金井 一昨年の映画祭では、中国の作家で。
田村 ああ、ウー・ウェンガン…。
金井 『私の紅衛兵時代』。あれは非常に面白かったね。
田村 いいですね、あれは。
金井 組み立て、というかね。今年も思わぬ収穫があるんじゃないかね。
田村 期待しますよ、はい。
映画キャメラマン。1939年、青森県生まれ。人形映画(アニメーション)製作所を経てフリーとなり、のち小川紳介の三里塚、山形での作品ほとんどを撮影。他の作品に『竜馬暗殺』(1974・黒木和雄)、『さらば愛しき大地』(1981)『火まつり』(1984)『パオ・ジャンフー』(1995)(いずれも柳町光男)、『ウンタマギルー』(1989・高嶺剛)など。 |
1936年神奈川県の農家に生まれる。大映東京の撮影科で高橋道夫らに師事、フリーの撮影監督を経て68年「金井プロ」を結成、翌年初監督作『無人列島』を発表。続いて『微笑う銀河三部作』(69-73年)を自主製作自主上映。以降テレビでドキュメンタリーを監督しながら、"映像による詩歌集"を発表している。山形映画祭'93のアジアプログラムの審査員。 |