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日本のドキュメンタリー作家 No. 7

土本典昭


「日本のドキュメンタリー作家・インタビュー」シリーズは、前号で掲載できませんでしたが、今回二つのインタビューを掲載いたします。はじめに、戦後日本の偉大なるドキュメンタリスト土本典昭監督のインタビューを掲載できることは私たちの大いなる喜びです。水俣シリーズなどで、世界的に知られた同監督の作品は、今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の「日本ドキュメンタリー映画の格闘 70年代」で上映されます。同プログラムのコーディネーター安井善雄と「Documentary Box」編集者アーロン・ジェローが、水俣の旅館でインタビューしました。


ジェロー 土本さんの学歴をみますと、映画とは無関係の学生生活ですね。学生運動、政治的活動家として過ごし、その後、映画界に入られた…そのあたりの事情、理由といったものを聞かせてください。岩波映画のスポンサー映画が初仕事でしたね。なぜ映画に…。

土本 このところ「戦後50年」のテレビの特番を見過ぎで、その影響を受けていますから、つい僕の「50年史」になりそうですが…。

 思えば戦前戦中の僕は貧乏でしたね。父は下っ端役人だったもんだから、きりつめた生活だったんでしょう。家に子供むきの本もなければ、蓄音器(レコード)もない。あるのは台風に懲りて天気予報を聞くために買ったラジオだけ。そういう家庭環境でしたね。ところが小学校時代のほとんどをすごした麹町(東京千代田区)小学校という所は、中産階級の上の生活をしている子供、当時でも越境通 学するものもいた、いわば有名校でね。

 友だちの家にいけばレコードもある、写真機も本もなんでもある。そこら中に、粋な東京の文化や外国の文化の匂いがしたもんです。

 学区のなかには三井や岩崎財閥のお屋敷や、塀を隔てて裏は日本画の大家、その隣はスイス公使館、その坂の上はオペラのスターの家があるし、まあ東京の一等地だったんじゃないですか。その一角、谷間のようなところに、ひとかたまりの"貧民窟"同様の家や長屋があったんです。紙芝居屋とか市電の運転手やホテルの給仕頭のようなひとびとがいて、そこだけは全くの下町、でも気楽な所でしたよ。そこはみな貧乏だったから平気だった。祖母がすごく金を食う病人でした。脊髄カリエスで。子ども心に納得、というか我慢できましたね。なにしろ良い医者と聞けばそこに行く、祈祷師には入れ込むやら、父の給料はまず祖母の治療費で飛んだんでしょう。老人医療福祉などまったくない時代でしたから。その貧乏が平気という下町世界、まわりの友達はお坊ちゃんで山の手育ち、その中へ紛れ込んだ名古屋からの転校生というので、どうも肌が合わないんです。それでも勉強では首位 を争っていた風だったから卑屈にはならない。が、文化的には貧相な世界で育ったようですね(笑)。そういったことからでしょう、戦後も本当に貧乏暮らしの仲間とは性が合った。階級論なんかではなく、ともかくすぐに分かる話ばかりでしたから。最初に見た世の中はそうでした。

 そうですね。僕の世代は誰でも天皇崇拝、軍国主義教育は骨のズイまで叩きこまれたし、それを批判するような思想や文化が大正、昭和の初期まで、日本にあったなんて知りもしなかった。その中で敗戦になったのは17歳の時ですよね。

 僕にとって一番大きかったのは天皇が普通の人間だったことですよ。

 僕はいまも天皇制が嫌いですが、これには格別な記憶があるんです。僕の小学校は東京のなかで皇居に近かった。やはり近くにあった三つの小学校が皇居の行事に駆りだされるわけ。天皇の"直属"小学校だったんです(笑)。外国からの国賓が来られれば、こざっぱりした服装で日の丸の旗を持たされて最前列です。それをカメラやニュース(映画)が撮る。僕らは喜んで日の丸を千切れるほど振ったクチです。天皇の行幸の時はいつも動員されて最敬礼。「通 り過ぎるまで頭を上げてはいけない。天皇を見たら眼がつぶれる。なにしろ神様だから」というわけでしょ。天皇と皇后は交接なさらずに、世継ぎを作らせたもうたのかと大人に聞いても「………」、返事は逃げられる。宮城周辺やお壕ばたは僕らの遊び場だったんですが、ご門の前を通 るときは最敬礼。天皇は神様、絶対に見てはならない存在だったんです。

 ところが、ある日、天皇とマッカーサーが並んだ写真が新聞に出た…背の高いマッカーサーに背のひくい天皇ね。見たとき、気恥ずかしくて情けなかった。といっても敗戦後は天皇への崇拝はやめていたけど、誰が僕らを騙したのか?

 教育だし、新聞だし、学校の先生だし、町の隣組だし、自分の親までそうだったのか。寄ってたかって、よくも神がかった天皇制を教え込んだもんだ。つくづく思いましたね。だから、一切の大人を信用しない。世の中の流行にはウカウカとは乗るまい。ベストセラーは読まない。熱狂的な話には斜に構える…そんなことをいくつか自分で心に決めたんです。ともかく僕と同じような目に会った人、僕と同世代しか信用しない、大人たちとは十分吟味して付き合うと言う風にね。恥ずかしいが十代末期は小生意気なガキでしたね。政治には関心がありましたが、マルクスなどは初期のものだけ、レーニンも毛沢東もパンフを読んだくらいで、学生運動に入りました。学費もアルバイトで賄うし、本には飢えてました。血も売ったが、ときに本の万引きをした。その本の題名を今でも覚えています、マルクスの「ドイッチェ・イディオロギー」の三巻目(笑)。女性店員と眼が合ってしまったが、見逃してもらったと思う。だからその書店にはいまでも頭が上がりません(笑)。朝鮮戦争前後、学費値上げ反対闘争やとくに進歩的教授へのレッドパージ(教職追放)反対闘争は、これは徹底的にやりましたね。

ジェロー そう言った学生運動に参加なさったことで、その後就職は難しかったですか?

土本 展望はありませんでした。占領軍によって、左翼と見做される団体は主要メンバーの名前を出せ、という団体等規制令というんですけど、主要メンバーのリストを出せば、ある条件のもとに活動を許すという占領軍の政令が、あれはたしか昭和24年頃に発布されましてね。全学連でさえもです。でも本当に有能な活動家の名は隠すわけ。どうでもいい奴は「名前を出して置け」というので出させられた。僕はどうでもいい方なんです(笑)。僕は理論家でもリーダーでもない。全学連新聞の発行名義人ですが、ガリ版を切ったり、刷り上がった機関紙を折って発送したり。そういう労は厭わなかった。イデオローグになれないのは十分知っていましたから。

 ですからこの時点で当然日本の公安のブラックリストにも入ったし、まともな就職はもう出来っこないと思っていました。大学を除籍されても、いわば当然の成り行き位 に思っていましたし。そのリストと除籍のいわば二重のバツ印つきですから仕方ありません。

 しかも、朝鮮戦争も停戦になって、特需景気も消え、真面目に大学を卒業した者でも就職困難な時期になりましたから…。あとは何か出来ることをやるしかないという時代でした。実は出来ればジャーナリストになりたかった。『世界を震撼した十日間』を書いたジョン・リードに憧れていましたから。

 映画志望ではなかったですね、その頃は。映画は好きでも、写真機ひとついじったことはないし、大体、映画を見に行く金も時間もなかった。およそ文化的には欠乏状況に生きていましたから(笑)。

ジェロー 前に伺いましたが、自宅の近くに東宝撮影所があったとか。

土本 戦争末期、移ったところが世田谷の砧、東宝撮影所のそばだったんです。親戚 の家に転がり込んで、戦後も町で暮らしたんですが、偶然そこが"映画人村"だったんです。近所は名だたる映画人ばかり。宮島義勇キャメラマンや映画美術家、俳優、スター女優、製作部の人など例を上げればきりがない。後に岩波映画にはいる機縁になった吉野馨治氏も垣根ひとつ隣の小父さんでした。話は飛びますが、僕が映画入りしたのはその十数年後のことです。

 この吉野馨治氏は劇映画キャメラマン出身にもかかわらず、選んで東宝撮影所の文化映画部の撮影部を作った人です。戦争中に『雪の結晶』とか『霜の花』とか、名作といわれた『法隆寺』を撮っていた。この人が中学生時代、僕を可愛がってくれたんです。戦争末期、空襲警報がでると男が徹夜で見張りに出ることになっていた。見張りは退屈なもんです。時々夜空をみながら、日頃は無口な吉野さんが、その時に撮っている映画の撮影の細かい技術をボソボソ独り言のように喋ってくれるわけです。「顕微鏡に微速度カメラをつけてみる霜の動きは数時間かけて十秒分になる」とか「法隆寺の塔の上を撮るのに櫓を組んで撮るんだよ」とか聞くと、ヒャーと思うわけですよ(笑)。しかし「映画をやらないか」などとは言わない(笑)。しかし僕の身辺の事情はそれとなく知っていた節がある。そこが妙です(笑)。

 僕は大学除籍後、共産党の当時の極左冒険主義時代、山に籠ってゲリラの真似ごとをした時期があるんです。アメリカ占領軍の軍事基地反対のためにとか、山林地主を粉砕せよとかいって。つまりは若いモンの鍛練場か、分派分子の叩き直しの場だったんですが、それと分かっていて出掛け、些細な警官隊との小競り合いで逮捕、起訴されました。その裁判一審が終わる(昭和30年)までに三年間かかった。保釈されたが、裁判には出頭しなければならないでしょう。普通 の会社に「裁判だから」って休みをもらえるわけがない(笑)。そこに幸い、日中友好協会本部から機関紙広告部の仕事の話が来たんです。そこで三年働いて、機関紙や新中国の映画の紹介上映なんかをしていました。担当の仕事は性にあっていましたが、日中友好運動を続ける気はありませんでしたし、裁判の判決が出る頃がある転機だ、と考えていましたから、昭和30年を待ちに待ちました。その昭和30年以後、高度成長の時代の幕が開くわけ。そうしたら吉野馨治氏から「相談がある」ときたんです。「僕のことかな」と思ったら、そうじゃない(笑)。

 「君の仲間には良い奴がいるだろう。紹介してくれないか」というわけだ。僕は推薦した。その友人はよく働いたらしい。で、僕も判決が下りて、有罪だが執行猶予の身になったんです。もう裁判に時間を取られないようになった。その頃合をみて「君、働いて見るかね」ということになった。

 しかしどうも乗り気になれないんです。映画人村にいたこと、そこで見たことが引っかかってね。東宝撮影所の大争議には参加しました。撮影所にも遊びに行きましたが、やがて独立プロ運動が起きる。それは僕が学生運動の時代と重なっていました。吉野さんから声のかかった頃は、その全盛時代も終り、フリー助監督たちが「結局、使い捨てだな」と腐っていた。その幻滅感が僕にも染ってきてやりきれなかったな。生意気にもスターや映画人の裏も表も見た気になっていて…。映画って大したことないやみたいな…。

ジェロー それはフィクション映画に対してですか?

土本 それはそれで面白いですよ劇映画は、観る側としては。しかし作る側となることに興味が湧かないんだな。しかし一年前に僕が推薦して岩波に入れた小熊(均)君から誘われてみた羽仁進の『教室の子どもたち』という映画の試写 を観て、これには感動しましたね。独創的で定式をやぶった演出も新鮮でしたが、キャメラの表現が語りかけるものがあって、これなら興味がもてるなと思ったんです。ドキュメンタリーとの出会いはその時ですね。

ジェロー それは、ある程度、本命のジャーナリスト希望という考え方と関連があるんですか?

土本 ええ、近かった。僕には映画の文体、とくにキャメラワークが面白かったんです。多分岩波映画として記録映画に一眼レフのアリフレックスを使った最初(1950年代)の作品でしょう。それまでのルーペを覗くミッチェル・キャメラタイプと違って、キャメラマンが対象を追って、フォーカスを変えていけるんですね。それまでに見た撮影現場では助手が巻尺をもって焦点距離を計る。「その位 置で芝居をやって」てなことばかりでテストを繰り返しているのを見ていたから、余計に新鮮だったかもしれない。撮りながらキャメラマン、たしか小村静夫さんだったが、これが良かった。「考えるキャメラ」いうのかな、今の人にはオートフォーカスが当り前だけど、そのレンズの焦点の微かなボケや、パンでの探り様、修正のす早さ、そしてドンと見据えるカメラになる。相手は子供たちですから、このキャメラワークは生き生きしてましたね。羽仁進氏の若々しさにもビックリしました。で、「キャメラに採用してほしい」と言ったところ、「年齢(とし)を考えろ」と吉野さんが言うんだな。もう遅いっていうわけ(笑)。何しろ28歳でしたからね。

 結局、プロデューサーの見習い、ロケマネから仕事に入ったんです。大製鉄所のPR映画の総数50人の弁当を揃えたり、宿の世話をしたりで、現場にはあまりいなかった。

 しかし、そこで優れたキャメラマンや助監督と会えたし、話ができたのが良かった。現場の仕事はそれまでの仕事に比べれば、贅沢なもんでしたよ。年に10回くらいしか飲めなかった酒を、毎日「お疲れ」と称して飲む。365日(笑)。

 瀬川順一キャメラマンとの出会いが最高だった。かれは戦中『戦ふ兵隊』のキャメラ助手として、飲めば亀井文夫論になり、三木茂キャメラマン論になる。それが一段落すると、「今日のキャメラワークの狙いは?」としつっこく聞くんだな、僕は。そのケンケンガクガクに酔いましたね。やってる仕事は企業の宣伝映画だが、ショットはキャメラマンのものだとその時に思ったわけです。

ジェロー 一番勉強になったのは、監督よりキャメラマンからですか?

土本 そうです。初仕事はかれが現場ではキャメラマンで、監督でもあったんです。伊勢長之助という名構成編集者がそれをつなぐんです。戦前戦中の記録映画の伝統だと思いますけど、「絵を撮ってくれば、こっちは繋ぐ」という撮影、構成編集という区分があって、キャメラマンはシナリオ風のものを渡されて、工夫して撮ってくる。あと、現場を敢えて見ないフシがある伊勢さんが繋ぐという方式です。それが岩波映画のいわゆる外部契約者にも引き継がれていたんですね。僕は伊勢さんの助手として技術は学びましたけど、記録映画の作り方では、言っては失礼だが、悪いスタイルを残した元凶だと思っているんです。天才的な編集者だっただけに曰く言い難いんですが、ある目的に応じて適応したモンタージュをし尽くしてしまう。それがPCL(旧東宝映画)文化映画部の伝統だったんじゃないですか。

安井 瀬川さんはそれを怒らないんですか。自分が撮ってきたものを編集された時に?

土本 そこがお互いに専門家気質というか、「このカットは切らせないぞ」という瀬川氏、「このカットは見逃さん」という伊勢氏の気迫がありましたね。PR映画といっても、映画的には傑作ができましたから恐ろしい。僕の宣伝映画時代には技術的には贅沢な仕事を経験させてもらいましたよ。

ジェロー 岩波時代には、瀬川さんは先生ともいえますね、その後、土本さんのキャメラもやっておられますよね。その関係ではどうでしたか?

土本 直接、その返事にはならないかも知れませんが、言わせて下さい。つい最近、病床の瀬川さんをお見舞いにいったんですが、本当にドキュメンタリーにとって一番大事なことを話して頂いたんです。そこでも何十回と聞いた、『戦ふ兵隊』のあるエピソードを巡っての話です。多分、瀬川さんの五十年前からの一貫した自問自答があるんです。

 具体的に話しましょう。『戦ふ兵隊』の撮影にこういう出来事があったというんです。撮らなかったシーンの話ですから、映画には勿論ないんです。あくまで瀬川さんのロケ現場での忘れ難い記憶ですが。

 彼の話はこうです。日本軍がひとびとを苦しめ、家を焼き払ったりした村を通り過ぎたあと、たまたま亀井さんが畑にいた子供を見つけて掴まえ、抱いて、「三木君、コレを撮ってよ」と言ったんだね。かれは助手だったからキャメラの脇で、いつでもクランクを回せるようにしていた。しかし、三木さんはどうしても撮ろうとしなかった。その撮れない理由に「だって亀井君、きみの手が入るじゃないか」と言い、亀井さんは「手が出てもいいから撮れ」。瀬川さんによれば三木さんは臆病で"有名"だったそうですが、顔をこわばらせて撮ることを拒否したというんですね。

 その晩に激怒のおさまらない亀井さんと三木さんの抗弁のやりとりが果てしなく続いて言葉では三木さんがやりこめられた。けれども納得してはいない、三木さんは。亀井さんは「僕が編集すれば、戦争の恐ろしさをあの子の表情からだせるんだ」 「あの顔は使えるんだから、僕の言う通り撮ってくれればいい」ということだったらしい。

 三木さんは「僕には撮れない」と譲らない。「僕にはできない」ってね。この論争が瀬川さんの一生のこだわり、自分のキャメラマン論の根底にあったというんですね。

 瀬川さん自身、四十歳台くらいまでは、「亀井さんの言う通り撮ってもよかったんじゃないか」 「撮れと監督に言われたものは撮って、そのラッシュで決めればいいじゃないか」と思ってきたけれども、人生後半になって三木さんの理屈にならない拒否感覚みたいなものが理解できるようになったと言われる。やはりキャメラマンには「撮れといわれても、どうしても撮れない事がある、三木さんはどうも正しかったと思うようになった」と。さらに最近、瀬川さんの記憶が鮮明に蘇ってきたことがある。それは自分が招集されて兵士だった時、占領地でバッタリ元の職場の映画監督とキャメラマンに会った時のことらしい。瀬川さんは「もうその人たちも亡くなったから言うが」といって、あるシーンのために中国兵をわざと逃がして、機関銃で撃ちまくったという話を彼等から聞かされたというんです。「機関銃って撃ってもなかなか命中しないものなんだね。バタバタ倒れる敵兵という風にはいかなんだ」と。瀬川さんは先輩キャメラマンが中国兵捕虜を映画のために殺したのか!と慄然とされたそうだ。しかも、それを平然と自分に話しをする神経はなんだ。「これが映画人か、恐ろしい、恥ずかしい」と思ったが、また、忘れようともしてきたと。瀬川さんもほとんで忘れかけていたが、三木さんの理屈にならない理屈の先を突き詰めていく内に、その記憶は蘇ってきたそうです。これははじめて聞く話でした。

 二年か三年の兵役を終えて、瀬川さんが三木さんについた仕事が『戦ふ兵隊』だったんでしょう。「亀井さんと三木さんの論争をふりかえって見ると、こっちが加害者、侵略者側というのが三木さんの根底にあったんだ」。つまり、瀬川さんの言ですが、「戦場の記録映画班はみな従軍服、軍服に似たものを着せられているし、キャメラはレンズは光るし、鉄砲みたいな武器に似ている。それを三脚につけた前で、抱きすくめられたら誰でも怖い。中国の子供にとって、きっと僕らも日本兵に見えた。殺されると思った顔だった」。

 三木さんには、被害者を写すのに加害者側からは撮れなかったのだと。その点、亀井さんに、あの時、自分らは加害者側だという意識があったろうか、無意識にせよ、その演出には差別 があったのではないか、二つの記憶が結びついて恐ろしい輪になってしまった。つまり、「キャメラマンとして、どうしても撮れないという肉体がある」ということを言いたいんですね。いわば遺言ですよ。キャメラマン歴六十有余年の瀬川さんの。

 劇映画の世界はよく知らないんですけど、瀬川さんの若い時代、監督は"天皇"っていわれてる人もいたよね。その監督の指示は命令と同じだった。だけど「身体が言うことを聞かなくなる」というのは、実は深い本質的な知性なのではないか。体のなかに染み込んだ知性というか。

 キャメラマンが一旦撮ったカットは、人にどう使われても文句が言えない、撮ったのは自分だから。瀬川さんが後輩に言いたいのは、キャメラマンは「カメラ番」じゃないという言葉の実質、精神を言われたと。五十年前に及ぶ亀井・三木論争へのこだわりを突き抜けて、自分の答をだされた。戦場でのいわば耳打ちされた同輩の話の記憶まで引き摺り出して、正当に三木さんに敬意を表し、同時に、いわゆる厭戦作家と言われる「亀井神話」まで突き刺してしまった。そういう気がして、瀬川さんからキャメラマン論の仕上げをして頂いた感じ…。僕は粛然としましたね。

ジェロー  土本さんのスタッフはそのような精神をあなたに突き付けますか。自分のキャメラマンが「撮れない」と言ったら、大丈夫ですか。

土本 多分、もう、大丈夫でしょう。キャメラマンが「これは自分の映画だ、自分のカットだ、自分の作品だ」と思えるようなキャメラマン内部のレベル、誇りといいますか「撮った以上そのカットはひとり歩きする。いやだったら撮らない」というキャメラマンのOK度を瀬川さんに教わりましたから、自分のスタッフのキャメラマンにもそう在ってほしい。

ジェロー その当時「青の会」というグループがあったといわれますが、そういうドキュメンタリーに関する話し合いとかがありましたか。当時主流のPR映画状況のなかで、それについての議論はあったんですか?

土本 これは結果的には「青の会」の時代といえるかもしれませんが。「会」と言えるかどうか、それは後回しにします。

 僕の偏見かも知れませんけど、どうも映画人間は単純にいえばふた通りに区分できると思うんです。非常にサービス精神が旺盛で、面 白がり屋で、役者より上手く演技してみせる。映画的な世界、フィクショナルな世界を創造して、スタッフも、キャストたちも巻き込んで行くようなタイプと、これは記録映画の畑に多いんですけど、映画理論や理屈に強い、論客タイプと(笑)。僕はどっちかといえば理論の多い記録映画の会社に入っちゃった(笑)。岩波映画の若手の主流はやはり精神的な、スピリチュアルな映像をどうやって獲得するか、それを渇望していたんじゃないですか。

 やっている現場は電力会社や製鉄所のPR映画であって、言ってみれば誰も自己弁護はできない。株主総会目あてに企画された映画だということは分かってやっていますから。しかしその中で、文字じゃなく映像だからこそ出来る個性的な自分のショットを作り出したい。そういう試行を積み重ねることによって自分の将来の映画哲学を作るんだという気持が僕にもありました。みんな似たりよったりでしょう。しかし、そこで観念的にならなかったのは、みんなの関わっているフィルムを徹底的に討論するという風だったからです。いわゆる新傾向の映画理論を持ち出すとか、巨匠作品を研究するといった風にはならなかった。要するに仲間の撮った良いラッシュがあれば、それをしゃぶり取る。それを酒の力を借りて…つまり、飲んだくれることでした。うまくいかない失敗のカットは当人たちが話題にしたければ聞くが、つまり、誰も下手なカットには興味がない。それは撮ったスタッフ自身が知っているわけですから。それより、何気ないカットでも、卓抜した触発力があれば、なぜだろう。何でそれが撮れたのか、キャメラマンと演出とどういうやりとりがあって、そうなったのか。いわば感応のレベルまで聞きたくなる。ですから酒なしではやってられない(笑)。自分の痛いところを切開するにも、アルコールの勢いを借りて。少なくとも僕はそうでした。

 僕はいまでも撮れたラッシュは誰にもみせて、「どう思う、やっぱりよくないか」などど意見を聞きたがるタチですが、昔気質の映画人は「スタッフ以外、ラッシュ試写 に入室を禁じる」みたいなことが不文律としてあったらしい。外部契約者のベテランたちはそんな気風を持っていましたが、若い、いわば横並びの水準の僕らにはむしろ滑稽でした。「青の会」の連中は、「誰それのラッシュが上がったぞ」という試写 室にはいって、みんなで見るのは当り前でしたね。だから、触発される映像を発見すると、みんなで興奮して、「これについて、今晩飲もうぜ」みたいになる。飲むには場が要ります。で、とうとう親しいバー「ナルシス」を破産寸前に追い込むまで入りびたってしまった(笑)。

 「青の会」が「会」かどうか、いまだに僕は不明瞭です。座長がいない。会則、会費もない。だれがなにを喋ってもいい。映画はスタッフワークですから、演出もキャメラマンも録音も編集者も現場の仲間はみんないました。

 当時、ある映画の学習会にも顔を出しました。各記録映画社の新進演出家や批評家が揃っていました。が、ゴダールとかアラン・レネがもっぱら批評の対象になって白熱化するんですが。これは僕には苦手でした。フーンと感心はしますが、そんな理論より彼ら、映画の作り手のフィルムを仲立ちにして、彼らと語りあえないものかと歯痒い気がしました。僕らの手の届かない人物や作品についての解説や映画論より、たとえば一緒に仕事しているキャメラマンの鈴木達夫のカットや黒木和雄、東陽一のモンタージュ論を聞き出す方が面 白い。助監督時代の小川紳介の独特の撮影現場の分析などは抱腹絶倒して聞きましたし、黒木和雄が自説をひっくり返して、アレヨアレヨというまにイメージが新展開していく、それが怖いほど葛藤した果 てですから疲れますが、夢中にさせてくれました。撮影の大津幸四郎、奥村祐治、田村正毅氏ら、録音の久保田幸雄氏ら、編集の加本悠利代さんなどが常連でした。まあ、そんな二、三年が、それぞれにとっての映画学校でしたね。

ジェロー その「青の会」のメンバーの、少なくとも演出家のかなりの部分が岩波映画から独立して、フリーとして映画を撮るようになったし、土本監督も『ある機関助士』とか『ドキュメント・路上』とかの優れたPR映画を撮ったあと、『留学生チュア・スイ・リン』を自分らで撮ることになりましたが、いわゆる自主製作映画の時代に入るには、それまでのPR映画への反発はあったんですか? やっと、ある程度、政治的な活動としての映画製作が出来るようになったんですか?

土本 前にも言いましたが、敗戦から映画に入るまで十年ほど映画とは無縁な生き方をしていました。大学の映画研究会やシナリオ研やシネクラブには関係なかった。しかし一観客としては独立プロ系の映画や政治的なフィルムはイヤっというほど見た方でしょう。戦後の一時期、イデオロギーがじつに明確で、そういう映画文体があって、「団結してガンバロウ」といったタイプの映画に食傷していました。そういうメッセージに帰納する映画には感応しなくなりましたが、政治そのもの、いまでもポリティックな考え方は持っています。しかし、それと映画表現とは別 、感性の領域の表現だと思っていますから。

 『留学生チュア・スイ・リン』の映画の場合、主人公の留学生は旧英領マラヤからの独立を願った普通 のアジア人学生だったし、かれを大学から追放した日本側は旧来のままのアジア蔑視ですから、政治抜きには語れません。しかし、撮っていて感動するのは、チュア君がカメラを巻き込むような魅力をもって自分を表現し、語るときです。

 僕は思い込みが強いから、例えば千葉大での集会の撮影現場で彼等の訴えたいものを勝手に予想し、期待します。それがでない時は、「こちらの予感がまた間違った」と思うことにして、もっぱら引いて周囲や後ろ姿などを撮りながら待つ、つきあいは続けるという風に。「予想や予感がくつがえされる面 白さ」をスタッフの合い言葉にしていますから、いつ、何を言い出しても、訴えたい何かと繋がっているでしょうから、その片言、呟き、小さい表情の変化を大事にした。

 これは僕の映画に全般的なことですが、映画になったとき、撮られた方が、「あれ、自分はこんなことを言ったっけ?」ということがままあります。かれの日常だけでは出て来ない、何かが表現される。日常の中の非日常というべきもの、嘘のない、作りものではない…映画はいわば被写 体とのキャメラ・スタッフの関係如何でしょう。

安井 『留学生チュア・スイ・リン』から『パルチザン前史』をつくられた頃、とくに僕が最初に学生の時みた 『パルチザン前史』には感動しました。盛り上がりがある。構成力のある人だなとおもいました。そういうものはどこから出てくるんでしょう。

土本 そうですね。やっぱり僕は対象に距離をおいた人間だと思っています。距離をおいてかつ絶大な関心を持つ、ということかもしれません。対象への共感はあっても、感情的共振はできないんです。『パルチザン前史』の場合、主人公たちは武装闘争に熱していますが、それを先ざき、本気でこの武装闘争を貫徹していけるだろうか、こちらは、否もまた在りと見ているんです。

 学生の危機意識から武装化へという時代の流れがありますよ、キューバ革命、ベトナム戦争、中国の文化大革命のただなかですから。学生の鬱積は現実に存在しているし、相手の暴力も見えている。だから彼等(京大パルチザン−ノンセクト)は真剣ですよ。そう思いますけど、このひとびとはどこに行くんだろうと思うから、フォーカスが寄ったり引いたりしているはずです。たとえば大学をバリケ−ドで堅め、武装を公然化して騒然としたシーンに、比叡山から俯瞰した古い町に一角に過ぎない京大の遠景を入れて見てみたりするわけです。僕自身の頭を冷やす意味でも。世の中は何も変わっていないし、観光客は喜んで学生のゲバを見ている。彼らはこれからどこに行くのか、その先のスペースを見せたかった。

ジェロー 映画の技術的な点の質問ですけれども、『パルチザン前史』の主人公の滝田とも半分の距離を置きながら、同時にその内部世界にも入っていくという両面 性が土本さんの映画のスタイルにある。他の映画でもアップをすごく上手く使いながら、インタビューのシーンで土本さん自身も入ったロングも撮っている。それは今の例と似ている現象でしょうか?

土本 そうですね、答えにならないかもしれませんが、僕は編集が好きです。その編集の場で自分の主観主義的な傾向に歯止めをかけるというか、自己批評の表現としてロングにしたくなるんです。インタビューの場合に僕自身が画面 に入るのも、いまどういう世界で、インタビューしているのか、何をしようとしているかを、客観的に見てもらいたいという心理が働きます。どうも、アップというのは好きですが、視覚的には暴力的な強制力がありますよね。それが映画の怖い所、変な言い方ですが、ファッショ的なものすら感じます。だからロングを使うことで批評的な視点に戻してみるのでしょうかね。逆にいえば、アップの魔力に引き込まれやすい自分自身の良くないクセを知っているからかも知れません。その編集の際を想定すると、現場で撮るときには、自分の立っている位 置をハッキリさせるロングを撮って置かないと、と思っています。

安井 小川プロとの関係について伺いたいのですが。どうして『パルチザン前史』は小川プロの製作ということになっているんですか。

土本 僕はずっとフリーですから。革命と暴力の主題を小川紳介氏とも話していました。で、小川プロでやらないかという話がでました。まだ水俣シリーズをやる前です。小川プロは三里塚の第一作を撮ったあと、そこで連作をしていたころですか。

 京大パルチザンは、京都、大阪が舞台ですから、関西小川プロの市山隆次氏が製作部をやってくれました。何かウズウズしているときでしたから、元気がでましたよ。

 感謝しています。

ジェロー 今年の山形映画祭で1970年代の土本典昭の水俣作品、小川紳介の三里塚を上映するんですけれど、岩波映画時代からの知り合いとして、どういう風に共通 点があり、どういう風にちがっていたんですか。

土本 それは人が指摘してくださることで、僕がいうことじゃない。

安井 お互いに意識しあったということはあるんじゃないでしょうか。むこうも作っているから、こっちも何かを作らないかんな、というような…。

土本 それは僕にはまったくないですね。

 小川紳介氏とは「青の会」の共通体験と、以後、数十年、映画について語りあったことが全てだった。ふたりで話をすると、かれがほとんど喋っていましたがね(笑)。

 敢えて、僕と彼との違いをいえば、彼も言っているように、僕はフリー契約者でいながら、岩波映画で演出の仕事が続いていました。彼とはもっぱら「青の会」でのつき合いで、現場を共にしたことはないんです。撮影現場での修羅場はお互いに知らないんです。

 僕は『ある機関助士』を作ってから、岩波映画との契約を切った。それまでにテレビ映画では十何本も作ったし、なにより瀬川さんや伊勢さんにも出会った。プロデューサーには絞られ、会計さんには清算を喧しく言われながら、結構、経験を積ませてもらった。しかし、小川紳介の場合は助監督のままで世に出た。「青の会」の熱気と、そのときの盟友奥村祐治氏や録音の久保田幸雄氏らとスタッフを組んで、いわば演出経験不足などは先刻承知の上で自主製作の道を切り開いた。僕とのハンデの違いは彼にも幾度も言われましたよ(笑)。

 かれの映画愛は本物ですよね。映画研究会、いわゆる熱い映研的雰囲気が死ぬまであった男ですね。それには感服しています。僕と違って映画もよく見たし。映画がなにより好きだった。僕には、彼の居るところはどこでも、たちまち映研的熱気が漂っているみたいに見えてね。三里塚だろうが、山形だろうが、ベルリン(映画祭)だろうが。だから岐阜の納骨式の席で「小川紳介はユニークにして、傑出した世界でたった一人の映研的作家だ」と申し上げた(笑)。

 ただ、作家には誰しも仲間への妬みやがないわけじゃない。僕も「ない」といったら嘘になる(笑)。しかし、ご質問のように、「あちらが作っているから、こちらも」、というような"ライバル気分"はあるわけがない。水俣の連作とその上映に追いまくられていましたから、とくに70年代は。

安井 その当時のことを振り返ると、小川プロと土本さんらの「水俣」の方と、いずれもスポンサーもなく、どうしてこう映画を作れるんだろうという"七不思議"みたいなものがありました。資金的な面 でも不思議ですが。

土本 資金作りの点では、高木隆太郎氏(プロデューサー)が本当に苦労した、力量 を超える資金繰りだったでしょう。なにしろ連作のように水俣の映画を作りましたからね。その借金は彼を永く苦しめたと思います。青林舎の代表は庄幸司郎氏に替わりましたが、いまでもにキレイに清算しきれてはいないでしょう。

 連作は水俣病事件の連続性がそれを規定したことは確かです。僕としては、長編第一作の『水俣−患者さんとその世界』で、言いたいことは言い尽くしたつもりでしたからね。これでいいと思っていました。しかし、水俣病の「医学的解明」がないという批判を世界各国で見た人たちから言われました。事実、裁判のただ中で製作したこの映画に医学界は非協力的でした。熊大医学部に膨大な学用フィルムがあることは分かっていても、門戸は堅く閉ざされていたんです。「裁判の動向に影響を与え兼ねない」という理由でね。

 1973年3月の水俣病裁判の判決以後、それまでの勢いの退潮は予感しました。気持としては退潮期にはむしろ逃げられないという自己呪縛がありましたね(笑)。幸い、高木氏が医学映画を作る強い意思があったのでつっ走ることができたんです。

 事実、医学の門戸が開いたのは、裁判判決が出て、患者の圧倒的勝訴になってからの一、二年の間でした。『医学としての水俣病−三部作』と『不知火海』は絶妙的なタイミングに恵まれて作ることが出来たんです。その構成と編集に二年間、四作品の同時並行製作でしたから、資金の回転は大変だった。高木氏は全国の医学大を行商して歩いたんですよ。しかし、思うようには売れない。苦戦につぐ苦戦でしたよ、彼は。

安井 あとお聞きしたいのは、水俣のフィルムをもって世界中持って回られましたね。作るだけじゃなくて見せる努力もかなりあると思いますが、それはどういう意図でやってこられたんですか?

土本 海外で発表したのは70年代始めのストックホルムの国連環境会議のときがはじめてでした。各国の環境運動の人に連れられて、ヨーロッパやモスクワまで行きました。

 それから75年頃、カナダの先住民(インディアン)のあいだにカナダ水俣病が発生したんで、現地のボランティアから緊急の要請があって行きました。カナダでは太平洋側のバンクーバーから、西の大西洋側のケベックまで「ミナマタ・フィルム・ツアー」として横断上映をしました。百数十日かかった。

 それというのも、当時の日本政府は、水俣病を日本の恥として、これらの映画を外国に紹介したがりませんでしたから。被害地の先住民や医学関係者、大学からカナダの州政府、大統領府にまで見せに行ったんです。まあ、先住民が白人からどう扱われているか、察しがつきましたから。水俣病患者も同病の弟に対する親愛の情をもって接してましたしね。水俣の対岸、天草や鹿児島の離島を百数十日かけて、水俣シリーズのスタッフと巡ったのも、意図は単純。そこに水俣病の患者がいっぱいいるのに、町村や漁協の圧力で上映会が出来そうにないと解ったからです。はじめは映画のスタッフでとは考えなかった。僕も映画を作りたい盛りでしたから、「この辺の上映は水俣の支援者でやってよ」と言いました。しかし、70年代は水俣病支援者はアカ、トロッキスト、暴力派とまで言われていたんです。僕も『パルチザン前史』の滝田修氏が潜行したりしていて、警察に家宅捜索を受けたりしたから、「暴力派監督」扱いですよ。

 しかし、映画をつくった連中が「一番見てほしいひとびとに機会を作りたい」といって、勝手に汚染地域の漁村を巡回上映するのは、誰も止められない筈、そう読んだんです。やってみるとやれるもんですね。四人でやりました、いまは監督の小池征人、彼はこんど山形映画祭のシンポジウムに出ますよね。それに『水からの速達』の西山正啓監督、あのキャメラマンの一之瀬正史君ですよ。

 上映しながら映画をストップして解説したり、冷や汗をかいたりして。

安井 何かで読んだんですが、なぜフィルムを停めるのか、疑問に思っていましたが。

土本 気をつけたつもりでも、やはり都会的モンタージュというか、テンポが早くて、自分でも焦ったんです。漁村で情報のない人たちが一番気にしているのは、水俣病は伝染病や遺伝病じゃないか、です。「水俣病の家族には嫁に行くな、嫁をもらうな」という、いわゆる深刻な問題がありましたからね。

 映画はだれが見てもわかるように作る。これは常識ですよ。しかし、一番見て貰いたいひとびとを目の前にすると、さらに念を押しておきたい衝動に駆られるんです。そこではこの一回しか上映の機会がありそうもないですからね。そのストップする箇所は決まってました。胎児性水俣病患者の発生の解明に有力だったネズミの実験のカットなんです。水俣病は毒物中毒ですからバイキンのように伝染はしないんですが、これも伝染病と誤解されている。まして、胎児性患者の発生は悪性遺伝として、差別 の一番の根拠にされているんです。母親が妊娠中に水銀に汚染されたサカナを食べたから胎児に発症したのであって、遺伝ではないと映画では言っているんですが、そのテンポが早く思えて、停めて、スライド説明のように、指さして反復するわけです。これが受けたんです。この巡回上映で8000人以上見せ、そこから千人単位 の患者の申請者が出て、いまも問題が残ったまま…というわけなんです。

 でも考えれば、映画の作り手が自分の映画を停めるのは情けない、冷や汗がでる話ですよ。しかし、その上映現場に立ち返れば、そうして良かったと今でも思います。

安井 では、来年、「水俣・東京展」が開かれるというんですが。その辺を。

土本 来年は水俣病公式発見から40年の節目なんです。そこで一人ひとりにとって「水俣病は何であったか」を考える機会を持ちたいということですけれど、僕の今しているのは「総死者数千百何人」と数字でしか分かっていない犠牲者の遺影を集めて、水俣病の死者一人ひとりの顔を並べようということで…。この仕事は映画ではないですが、究極の主題にぶつかることにはなるだろうと思っています。

 遺族は毎日、陰膳を供えて供養している、家毎の弔い方はよく分かりましたよ。しかし、社会的にどう弔うか、いわば、惨事をどう記憶に刻むかでしょう。だから水俣・東京展では「記憶といのり」のコーナーを設けることにしたんです。収集・複写 に一年を予定してます。十月の山形映画祭のころは、最終段階で離島を回っていますので、残念ながら行けなくなってしまいました。

 水俣病の映画は「見せたら、それで済むのか」という気がしてね。例えば、今の水俣はどうなっているのか。それは知らせないとね。これは水俣・東京展の準備をしているみんなも分かっていますから、遺影、数百人分の展示は重視してくれています。

 僕の水俣病への入り口は、こんなことがあっていいのかというチッソへの怒り、まして漁民をみすみす見殺しにした政府への憎悪、体制べったりの医学、社会的差別 への憎しみでしたよ。やはり水俣の再生から新展開までには、少なくともあと半世紀はかかるでしょう。水俣・東京展はそのステップにしたいと思います。

 30年前に見た水俣の原風景は映像でしか残っていない。高度成長期の裏側で起きた見殺しの惨劇事件ですが、その後40年、皮肉にも、外見上、ここにも高度成長の華やかさが覆ってきていますよ。「水俣病は見えなくなった」っていうのはそのことです。

 僕は遺影の群像展示が、いわば「原色の水俣病事件」だと思う。この十か月、水俣病の被害者の戸別 訪問して、普通の写真機で遺影写真を複写しているところなんです。いまのところ、数百人近い肖像のコピーを済ませました。

 アウシュビッツにせよ沖縄にせよ、人間の愚行の残し方、記憶の残し方に遺影写 真の展示がひとつの流れになりました。昔は文字と絵でしかなかった。これが二十世紀が映像の世紀と言われる所以でしょう。水俣・東京展では、作家や絵描きや写 真家も加わり、医学、科学、社会科学から演劇・芸能から物産展までやるつもりです。多分、中身のある展覧会になると思います。

 ところで、遺影集めは精神的にストレスの溜まる仕事です。だから、むしょうにいわゆるムービーが撮りたくなります。もうビデオで三十時間分ほど撮ったでしょうか。撮影は深呼吸できる気がして、気分転換にとてもいい。今、ここ(水俣の宿の部屋)にビデオカメラが三台あるんです。ときどき、「水俣日記」風に回しています。映画にするつもりではなくビデオ日記かな。キャメラマンになりたかった思いを今晴らしているのか(笑)。しかし、インタビュー撮影はひとりでは難しい。

ジェロー でも結構そういう若い監督がでてきましたよ。自分でカメラを回しながらインタビューする人はいるんですけれど。

土本 メカが進歩して、ひとりで撮れるのはビデオの便利なところですが、これが不安の種、困っているんです。とくにキャメラマンが欲しいのはインタビュー撮影の時です。相手にインタビューして、佳境に入ったときは、カメラで撮っていたくないんです。相手と僕との間に感応の糸みたいなものが出始める。そうなるとサイズや焦点に構っている神経がどっかへ行ってしまうんです。レンズを通 すとやたらズームしたり、話に身は入らなくなる、当り前ですけど。キャメラマンが居れば、相手を確実にとらえられる。僕が問題の核心に入ったときにキャメラマンは寄ってくれるはずです。あるいはサインを送るだけでいい。気が散りません。しかしカメラを回しながらでは、佳境が壊れていきそうで怖いんです。インタビューの中身についての僕の発見と、キャメラマンのレンズ上の発見とシンクロしたら最高ですから。それに距離をおくというスタンスの取りかたが、ひとりでは難しい。ついフレームの世界に没入してしまうからでしょう。写 真と違って、動きも音もある映画には複数のスタッフが要るということを、改めて再確認する日々です(笑)。

ジェロー キャメラより、もうちょっと身近かな位置でインタビューしたいということですか。

土本 僕の場合、インタビューする神経と撮影する神経とはどうも別ものみたい、分裂してしまうんです。これは頭脳の構造がもともとそうなっているんではないかと疑うほど、悩んでいます。差しの、じかのインタビューならではの発見がありますよ。その発見と撮影の集中力とが一致するのは難しい。もし、インタビューしながら、自在なキャメワークができたらいいんですけど、僕には出来ません。

 今度、遺影収集が一段落して、水俣日記を本格的に映画にする時には、スタッフを組んで再出発します。懐かしいキャメラマンたちと組んで。

 


土本典昭


1928年岐阜県土岐生まれ。小学校年のとき東京へ移転。46年、早稲田大学へ入り日本共産党に入党。52年、武装革命を目指す山村工作隊の隊員として小河山に行くが逮捕される。54年日中友好協会に入る。岩波映画の重役・吉野馨治のつてで、56年岩波映画製作所に入るが、一年でフリーとなり主に羽仁進の作品につく。61年頃から制作スタッフが集い「青の会」を作る。岩波映画でテレビ用の作品を作ったが、映画での処女作は『ある機関助士』62年。以降『ドキュメント路上』(63年)、『留学生チュア・スイ・リン』(65年)(3本とも山形映画祭'93で上映)と、独自のドキュメンタリーの世界を開拓。小川プロ制作の『パルチザン前史』(69年)で全共闘運動に終焉に向き合い、続いて『水俣−患者さんとその世界』(71年)を始めとした水俣病に関する多くの作品を発表。『よみがえれカレーズ』(山形映画祭'89で上映)などに一貫した弱者の立場から発言し続けている。現在、未来の「水俣・東京展」のため水俣に滞在、患者の遺影を集めている。最近の著書は「されど、海・存亡のオホーツク」。