english
日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 22 松村禎三(2/2)

7. 黒木和雄監督とのパートナーシップの始まり

北小路:黒木さんの『海壁』(1959)はクレジットを見ると数人の名前がずらっと並んで入っていますね。

松村:これは池野成さんがはじめ岩波映画から受けられた仕事でした。池野さんは舞踊の曲を書いた直後で疲労困憊だったので、「だれかが手伝ってもいいか」と聞いたら、岩波も「いい」と言うので、伊福部門下の仲間、小杉太一郎、三木稔、原田甫と池野と私の5人でやろうってことになった。ただその時にだれがどこを書いたのかというのはいっさい秘密にして、向こうに知らせないようにしてやろうということになりまして、後で渋谷の薄暗いところでお金を分けたりして、楽しかったですよ。

北小路:『海壁』を作っていた頃はPR映画とか記録映画の位置づけが今よりずっと大きな時代だった。そんななかで黒木さんは岩波映画でそれまで作られてきたものとは別のものを作ろうという野心のあった方だと思うのですが、この時はどんな打ち合わせがなされたのでしょうか?

松村:黒木さんと高村武次さんという『佐久間ダム』(1954)などを監督されている先生もなぜか心配でついて来られて、こちらは5人でボソボソっと。だれかが代表して「こうじゃないですか」と言ったりしました。

 黒木さんは自分の持っているイメージをバババッと言うことはしない。むしろなにも持っていないような振りをするんです。しょうがないから何かを提示するでしょ。それに対して自分のイメージと違う時は、ずいぶん相手を傷つけるような言いまわしで「NO」と言うんですよ。あれは本当に頭にくるんですけど、しかしなぜかそれでみんなが不思議に力を出すようになっていくんですね。『祭りの準備』(1975)のタイトルの音が出た時はブースのなかで両手いっぱいOKのサインをもらいました。そういう時もありました。

北小路:これ以降、ドキュメンタリー映画の仕事が入るようになってきますね。『海壁』の続編である『ルポルタージュ・炎』(1960)が作られて、今度は松村さんが単独で音楽を担当されています。作品としても、より大胆というか、かなりの部分がさきほど名前のあがった『佐久間ダム』のようないわゆるPR映画とは違うものになっていった。ナレーションひとつとっても、たんに説明するためにあるのではなく『海壁』だったら飯島耕一さんのような詩人が文章を書いていたりする。それまでのPR映画や記録映画と違うものにするという、黒木さんの模索のなかで、そうしたナレーションも含めたサウンドの部分が大きな比重を占めるし、音楽面でも野心的な方だったと思うのですが。これは黒木さんも書いておられますが、『ルポルタージュ・炎』でいえば、とりわけ最後の数分間のジャズ風の音楽が圧巻で、それこそ“地球上で一番大きな音”を響かせようとする意志を感じるのですが(笑)。

松村:あれは『クリプトガム(陰花植物)』という僕の作品の一楽章なんです。そのまんまのっけたら、ピッタリあった。「この音楽のために映画を作ったみたいで忌々しい」って黒木さんは怒っていました(笑)。

8. ドキュメンタリー映画音楽と劇映画音楽

北小路:ドキュメンタリー映画の音楽を作ることの面白さを言葉にするとしたらどんなふうになるのでしょうか? 劇映画との違いとか。

松村:人間をドキュメントする場合と建設工事なんかをドキュメントする時と、対象によってぜんぜん違うと思います。たとえば火力発電所などのドキュメントだと、音楽というひとつのものを置いてさしあげればいいだけで、方向性というものはなかった。人間の場合は『あるマラソンランナーの記録』(1964、音楽:池野成)だとか、そういう場合はメンタルな音楽に変わっていくのだと思いました。場合によっていろいろありますけど。僕はわりに発電所みたいなものが多かったものですから、そういう時にうんとオーケストラの勉強をしました。劇映画よりも思い切ってやれたわけです。

北小路:繰り返しになりますが、たしかに『ルポルタージュ・炎』も耳に焼きつく音楽でしたし、黒木さんもものすごく感動されて、松村さんとのパートナーシップが始まりますね、1962年に『わが愛北海道』という作品があります。これは黒木さんも説明されていますけど、当時アラン・レネの映画に影響を受けて、『炎』とはまた別の意味で既存のPR映画とだいぶ違う作りになっています。男性が旅をして北海道で女性と出会うという設定になっていて、かなり劇映画に近い雰囲気ですね。あの映画の音楽は舞台が北海道ということでかなり意識して北海道の民謡調の音階などを使われていたように思いますが。

松村:そうですね。そのような音階をいれました。太い大地を感じさせるようなね。あの音楽に到達するまで打ち合わせを1カ月やりました。ちょうど岩波映画で鰊御殿のラブシーンをどうしようかってもめていたんです。(全裸の2人が抱き合うラブシーンは結局、会社側の横槍でカットされた)フィルムが仕上がってから音楽を録音するまで時間がかせげたので、その間何回となく打ち合わせをしました。黒木さんは劇映画のような音楽を欲していました。台本を書いた清水邦夫さんも録音を聞きに来てくれて、感激してくれていました。

北小路:黒木作品では次に『とべない沈黙』(1966)が来て、さらに『キューバの恋人』(1969)へと続きますが、『とべない沈黙』は岩波をやめられた黒木さんが最初にとりくむ劇映画として企画されたものだったのですが、音楽に関してなにか特別なやり取りはありましたか?

松村:それはもう「“愛の音楽”を書いてほしい」ということでした。その一言に尽きるようなことを言ってられました。メロディが浮かんだので黒木さんと録音の加藤一郎さんが、それを聞きに私の家に来られたんですよ。はじめはふたりとも、とても喜んでくれました。鈴木達夫さんのカメラが本当にすばらしくて、どんな音楽をかけてもあう。僕は愛のメロディと言われたので書いてみて、それはもちろんあうのだろうけど、もうひとひねり考えたかったから白紙に戻して可能性を考えたいという意味で、「雅楽だってあうかもしれないし」と言ったら、加藤さんと黒木さんがびやーと怒って立ち上がって、ふたりとも帰っちゃった。本当によくケンカしました。僕は大まじめで言ったつもりだったんですけど、「冗談じゃない」って、なんかカンに障ったらしくて。

北小路:みなさん、まだ血気盛んな若者だった(笑)。私たち観客として見る側からしても鈴木さんのカメラワークはすごく自由で面白いのですが、音楽家の観点から見ると、なんでも入れられそうなかんじになるのでしょうか。

松村:やっぱりいい画のほうが音楽は自由になる部分が大きい。映画が弱いところがあるとそれを助けなきゃいけないというふうにね。

北小路:次に『キューバの恋人』ですが、本当は松村さんもキューバに行くはずが行けなくなってしまったというエピソードが有名です(笑)。この映画を見てあらためて実感することですが、キューバという国には音楽が溢れかえっている。たとえばみんなでサトウキビを切ったりしているところとか労働者がトラックに乗って移動するところとか、とにかくみんなが歌を歌っている。そういう音楽的な要素があの映画でも重要になってきていると思うんです。加藤さんの録ってきたものや鈴木さんが撮影してきたフィルムが日本に持ち帰られ、松村さんがそれに音楽をつけるという作業に入りますよね。その時にはどうでしたか? 主題的にそして現実的に非常にはっきりとキューバの音楽がそこに溢れかえっているという前提がある場合、それに音楽をつける作業は逆に難しいものなのですか、それともやりやすいものなのですか?

松村:キューバの音楽で全編いくっていうのもあると思いますよ。たとえば熊井さんの『深い河』(1995)の仕事をやった時も同じ問題がありましたよ。インドの音楽で全編いくかぜんぜん違うものにするか、可能性として2通りあるだろうと思いますね。キューバへ行けなかったから、ああいうふうに…それは短絡した推論です。なんでかああなりましたね。それがよかったか悪かったか、どうだろう。違う方がされたら全編キューバの強烈な音楽にして、『黒いオルフェ』(1959、マルセル・カミュ監督)みたいなね、ああいう映画ができあがったかもしれない。

北小路:黒木さんもおっしゃってますけど、キューバの音楽と松村さんのつけられた音楽が対照的でいいかたちになっていたと思いますが。

松村:バランスですかね。

北小路:当時キューバの音楽をお聞きになった時はどうでしたか?

松村:魅力を感じていましたね。

北小路:じゃあ、本当にキューバに行っていたら違った展開もあったかもしれませんね。

松村:土本典昭さんが悪い。「松村さんがキューバに行かれる分のお金もちゃんととってありますから」って、でも僕に断りもしないでプロデューサーを降りちゃったんですよ(笑)。いまだに怒っているんです。

9. 一番感動したドキュメンタリー映画

松村:『ぼくのなかの夜と朝』(1971、柳澤壽男監督)という作品。僕がこれまでで一番感動したドキュメンタリーですね。

北小路:実は僕も以前に見ていたのですが、最近VHSで改めて音楽の視点から見てみました。音楽面でも面白い試みがいっぱいある作品だなと感じましたね。

松村:筋萎縮症の子どもたちのベッドスクールの記録です。いろいろ忘れられないシーンがあってね…心に残るんです。最後のシーンで撮られる側の子どもたちがつばを吐きかけるでしょ。撮ったって身代わりになれるわけじゃないし、なにひとつ変えられない。なんのために撮るのかって。

北小路:普通に歩けなくなってしまった子どもたちが装置を足につけて、痛々しげに歩いているのですが、そのギクシャクしたリズムに合わせるように音楽がサーっと入っていく、といったかたちで映画がはじまっていましたね。その辺りは少しギクッとする部分も孕んだ緊張感のある音楽なのですが、その一方でとてもやさしい音楽も入っていました。特にあの男の子の歌とか。

松村:「僕が鳥になったら」ですね。同じ病気の少年が書いた詩があって、僕が曲をつけ、皆川おさむさんが歌ってくれました。小さい男の子と母親が病院に行って、ある時間そこで一緒に時を過ごし、知らない間に母親がいなくなっている。生涯の別れなのです。子どもがひとり残されて、玄関へ走り出て泣いているシーン。あれは忘れられないですね。

北小路:木琴とかを使った子どもらしい音楽などもありましたね。

松村:最近はじめのほうの曲をピアノ曲にしました。僕は自分の演奏会用の作品を映画に使うということはよくやるんですけれど、逆に映画のモチーフを作品に使うことはあまりないんです。あの子どもたちが歩いている時の曲で『巡礼 ― III』というのを書いています。

北小路:それはやはりあの映画音楽に思い入れがあった、ということでしょうね。子どもたちが体操しているシーンがあって、体中が痛いので体操というのは彼らにとって拷問に近いものですが、それでも動かさなければだんだん衰えていくのでやらなくてはならない。あのシーンで男の子が一瞬不自由な体から解放されてダンスをしているように見えました。あの時の音楽もすごくよくて、映画全体として映像と音楽が相乗効果をあげています。松村さんが好きな作品だというのも納得できますね。

松村:いや、好きというより、むしろ、つらくてもう見たくないぐらいです。

10. 熊井啓監督との共同作業と音楽的実験

北小路:少し話は戻りまして熊井啓さんのことをお聞きしないわけにはいかないと思うのですが、最初の映画音楽の仕事で脚本家としての熊井さんにお会いになられている。その後具体的に熊井監督作品で松村さんが音楽を担当されたのは井上光晴さん原作の『地の群れ』ということになり、1970年の作品です。これ以降長く仕事を一緒にされているわけですけど、熊井さんとはどんなふうに仕事が進んでいくのですか?

松村:『地の群れ』は僕の仕事のなかでもとても印象が強いものです。長崎が舞台で被爆者の部落差別の話で、とにかく強烈でした。ソプラノの高い音をピーっとだして、それをループして始めから流し続けたわけです。タイトルが終わって画がフェイドアウトして次のファーストシーンまでその音がこぼれるということは、やったことがないって言うんですよね。映画のグラマーとしてそれはありえないと。でも、そこで僕はぜったいやったほうがいいと主張しました。大音量でそれをやって、結果的によかったということになったんです。原爆の手鞠歌みたいなものがありまして、「4月長崎、花のまち。8月長崎、灰のまち」と歌う。主人公の少年のお母さんとの本当に美しいシーンでした。最後に全員が殺しあう時に、少年が参加して石を投げる。石を拾い上げる時にその歌をもういっぺん流したんです。そしたら「ガンガン音がするなかで、そんな歌が聞こえるはずがない」って録音の太田六敏さんとケンカになりました。「ぜったいこの歌でやる!」と言って、それが無事に入り、それは決定的でした。仕事としても印象的な仕事でしたけれども、うちの家内が日活撮影所の初号試写を見に来て、見た帰りに堤防の上で車が止まって動かないんです、泣いちゃって。それくらいのインパクトはありましたね。

北小路:そんな具合に録音の方との議論になった場合、松村さん自身が説得されたのですか? それとも熊井さんがなにか言ったりとか。

松村:もちろん僕と録音の人とで話すんですけれど、熊井さんはそういう時にだまっていたと思います。おそらく僕の言うことが実験されることを期待していたのでしょう。ものすごく謙虚な人でね。僕の思っていることや言おうとしていることに対してかならず耳を傾ける。もちろん反対されることもあるけど、かならず1回は聞いていた。全面的に信頼していてくれて、僕が出すものに関しては忍耐強く受け入れて理解してくださっていました。

北小路:『地の群れ』は、熊井さんが日活を離れてから最初の作品ですね。確かに日活という会社それ自体が崩壊していく過程にあったということでもあるのですが、熊井さんとしても「会社の束縛を受けずにやりたいことをやるぞ」という決意で独立されたのだと思います。映画史的に考えてみると、スタジオや映画会社が歴然とあってそのなかで育てられた監督たちが映画を作るという体制が崩壊していく時代を背景にして、松村さんのお仕事が展開されていくように思えます。たとえば伊福部さんはそうした体制が歴然とあった時代の方ですし、黛敏郎さんなどにしても、たしかに個性的な音楽をつけられましたけど、映画の制度がきちんと存続している時に、ちょっとそれに異化効果をもたらすようなかたちの音楽だったと思うのです。他方、松村さんは映画界が激変した60年代末から70年代にとてもすばらしい仕事をされている。松村さんご自身としてはあまりそういったことを意識されるようなことはなかったのでしょうか?

松村:ぜんぜんと言っていいくらいないですね。ただ、そうだな、いわゆる5社からの仕事は意外にないなと思っていました。独立したところとか、ATGとか、予算のないようなところからが多いなと思いました(笑)。でも、ありがたいことに、やりがいのある仕事が多かったですよ。

北小路:熊井さんとの仕事でその後特に印象に残っている作品はありますか?

松村:それはいくつもありますが、なかで1本というと『千利休 本覺坊遺文』(1989)ですね。この映画はかなり質の高い映画だと思います。当時、利休の映画は2本作られて、もうひとつのほうを見た人が多いと思いますが、比べものにならないですよ。この映画に対してはわりに強い思いを持っています。茶道というもの、四季を通じて脈打っているものがありますよね。なんというか、茶道を求める人たちは肉体的でもあるんですよ、抽象的でもあるし。一般的に思われているものや、日常的にある茶道とは違うし、あの映画のなかでしかないものもあります。メタフィジックというのかな。それでいながら肉体感があるから、急所でヴァイブレーションが起こるのです。エンディングもすごく美しいと思っています。愛着がありますね。

北小路:黒木さんの映画で僕がすごく好きなのが『竜馬暗殺』(1974)なんですけれど、あの映画の音楽も肉体を感じさせるようなパーカッションを多用した音楽でしたね。

松村:あー、すばらしいですね。また違う肉体感ですね。

北小路:映画のなかで通奏低音のように響く「ええじゃないか、ええじゃないか」という群集の狂乱的な乱舞と松村さんの音楽が相乗効果をもたらしていましたね。その点、やはり肉体的なキューバ音楽に溢れた『キューバの恋人』の時とはまた別のアプローチを採用されていたように思います。幕末ものといっても、NHK的な大河ドラマではなくて、エネルギッシュで肉体がテーマだと言ってもいいような映画でしたね。

11. 映画音楽のない映画

北小路:では締めくくりに向かいつつ、黒木さんとの最近の仕事についてもう少しうかがいたいのですが、ブランクを経て黒木さんが復活されて以降の、ここ3作でも音楽を担当されていますね。実はちょうど昨日『父と暮せば』(2004)を見てきたのですが、かなり音楽が重要な役割を果たす映画でしたね。もとの芝居にも音楽があったと思いますが、それとは別にあの音楽をつけられたということですね?

松村:そうですね。

北小路:『TOMORROW/明日』(1988)、『美しい夏、キリシマ』(2003)、そして今回の『父と暮せば』。松村さんは黒木さんと同世代で、戦争への思いもかなりの部分共有しながら仕事をされていると想像するのですが、『TOMORROW』は長崎の原爆投下寸前の1日の話で、どこからともなく女性の歌が聞こえてくるシーンが印象に残っていて、女性の歌声は『キリシマ』でも流れていましたね。

松村:『TOMORROW』では狂った年輩の未亡人が歌っている、遠くに聞こえてくる子守唄ですよね。それは黒木さんの好みで入れました。むしろ黒木さんの指定でした。次の『キリシマ』にも出てきます。『TOMORROW』と同じものです。あれこそ、もう一度出したいということで。

北小路:黒木さんとは長年仕事をされてきてますから、もうかなりの時間黒木さんとは話され、気持ちもわかるというかんじもあると思うのですが。

松村:はじめの頃は「雑談をしましょう」とよく言っていましたが、最近はあまり話し合いはしないですね。ラッシュを見たら「では、さようなら」って。なんていうか、変な人だなと思いながら、でも向こうが「さようなら」って言うんだから「それでも」と言うわけにもいかないですよね。

北小路:『キリシマ』は特に音楽を切り詰めて作られているかんじでした。だからこそあの歌が響くというか、印象に残りますね。

松村:また録音の久保田幸雄さんという方はすごい人ですね。なんでもない、人が気がつかないようなところにすごくいい音を使ってね。その音をつかまえるのに大変な苦労をしていらっしゃる。若い頃の私は、「この音楽は松村禎三、この音楽は松村禎三」っていろんなところで大演説ぶつような気持ちで音楽を入れていたんです。ところが今は本当にいい映画の場合は、「音楽なんてあったかな、どんなふうだったんだろうな」って思われるような入り方でやるのがよりいいんじゃないかって思っています。ただ影が薄ければいいってものではないし、必要な時には表に出なきゃいけないのはもちろんですし、音楽が入ることによってさらに深い違った次元が展けてくることはもちろんあるのですけれど…。音楽がほとんどないので僕の印象に残っているのはフランスの裁判の映画でアンドレ・カイヤットの『裁きは終りぬ』(1950)。エンディングも音楽なしで、「有罪、有罪」って少年が夕刊を売るその声で終わっている。なかで陪審員のひとりが夜ダンスホールに行って、ダンスする時、そこで屁の抜けたような音楽がプーって鳴ってそれっきりですよ。「ああいう仕事やりたいな」って山田洋次さんに言ったら「そんな楽はさせません」って言われた。でも、気持ちいいですね。『十二人の怒れる男』(1957、シドニー・ルメット監督)もそう。

北小路:映画音楽を作っていらっしゃる松村さんが、逆説的に映画音楽のない映画というものをどこか求めていらっしゃるということでしょうか。

松村:映画でドラマがあったら、なんで音楽がそこに割り込んでいって説明しなくちゃいけないのか?といつも思います。説明するというのは最低ですよ。そこに入り込むことでなにか表現するのだろうけど、映像だけだとうまくいかないから音楽が助けろなんて、つまらないですよね。時間芸術だからリズムとか弾みとかそういうものを作るもので、いろんな場合がありうるけれども、常になんで音楽が入るんだ、ここで入らなくてもいいんじゃないかっていう疑問と、そこであえて入れてしまうことに対する恐怖というのをずっと持ち続けていましたよ。記録映画のなかで時にひどいのは、「ここからここまで音楽で、ここは現実音でいきます」って、正反対の入れ方も成り立つんです。なんでそういう割り方をするのかって言ったら、現実音ばかりや音楽がずっと続いたら聴覚的にくたびれてもたないから割り振りしましょうと。流れを作るという意味ではひとつの方法なのでしょうが。映画における音楽の入り方は本当にいろいろあり、入ることの意味というのは難しいですね。

北小路:映画の場合、当然ながら曲がいいということだけではなくて、そういうタイミングとかリズムを作っていくということが大きいですね。

松村:そうですね。なんともいえない芸ですよね。ミキシングの最後の段階では録音の久保田さんたちとの厳しい二人三脚になりますよ。息詰まる思いの時もあります。

12. 映画に音楽をつけることは恐怖と紙一重

北小路:いろんな角度からお話をうかがってきましたが、音楽家松村禎三にとって映画音楽はなくてはならないものでしょうか?

松村:やっぱり何人かのそれぞれ自分の世界を持った監督さんたちと表現のギリギリの世界で出会ってきたことは、得難い体験でしたよ。映画の仕事をやってきてよかったとつくづく思ってます。録音の前の日に舞い上がっちゃってね、間に合うかどうかわからないで、心臓がばくばくする思いっていうのはしょっちゅうありましたがね…。ラッシュを何度も見るんです。最近ありがたいことにビデオというのができて、ビデオはフィルムと時間のズレがぜんぜんない。だからそれを持って帰ってラッシュをいやというほど見ます。エジソンが電球を発明する時、タングステンを見つける前になにがいい材料かわからなくて、奥さんの扇子の竹かなんかを燃やしてみるみたいに、なんでもかんでもあてて実験してみるんです。三國連太郎さんだったら…なんにもあわないです、あの人は。なにやってもあわない。苦しまぎれに他人の三枝成章さんの『優駿 ORACION』(1988、杉田成道監督)の音まで質感の実験にあててみたりしました。『息子』(1991、山田洋次監督)の時ですね。やっとあった音はなんだと思いますか、ピアノの音。ピアノの高い音なんですよ。とうてい普通じゃ思いつかないですけれど、あててみるという実験をするとわかることでして、本当に不思議なことです。

北小路:三國さんという存在にあう音がなかったとは?

松村:三國さんという方は大変な方ですね、存在感があってね。へなちょこな音を書いたってはね返されちゃう。『息子』とほとんど同時に、熊井啓さんの『ひかりごけ』(1992)でも一緒に仕事をしたのですが大変な手応えでした。話は変わりますが、伊福部先生は『長顔賛(ちょうばんさん)』という文章を新聞に載せられたことがありました。長い顔を称えるという。長い顔の俳優さんには音楽がつきやすい。月形龍之介だとかああいう顔がグっとやると音楽がジャンってきまる。丸顔だとうまくのらないって。伊福部先生はふざけてそんなことを言っておられた。

北小路:基本的にはどんな音楽でもつけられる、だからこそ作曲家として面白い部分があるわけでしょうが…。

松村:その自由を獲得するのがなかなか難しい。恐怖と紙一重ですから。度胸がいります。大きなお金を使って、命がけでやっていて、最後音楽家に任せるんだから、彼らも必死の思いでやっている。「うっかりしたことをやりやがったら殺しちゃうぞ」ってかんじですよね。黒木さんなんかとあんまり話さないのは、慣れ親しんだらおしまいだということが、お互いあるんですよ。「ああやって、これやって」「ああ、あれか」なんていうようだったら、もう終わりですよ。常に“男子三日会わざれば、刮目してこれを待つべし”ですね。

北小路:映画の仕事でいろいろと身体的に無理をなさってきたこととは思いますが、それでも私たちとしては、お体に充分配慮いただきながらこれからもすばらしい映画音楽をつくっていただけるよう願わずにいられません。今日は長い時間ありがとうございました。

(2004年8月2日、松村禎三氏宅にて)

 


北小路隆志 Kitakoji Takashi

映画評論家、大学非常勤講師、東京国立近代美術館フィルムセンター客員研究員。共著に『映画の政治学』、『アモス・ギタイ イスラエル/映像/ディアスポラ』、共編著に『《社会派シネマ》の戦い方』他。

[戻る]