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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 21 松川八洲雄(2/2)

4. 『ヒロシマ・原爆の記録』

日向寺:『ヒロシマ・原爆の記録』(1970)についてお話を伺いたいと思います。秒針のリズムに合わせて多くの遺影が映し出され、赤ちゃんの写真からカメラが引くとフレームいっぱいに写真が広がっている。この印象的なファーストシーンからは、広島にいた人間を抽象的な数に置き換えてはいけないという思いが受け取れます。松川さんと広島はどういう繋がりがあったんですか。

松川:死んだ妻が広島出身だったのね。結婚の了承をとりに行ったのが初めてで、2回目は取材の途中、立ち寄りました。新幹線のない時代でしたから、遠くてね、川沿いの住宅群にもまだ戦後の匂いが残っていました。その時、広島平和記念資料館で見た遺留品は想像力を刺激しましたね。レネの『夜と霧』を思い出しました。それからいまだに公表してないし、映画にもなっていませんけど、『ひろしまのことわざ』という劇映画のシナリオも書いていました。とはいってもね、本当に青天の霹靂のように、突然この映画の話があって、30何歳かな、39か。僕としては最も活きのいい歳であると同時に仲間も同じ活きのいい奴がわんさといたはずですよね。黒木(和雄)あり、土本(典昭)あり、松本(俊夫)あり、東(陽一)ありだね。とにかくこれは大変な緊張で、月並みな答えを出すわけにはいくまいとまちがいなく僕は思ったんだよね。1945年の9月、敗戦からわずか1カ月後でしょ、その混乱の中で、広島、長崎の被災状況を記録した先輩映画人たちへの敬意もありましたからね。旧日映プロデューサーの加納竜一さんをはじめ、奥山大六郎、相原秀二、伊藤寿恵男、鈴木喜代治、三木茂、山中真男さんたちね。もしこの時撮影されていなかったら、アメリカ側の記録しか残らなかったんだから。やはりアメリカ側は10月末に撮影を禁じてフィルムは没収されました。けれども、この人たちは密かにフィルムをコピーしておいたんですよ。それと、1970年の4月にアメリカで作られた原爆についてのドキュメンタリーがテレビで放映されたんですね。飛来するB29、たちのぼるキノコ雲などをはじめとして、数あるニューズリールから適当に探し出して使っているんです。つまり、広島に飛来したB29ではないし、広島のキノコ雲ではないんだよ。この映画的ウソにとても腹が立ったのね。

日向寺:『ヒロシマ・原爆の記録』では、原爆が爆発するシーンを赤い玉とパノラマ模型で表していますね。

松川:僕は馬鹿みたいな事実主義でいこうと思ったの。その馬鹿みたいな事実主義を貫くことが、当時撮影したスタッフに対するね、礼儀だろうと。アウシュビッツとともに、大きく歴史に残る出来事ですから。

日向寺:この映画は被爆後の広島を撮影した記録フィルムと1970年当時の広島、遺留品、スチール写真などで構成されていますね。特に印象的なのは、救護病院として使われた小学校で、手当てを受ける子どもと現在の校庭で遊ぶ子どもたちとのカットバックです。このように元気に遊べたかもしれない当時の子どもたちの悲惨さが増していますね。

松川:コラージュってあるでしょ。立体主義絵画の手法のひとつで、画面に新聞や布地、印刷物などの既製品を貼り付けたりしたものですね。これは、カンヴァスという絵画空間の中に、極めて日常的な朝の食卓やオフィスとつながる新聞紙のもつ時空間や、衣服やカーテンなどの時空間を持ち込むことによって、その境界をぼかすのではなくて、異質なものがぶつかり合う衝撃から生じる異化作用の効果を意図したものです。さっき話したアメリカのドキュメンタリーが異質なもののつながりをぼやかして、ひとつの“映画的”時空間に収斂しようとしたのに対して、異質なものの衝突の生む異化効果こそ、核への想像力を喚起するに違いないと確信したんです。ただ、映画青年の“実験”映画にならないように気をつけました。そしてこの映画では徹底的に“カメラマン”にこだわりました。「学術調査団と共にやってきた5台のカメラが撮影を始めた」と映像とコメントでふれるように、この映画の映像の背後には100パーセント、カメラマンの目が存在します。多くの場合はその存在を隠すのが常でしたが、この映画では忘れることを許しませんでした。このカメラマンの存在に支えられた“事実証明”はこの映画の愚直な“真実”となっていたと思います。

5. 『不安な質問』

日向寺:『不安な質問』(1979)は、自分がまともな食物を食べていないのではないかということに気づいた都市生活者たちが農場を作り、たまごの会というグループを作る。その活動を描いたものですが、食や農業にもともと関心が強かったのですか。

松川:特に関心があったわけではなくて、ヒマだったんですね。次女が近くの保育園に通っていた頃だから1970年代の初めでしょうね。保育園まで送り迎えする同世代のお父さんから、産卵率の高い母鶏になる卵を産ませる特殊な養鶏場の話があったのね。いいヒナが孵らなきゃならないわけだから、いろんなとこで検査がうるさくてね、合格する卵と落第する卵の率が普通の比じゃなく、たくさんNGが出るんです。そのNGは決して命に関わるNGじゃなくて、卵の大きさが小さいとか重すぎるとか軽すぎるとかね。じゃあ、そのNGの卵をまとめて引き取ろうじゃないかということで始めたんです。都立大学の助手だったお父さんが自家用車に卵を積んで持ってきて、分けてね。それが東京都の保育園仲間の話題になって、食い物運動やってた人たちも加わって350世帯位になってね。その時はね、ヨメさんが卵商人のまねごとみたいなことしてなんとみじめったらしいことやってるんだとシラケて見てたわけ。ところが養鶏場が、ある抗生物質を与えないといいヒナができないということになってね。それだったら、卵のうちからクスリ漬けにされた卵でなく、僕たちが食うための卵を産む鶏の飼育棟をその養鶏場の一部に作らしてくれって言ってね。その当時、全部で10万円くらいかかったかな、少しずつカンパして、食べる卵のための1棟を加えたわけね。それでしばらく続くんだけどやがて1棟だけ抗生物質を与えないわけにもいかないということになって、追い出されるんです。あきらめようかという話にもなったけど、土地を貸してやろうという人も出てきて、なんとかやろうということになった。それで1973年に農場建設のために、その荒地の松林を切り払うというわけね。僕はたまたま、安く買った中古のボレックスがあったから、それでとりあえず撮っとこうということになった。

日向寺:それを本格的に映画にしようと変わったのはいつからですか?

松川:お金はないけど時間があって、遊びに最もふさわしい時だったのね。それに加えてたまたま大量の土器が出たんです。それが本腰を入れるきっかけになりました。千葉や茨城は弥生時代に関東地方で最も繁栄した一帯だし、土器を掘り当てる可能性があることは知っていましたけど、まさか本当に掘り当てるとは思わなかったんです。これで映画にできるかなと思いました。

日向寺:コミューンやユートピアを自分たちの手でつくるんだという熱気を感じますが。

松川:タイトルも最初は『ユートピア闘争宣言』だったんです。土器を掘ってたのは東洋大学の建築学科の生徒たちで、数人は好奇心が旺盛で、教師も東大闘争で逮捕されたような人が流れ流れて東洋大の助手をやっているような時代でね、全体に活きがよくて熱気がありましたね。過激派のひとりやふたり、匿うことができなきゃ意味がないよ、なんて話もしていましたね。その中のひとりは卒業論文にたまごの会の建設記録を出して学会の賞をとりました。学問とは何かだの、もうひとつの“科学”、オルターナティヴな科学はいかにあるべきかだのの話をしてました。僕だけが文科系で、ユートピアというのは“存在しない”(オイ・トポス)ことなんだ、そういうことは文科系の人はなかば常識的に考えているけども、理科系の人たちは理想は実現しうるもんだと思ってこういうことやっちゃうんだ、って言った覚えがあるんですけどね。でもその若者たちがどういうことやるのかを見てみよう、記録してみようかと思った。撮影していく中で、ユートピアは存在するんじゃないかと思うようになって、加担するようになりましたね。

日向寺:それで撮影が本格的になって、瀬川順一さんにお願いするわけですね?

松川:建設の最後の1年を瀬川さんがまわしてくれました。ちょうどこの時に『飛鳥を造る』(1976)を瀬川さんとやっていたんですね。それで話をしたらおもしろがってくれたんです。ただ、この時は生活費も何もないですからね、瀬川さんへのギャラも野菜や卵でした。

日向寺:瀬川さんとの関係は同志という言葉がしっくりきますが、それは思想的なことだけじゃなくて…。

松川:まさにそうですね。お互いに自由人っていうことじゃないかな、生き方そのものがね。好奇心が敏感に動くっていうか、大人気ないといってもいいかな、気質として合いましたね。後の『ムカシが来た』(1993)も自主映画として始まるんだけど、瀬川さんの了承をとる以前からこの話なら一緒におもしろがってくれると思いましたからね。

日向寺:終わりのスタッフタイトルの後に産み落とされる卵のカットが入っています。そこに至るまでも畳み掛けるようなエンディングですね。

松川:この映画は4度エンディングがあるんです。“結”を繰り返すのは特殊な例で、これでは終われないという結果、“結”が連続しました。ひとつ目は農道を移動撮影で、たまごの会の人々が皆で手を振っている。僕は『戦艦ポチョムキン』の革命に成功したポチョムキンが他の軍艦と出会うシーンのパロディを撮っちゃえと思ったんです。次に青年が未来を語るインタビュー、誰もいない農場を歩く鶏の足のアップ、そして金網越しにカメラを見つめる子ども、スタッフタイトルと続くんです。だけどこれでも終われなかったんですよ。それで最後に卵のカットを入れた。このカットは何度撮ってもうまくいかなかったんです。いろんな仕掛けを作ってねらってるんだけど、産む時になると鶏が横向いたりね。でも、まあまあのものが撮れたのでこれでいいかということになったんだよね。鶏が卵を産むということは“説明”できているからと、OKを出したんです。それで最終編集までいってたんです。ところがね、瀬川さんが助手さんに「おい、卵撮りに行くぞ」って行っちゃったんですよね。まだねばってると思ったんだけどね。そしたら「撮れました」って帰ってきたんです。この1カットは見事に“創造の卵”の出産を“表現”していました。あのカットは撮れませんよ、二度と。

6. 『吉野作造 マイ・ブルー・ヘブン デモクラシーへの問い…。』
『中江兆民 一粒の民主の種子を』

日向寺:9.11(2001年ニューヨーク)のニュース映像で終わる『吉野作造』と「一粒の民主の種子を」という言葉で締めくくられる『中江兆民』は、松川さんの現代への危機感を強く感じました。

松川:まず、『吉野作造』に関して言えばね、2001年、9.11の初めてのテレビニュース放映の時、とっさに8mmビデオでテレビ画面とその日の茶の間を延々と記録したんです。めったにないことでした。どういうことかわからないけど、大変なことが起こっていると。これを撮ることによって『吉野作造』の方向が決まりました。ある意味じゃ暗殺史、民主主義とテロの歴史というもので『吉野作造』を描こうという方向になりました。僕の仕事の中でテロが出てくることなんて考えられなかったんだよね。そこから発想することはなかったんだけど、偶然ふたつが出会ったんですね。そして今度は1年後に『中江兆民』の話がきたわけ。中江兆民という人も僕の関心の外にありました。それで今度は兆民に関する本を読むと、古い本ほど兆民が奇人だって書いてある。大売出しの商人の法被(はっぴ)を着て町中を大声でふれまわったり、あるいは裸の芸者とどうこうしたというエピソードがどの本でも必ずといっていいほど出ているわけ。兆民をまともな人間として書いたら、体制とぶつかっちゃうから奇人に仕立てた、少なくとも強調したんだと思ったんです。それでなくとも“人物評伝”の多くは“天才出現”に始まるのが多いのですが、そうではなくてある時代と状況の中から才能は生まれてくるというのが僕の確固たる主張です。そんな中で、なだいなださんの中江兆民伝である『TN君の伝記』には全く共感しましたね。

日向寺:『中江兆民』では初めて役者と仕事をされていますね。

松川:兆民の書いた本に『三酔人経倫問答』という代表作があるんです。原文は漢文なんだけど桑原武夫の見事な口語訳が出ていて、3人の酔っ払いが3つの立場から自由な意見を言うんですね。まさに現代的な問題を3人が話しているんですけどね。それをどう料理しようかと思った時に、役者の坂本長利さんのことを思い出したんです。彼はぶどうの会にいた時の友人で、仲良かったわけね。宮本常一が採録した、酔っ払いの老博労の人生ばなしを坂本は自分の表現に置き換えて「土佐源氏」と名づけ、あらゆる場所で独演してね、もう千何百回やってるのね。そういう坂本という人間の方法論に好意をもって見ていたんです。彼と3、40年ぶりに再会して、この三酔人を1人3役でお願いしたら快諾してくれたのね。これは容易なことじゃないのね。台詞を3人分覚えなきゃならないし…。だけど彼はみごとに演じてくれました、相当膨大な量をね。スケジュールの第1日でこの撮影を終えました。僕はこれで完成だと思いましたね。あとは付けたりです。

日向寺:ここにきて、松川さんの変化が激しくなったように思えますね。

松川:それこそまさに時代と僕の歳ですね。維新前夜に似てます。ただしもはや“観客”の年齢ですけど…。だけど、今こそ言えと、主張しろと。今こそ主張すべきだと。

(2003年12月、2004年1月)
――構成:日向寺太郎

 


日向寺太郎 Hyugaji Taro

1965年仙台市生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業後、松川八洲雄、黒木和雄監督に師事。演出作品として『黒木和雄 現代中国アートの旅/前後編』(1998、NHK)、編著として『映画作家黒木和雄の全貌』(フィルムアート社)がある。現在、長編劇映画の初監督作を準備中。

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