english

Docbox Books


フェイキング・イット

ジェーン・ロスコー、クレイグ・ハイト共著/マンチェスター大学プレス/2001/英語/ISBN: 0-7190-5641-1
Jane Roscoe and Craig Hight, Faking It: Mock-documentary and the Subversion of Factuality
Manchester: Manchester University Press, 2001: ISBN 0-7190-5641-1 (Soft cover)

評者:とちぎあきら

 ちょうどこの本を読んでいたのは、東京・調布の映画祭で開かれる短篇映画コンペティションの最終審査のため、自宅でビデオを見る作業を始めたときだった。その一次通過作品のなかに、「フェイクドキュメンタリー」と分類されたものがいくつかあった。折も折、ちょっと気になって、このコンペのコーディネーターをしている映像作家の帯谷有理さんに電話をしてみると、彼いわく、応募用紙にある作品ジャンルの項目で、「ドラマ」と「ドキュメンタリー」双方にチェックしているものや、実際に見てドラマとドキュメンタリーの区別がつきにくいものは、とりあえず「フェイクドキュメンタリー」と呼ぶことにした、とのこと。その説明を聞いて、こちらも何となく納得した。

 しかし、この「納得」とは一体どういうことだったのだろうか。ドラマとドキュメンタリーの区別がつきにくいというのは、ドラマとドキュメンタリーを相互に排他的なものと理解していることが前提としてあり、当の作品がその相互排他性に疑問を持たせるものであるということを意味している。しかも、それを「フェイクドキュメンタリー」と名づけて納得しているというのは、こうした境界の曖昧化によって、あるジャンルを形成しうるほどの作品群が産み出されているという現状認識を、お互いに共有しているということに他ならないのだ。果たして、ドラマとドキュメンタリーの区別がつきにくいというこの現象を、どのように概念化したらいいのだろうか。

 本書は、副題にある「モック・ドキュメンタリー」(mock documentary)なるものを、慎重な議論のもとに定義することによって、ドキュメンタリーの動態を理論的に捉えようとした野心作である。「モック」(mock)とは、ものまねをして相手をだますという意味だが、この映画形式をイメージするには、著者も例に挙げているニュージーランド映画『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』(Forgotten Silver、1996)を見てみるとよい。この映画は、グリフィス以前に長篇劇映画を完成させ、世界に先駆けカラーフィルムやトーキーを発明したにもかかわらず、歴史から忘れ去られた一人のニュージーランド人の生涯を追ったものだ。家族や映画関係者の証言、ファウンド・フッテージ、進行役として登場する監督自身の語りなど、ドキュメンタリーをジャンルとして成り立たせている多くの要素によって構成された作品なのだが、実はすべてフィクションなのである。ちなみに、数年前にこの作品が日本で公開されたとき、配給会社はこれを「モキュメンタリー」(mocumentary)と呼んでいた。

 本書の著者は、この「モック・ドキュメンタリー」という映画形式を考えるにあたり、映画学者のビル・ニコルズがドキュメンタリーにおける表象形態を分析する際に提起した二層の枠組を援用している。まず作品を、作家の意図、テクスト、観客の受容という3つの相に分けて捉え、テクストについては、ドキュメンタリーというジャンルにおいて機能する5つのモード(説明的、観察的、相互作用的、自己言及的、遂行的)から見ていく。そして、こうした座標を設定することによって、「モック・ドキュメンタリー」を、ドキュメンタリーが培ってきた規範や慣習の流用を通して、特定の文化やドキュメンタリーというジャンルそのものをパロディにしたり、疑問視したりするフィクションと定義していくのだ。言い換えれば、「モック・ドキュメンタリー」とは、ドキュメンタリーというジャンルが持っている事実性(factuality)への志向――画・音とその指示するものとの関係から成り立っている映画的言説が、虚構ではなく真実を表現しているという主張――を、程度の差はあれ根底から覆すことを意図した、虚構性(fictionality)を志向する作品ということになる。ここで、「志向」という言葉を用いるのは、著者が虚構(fiction)と事実(fact)を本質主義的に定義される二項対立的なものではなく、とりあえず虚構と非虚構(non-fiction)を両極として措定する連続体として見なしているからである。そのうえで、「モック・ドキュメンタリー」における3つの審級(degree)――パロディ、批評と悪戯、脱構築――に着目しながら、具体的な作品を分析していくのである。

 近年、ドキュメンタリーというジャンルのなかで、激しい内部分裂が起こり、「ドラマとドキュメンタリーの区別がつきにくい」ハイブリッドな形式が多く登場してきた。こうした流動的な情勢のなかから、ドキュメンタリーの規範や慣習を流用した、きわめて自己言及性の強い非ドキュメンタリーが産み出されたとする著者の議論は、非常にスリリングであるし、単に「モック・ドキュメンタリー」の定義にとどまらない、ドキュメンタリーの「本質」論に直結するものと言えるだろう。あえて不満を言えば、著者自身も認めているように、本書で扱われている作品が欧米圏に限られている点だ。日本や第三世界の国々など、フィクションにおいて「古典的ハリウッド映画」とは異なるオルタナティヴなテクストを育んできたとされる文化圏において、果たして「モック・ドキュメンタリー」が流用と批評の対象とする規範や慣習は、欧米圏のそれと同じものなのだろうか。もちろん、この問題は、日本における「モック・ドキュメンタリー」の可能性の検証とともに、日本のドキュメンタリーの伝統をどのように概念的に跡づけるかという作業がその前提として不可欠なので、これは私たち自身の課題と言わねばならない。

 

とちぎあきら
フィルムセンター客員研究員などを務めるかたわら、フリーで映画に関する執筆や翻訳などを行なっている。最近の訳論文には、アモス・ギタイ、アネット・マイケルソン「イスラエルを撮ることに関するひとつの会話」(『批評空間』第III期第3号)。


アメリカ非常事態―ドキュメンタリー、戦争、民主主義

パトリシア・ロデン・ジマーマン著/ミネアポリス、ミネソタ大学/2000年/英語/ISBN: 0-8166-2823-8
Patricia Rodden Zimmermann, States of Emergency: Documentaries, Wars, Democracies
Minneapolis: University of Minnesota Press, 2000: ISBN 0-8166-2823-8

評者:若井真木子

 インディペンデント・シネマの知名度に比べ、「インディペンデント・ドキュメンタリー」などという言葉はあまり聞かれない。これにはもちろん理由があり、パトリシア・ジマーマンによる造語といっても過言では無い。それはドキュメンタリーの実用性と理論的側面をもちいた対抗言説で、国家の境界線をあいまいにし、歴史の単一性の嘘を暴くものである。

 「戦争」と「ゲリラ戦」という2つの概念が「インディペンデント・ドキュメンタリー」及び、本著「ステイツ・オブ・エマージャンシー」(アメリカ非常事態)の骨子を形成する。名の知れた作家からグループ制作のものまで、膨大な数のビデオ/フィルムを詳細に分析した貴重な情報源である。80年代以降におけるアメリカ「インディペンデント・ドキュメンタリー」の歴史、それとは切り離せない民主主義を揺るがすアメリカの政治状況を切り開いてみせる。また、新旧ドキュメンタリー理論、哲学、歴史学を動員し、フェミニズム理論を紡ぎ合わせて「インディペンデント・ドキュメンタリー」の現実を分析し、将来を模索する。ニューヨークのイサカ大学、シネマ・フォトグラフィーの教授でもあり、メディア・アクティヴィスト、歴史学者、フェミニスト、数え切れない分野にまたがって活躍するジマーマンは熱く宣戦布告する;「これは幻想白人国家と新しく形成されているディアスポラ、流浪体、主体性との世界戦争だ。」(pp. 13)戦場はグローバリゼーション(単一文化主義)だ。それでは戦闘開始といくとしよう。

 本著の前半は3つの「戦争」で構成されている。1つ目は90年代に入ってから新保守主義勢力による芸術に対する公的資金投入の停止を食い止めるドキュメンタリー制作者やプロデューサーたちの戦いである。まさに「インディペンデント・ドキュメンタリー」は絶滅の危機にさらされ、ドキュメンタリー制作者、観客から民主主義の根幹をなすフェア・アクセスが奪われていく。「ストップ・ザ・チャーチ」などのビデオやPBSのプログラムが攻撃の対象となり、それらが扱うテーマ、HIV、セクシュアリティー、障害、リプロダクティブ・ライツ、人種などを社会から排除しようとする過程を考察する。2つめは「空中移動戦」で、様々な記憶の戦いに場を移す。『コーリング・ザ・ゴースト』のボスニア・レイプサバイバー、『歴史と追憶』の日系人収容所の記憶などは、戦争を正当化する国家の記憶としてのドキュメンタリーの対抗言説となる。最も重要なのは「インディペンデント・ドキュメンタリー」が証言をする/聞くプロセス、なくした/忘れ去られた記憶を取り戻すプロセスを担い、「ハイブリッド・スペース」(混成する空間)を生み出すということだ。3つめは「地上戦」で、ドキュメンタリーの登場人物、制作者、観客を巻込んで戦う空間を生み出し、社会から疎外されているホームレス、障害者、セクシュアル・マイノリティ−などの「実体」を取り戻す。本著のカバーになっている「テイク・オーバー」や「テスティング・ザ・リミッツ」などの戦いはアメリカ社会内及び「インディペンデント・ドキュメンタリー」内に同時に存在し、観客や制作者に彼らを傍観するような安全な場所を与えない。

 ハンディカムと低予算化は新しい戦術を可能にし、加速する「インディペンデント・ドキュメンタリー」の疎外と肥大化するマスメディアに対抗する様々な方法が試みられる。本著の後半、「ゲリラ戦術」は絶滅の危機にさらされている「インディペンデント・ドキュメンタリー」と民主主義の将来に託す希望でもある。

 著者はまずリプロダクティブ・ライツの表象に焦点をおき、「技術、ディスコース、生殖の幻想」による女性の体の抹殺に対抗しうる映像「公的フェミニスト空間」の構築を説く。オプティミストの彼女にしても、この部分からは明らかな不安要素がにじみ出る。これはアメリカのリプロダクティブ・ライツが入り込んでしまった表象ブラックホールという暗い現実を反映しているのかもしれない。しかしまたそれをゲリラ戦を闘い抜く気合いに変えるのがジマーマンのフェミニスト精神なのだろう。

 ゲリラ戦の最後の焦点は「新世界映像秩序」の「海賊」としての「インディペンデント・ドキュメンタリー」である。海を転々とする海賊という比喩で、実践的には映像や情報を手に入れ、それらを解体し、最構築する。ペーパー・タイガーやバービー・リベレーション・オーガニゼーション、などアクティヴィストらによるラジオ電波や衛生映像など利用した海賊術が紹介される。それにしても、これらの制作集団の名前やタイトルはマニフェストのようで力強い。

 グローバルメディアの中での海賊行為は新旧対抗というような二項対立図式を越えて挑戦することを可能にする。まさにデジタル空間は流動する空間であり、フェアアクセスと公正な映像利用の為の戦場なのだ。そして、流動的な「インディペンデント・ドキュメンタリー」はデジタル時代においてドキュメンタリーの概念や役割を変えるであろう。宣戦布告で始まったジマーマンの著書に勝敗はないが、このような希望で埋め尽くされている。

 ひとつ困難があるとすれば、それは「インディペンデント・ドキュメンタリー」を見る事のできる限られたアクセスであり、著者の論点を皮肉な形で証明する。一体どこでこれらの作品を見ることができるのか。そして、グローバリゼーションは世界を巻込んでいるのだから、アメリカ以外の「インディペンデント・ドキュメンタリー」の活躍にも影響されたい所だ。「インディペンデント・ドキュメンタリー」をただ傍観することが不可能なように、本著もただ読み終わることは不可能である。特にこれらの作品を実際手にすることが難しい代わりに本著で同じ体験をすることをお勧めする。

 

若井真紀子 Wakai Makiko
ビデオ塾という女性映像制作グループのメンバーで『沈黙の歴史をやぶって ――女性国際戦犯法廷の記録』などのビデオ制作に関わる。ダブリンで勉学に勤しみつつ、自転車修理屋のビデオを制作中。


美の魔力 ――レーニ・リーフェンシュタールの真実

瀬川裕司著/パンドラ/2001年/日本語/ISBN: 4-7684-7818-2
評者:奥村賢

 近年の映画研究は20年前と比べると、かなり様相を異にしてきている。たとえば、この変化をもっとも端的にあらわしている例として、作品分析における緻密化をあげることができる。この背景にはビデオやコンピュータなど電子機器の積極的活用がある。これら支援装置があれば、フレーム単位、ショット単位の分析も容易で、いまでは細緻で精確な作品のデータ解析があちこちで見受けられるようになった。本書『美の魔力――レーニ・リーフェンシュタールの真実』もまた、こうした流れを体現している代表例のひとつであるといえる。

 本書では出演作、監督作を問わず、稀代の女性監督リーフェンシュタールがかかわった作品すべてをとりあげ、ことこまかな考察がくわえられている。全作品の詳細な分析を中軸としたリーフェンシュタール論は世界的にみても例がなく、この点だけでも、同書のもつ意味は大きいといわざるをえない。

 このなかでとりわけ紙数を費やし、委曲を尽くして論じられているのは、リーフェンシュタールの代表作『オリンピア』である。ここでは、ひとつひとつのショットを丹念に吟味していくなかで、通常みているときにはあまり気づかない独特の映像構成法をあきらかにしていく。すなわち、同じ映像の使い回しや再現映像の使用、あるいは時間軸を無視した画面配列などが確信犯的におこなわれていることを白日の下にさらしていく。個々の指摘部分については評者も気づかなかったものもあるが、こうした手法自体についてはいままでまったく知られていなかったわけではない。しかし、ここで注目すべきは、やはり映画全体にわたって徹底的かつ実証的に洗い直しをおこなっている点であろう。リーフェンシュタールの作風および彼女の映画の真髄は『オリンピア』に凝縮されている。だとすれば、記録映画の根幹を破壊しかねないこうした操作や加工もまた、リーフェンシュタール独特の映像美を生み出している重要な因子であることはまちがいない。彼女の映画は、フィクションとノンフィクションが激しく火花を散らす場で産み落とされ、その火中から華麗な形姿をもって現出してくる映画といえるのかもしれない。

 『美の魔力』はなぜかくまで執拗かつ綿密な作品分析をおこなおうとしたのか。『オリンピア』が世界を瞠目させてからすでに半世紀以上経つというのに、いまもってリーフェンシュタールは、論争を呼ぶという点で、映画人として突出した存在であり続けている。彼女や彼女の映画についての議論は今日でも絶えることがない。しかし著者の目には、従来の評価や議論はことごとく欠陥のある怠慢なものとしか映ってこなかったようだ。ここでは実証性に欠ける研究書、「非生産的」な伝記、マスコミの公式化された見解が槍玉にあげられているが、本書は、こうした(真実を必死で探ってこなかった?)言説の壁を打ち破り、リーフェンシュタールの「全貌を浮かび上がらす」べく上梓されたものである。

 リーフェンシュタールをめぐる議論のなかでもっとも多いのは、やはりナチズム(もしくはファシズム)との関係や、前者と深く絡み合っているプロパガンダとの関係を論題にしたものである。したがって、既存の評価や通説に異議を唱えようとする本書が、こうした問題を議論の核に据えているのは当然のことであり、著者がいう「全貌を浮かび上がらす」とは、つまるところ、これらの問題に何らかの決着をつけるということにほかならない。

 果たして、この試みは成功したのだろうか。リーフェンシュタール本人へのインタビューや膨大な関連文献の渉猟をとおして、いままであまり知られなかった彼女の心情や諸事実の関係をあきらかにしていった点は、確かにおおいに評価されるべきだろう。だが、結論部分についていうなら、何かすっきりしないものが残る。同書が最終的に訴えようとしているのは、おそらく、リーフェンシュタールだけが戦後、あれほど責め続けられきたのは理不尽であり、批判側のこうした姿勢は合理性を欠いたものではなかったかということだろう。ここではその理由として、たとえば、オリンピックはもともと「世界のトップアスリートに肉体的・精神的強靭さを競わせ」る祭典であり、『オリンピア』が健康な肉体美を追い求めていたとしても何ら不思議ではないこと、健全なものや美しいものを賛美する人間すべてがファシストではないこと、あるいはプロパガンダ映画それ自体も、リーフェンシュタールの作品だけが該当するのではなく、これまでさまざな時代にさまざまな国で数多く製作されてきたことなどをあげている。これらの論拠については、枚数の関係上、ここで細かく検討することはできないが、ひとことだけいうなら、著者のこうした論述にはすべてを相対化してしまう危うい面、差異のあるものもないものも一切合切一律化してしまう危険な側面が内包されているように思えてならない。

 市川崑の『東京オリンピック』ではなく、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』でもなく、なぜ『オリンピア』がつねに標的にされてきたのか。この種の議論において、リーフェンシュタール作品だけがどうして毎回、話題の中心に据えられてきたのか。あるいはまた、彼女だけがなぜいつまでも免責されず、指弾され続けねばならなかったのか。もちろん、なかには誤った認識に基づく不当な批判もなかったわけではない。だが、概括していうなら、こうした反応はかならずしも過剰なものとはいえなかった。また、まったく根拠のないところから湧出してきたものでもなかった。なぜなら『意志の勝利』や『オリンピア』が題材としていたのは、ほかでもない人類史上、最大の犯罪を犯したナチス、あるいはそのナチスが主導した祭典であり、しかもそこから創造された映像美は、圧倒的な迫力で世界を魅了するほど類まれなものであったからである。このときリーフェンシュタールの思いや意図がどこにあったのかは問題ではない。結果として、ナチズムを美化したナチス賛歌の作品、しかも芸術的にみて完成度のきわめて高い映画になってしまっていたことが問題なのである。リーフェンシュタールの記録映画は、ほかの同種のプロパガンダ映画と同列には扱えない。やはり特別な位置を占め続けているといわざるをえない。いま指摘した事柄については、本書でもまったくふれていないわけではないが、結論との関係がいまひとつ判然としない。評者としては、この点についての著者の解釈はどうなのか、あらためて知りたいところである。

 

奥村賢 Okumura Masaru
早稲田大学・日本大学非常勤講師。専門は映画と政治の関係。訳書、監訳書に『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』『ファースト・カット アメリカン・シネマの編集者たち』(ともにフィルムアート社)など。