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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 17 大津幸四郎(2/2)

4.「水俣シリーズ」――『医学としての水俣病』を中心に

KT:『医学としての水俣病』(1975)三部作を拝見しますと、インタビューをするシーンで、土本監督自身を画面に入れ込んだちょっと引いたショットが結構ありますよね。こういう視点は土本監督とかなり話し合われたんですか?

OK:土本さんが話を聞いてポイントに迫っていく、その話を撮っていくわけですが、ひとつには、その場の雰囲気がすごく良いんですよ。漁家のたたずまいには東京の新建築の家とは全然違って、時間・歴史生活がそこに彩り込められている。そういったものが欲しいと思ったわけです。だからその場の退いた広い画が欲しくなってきたのです。

 もうひとつは、それまでのやり方はインタビュアー、製作者側はカメラの後ろに隠れて表に出ない、という方法が一般的ですよね。これがそれまでのドキュメントというか記録映画の方法で、作り手が画面には現れずにバックで操作し、自分の言いたいことだけを、一方的にナレーションの方法でしゃべっていく、悪く言えばプロパガンダに堕してしまう。そういうことを嫌って、画面の内側で物事を考えていきたかったんです。だから当然、受け止めるべき主体(演出家)は画面の中に入れちゃって良いんじゃないかと。バックに隠れて、後でナレーションで操作するんじゃなくて、言いたいことがあれば演出家が画面の中で言う。プロパガンダじゃなくて対話を交わしながらものを探っていく、そういう時には当然演出家がちゃんとした主体としての存在を出さなくちゃいけないんじゃないかということがあったと思いますね。単なるインタビュアーとしてではなく、作り手の主体として。

KT:『医学としての水俣病』のどれもそうなのですが、オープンのショットが非常に印象に残りますね。例えば熊本から鹿児島まで続く魚の行商ルートを、幌つき軽トラックを追って移動していくショットは、その前の室内シーンが緊張感が高いだけあって印象に残るんですが。

OK:『医学としての水俣病』の中にオープンのショットをどう入れるかということはいつも頭の中に在ったね。というのは、医学の世界というのはどうしても狭いところに入っていくでしょう? そこの世界だけで完結させていくという方法もあるけど、水俣病というのが一種の環境の中で侵されてきた病気でしょ。そういう意味では人々の住む環境、海とか、村とか街とか、どうやったら出せるかなと。患者さんが閉じこめられたのも地方という環境であるし、山と海に囲まれた土地であるし、そういう形では日本の「村」というものを出してみたいなと思ってたんです。だからオープンに持っていけるものは出来るだけオープンで撮ろうと非常に意識しました。画的に、室内の重苦しさを避けるためにも。

KT:そういう文脈から出てくると思うんですけれども、集落を丘の上から俯瞰しているショットがありますよね。手前に集落の地図を入れ込んで撮ったりしていますが、これなんかまさに「いかにオープンを見せるか」というショットだと思うんですが、その次のシーンで、その集落の中を手持ちでずっと歩いていく見事なショットがありますよね。

OK:前の作品(『水俣―患者さんとその世界』(1971)、『水俣一揆』(1973))まではこちらから仕掛けていくというよりも、来たものをどうやって消化していくか、という意識が強かったんです。ところが『医学としての水俣病』というのは、こちらから全部仕掛けていかないとものが動かない。そういう意味では『水俣―患者さんとその世界』のまさに逆ですよね。例えば丘の上から一つの村をどうやってちゃんと見せるか。その中に患者さんの家と、そうじゃない家とあって、しかもそれが海の近くであったり川の近くであったり、そしてそういう一つの村落ごとすっぽりと水俣病に冒されていく。その中でも患者さんと患者さんじゃない人が現れてくる。そのメカニズムというかね、そういうものを出してみたいということがありました。

 だから言葉で言えば「カメラの側が意識的に切り込んでいく」ということです。

KT:撮影する側が積極的に探っていったということですね。

OK:土本さん入れ込みのショットを必ず作っていく、それは撮影する側がある場の中に入り込んでいって、そこで話を聞いていくと同時に、土本さんがスタッフ全体のカメラを背負っていたと思うんですよね。それは土本さんが探していく、追求していくことも含めての スタッフの姿勢を出したい、ということです。つまりスタッフの方が切り込んでいかないと物事は全然見えてこない、待っているんじゃ駄目だということだよね。それがやっぱり『医学としての水俣病』の特徴だったんじゃないかな。水俣病がどういう病気だったかということを出すためには、こちらから医学の専門家としてではなく、患者の苦しみを背中に背負った門外漢として切り込んでいくことが必要だった。門外漢が理解できるまで、徹底的に。なぜなら何か物事が起こってくるという時代では無くなっていたんです。もうそれは『水俣一揆』までで終わっていたんです。

KT:このくらいの時期から、土本さんも、もう一方の小川さんも、かなり主体的に現実と切り結んでいくというか、関係していこうという動きを始めていったと思うんですけれども。

OK:それはありますね。『患者さんとその世界』にやや萌芽的にあるけれども、意識的にそれを使っていくといったやり方では無かったですね、あの場合は。作品としての映画総体が現実としての状況を告発していく。その辺がはっきりしてくるのは『医学としての水俣病』からです。

 今までは何か起こってきたことを受けて、その中で物事を構成していくというドキュメンタリーのやり方、ある真実が何処かに秘められていて、それをこちら側が探っていけば、向こうからその真実が浮かび上がって語りかけてくるんだというような考え方がありました。

 それがある時期から、こちら側から積極的に探り出していかなければ浮かび上がってこなくなってきた。それだけ物事が沈滞し、沈み込んできたということですよね。激動とは言わないにしても激しく物事が動き出していった60年代の後半から70年代の初めくらいまでは、待っていても物事はどんどん変わっていくし起こってくる時でした。だけど、'74-5年くらいからは逆にこっちが働きかけていかないとモノも浮かび上がってこない時代になってきたと思うんですよね。それだけ違っていたんです。

KT:第三者的な立場が取りづらくなってきたともいえるわけですね。

OK:その頃から、人間の立っているポジション、足場によって物事が変わってくる「主体の側」の問題ね、これが問われるようになってきますよね。それはその後どんどん主観的な方向になっていくか、主観と客観をミックスしながら物事を展開していくかという方法に変わっていきますよね。

KT:その辺は今でも問題になっているところではありますよね。

OK:『三里塚の夏』(1968)くらいまで、だから'70年代に入ろうかというところまでは「真実は在る」ものだと。だから「いかに真実を追求するか」という表現でいきますよね。だから存在論的な形で言えば「真実は存在する」んだと。それに人間が迫っていけば、真実の方から語りかけてくるんだという発想がどっかにあったんです。だから客観主義的です、ある部分ね。ところがそれが崩れたと思うんですよね。'70年代に入ってね。要するにこちら側の物の見方によって、それがどういうふうに浮かび上がってくるかということね。もし見方を変えたら違う物の左様が浮かび上がってくる。じゃあそれが真実かというと、そうじゃないかもしれない。そういう意味での相対主義、あるいはパラレルな物の考え方が出てきますよね。

KT:かなり顕著になってきますね。

OK:だから時代がだんだん下がってくると、非常に主観的なところに陥っちゃうというもう一つの欠点も出てくるわけです。それはかなり危険なものでもあるわけです。それが世界的に固定してきてしまうと、「オレが見た物だけが真実で、それ以外は違うんだよ」というような、ある独善的なものにまで落ち込む危険性はいつも秘めていますよね。

5. 『全身小説家』

KT:袋小路に陥りかねませんよね、そういう見方を突き詰めていくと。そういう関係でいうと、自分個人の、かなり主観的な内容を扱っているようでいて、実態はもうちょっと突き抜けたところにあるんじゃないかと思わせるのが一連の原一男監督の作品だと思うのですが、『全身小説家』(1994)でイメージ篇の撮影をされていますよね。これはどういった経緯で引き受けられたんですか?

OK:それまでは原君が自分でカメラを廻してインタビューをして、小林(佐智子)さんとスタッフがもう一人くらいいたはずなんだけど、殆ど原君の方法で(映画が)展開していくよね。それはそれなりに非常に面白かった。でもそれを『全身小説家』で転換をしてみたいという発想はあったと思います。その辺で、役者を使って井上光晴から触発された彼のイメージの世界を作りたいという欲望が出てきたと思います。ところが今まで彼は自分でカメラを廻しながら撮っていたことで彼の世界を追求出来たかもしれないけれども、客観的に他の人の世界を原君のイメージの中で展開しようとした場合、カメラを覗きながらそういう状況を作り出していくっていうことは、難しくなってきたと彼は見たんだろうと思う。で、彼はずっと前にTVなどで僕の助手をちょっとやっていたことがあったりして、「こういう形でやってみたいと思うんだけれども」ということでさそわれて参加したんです。

KT:この作品の主人公である井上光晴さんの虚構性を際立たせる目標があったのではないですか?

OK:井上さんの面白さっていうのは、虚構と、真実というか事実が、ものすごくミックスしちゃってるところにあるんですよね。だからある見方によっては「嘘つき光晴」とかつて言われたくらい、自分のフィルターを透して物事を喋っていくし、それは作家の特権というか、常に持っている方法だよね。だから本当のことは誰も知らないんですよ。「光晴が言ったから多分ウソだろう」と、そうかもしれないが彼の喋りに沿って、イメージしてみたいということだったんですよね。だからある部分では色的にはメチャメチャにしてみたりしたんですよね。

 僕は「ここに写っている物は全部虚構として光晴と作者原が共犯者として作っているモノだから、インタビューを含めたそれまでの光晴の世界と異なって色を変えた形でやってみたい」と思ってたんです。ところが、軍艦島だったかな、炭坑の側が撮っているPRのフィルムがあるんですが、それは白黒で撮っている。それはオルジナルが元々白黒だったから白黒で使っているわけです。それは歴史的な意味でのある記録と言っていいと思いますけど、一方こっちで作り上げていった「井上光晴の世界」っていうのはあくまでも作家の目を通したイメージの世界なんですよね。

 僕が意図していたのは、色を変えながらも色を残していく、転換していく形だったんですよ。ところが、結局彼は最後にそれを白黒にしちゃった。それで僕は「白黒では違うんじゃないか」ということになったんです。あれは何枚もフィルターをかけて色を全部沈み込んだ形に変えながら、でもちゃんと色は残っている。それはスタッフと井上光晴さんの主観のフィルターを透したところに出てきた世界だからです。かつて客観的なリアルな「白黒」の世界とは違うよということを出したかったんだよね。

 映画の中に「作った」スチール写真があるんです、彼の少年時代とかその時いた井上さんが好いた少女とか。しかしその少女の写真は映画の製作途上で役者を使って作られた写真なのですよ。それをかつてあったリアルな世界を意味する白黒にしちゃったというのが僕にとっては非常にショックだったわけですよね。もしかつてあった世界が白黒で残っていたその物を白黒で使うんだったら良いんだけれども、その少女も「いたか、いなかったか」が問題なわけですよ。あれはひょっとすると井上光晴さんの一方的な思いだけであって、自分で作り上げていった人物像かもしれないわけです。でも井上さんにとってはあれは真実、喋った瞬間から真実なんだよね、客観的な事実かどうかは別として。そうするとそれはあたかも存在したかのごとく白黒の世界じゃないんじゃないかと、僕は思ったわけね。「それは違うんじゃないか」と、全く物事の捉え方の方向が違うと。まぁ彼とはその後も日常的には会ったりしてますが。まあ、そういうこともありましたね。

KT:そうすると虚構性の捉え方で意見の相違があったと。

OK:そうですね。やっぱり虚構はあくまで虚構である。虚構というフィルターを一度通り越してモノを作っていくという。それはウソとは違うよ。必ず作者のイメージという厚いフィルターを通り越した果てに滲み出て来るものであって、実際に存在したものを作者の主観で切っていくということとはまた違うと思いますよね。その辺の差を出したかったんですよね。

KT:確かにそうですね。作者、この場合は原さんなんですけど、立場の妙な居心地の悪さが現れていたという気がするんですよね。

OK:僕があの作品は本当は好きじゃないというのは何故かっていうと、原さんが何処かでウソをついたんじゃないかという気がするんですよね。ウソをついたとは言わないにしても、物事をつきつめないで体よく使ったなと、ある騙し方をしたなと、それがどうも引っかかるんですよね。というのは「これは井上光晴のイメージで、客観的な事実とは違う」ということがありありと分かってもそれは良いんですよ。でも「本当だ本当だ」と相手に言わせながら、それを利用していって、作家プラス人間が持っている虚構性にある形で泥を塗ったというかね。そんな気がする。

 例えば、インタビューを受けて嘘八百言ったって良いんですよ。それがある人が固有に持ってる性癖だったとはっきり現れてくれば。ウソを言っているということが逆に何処かで浮かび上がってくるように作っていく、ということも作家の計算したやり方としてありますよね。それをちょっと違った形で後処理しちゃったっていうか、「嘘つき光晴」を後で作り上げちゃったなというのが、僕は悔しいですよね。

KT:興味深い作品でありますけどね。

OK:そういう意味である部分では虚構性と事実とのきわきわのところを作り上げていってることは確かだと思うんですね。そこではある世界に踏み込んだとは思うけど、ただ、作品全体としては何か何処かでこう忸怩とした後味の悪さみたいなものを引きずりながら来ていますよね。

6. 『ドルチェ』

KT:ドキュメンタリーと虚構みたいな話になってきたんですけれども、『ドルチェ』(2000)って作品がありますよね。A・ソクーロフ監督なんですけど、この作品はドキュメンタリーでも劇でもないですね。フレームからして正方形の特殊なフレームを作ってその中で撮っていくって形になっていますけど…

OK:いや、あれは後処理だったんです。撮っている時は普通のスタンダードフレームです。多分ソクーロフは字幕をどう処理するかということもあって真四角のフレームにしたと思いますけれども。でもそれはソクーロフの持ち味だろうね。ソクーロフっていうのは、本当に自分の世界を作り上げてしまいますからね。

 ソクーロフの面白さはね、徹底的に撮影状態を作っちゃうことなんです。だから、ライトセッティングを含めた状況を作るのに大体半日はかかるんですよ。で、その内の大半の時間はいかに光線を切るかということだったんですよ。彼が初めから持っていたイメージというのは、やっぱりロシア的なんだろうな、まずは緑に対する非常な恐怖があるみたいね。それが奄美大島に行っちゃって、全部緑に囲まれちゃったわけですよ。で、殆ど気が狂ったんじゃないかな。だから緑がちょっとでも写ると「あの緑を何とか切りたいんですけれども」と言うわけだよね。

KT:確かに色彩的にはかなり抑えた調子になってますよね。

OK:彼が好きなのはね、これも面白いんだけど、グレイなんですよ。着ている物もそうだし、なんでもそうなんですよ。これには僕も「ペテルスブルグの陰鬱さを奄美大島に持ってきたな」と言ったんだけれどね。で、光線を切っていって、ホワッとした薄明かりの世界に持ち込むわけ。そうすると物事は色を失っていくわけですよね。中間色のグレイトーンに統一されていくわけですよね。その世界を作るのに大体半日くらいかかるわけ。光線との追いかけっこなんですから。

KT:明るい光は殆ど無いですものね。

OK:無いですね。窓から入ってくる光を、暗幕でダイレクトに切っちゃうと光は何も入ってこなくなってしまうから、窓から少し距離を置いて切るということになってきますよね。ところが太陽光線はそんな作業の間にもどんどん変化していくわね。太陽の当たる角度と光を切る暗幕との追っかけっこをするわけ。もうこっちもヤケになってますから「あそこちょっと(光が)強いからあそこだけ切れ」って。

 ソクーロフは島尾さんに「何々について語ってください」ということ以外は何も指示しないわけですよ。もちろんリハーサルなしのぶっつけ本番。その点では立派なドキュメンタルです。後は島尾ミホがいかに島尾ミホを演ずることだと。彼の指示はそれだけ。彼はこうしてじっとモニターを見ながらぶつぶつぶつぶつ言うわけですよ(笑)。「そうじゃない!! それが良いそれが良い!!」とか、ロシア語で言ってるわけですよ。それをまた(通訳の)児島(宏子)さんが忠実に訳していく。「それが良いそれが良いって言ってるよ」なんてね(笑)。ともかく生な事実をストレートな言葉で語るのではなく、島尾ミホのフィルターを通して、島尾ミホの「ユタ的」言葉、島尾ミホの言葉のゆらめきを透して語るまで状況を作ることを止めないわけです。母、父、愛、わたくしとテーマはだんだん抽象的で、入り組んだ方へ、と進んでいく。彼は納得がいくまでしつこく待っているわけです。

KT:作品の中でだいぶフィルターを使ってらっしゃいましたが。

OK:殆どヨドバシカメラで売っているようなフィルターですけど、NDのハーフトーンとか、ワセリンを使ったりもしましたね。

KT:窓から島尾ミホさんが覗いていて、壁に映った文字が出たり消えたりするショットがありますが?

OK:あれは虚像なんです。どういう意味かというと、ダイレクトに写してなくて、鏡に映った島尾ミホを撮っているんです。で、バックにあるのは島尾さん直筆の屏風で、それは実像なんです。屏風の前に鏡を置いたんです。

KT:光を切っていくというのはすごい手間ですよね。

OK:だから、1日にワンシーンですよね。ワンシーンというのは、大体(テープ)2本に渡ることもあるけど廻しっぱなしにして撮っていって、勿論フレームを変えたりもしますけど、ズームで寄る時もオートでやらないで、自分の手で、自分でも分からないくらいの息の長さで寄っていくやり方をしたりね。

 これは後で『花子』にも繋がっていくんだけれど、これまでビデオ撮影ってのは極端なハイライト部分は画面から排除していく。そしてできるだけコントラストの少ないフラットはライティングをして、逆ライトなどは使わない。そういう意味ではビデオの弱点を避けていくという使い方しかしなかった。でも彼との仕事でその辺の概念を開放したというか、暗部ギリギリのところで撮影していきましたよね。

 フィルムであのトーンを出すのはかなり難しかったんじゃないかと思う。例えばASA400位のフィルムを使えばいいだろうけど、あそこまで(照明を)落とし込んでいくと粒状性の問題が出てくる。具体的にPALとNTSCの比較はしてないけれども、走査線の数が多いだけにPALの画はしっかりしている。PALでないとできなかったかもしれないですね。そういう意味ではあの作品は大変勉強になった。

7. 『花子』

KT:PALの撮影をここで経験なさって、『花子』(2001)でまた使われるわけですが、これも走査線の問題で選ばれたんですか?

OK:これは山上(徹二郎/プロデューサー)君の方から「PALはどうでしょうか」という提案があって、PALで、フランス(の現像所)でキネコ作業をやりたいと。金の問題も多分あったと思う、日本の半分くらいで出来るだろうし。フランスでやったら50分の作品で200万円くらいで出来る。それを日本でやると500万円近い金額になるんじゃないかと思いますけど。(正確な数字ではないですがね。)同じ綺麗さということでは、技術的には現像場の段階ではそんなに差はないだろけど。僕もビデオで撮ってフィルムにトランスファーしたものを見ていて、確かにかなりのところまでいきそうだ、成算はつけられるなと思っていたんです。それで、面白いからやろうかと。

 スタートの段階では相変わらず経済的にはゼロに近い状況でしたけども、DSR-PD150というカメラ、これはこれまでに使ってみて、かなりよくできた機材であるというか、かなりのところまで出来るなということまでは計算出来たから、じゃあこれを使ってみようということになったんです。

KT:経済的な制約を逆手に取られて、楽しみながら撮っていたみたいですね。

OK:我々は何時でも金のない作品をやらざるを得ない可能性を持っているし、これから若い人たちがモノを作っていく時、金を使いたくても使えない所からスタートしなければならないだろうから、そういう意味ではこの作品は自分の手近なところで使える機材で何処まで出来るかという実験だった。それを僕は非常に面白いなと思ったし、積極的にやろうと思いました。初めから35mmプリントで完成する予定だったし、小型なハンディカムのカメラを35mmカメラのように使いこなしてみる。久しぶりに撮影的には刺激的な試みでした。

KT:実験的なアプローチですけど、かなり上手くいっていますね。

OK:完成したプリントでビデオの痕跡を感じるところは2〜3箇所あるかと思いますが、あれはテストの段階で使った、PD150より数段劣る機材でね。PD150を使った部分はかなり上手くいったと思います。でも相当上手く使わないと走査線が出て来るというか、ビデオの痕跡が残るんですよ。特に難しいのはオープンですよね。室内はある程度光の制御が出来るから、ギラつく裸の光線が入ってこない。ところがオープンにはどうしても制御出来ない裸の光線がありますよね。それをどうするかということはPD150くらいだと出来るけど、アマチュアのカメラになってくると全部をマニュアル操作出来ない弱点が出てきますからね。オートに頼らなければいけないところが出てきますから、その辺にどうしても馬脚が現れてきましたよね。

KT:色のトーンとしてはアンバー系に転ばせていらしたみたいですけど?

OK:意識的にアンバー系に転ばせていたんです。(今村)花子さんが持っている世界、彼女を取り巻く世界は青の世界ではない、冷たい世界ではないと思ったんですよ。やっぱりアンバーの、ウォームな世界だということでそうしたんです。ゼラチンのフィルターを使うと最初想定した淡いアンバーの世界をつくることはできるが、それを使うとなると、一人で全部やらなくちゃいけないから貼り合わせに時間がかかっちゃうし、貼りっぱなしにすると傷が付いちゃう。傷は怖いからね、小型ビデオの画面の拡大率が大きくなっているから小さなホコリとか、傷がスクリーンの上では致命的な大きさになってしまうから。そういうことでガラスの使いやすいケンコーのウォームを探してきたんです。ゼラチンのフィルターでいうと81CかDに近いんじゃないかな。想定したよりアンバーは濃くなってしまって、しかしこまやかなことは仕上げの段階で現像場にまかせるとして。面白いのはあのフィルターを使うと色が暖かくなると同時に雰囲気が非常に柔らかくなって、ビデオのギラつく感覚がなくなって、フィルムに近いトーンになってくるんです。ビデオを使って劇場で上映する作品を作っていく時には研究して良いと思いますよ。普通のビデオ作品の場合でも一考に価すると思いますよ。

KT:機材を拝見していると、アマチュアにでも手に入りそうな撮影・編集機材を使って仕事をなさったわけですが、こういうアプローチを検討すべきかもしれませんね。

OK:僕はかなりそれを意識していたんです。この機材だったらヨドバシカメラでも買えるんだよと、PALはちょっと買えないですけど。全部そういう範囲の物を使ってみる。例えばPD150は実際は30万余りで手に入るわけです。そうすると1台買っちゃえよ、となるわけです。フィルターなんて2千円ですよ(笑)。三脚は1万3千円。

KT:オフライン編集の環境も40〜50万くらいでプロと同じ物が手に入りますからね。そこまで環境が整ってくると、後は「どう撮るか」ということになってきますよね。

OK:そこから先が作り手のオリジナリティというか、創造性の問題になってくると思いますよね。金がないから安く作るということではなくて、それを逆手にとって、その辺に転がっている機材を上手く使って、ケチケチするのとはまた違った形で、金を使わないで夢を作っていくことが出来るかどうか。それが僕にとって『花子』での実験だった。それはかなり上手くいったと僕は思います。

8. 今後の展望を含めて

編集者:大津さんは最初はむしろ撮影には興味が無くて、演出の方に行きたかったという話ですけど、ご自分で監督をなさって作品を作ることは無かったんですか?

OK:監督をやらないかという誘いはあったんですけど、カメラマンが演出をする時、よほど注意しないとよく失敗するんですよね。というのは、映像的に溺れちゃうんですよ。映像的にすごく良いんだけれど、作品総体としては薄っぺらなものになっちゃうというね。

 今、これは本当に作品として作れるかどうか分からないんだけど、撮影は終わっているのは、大野一雄さんを追っかけていたんですよ。大野さんとは『魂の風景』(1991)以来10年間付き合ってますから、大野さん側も信用してくれて、個人的に付き合ったり、時々カメラを廻したりしていたんですがね。最近大野さんは身体をこわして、しばらく舞台から遠ざかっていたんですけど、織部賞のグランプリを貰った記念に公演を再開するということで、本人もだんだん元気になっていったんです。それで去年(2001年)の9月・10月と彼の稽古場に通って、彼の人となりや稽古の様子を撮っていたんです。彼の舞踏の再開の過程を、すざまじいまでの踊りへの欲望と生への希求の姿を描いてみたいと思ってね。

KT:完成が楽しみですね。本日はお忙しいところありがとうございました。

 


加藤孝信 Kato Takanobu


1989年より小川プロダクションに参加。1992年の解散に伴い以降フリーの撮影・照明に。主なドキュメンタリー作品としては、『映画の都』(飯塚俊男監督、1991)、『小さな羽音』(飯塚俊男監督、1993)『満山紅柿』(小川紳介、彭小蓮監督、2001)等に参加。他ビデオ作品など多数。

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