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日本のドキュメンタリー作家 No. 6

亀井文夫

牧野守(解説)


映画誕生100周年を記念して、「日本のドキュメンタリー作家・インタビュー」シリーズでは、今年、現在の日本のドキュメンタリー映画の基盤を作った作家たちに目を向けることにしました。今まで本シリーズでは作家とのオリジナル・インタビューを掲載してきましたが、今回は、日本ドキュメンタリー映画史に大きな位 置を占めている故亀井文夫監督が、1940〜1年度制作の「小林一茶」(山形国際ドキュメンタリー映画祭'89で上映)と「伊那節」について講演した1974年頃の記録を載せさせていただきました。それを録音し、「Documentary Box」に提供して下さった映画史研究家の牧野守氏に解説をお願いしました。

――編集者

解説

 戦前、戦後を問わず、日本を代表するドキュメンタリー映画の監督として、亀井文夫を挙げるのに反対する人はないであろう。

 ところが彼の作品ということになると今日でも支持する者もあれば、反対する者もあって必ずしもその評価は一致しない。それほど亀井文夫はその時代々々の社会的動向に深く関わり合いながら作家として自己を貫き通 した異色の存在なのである。

 亀井は1908(明治41)年に生まれた。1930年代、当時ソビエト・ロシアのレニングラード(現ペテルスブルグ)で映画を学んだ彼は、病に倒れて帰国、病気が快復して後、東宝映画の前身、P・C・Lに入社したのが1933(昭和8)年、彼が25才の年である。

 そこで彼はドキュメンタリー作家として頭角を現わした。

 やがて、亀井は第二製作部、つまり当時文化映画と言われた記録映画の演出担当となった。そこで彼が力量 を発揮したのが1937(昭和12)年頃からの長編ドキュメンタリー映画の構成、編集であった。それこそ本場仕込みのモンタージュ理論と技法を駆使して、すでに突入していた中国大陸での十五年戦争を題材にした作品「上海」で注目された。

 しかしながら、聖戦意識の濃厚な時代風潮のなかで、亀井の視点は客観的でリアルに凝視しつづける姿勢を貫いたものであった。

 次作「北京」に続く問題作「戦ふ兵隊」は取締まりに当たった検閲官を激怒させることになった。「これは戦ふ兵隊でなくて疲れた兵隊だ!」

 傷ついて隊列から取り残された軍臣がくずれおれるシーンが象徴的な場面であった。

 結局「戦ふ兵隊」は公開中止となった。映画は国家統制下のもとで「映画法」が施行され、作家の意志を通 すことが困難な時代になっていった。しばらくシフトから外されていた亀井に回ってきたのが長野県の観光PR映画の製作であった。この企画が「信濃三部作」となり、第一篇「小林一茶」第二篇「伊那節」第三篇『町と農村』という3本の作品となった。いや、なる筈であった。第一作、第二作は完成したが、第三作は撮影開始後中止となったためである。第一作の「小林一茶」は山国の厳しい農民の現実が詩情をこめて語られた27分の短編である。しかしながらここに描かれた映像の力は見る者の心をゆさぶる迫力に溢れていた。そして、文部省はこの作品の認定を取り消した。この年の日本映画監督協会は、この「小林一茶」を授賞作に選定したが、文部省の強硬な申し入れによって撤回処分となった。

 1941(昭和16)年の10月、太平洋戦争勃発2ヵ月前に亀井は治安維持法違反の容疑で逮捕され、1年間の留置所暮しの後に釈放されたが、起訴猶予で保護観察、つまり日常生活が警察の監視下に置かれることになった。映画法の適用による監督の免許剥奪の第1号となった。

 戦争は終わって、監督に復帰したものの亀井の受難は終わることがなかった。日映製作の亀井作品「日本の悲劇」が天皇の戦争責任を追求したということで、占領下のGHQから上映禁止処分を蒙ったのである。軍服姿の昭和天皇が深いオーバーラップのなかで平服の姿に変わる場面 がすこぶる印象的に描かれていた。

 やがて、ドキュメンタリー風の劇映画を数本監督したが、再びドキュメンタリー分野に戻り、独立プロダクション「日本ドキュメントフィルム社」を設立した。ここから亀井の作家としての本領が発揮されることになったのである。

 まず、米空軍基地拡張反対の農民闘争をテーマにした「流血の記録」(1956年)三部作を手始めに原爆被害者の実態を取り上げた「生きていてよかった」(1956年)、部落差別 を扱った「人間みな兄弟」(1960年)など話題作を次々に世に問うた。私は「生きていてよかった」の時に無給の仕上げスタッフとして引っぱり出されたのが亀井監督と関わり合うきっかけである。

 主として日映に保存されていた原爆の記録を調査して必要な画面を選び出す仕事を担当した。友人のプロデューサーが金が出せないが協力してくれと面 と向かって切り出した時、傍らに居た亀井監督が「俺にはそんなこと言えないなァ」と述懐したことを記憶している。亀井監督とはその作品だけだったが、寧ろ身近になったのが、1972(昭和47)年にきっぱりと映画界から絶縁して渋谷に「東洋人」という骨董屋の店主となってからである。開店の日に招かれて購入した水牛の骨で出来た船の模型は今でも書斎に飾られてある。時間を作っては彼の店に伺い、よく話し込んだ。時にはテープレコーダーを持ち込み録音を取った。時には小集会で彼の作品を上映し、そこでの解説を引き受けた時には、一緒に同行して録音機を回した。

 今回、紙上で復元したのは「小林一茶」の上映会での亀井の講演の一つである。

 1987(昭和62年)2月27日、亀井文夫は息を引き取った。78才である。晩年の体調を崩した健康状態を押し切って、長編「生物みなトモダチ――トリ・ムシ・サカナの子守歌」(1987年)を完成した。地球破壊につながる環境問題をテーマに、フィルムに記録した彼の遺書であった。死去一週前に病院を訪れて彼の意気盛んな声を録音したのが彼との別 離となった。

(解説:牧野守)

 


亀井文夫監督による講演


 「小林一茶」という映画、あれは長野県の観光からのいわゆるスポンサー映画として、観光映画を作ってですね、それでできたのがこの「小林一茶」というのと、それからもう一つ「伊那節」というのと、それから『町と農村』と3つを作る予定だったんです。それは、最初にそれを頼まれました時に、そのころの観光映画というものはほとんど、たとえば今だったら、まったく映画をまだ作ったことのない素人のひとの8ミリのような、やたらに写 すのに近いような映画がほとんどだったんです。それをなんとか映画のましな手段でもう少しつっこんだものを、観光映画ではあるけれども、それをチャンスにやってみようと。まあ若い時代ですから、ことにチャンスを与えられないわけですから、なんでも目の前に転がってきたものを自分のチャンスとして生かしていこうという野心が強くて、日本の農村の記録映画を作ってみようと。そういう目的があったんです。そのためには、つまり日本の農村ということは、とくに自分は農村についてそれほど深い造詣があったわけでもないので、まず最初に、いま題名は忘れましたけれども、ある福島県出身の人が、日本の農村について、3冊ぐらいの雑誌に発表したのを読んだわけです。それは立場からいうと唯物史観の上に立った日本の農村の研究だったのですが、それを読んで非常に感銘を受けました。農村には要するに稲作だけではなくて、そこには経済にしろ歴史にしろすべて日本の農民の宿命みたいなものがごろごろしていることを知ったわけです。それで、まず、「小林一茶」というのと、それからもう一つ「伊那節」というのを作ったわけですけれども、伊那節というのはご存じのように民謡なんですが、その映画の組み立てから話しますと、ちょうど徳川時代に伊那の高遠に殿様がいて、その殿様がたいへんに浪費をして、まあ、お金が欲しいわけです。それで伊那谷の百姓の作る米を、ほとんど小作米をむしり取るように取り上げまして。一方、ちょうどその頃木曽街道に新しく人通 りができてきて、宿場ができて、つまり商業が興ってきたんです。ちょうど木曽街道の辺りは、山間部の人々がまったく田圃を持たなかった所ですから、そこへ伊那の米を運んで売ってそして儲けたと。そういう農村と商業との組み合わせが、木曽と伊那との関係に、2つのこの地域、地区間に現われたわけですよ。ところが百姓にしてみれば、自分たちが汗水たらして作った米を殿様の諸事遊蕩のために使われるということはひじょうに悲しいことだったわけです。伊那と木曽の間にゴンベエ峠という峠がありまして、そこを、米を背中に積んだ馬を曳きながら越して行くときに歌った歌というのが伊那節の始まりだというようなことを、まあ言う人もあるし、また製作するこちらも幾分こじつけたわけですが。そういう意味では伊那節の中の歌詞がいちばん重要だったわけなんですけれども。それは例えば、「木曽へ木曽へとつぎ出す米は伊那の百姓の涙米(なみだごめ)」という文句で、そういうものをテーマを展開する重要な言葉にして製作したんです。すなわち、結局そういう農民の苦しい生活から生まれた伊那節も、いまは電波にのって、あるいはまたお座敷で芸者の唄となって、日本中で歌われていると。つまり、労働の歌がお座敷の唄に変化していっているというような内容です。それを「伊那節」という題目にして。

 それから、「小林一茶」というのは、信州の観光というものは何であるか、つまり貧しいから観光という手段にしか頼れなかったんだというようなテーマでした。それからもう一つの『町と農村』についてですが、役所が蚕を作って、繭を生産して、生糸を多くはアメリカに売るのが、長野県、信州の産業のいちばんまあ重要なものだったわけです。われわれがそこへ行ってびっくりしたのは、その当時まだ開発されたばかりのラジオが長野県の農家にはどこにでもあって、そしてそのラジオで流行歌などよりもむしろ相場、しかもニューヨークの相場のようなものを聴いているわけです。結局長野県の養蚕というのは、生糸をニューヨーク、アメリカへ送るわけですから、アメリカの経済環境のすべての状況が長野県の農家の経済に影響するということです。ある年はアメリカの不況のために長野県の農業が成り立たなくなって、せっかく作った繭を百姓が売りに行っても叩かれてしまうし、つまり金にならないわけですよ。帰り道に繭を川へ捨てるところ、そんなところがまあ映画の発端になっています。それで、全体としての締めくくりは、長野県の農業はあくまで長野県の自主的な農業、産業でなければ危険なのではないかということなんです。アメリカに依存することによって成り立つような産業だけに、このおんぶしているという話は危険ではないかというような、そういうテーマだったんです。3本とも撮影はしたんですけれども、この「小林一茶」と「伊那節」の2つは出したんですが、『町と農村』は、まとめる前に検閲などの関係でもう出せないということになって、そのまま見送って、フィルムのまま、編集しないまま見送ってしまったわけです。その3つをあわせてしまうことについては、これで三部作にしようということなんですけれども。

 それから戦後になって、小林喜一さんが編集した「日本の抵抗文学」という本の中に、この「小林一茶」のシナリオを載せようというんで載せたんです。まあ、皆さんが現在この映画をご覧になって、なんでこれが抵抗なのかと思われるかもしれないと思う。しかしそれはあくまで当時の状況、つまり社会的な状況との関係で考えなければ無理なことですし、当時は満州事変、支那事変、ちょうど支那事変が始まった頃すなわち昭和12年ですから、つまり外国との戦争によって日本が不況から脱出しようとした時期で、こういったいろんな問題に対するバランスのとり方がたいへん難しくて。簡単に言えば、「文藝春秋」、あるいは「改造」(昭和30年廃刊)という雑誌がありますが、こういうものは読むだけで、特高警察にマークされました。「改造」というのはけしからんというわけです。それから「文藝ハルアキ」などを読んでいるのもやっぱり左翼だというふうに言われるような時代でした。

 まあ、お話にならないぐらい過酷な仕打ちが映画にもあったり。「小林一茶」は、いちおう検閲は通 ったんですよ。しかし、その時日本の、この国の方向は戦争へと向かっていたわけで、軍部がほとんど文化面 まで掌握している時ですから。そしてそのために映画館では、かならず文化映画という実写 のようなもの、あるいはまた科学映画のようなものを一本つける強制上映というものをやらせていたわけです。劇映画だけでは、ただおもしろおかしいだけではだめだったんです。国民はもっと科学的ないろんなことを知らなきゃいけないというようなことで、強制上映ということをやったんです。しかし、実際は科学映画などではなくて、これは、日本の軍隊が中国、支那で、どういうことをしているかとか、なぜ戦争をしなければならないかとか、そういう、軍あるいは日本の政府が必要とした宣伝を強制上映するというのが目的だったんです。そして文化映画という名が強制上映に与えられて、劇映画とかならず抱き合わせて映画館で上映させた。文化映画というのは、同時に、これは文化映画であるかどうかという認定をする役人がいまして、認定文化映画ということになっているんです。われわれは文化映画だと称して、映画を認定に出しましたら、検閲は通 ったんですけれども、認定されなかったんです。これは文化映画ではないと。東宝の日劇では、これを非認定文化映画といって、まあいやがらせのような売り方をして売ったわけです。幸いひじょうに反響がありまして、会社としてはそうとう利潤が出たわけですけれども。そしてその年の暮れに、監督協会というのがありまして、そこがその年の映画に賞を出すという時に、この映画と、それからもう一つ「小島の春」(豊田四郎監督、1940年)という、癩病を扱った映画があるんです。これと2本が監督協会で賞を受けるということになって。それで僕はその監督協会の幹事の人から、賞を受けることに決まったと言われ、副賞として時計などがあるんだけれども何が欲しいかときかれて、まあ時計が欲しいと答えたわけですけれども、それから一週間ぐらいしてから、賞はとりやめたということの通 知を受けたんです。どうしたんだと言ったら、文部省から、非認定の映画に賞を出すというのはけしからんということで、監督協会が叱られましたと。それで結局賞も貰えなくなったことがありました。こういう映画でどこがそれじゃ悪いのかということを、後に警視庁の刑事と、接触といいますか、検挙された時に話す機会があって、その時にこちらが訊いたんですよ。全体として別に悪いことはないけれども、しかし戦争をやろうとしている時に農村をなんか暗いイメージで描くのは、ことに農民というものを暗いイメージで描くのはもってのほかだと。それから、宗教というものは、戦争の場合に重要だということを言うんです。それは、靖国神社もそうであるけれども、同時に善光寺のようなものも、戦死者が手厚く葬られるかという意味ではひじょうに重要で、その善光寺をからかうような待遇でやっているのはけしからんということのようでした。たまたま善光寺を撮影している時に、善光寺の方では、善光寺の真裏の山の中腹に新しい納骨堂を造る計画があり、全国の戦死者の骨をその納骨堂に分骨して納めれば靖国神社だけではなくこの善光寺にも信者がいつまでも来てくれるから、そういう計画をいま立ててるんだということで、そしてそのためにお参りに来ている人たちに、瓦のお金ですか、屋根瓦を一枚葺く場合にいくらというふうに、寄付を募ってるんだというようなことを言ってました。つまり、戦争にとって寺というのも、また、そこで、戦争をやる場合には必要だということです。最近、靖国神社法案やなにかということが盛んに問題になっているのは、やはり日本の再軍備に必要な一つのセクションであるというのと同じだと思うんですよ。

 まあ、こんなわけで、観光映画を、そういう農村映画として、しかも農村を唯物史観的な立場から見て映画を作るというようなことは、なかなか当時は難しかったんだけれども、まあ、いちおうやってできたということが、この映画の映画史的な意味じゃないかと思います。作品としてどうのこうのと言う以上に、僕自身はそこに基本をもって、今、改めて何年ぶりかに観たわけです。

 まあそんなわけで、また次の映画を。すいませんどうも。

 


牧野守


 1930(昭和5)年生。戦後(1947年頃)上映運動から転じて映画製作の分野にかかわる。独立プロで編集に従事、最初は劇映画の演出助手で、民芸の宇野重吉監督の第一回作品などに就く。

 テレビ開局とともにKRT(現TBS)の映画部に入社、フリーとなってNET(現テレビ朝日)の創立とともに主として教育番組の構成、演出をレギュラーで長年にわたって担当した。

 一方ドキュメンタリー映画では毎日映画社、学研映画部、共同テレビ(フジTV)、NTV映像、朝日テレビ映像などで企画、シナリオ、演出を担当作品多数。この間には長編記録映画「激動の二十世紀」(松竹封切)「世紀の傷跡」(東映封切)の構成、演出もある。

 平行して独自に日本映画史の理論的な調査、研究を続けてきた。そこでの収集した資料をもとにして映画の基礎資料の復刻化をすすめ「キネマ旬報」「検閲時報」始め多数を刊行している。4年前読売映画社での作品「光のなかに消えたレリーフ 中野刑務所」「戦争のなかのこどもたち ある国民学校の集団疎開」を最後に現場を離れて、川崎市市民ミュージアム開館以来、非常勤の研究員として従事しながら映画史研究を続けている。

 日本映像学会映画文献資料研究会代表。