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カットを巡って
――インド映画における検閲

シュラッダー・スクラーマン


 火のついた煙草のような無害なものでも、映画検定中央委員会(CBFC)ことインド検閲委員会の猜疑心を刺激するには十分である。彼らの考えでは、このシンボルや、背後に流れる平和ソングの歌詞、または淡々と状況を語る暴動の犠牲者たちは、感化されやすいインド民衆に影響を与え、法と秩序を乱すような行動に駆りたてることになっている。たしかに馬鹿げた言い分だが、インドの映画作家たちは、このセリフを聞かされることを覚悟するようになってきている。

 3人の性風俗で働く人々を描いたビシャーカー・ダッタのドキュメンタリーは、2002年6月からずっと検閲委員会で足止めをくっている。婚外性交渉、喫煙、飲酒、わいせつ行為、売春を助長すると委員会によって判断されたからだ。今年、CBFCがアナンド・パトワルダンの『戦争と平和――非暴力から問う核ナショナリズム』からカットすることを要求した21のシーンの中には、ガンディー映像財団が保管している、マハトマ・ガンディーが暗殺者のナートゥーラーム・ゴードセーに撃たれる映像も含まれていた。取り消すことのできない歴史の一場面である。2002年にインド・グジャラート州で起こった暴動の犠牲者たちの惨状を撮影したラメーシュ・ピンプルの『Aakrosh(爆発)』は、「暴力を描写している」という理由で、検閲通過の証明書をその場で拒否された。「全編にわたって否定的な印象であり、この作品がどこで上映されようとも、民族、宗教間の憎しみにつながる」と彼らは言う。

 しかし、この専横的でしばしば気まぐれな検閲委員会の性質が、一般公開にまったく影響を与えなければ、何ら困ったことにはならないだろう。映画作家と、自らの存在がインドに微妙な平和のバランスを保っていると信じている独善的な委員会は、互いに同意できないことに同意するはずだ。

 しかしここ数年の間に、検閲委員会の力はふくれあがった。CBFC検閲通過証を発行して劇場での上映を許可するという形で、常に権威を振うようになったのである。ありがたいことに、これによってドキュメンタリー映画作家たちが、映画祭に作品を出すのを断念することにはならなかった。

 現在は隔年で開催されている、政府の映画局主催によるムンバイ国際映画祭(MIFF)は、すべての参加作品にCBFC検閲通過証の取得を義務づけた。訂正:すべてのインドの参加作品だ。外国映画は何でも大歓迎である。

 「インド国内で制作されるドキュメンタリー映画の数がますます増えている現在、扱われる題材は単に政治や性の問題だけではなくなってきています」とダッタは言う。「新しい種類の映画が作られるようになり、ドキュメンタリーだけが弾圧にあっている。そうでなければ、彼らがMIFFにかまうわけがないでしょう?」

 3人の性風俗で働く者たちの語りを記録したダッタの映画は、彼らをリアルな問題を抱える本物の人間として描いている。この作品は、南アフリカの三大陸映画祭、カナダのグローバル・ヴィジョン、インド・ティルヴァナンタプラムの国際ビデオフェスティバルで上映された。ムンバイ在住のダッタは、MIFFにも出品したいと考えている。「すべての根底にある考え方が問題なんです。つまり、官僚主義者がクリエイティブな内容をコントロールしている。私たちは原則と戦っているのです」と彼女は、この動きに反対する怒れる映画作家を代表して語った。

 しかし検閲委員会にとっては、論争もどこ吹く風である。委員会のメンバーのほとんどは官僚であり、またある映画作家は「映画の知識が少しでもあればメンバーになれない」と表現している。彼らが信奉するのは、1918年に制定されたインド映画法だ。1920年、ボンベイ(現ムンバイ)、カルカッタ(現コルカタ)、マドラス(現チェンナイ)、ラングーン(現ヤンゴン)で映画検閲の機関が設立され、そのほぼ直後に最初の検閲が行われた。コーヒヌール社は1921年に2本の映画を制作し、『Ansuya(偉大なる貞女アヌスヤー)』は、出演女優のサキーナーバーイがあるシーンでヌードを披露しているにもかかわらず、何のお咎めも受けなかった。しかし『Bhakta Vidur(信心深いヴィドゥル)』は、主役がマハトマ・ガンディーのそっくりさんであるという理由で上映禁止になった。1918年の法律は今までに何度か修正が加えられ、「無制限鑑賞(U)」と「アダルト鑑賞(A)」のための新しい検閲基準が設けられた。それによって委員会は、世界最大の商業映画工場の運命を決める力を手に入れ、ドキュメンタリー映画の運命もまた委員会にゆだねられることになった。

 検閲委員会は、インド政府の情報放送省の管轄下に置かれている。委員会が過去においてカットを要求した映画は、シェーカル・カプールの『女盗賊プーラン』、ミーラー・ナーイルの『カーマ・スートラ/愛の教科書』、ディーパー・メーヘターの『炎の二人』、そしてもっと最近の作品ではアヌラーグ・カシャップの『Paanch(5)』などがあり、これら以外にも無数に存在する。

 アメリカでは、児童の鑑賞にふさわしい映画のガイドラインが決められているが、劇場での上映についてはまったくと言っていいほど規制がない。一方インドにおいては、まずキスシーンを許可するかどうかを話し合うために最初に委員会が設立された。(ヒンディー語の新作映画『Khwahish(欲望)』の製作者は、観客を惹きつけるために、映画の中の17のキスシーンを宣伝に利用した)。その委員会はまた、「過度な暴力」をカットすることを要求したが、これらの決定はしばしば現実からかけ離れていた。カプールの『エリザベス』の斬首シーンは激しい非難にあったが、『Shakti(力)』で描かれた人間の頭をサトウキビ粉砕機にかけるシーンは、インドの現実の一部である。

 検閲委員会の決定がさらに重要になったのは、実際にドキュメンタリー映画を通した現実と直面すると、彼らがいつにも増して道理の通らない存在になるからだ。『戦争と平和』は、昨年コルカタで行われた政府主催の映画祭でオープニング作品になるはずだったが、地域のCBFCのある役員によって上映を禁止された。彼らの苦しい言い訳によると、フィルムが時間通りに届かず、そして届いても損傷していたそうだ。その直後、パトワルダンのこの作品は、検閲上の理由でムンバイのプライベート・ホールでの上映を禁止された。これは、パトワルダンが同じ年に政府主催のMIFFで最優秀作品賞を受賞した後の出来事である。

 昨年、グジャラートで宗教紛争が勃発した際、カメラを抱えた映画作家たちが現地に殺到した。その紛争は、ほとんど州が援助したテロリズムだった。殺害された1000人は主にイスラム教徒で、数千の家が破壊された。テレビと映画の両方が、警察と政治家に護衛された暴徒の様子を語る犠牲者を記録している。ある監督は、ジャーナリストが自由に参加できる上映会で未編集の映像を観ることさえできたが、その映像について何も書かないよう要請された。上映禁止を恐れてのことである。いくつかの映画が、このグジャラートの暴動から生まれた。政府の民族的・宗教的偏見が露呈するのを防ぐために、検閲委員会がMIFFに新たな規定を設けたというのが、一般の一致した見方である。「映画作家にとってはまさに八方ふさがりです」とダッタは指摘する。「私たちは試写での上映もできません。なぜなら、彼らはそれをかぎつけると、上映は違法であるという手紙を試写室側へ送るからです。」

 ピンプルにとって、闘いはMIFFはおろか『Aakrosh(爆発)』の前からすでに始まっていた。彼の映画『Chords on the Richter Scale』も、検閲委員会と一戦を交えた。2001年のグジャラート地震後に援助物資が配給された際、少数派のイスラム教徒に対する偏見があったことを示唆しているからだ。

 MIFFの取り決めに闘いを挑む過程で、映画作家たちはインド・ドキュメンタリー映画製作者協会(IDPA)の支援を得た。彼らは一致協力し、デリーに赴いて政府関係者に会い自分たちの懸念を伝えてもいる。映画作家たちは、たとえ例の条項が取り消されることになったとしても、役人が他の手段を用いて自分たちの作品を閉め出すのではないかと危惧している。出品作品を試写をして選ぶ試写委員会に指示書が渡され、ある種の映画の出品が妨害されるのではないかと恐れているのだ。

『戦争と平和――非暴力から問う核ナショナリズム』

 このような高圧的な態度に何度も遭遇していて、その映画が最近の論争を巻き起こした人物といえば、アナンド・パトワルダンである。インドでもっとも重要なドキュメンタリー映画作家であるパトワルダンは、流血(『父、息子、聖なる戦い』)、宗教・民族対立(『神の名のもとに』)、スラムの住人(『Bombay Our City』)、ダム反対運動(『ナルマダ・ダムの5年』)などを通じて、人道的なメッセージを送ってきた。彼の作品はその他にも多数ある。1998年に最初の核実験が行われた際、彼は他のすべてのプロジェクトをなげうち、カメラを抱えて飛び出した。

 彼は3年以上に亘って撮影を行い、インドやパキスタン、また世界のその他の地域で台頭する軍事主義を捉えた映像をつなぎ合わせた。そして、その映像と隣り合わせに、規模は小さいが同じくらい重要な平和運動の映像を配置した。

 『戦争と平和』は3時間に及ぶ一大叙事詩であり、パトワルダン自身がナレーションを担当している。映画は1948年のマハトマ・ガンディー暗殺のシーンで幕を開け、このガンディーの平和のメッセージが全編に渡って通奏低音のように流れている。6つの章で構成されていて、防衛の名の下に核武装の基礎を築こうとするインドの熱狂ぶりをつぶさに描いている。実験後の祝賀と、国防アナリストや一般の人々へのインタビューを並列することで、パトワルダンは核爆弾の政治的側面を明らかにしていく。

 『戦争と平和』は、パトワルダンの従来のスタイルで作られている。カメラは好奇心旺盛な道具だ。それは、あらゆる階層、あらゆる派閥の人々の、反応、苦闘、従順、狂気、狡猾さに、質問を投げかける。映画の終わりに再びガンディーが登場し、それまでに観る者は現実と直面することになり、彼はそこから自分の意見を形作る。

 しかしこの映画でもっとも魅力的なのは、撮影の過程、3時間に渡って徐々に真相が明らかになっていく様子である。パトワルダンは、核兵器が埋められているすべての地帯をカバーしている。文字通りの意味でも、比喩的な意味でも。

 パキスタンとの国境沿いで、彼は同じ宗教的、政治的立場の人々を調査した。そこで特筆すべきは、「憎しみは政治の産物である」と断言する地元の人々だろう。パトワルダンは、原子爆弾について話し合う教室の様子や、パキスタンのロックバンドによる平和のメッセージなどをカメラで捉えている。そしてアメリカでは、広島と長崎への原爆投下の必要性に疑問を投げかける声に耳を傾ける。日本では、あの恐ろしい一瞬が、数十年たった現在にも依然として残している傷跡を記録する。

 そして最後に、パトワルダンのカメラがインド国内をゆっくりと移動するにつれ、すべての音がわき出てくる。核実験のために土地を奪われた農民。ウラニウム採掘による恐ろしい影響を受けた住民たち。核爆弾は国防上必要だと主張する声。核実験成功を祝う書面に血でもってサインする者たち。自らの創造物を誇らしげに語る科学者たち。そして、仕事の大きさに怖じ気づくことなく、どこかの辺鄙な土地で融和の歌をうたう小さな平和運動。

 パトワルダン自らが言っているように、彼の「語りは限られている」。「私の語りは映画全体の5パーセントです」と彼は言う。「すべての声明は人々から発せられている。しかし状況の矛盾を浮き彫りにしているのは、2つの映像を並べるという手法なのです」

 2002年2月のMIFFで『戦争と平和』が上映されたとき、会場のソフィア・ホールは人で埋め尽くされた。私のそこの2階席の床に座っていたのだが、上映の後に下に降りていくと、パトワルダンの周りには映画について話し合おうとする人々が群がっていた。そして映画祭の終わりに、彼は国際審査員賞と最優秀作品賞を受賞した。それ以降、『戦争と平和』は2002年のシドニー国際映画祭と2002年地球環境映像祭(東京)で最優秀作品になり、また世界中の映画祭で上映されている。

 しかし6月、CBFCは突然6つのシーンをカットすることを要求した。その中には、「大統領、首相、各大臣を含む政治的リーダーの、すべての映像と発言」も含まれる。その頃には、インドの核爆弾の生みの親であるカラム博士が大統領になっていた。その他にカットを要求されたのは、ガンディーは「上層階級」バラモン出身のナートゥーラーム・ゴードセーに殺されたという内容の歌を、ダリト(被抑圧階級)がうたうシーンだ。しかし、もっとも理不尽であるが十分予想できたカットの要求は、与党インド人民党がまんまとはめられたあのテヘルカ事件のシーンだろう。その要求が理不尽であるのは、武器商人になりすましたジャーナリストから政治家が賄賂を受け取るというこの汚職事件が、すでに新聞やテレビで広く報道されていたからだ。汚職現場を撮影したテープは本物であると公式に認められ、テープに登場する政治家たちもすでに罪を認めていた。パトワルダンの映画から削除したところで、人々からあの事件の記憶が消えることはないだろう。パトワルダンがその要求に抗議し、映画を再検査委員会に持ち込むと、なんとカットシーンが6から21に増えたのだ! 新しい要求は前にも増して馬鹿げていた。ナートゥーラーム・ゴードセーに射殺されるガンディーの映像を削除すること、そして人民党が選挙に使用するヒンディー教のラタ(山車)や、その他ほぼすべての人民党を連想させるものを消すこと。何年も前に人民党の対立政党であるインド国民会議派を揺るがした兵器購入を巡る汚職疑惑、いわゆるボフォース事件が映画にしっかりとはいっていたのにもかかわらず、それでもこの要求である。

 彼はこの一件を上告裁判所に持ち込んだ。そしてボンベイ高等裁判所では、『戦争と平和』をカットなしに通過させるようにという判決が下された。

 この期間、『戦争と平和』は、どんな形でも一般に上映することができなかった。「映画を作るのは決して大変ではありません」とパトワルダンは言う。インドの現実を描いた彼の他の作品、『父、息子、聖なる戦い』、『神の名のもとに』、『In Memory of Friends』でもそれは同じだ。「本当の戦いは、それを見せることなのです」

 検閲委員会が『戦争と平和』と一戦を交えたことは、明らかにその痕跡を残したようだ。それはおそらく、MIFFを通じて政府自らがその映画に2度も賞を与えたからだろう。8月、MIFFは、映画祭に出品するすべてのインド作品にCBFC検閲通過証の取得を義務づける発表を突如として行った。

検閲の網

 国立映画振興会社と、MIFFを主催する映画局の責任者であるD・ムコーッパジャーイにとっては、この騒動は正当な理由のない言いがかりである。「この問題は現在、(情報放送)大臣が考慮しているところです。決断は大臣が下すことになるでしょう。しかし、なぜ映画祭によって違うルールを適用するべきなのか、私は未だに理解できません。インド国際映画祭(IFFI)に出品されるインド映画は、何年も前から検閲通過証の取得を義務づけられています。基準はひとつであるべきでしょう。もし検閲を一切認めないと言うのなら、法律を変えればいいのです」

 しかし、ある映画局の役人は、匿名を条件に次のように語っている。「これは民主主義に対する抑圧です。映画作家の声を押し潰しているのです」。ラーケーシュ・シャルマーは、この動きに抵抗する150人の映画作家の1人だ。彼は、グジャラートの暴動と、今年6月までのその後の様子を描いた“問題作”、『Final Solution』を、映画祭に出品しようとしている。「慣習的に、どの国でも映画祭は検閲通過の証明書を免除されています。このような映画祭の実行委員は、たいてい映画に携わる人間か学生です。つまり、自分の作品を仲間たちに見せる場なのです。私たちにとっては、最後の砦が失われることを意味するのです」。この反対運動は、インド・ドキュメンタリー・プロデューサー協会の支援を受けている。しかし、MIFFの出品条件が取り消される兆しが見えてきたのは、映画作家たちの努力によるところが大きい。「しかしこれは、ここ2、3年で根づいてきた風潮の一部なのです」とシャルマは言う。「この地の検閲委員会は、以前より先手を取るようになってきました。大学やホールに出かけ、通過証のないドキュメンタリー映画が上映されないよう手を打つのです。しかし私の映像は、毎日テレビで流れるニュース映像と何ら変わりはありません」。

 『Gulabi Aaina(ピンクの鏡)』の監督であるスリダー・ランガヤンは、弾圧にあっているのはグジャラートの虐殺を扱った映画だけではないと指摘する。彼の『Gulabi Aaina』がニューデリー・デジタル・トーキー・フェスティバルの上映作品に選ばれたとき、ランガヤンは、官僚主義の迷路を抜けるという慣れない仕事に直面した。同映画祭への出品には検閲通過証が必要だったのだ。映画はそこで足止めをくった。

 ムンバイに拠点をおくランガヤンは、作品をムンバイ検閲委員会に持ち込み、その場で不合格となった。カットや修正の指示は一切なかった。『Gulabi Aaina』は、2人のドラッグクイーンのある1日、彼らの愛、苦悩、絆、そして不安を描いた映画である。ランガヤンは、映画の主題そのものが、にべもなく拒絶された原因だと考えている。「過去のゲイ映画が審査を通過したのは、それが英語で制作され、都会のゲイの男性を扱っていたからです。私の映画は、ヒンディー語を話す中流階級のドラッグクイーンを扱っている。おそらく、代替家族としての役割を果たしている彼らの絆が、家父長制への大きな打撃になったのでしょう」

 それ以降、ムンバイ検閲委員会は、その映画がデリーの委員会に最初に持ち込まれたので、自分たちが介入することはできないという言い訳を用いている。「いずれにせよ、もっと若いメンバーを増やして、若い世代の感じ方が主張できるようにするべきでしょう」とランガヤンは言う。

 MIFFの検閲通過証に関する議論が広まるにつれて、多くの人が、社会における検閲の必要性そのものについてさえ疑問を持つようになった。特にメディアが、映画と比較すると、まったくの自由裁量を許されているように見えるからなおさらである。映画評論家で、2002年MIFFの審査員の1人であるディーパー・ガフロートは、次のように語っている。「ドキュメンタリー映画作家は、あらゆる種類の検閲に反対するか、それに全面的に従うかのどちらかです。別々のルールを持つことはできません。暴動を描いた映画の場合、誰でもビデオカメラで撮影し、文脈に関係なく映像を並べることができる。映画作家は、検閲が行われる理由のほうに疑問を持つべきなのです」。

――訳:桜田直美
――監修:松岡環


シュラッダー・スクマーラン Shradha Sukumaran

『ナショナル・デイリー』、『インディアン・エクスプレス』紙のシニア・フィーチャー・ライター。同紙に商業映画及びドキュメンタリー映画についての記事を執筆。

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