日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 10
工藤充
「日本のドキュメンタリー作家・インタビュー」のシリーズでは、ドキュメンタリー映画の監督を対象にしてまいりましたが、今回はドキュメンタリー製作において極めて重要と思われる基本的な部分、製作者にスポットを当ててみました。プロデューサーの工藤充氏は40年を越えるキャリアにおいて、日本ドキュメンタリー映画史に残る多くの名作を送り出し、プロデューサーの重要性を実証しています。「Documentary Box」編集者のアーロン・ジェローと門間貴志が自由工房にてお話をうかがいました。
門間:戦後間もなく文部省社会教育局に入られてますが、そこではどんなお仕事を?
工藤:文部省の社会教育局社会教育課で、いわゆる成人教育の部門を担当してました。GHQの意向で始まった部署です。日本は戦時中、青年団体も婦人団体も全部戦争を向いてたけど、そうした団体の活動を全て文部省に委託して、民主主義教育を始めたわけです。最初は労働組合の教育だったんですけど、だんだん青少年団体の方にも関わっていましたけど。共産党も合法化されて労働組合が非常に高揚した時期ですね。それまでの労働組合運動っていうのが、例の『女たちの証言』(1996)に描かれたようなああいう時代を経てようやく自由になった時に、社会主義だとか共産主義とかにいちいちめくじらたてないで運動そのものをどう軌道に乗せていくかということで、文部省としては文化面 のことも含めてやることになった。社会主義的な人の主導でやっていけばそれまでだけど、もっと広く文化をひろげていこうというのがGHQの意図だったわけ。我々はそれにのっとって、文化活動なんかに対していろいろアドバイスするという形でやってました。GHQはそこに力を入れたわけです。それでも僕は司令部の言うことをよく聞かなかったもんだから、東京農工大学ができた時に転任させられたんだけど、そこでまた頭の古い事務官や事務局長なんかと衝突したもんだからまた文部省に戻された。そこに視聴覚教育課というのができたので、教育放送と教育映画の担当になって、それで映画に縁ができたわけ。そうこうするうちに1951年に占領時代が終わり、その時期には占領政策が180度変わって、マッカーサーは呼び返されるし、GHQやCIEなんかに来てた人たちも、日本に素晴らしい民主主義を作ろうと燃えてたロマンチストでしたけど、
アーロン:ニューディールの…
工:そう、非常にクラシックだけど善意の人たち。その彼らが全部引き揚げさせられて、いわゆる東京帝大法学部出身者を芯とした官僚体制が復活させられ、冷戦構造の中で防共の砦ができてくる。すると僕は非常に居心地が悪くなってきたので辞めたわけですよ。
ア:当時の文部省は映画に対してどういう立場をとっていたんでしょうか。
工:戦争中も文官の映画っていうのを日本は非常にさかんに作ってました。GHQが来てから、映画は非常に重要なコミュニケーションの手段ですから、向こうから16mmの映写 機もフィルムも山のように送られて来ました。全国に総司令部の映写機を貸与して16mmで社会教育その他を非常に強く進めて、それからフィルムライブラリーを全国に作って、そこに文部省も映画を製作して提供することを始めたわけですよ。ですから映画の地位 は非常に高かったわけです。それでもその当時はまだ16mmの機材が行き渡ってなくって、35mmですからね。コストは非常に高くて大変だったわけですね。
門:この文部省時代の視聴覚教育課では具体的に映画の製作っていうことは…、
工:えーっとね、映画の製作を実際に三年間ぐらいやりました。私は社会教育関係の映画しか担当しなかった。学校教育映画はつまらないと思ったから。
門:社会教育映画っていうのは観せる対象っていうのは、学校に限らないですよね。
工:学校も含めて、広く一般に見せるものというものですね。一番印象に残っているのは、羽仁進監督の『教室の子供たち』(1954)かな。
門:羽田さんが助監督をした…、
工:ええ。一番最初のヒット作ですね。それは私が担当して岩波映画に依頼したんです。
ア:結局そういうきっかけで岩波に移られたんですね。
工:まあ、そうですね。実は文部省の役人はみんな、僕も役人だったけど、この映画を観て非常にびっくりしてね。今までの文部省映画とは違って、本当のドキュメンタリーだったから。これは羽仁進さんの非常に優れた才能によるものです。今でもそうですけどもシナリオコンクールをやるんですよ。確か羽仁さんの書いてきたのは極めて短いもので、つまり上の欄に画面 があって下の欄にナレーションがあるっていう形式じゃなくてね、子供たちがいかに教育の場において行動するか、つまり子供に自分を鏡に映すような映画を作りたいっていうことだったと思うんですね。これは35mmでしたけど当時としてはなかなか思い切った量 のフィルムを回してね。昔は製作費におけるフィルム関係費は三分の一ぐらいだったんです。それを相当の量 回したんで画期的な作り方だった。役人の評価はどうか分からなかったけど、ジャーナリストが非常にびっくりして、いっぺんに羽仁さんは地位 を作ったのね。
門:この前年の『嫁の野良着』っていうのも文部省なんですね。
工:ええ、文部省が発注して岩波映画が受注したやつなんですね。僕の担当でした。普通 役人が発注すると、シナリオコンぺの形式で始まります。でも役人には決定権はない。そこで委嘱した映画・教育関係の専門家が委員会を作って選んで、見積もりを出して発注するんです。全部撮り終わってラッシュがつながった時にもう一回観るんです。それでよければ仕上げの許可を出す。それで今度は委員会も一緒に観て問題なければ完成ですね。その間は役人は何もしないんです。ところが、今だったらすごく嫌われると思うけど、僕は現場についてったんですよ。『嫁の野良着』も『教室…』も。今までの人たちと大分違うやり方をしたので、その分摩擦も非常にあったけど、あまりへこまない方だから。自分のやりたいようにやったという意味ではこの二本が最初の作品ですね、僕としては。
ア:まあ、岩波映画製作所に移られると、あの依頼というのが変わってくるのでは、つまり役人から今度は主にPR映画とか一応会社の依頼に?
工:公務員法っていうのがあって、岩波にはすぐには移れないわけですよ。だけど僕の職分は映画製作ではあったけど、予算管理その他の仕事が僕の職分だったから、文部省に事情を説明して岩波に契約で入った。入社じゃなくて作品契約ですね。僕は岩波映画ではPR映画は結局一本もやってないんですよ。何故かっていうと僕が行くと大体スポンサーを怒らせちゃう(笑)。会社も僕の使い道はそっちじゃないと思ったんでしょう。
ア:何がスポンサーを怒らせたんですか?
工:今でもそうだと思うんだけど、やっぱりスポンサー映画ってスポンサーの損になることもみすみす作ることもあるわけだね。今は8ミリビデオなんかもあるから、全部自分でもできるとスポンサーは必ず錯覚しちゃうんですよ。もうたちまち深みにはまっちゃって、どっかで見てきたPR映画とおんなじ映画を作りたくなる。例えば松戸の方にできる団地の映画をやれとか言われて、行ってみたらただの雑木林ですよね。そこに街を作るというんでその街作りの映画をどうしたらいいかって言われて。とにかくそこに素晴らしい四階建ての団地ができるわけですよ。今だとウサギ小屋だけど当時は大変なもんですね。
佐久間ダムの映画みたいの作れっていうけど、全く佐久間ダムにならない(笑)。それでね僕が「もうちょっと違うことでやりましょう」と言ったら、向こうは極めて面 白くなかったらしいの。それで社に帰ったら「君もうやらなくていいから」って僕は外されちゃった。助かったって思ったけど。やっぱり僕よりもちゃんと人はそういうスポンサーの意向も汲みながら、佐久間ダムを作ったりっていうのもあるんだし、僕は口の聞き方がちょっと悪かったんでね。それで文部省の一番最初にやった大きい仕事が『法隆寺』(1958)なんですよ。『古代の美』(1958)という映画も、これも岩波時代に文部省から受けた仕事ですよ。その当時は今と違って、映画はもっと社会的に大事にされて予算も多かったわけ。ですから準備期間も、ロケハン、シナリオハンティングなんかを含めて実にちゃんとした仕事をしたんですよ。たった20分の映画作るのに東京博物館、京都博物館、奈良博物館、それから個人の蒐集家を探して見に行ってね、そこまで仕事ができたわけです。だから昔の方がこういう映画については理解がありましたね。『法隆寺』も法隆寺に一週間ぐらいかけてあちこち綿密に見てフィルムのテストもして。あそこには独特の色があるでしょ。法隆寺の赤い色、それから塀の土の色、これが晴れてる時の色、濡れた時の色、そういうのを奈良に泊まり込んで調査する余裕があったわけ。
ア:例えば今評論家が50年代の岩波時代を語ると、普通は作家を中心に話をします。羽仁さんとか黒木さん、あと土本さんとか…。でもその当時の岩波製作所の中で製作者は、最終的に画面 に出てる映像にどう関与し、どういう役割を果たしたんでしょうか?
工:それはね、僕は一本一本契約でやってましたけど、あそこには小口禎三さん、それから今はもう亡くなってしまったけど吉野馨治さんという二人の映画キャメラマンですけど、その人たちが現場の取り仕切りをしていた。で、撮ってきたラッシュは必ず二人のうちどちらかが見ていろいろ指導をしたわけですよ。だけどあそこはタイトルに製作者やスタッフの名前も一切出さないやり方をずっとしてたんでね。だけど実質は吉野さんの方は元東宝の劇のキャメラマンで、それか中谷宇吉郎の研究所にいた小口さんと一緒にそれをやっていて、その下に僕みたいな人間は一人しかいなかったんじゃないかな。普通 は監督がプロデューサーである吉野さんなり小口さんと相談してそれで進行していくんで、そこに僕は余分な人間としていたんですね。
門:この時代にこういう映画はどういった公開のされ方がメインだったんですか?
工:結局文部省で作った映画は、各都道府県に文部省予算で配付されるわけです。出先にも16mmが大分ゆき渡ってたんで、16mmで見せるということだけですね。教育目的、社会教育目的、『法隆寺』なんかは学校教育でも充分使ったし…。
門:『動物園日記』(1957)は日活系の劇場で公開されたそうですが。
工:私と羽仁進さんとで、いろいろ仕事している時に出てきた企画です。羽仁さんはアフリカ行って今も動物と仲良しだけど、その頃から動物にすごく関心持ってたわけ。それでこの企画を二人で会社に提出したの。会社もPR映画で余力があるからOKが出てね。それは本当に羽仁さんとキャメラマンの何人かで、極めてのびのび撮ったんです。
門:これは依頼じゃなくて?
工:ええ、岩波の自主で。それと例によって僕はPR映画に向かないとかいろいろあったけど、まあ上野動物園にこもって映画撮ってる過程が非常に楽しかったですね。映画は非常に出来が良かったんで日活系が劇にくっつけて上映したんですよ。あの頃二本立ては相当多かったからそのうちの一本にしてね。
ア:フィーチャリング? 短編じゃなくて。
工:ちょうど一時間ぐらいでしたかね。でも戦争中、空襲がひどくなった時、動物を殺したでしょ。つまり平和になって良かったなって感じが強いわけですよ。そういうところが大分みんなに感動を与えたんじゃないかと思います。
門:別に子供向けということじゃないんですね。
工:一般映画として作りました。だから象さんがどうしたというのじゃないんです。やっぱり飼育係と動物の交流とか。でも一応ストーリーも羽仁さんのことだから考えて、こんなちっちゃなライオンの子供がある程度大きくなって、それであの時は北京だったか、外国の動物園に行くことになった。それを送り出したところでお終いになってたりする。そういう形で起承転結をつけていったけど、動物ですからドキュメントですね。
ア:1958年にフリーとして映画の企画などをなさったわけですけど、それはどういうきっかけですか?
工:あの当時岩波映画は、まあ僕はその前に『絵を描く子供たち』(1956)っていうのを作ってるわけですよ。それも自主作品で作り始めたんだけれども、最初は僕と羽仁さんで。タイトウファイザーってね、タイトウ製薬ね、そこが僕らが映画を作ってるっていうのを聞きつけて、応援しますって50万円をくれたんです。ということで少しずつ撮りためていこう思ってたら、岩波がそれは作品にしようということになった。僕がまだ文部省にいる頃ですけど。それもまたバカ当たりしたんですよ。
門:これも日活系で公開ですね。
工:ええ。これは子供が絵を描く時の色彩感覚その他で子供の心理が分かる、ということを芯にした羽仁さんの企画。
門:じゃ、カラー映画だったんですか?
工:いや、全部カラーには撮れないわけ。その時は絵の部分だけカラーなんですよ。それでプリントがあがるたびにカラーとモノクロのを全部順序につなぐっていうことをするわけ。これが出来上がる頃に僕は文部省辞めちゃって岩波と契約したんです。あそこは新卒しか採らないから。その当時はベテランはみんな契約でね。カメラマン、演出家、まあ日本のトップクラスの人は随分いたんじゃないの。瀬川順一もいたし。そこに僕がベテランじゃないのに加わった。だからそういう人たちに映画を教わったみたいなもんですね。
『法隆寺』の時、亡くなった瀬川順一さんと二人でやりたいことやったら予算がすごくオーバーしたわけ。音楽も亡くなった矢代秋雄さんが担当していて、すごい大編成なんですよ。ハープを三本も使ったりして。撮影も非常に大仕掛けな撮影でやったから金もかかった。やっぱり社内的に示しがつかないわけですよ。そんなこんなで円満に辞めたんですよ。それであちこちで企画とか演出の真似ごとやってる時に、コマーシャルフィルムが初めて日本で始まったわけね。テレビ用の。文部省時代に教育放送で知り合った電通 の人が僕を呼んだんです。それまで全部ラジオだったけど、今度はそれをフィルムでやるってんで、その仕事を受けたわけですね。そしたら会社組織が必要になったんで作ったのが藤プロダクションなんです。
門:テレビCMの創成期ですね。
工:創成期です。それはみんな35mmでね。電通のみんなに、映画ってのは1秒に24コマでってレクチャーから始めたんですよ。まあ消防署みたいなもんで、機動性がないとCMの仕事はダメなんです。だからキャメラマンなんかは知り合いにお願いできたんだけど、助監督とか助手は自前で養わなくちゃいけなくて新卒の人を入れて教えながらやってきた。だから多い時は十何人もいて、月給払う辛さを山のように味わったね。
門:テレビのCMは、その当時はギャラなどはいかがでしたか?
工:いいですよ。もう思いもよらぬほどいい。音楽の人でもキャメラマンでもテレビのCMの時はギャラも違うんです。例えば何十分間の短編映画作るのと同じぐらい製作費がある。でもそれだけもらっても間接経費も多いし、営業費もかかったりとなかなか大変でした。自由工房作るまでの間テレビCM何百本も演出したけど、ほとんど僕の演出でプロデューサー=ディレクターでやってきたわけ。外部の人を頼んだのは何本もないですよ。
ア:藤プロダクションはそういう1958年から1981年までの間に、コマーシャルフィルムだけじゃなくて、1965年に『留学生チュア スイ リン』とかを…。
工:土本典昭さんの持ち込んできた企画で始めたんです。自主作品ですから土本さんも瀬川順一さんも他のスタッフも全部手弁当なんです。僕が機材と製作費とかそういう部分を全部やって。
ア:それは自分でスポンサーとかを?
工:これは純粋に会社の企画としてやったわけ。その代わり今でもこのフィルムはご存じだと思うけど、上映料はタダなんです。プリントの経費はかかるけど、皆さんのカンパで作ったものだから上映料は取らないということでやってるんですよ。
門:現場とかは行かれて…。
工:僕? ほとんど行ってられないけどフィルムだけは途切れず供給した。その当時はメインは35mmですから16mmの機材はロクなのがないんですよ。瀬川さんはでっかいカメラばかりやってたからボレックスなんていじったことない。カメラ構えて「何も見えない!」って騒いでるから助手が行ってみたら、ファインダーじゃなくてレンズの方から覗いてた(笑)。それから音楽も生でいこうということになって、田村拓夫さんていうクラシックの方がティンパニーだけでやった。それはもう感動的でした。
門:藤プロ時代に作ったもう一本の作品が『母たち』(1967)ですね。
工:これはプリマハムのPR映画です。あの会社が創立記念に何か社会的にアピールしたいっていう話が電通 からきたんですよ。それで松本俊夫氏をつきあわせたんです。
ア:松本さんと仕事をしたのはそれが初めて?
工:前から知り合いだったけどね。あの人は話がアカデミックだから、とにかく「ハムができるまで」みたいな映画は絶対作れないから、ハムを買うのは主婦だし主婦はお母さんだから「母たち」ってのを撮ろうということになったわけ。本当はまだ意図したことがあったんだけど。登川直樹さんしか覚えてないけど企画委員会みたいなものに何人か偉い先生方がきて、そこに企画を出した。200字詰めに二枚の企画書。その時にこの映画は絶対傑作になる、松本俊夫さんは才能のある方だし鈴木達夫は優秀なキャメラマンだから、海外へ出したら必ずグランプリが取れるなんて言ったら通 ったんですよ。映画は普通契約した時に製作費の三分の一がおりるんです。クランク・アップ時にもう三分の一、完成したら三分の一なんです。その当時は海外へは 500ドル以上持ち出せなかった。五人で2500万ドルじゃ仕事できないから闇ドルを買い集めてそれでロケに行った。ニューヨーク、アフリカ、パリに行くことにした。僕は仕事があるので行けないわけですよ。それでナレーターを頼んだ寺山修司さんにロケにも同行してもらった。寺山さんは確か海外は初めてだっていうので喜んで行ってくれたわけ。それでニューヨークでもアフリカでもパリでもいろいろな人の世話になって。最後はベトナムに行ったの。観光客のふりして。まだ穏やかじゃない時にベトナムを撮ってね。それまでに僕と松本さんとはケンカのし通 しなわけだ。寺山さんはベトナムに入国できなかったの。反戦なんかやっててブラックリストに載ってたから。それで彼は一足先に帰って来たんです。会って様子を聞くと「もう万全だ。うまくいってる」って言う。それでクルーが帰って来たわけ。夜に飛行機が着いて、ほとんど捕虜みたいなぼろぼろの格好で連中が来るわけ。その中から松本氏探して声かけたら何て言ったと思う? 「一日しか遅れなかったぞ!」だって。それでまあ仕上げたら非常に評判が良くて、ただ死んだ赤ん坊を抱いているお母さんが出てたりとかいろいろあって電通 の人が心配したけど、人間は皆死ぬんだからいいんだって押し通して一カットも切らなかった。そしたら大変な評判で、ベネチア映画祭に出品してもらったらグランプリだった。うれしかったね。その頃ちゃんと短編部門があってね。電通 はびっくり仰天してスポンサーのところに飛んで行ったらしいけどね。
門:撮影期間はどのくらいだったんですか?
工:40幾日ですよ。移動も含めてね。
アーロン:今度は松本さんの劇映画『薔薇の葬列』(1969)のプロデューサーですけど。
工:それはどういう経緯かと言うとね、彼はまあ劇映画に意欲を持ってた。でもとてもそんなチャンスはないじゃない。その時例のATGがいろいろやったじゃない。だからそれでやりたいと思ってた時に、幸いにも70年大阪万博の仕事をやることになったの。
門:せんい館ですね?
工:そう、せんい館のプロデューサー。松本さんが京都が本拠の広告代理店から話をもってきたわけ。万博でせんい館ていうのがあるけど企画をやらないかって。初めは映像をやるぐらいの話だったわけです。つまりせんい館ていうパビリオンを作る敷地は、せんい館協力会っていう全繊維会社が金を出して押さえた場所なんですね。結局僕はやることにしたわけ。松本さんと二人で人選して、今も活躍しておられる横尾忠則をトータルデザイナーに、映像は松本俊夫、音楽は湯浅譲二とか亡くなった秋山邦晴氏に音響も含めて音楽監督をお願いして。その時秋山さんと知り合ってずっと助けてもらったんですよ。技術はアオイスタジオに頼むとか、いろいろアレンジしてやったわけです。ところがスタッフ集めて企画を立てて、映像をああするこうするっていったってね、映す尺数は10分ぐらいでしょ。僕は会議ばっかりで大阪通 って、松本俊夫もあんまりやることないわけ。でも我々としては降って湧いたごとき高いギャラがついたし、他の仕事する時間もあるし、じゃあこのギャラはないものと思って、これで一本撮ろうってことになった。ATGと相談して。
ア:結局万博が投資した。
工:そう。全額投資して、でも松本氏がお金使うもんで途中で足りなくなって、150万円ぐらい増やしたけど…。
門:万博の前年にできたんですよね。
工:そう。
ア:劇映画としてはそれだけですか?
工:それだけです、僕がやったのは。
ア:どういう経験でしたか?
工:すごくいい経験でしたね。公開まで含めた製作体制とかね。やっぱり小屋でやるわけでしょ。僕は公開初日にATGに行って座ってたら、最初は客足が弱いわけだ。そしたら支配人が「ここへ来る客はいつも間際に来るのが多いから大丈夫ですよ」ってね。そしたら見る間に満員になっちゃって。うれしかった。それで結局赤字にはならなかったわけね。ただ上映というのがいかに儲からないかが分かったけどね。
門:現場とかは立ち合われたんですか?
工:現場は始終行ってね。よく現場でぶつかったりしてた。だから二度目からは松本氏はもう僕に頼まなくなったね。うるさいもんだから。ただあの人は全くストイックで裏表の無い人ね。今会ってもそう思う。変に巧すぎるのが良くないんでね。完璧主義者で、あの『ドグラマグラ』(1988)だっけ、やたら巧いだけでウマミがないんだよな。演技者もうまかったしストーリーもきちんとしてるけど、何かこう破綻とは違うけど…。
門:きっちり構成してますよね。
工:あの人は一旦詰め込んじゃうとその通りじゃないと承知しないから。完成度は高いけど映画としてはさ、なんかこっちが入り込む余地がなく塗り込めちゃうとこあるでしょ。だけどそんなこと今言ってケンカしてもしょうがない。
ア:まあ、それが終わって、万博が終わったんですけど、『薄墨の桜』の1978年まではコマーシャルを?
工:うん、コマーシャル。食うのに精一杯でした。その頃は藤プロの社員を減らしたわけ。もうどんどん年も取ってくし、最初からいた人はそれぞれよそでもやれる実力もあったからチャンスがあったら独立してもらいたかったしね。でも『薄墨…』を撮った頃はまだ随分いたけど。羽田が岩波の社員だったけれども、どうしてもこれ撮りたいということになったんで、業務に差し支えない程度に撮らしてくれとお願いに行ったわけです。そしたら許してくれたわけですよね。
ア:これも藤プロのお金で…。
工:ええ最初から自主作品で。でも一年の経過を二年かけなきゃ撮れなかった。そのタイミングに他の仕事が入ったらダメだから、二年かかって仕上げも大分時間がかかった。
門:75、6年ぐらいから撮り始めた。
工:ええ、そうですね。長いですよ。皆に手伝ってもらって…。例えば羽田が空いてても西尾清さんていう岩波のキャメラマンだけど、その彼が塞がってる時はどうしてもって瀬川順一さんに頼んで…。まあ瀬川さんはまたボレックスでまた四苦八苦したらしいけど、非常にいい写 真を撮ってくれてね。
ア:その後ずーっと羽田さんと組むことになって、自由工房を?
工:CMとPR映画の両方じゃもうしんどいし、たまたま藤プロをやりたいという電通 の社員がいたんで渡しちゃったわけ。それでようやく一人か二人になれた。僕一人でドキュメンタリーだけやるんならそのぐらいの規模でないとね。それから頑張ってPR映画は大分撮った。三菱重工業のコンクリートポンプとかパワーシャベルの映画とか、全部僕の演出だから安く上がるわけですよ。大分それでお金を作ってこういう映画を撮ってきた。
ア:今度も藤プロと同じように資金は自分でやって…。
工:自分でやって自分で回していくということですよね。例えば『安心して老いるために』なんかだと、相当まとまった金が短期間に要るでしょ。銀行は貸してくれませんからね。そうするとやっぱり知ってる人たちが商売でなく応援してくれるわけ。だからグランプリじゃないけど当たらないと困るわけですよ。それで次から次へと返すわけ。
門:この頃からですね。羽田監督作品のプロデュースの一方で朝鮮民主主義人民共和国と合作をした『騎馬民族国家』という学術映画がありますね。
工:まあ僕はもともと歴史が好きだったんですよ。それで一番メインになっているのは、日本人の持っている単一民族みたいな迷信なんかじゃなくてね、「日本人は何処から来たか」と「日本文化とは何か」。それを考えるにはやはり騎馬民族国家が一番適当であると。江上波夫先生とたまたま知遇を得たんで、先生の「騎馬民族征服説」という本を台本にして撮ることになったわけです。まず騎馬民族の来た順序で「スキタイ」と「モンゴル」ね、そして「匈奴と突厥」、まあ紀元前と八世紀くらいですか。それから「高句麗」、今の北朝鮮、それと「新羅と百済」、今の韓国ですね。そして「大和」。それで最後にその総集編を作ろうと。それで協力してくれた各国の作品として、つまりソ連ならロシア語版だけ、モンゴルならモンゴル語版だけという風に、そこに版権と上映権を与える条件でどうだという交渉を手紙でやったんです。総集編と英語版その他についてはうちが全部担当して製作費は一切日本で持つ。総集編までの試算では4億5千万円ぐらいなんです。各作品一時間を原則にして。その当時今よりずっと良かったけど、北朝鮮はこういう企画に乗るかなあと江上先生は心配してた。そのうちに江上先生たちが北朝鮮に招待された時、この企画を話したら向こうが乗ってきたんです。それどころか「モンゴル」と「匈奴と突厥」、そして「スキタイ」も自分たちで撮りたいというわけ。その頃は社会主義国同士はバーターで仕事できたし。江上先生に相談したら、とてもじゃないけど我々だけでロシアと交渉したらそれだけで一年ぐらいかかるし、いい話じゃないかと。北朝鮮の映画技術は全部モスクワ仕込みですよ。機材は古いけどちゃんとしてんですよ。それで「スキタイ」と「匈奴と突厥」と「高句麗」を委嘱したわけ。それで「スキタイ」と「モンゴル」と「高句麗」の三本を作った段階で、日本で4億5千万集めようとした。その頃古代史ブームでIBMや全日空とかが、講習会とか講演会みたいの開いても何千万も出すんですよ。でも北朝鮮が絡んでるというので全部断られたんですよ。IBMは特にダメ。北朝鮮が最初に乗ったことが完全に裏目に出ちゃった。だから金を払うのに七転八倒したわけね。それにますます状況が悪くなったでしょ。金日成も亡くなっちゃうし。
門:それで、その三本で今のところは中断…。
工:まだやる気だけどね。この「スキタイ」なんて相当面白いですよ。これはソビエトで撮ってきたんですけど、やっぱり彼ら社会主義国同士だから撮れたんですよ。
門:やっぱり、昔から歴史が好きだったというのはアジアへの関心が?
工:うん、アジアというものに対する考え方、今でもそういう視点でものを考えている。
門:だから『ハルハ河の英雄的な頁』(1992)の日本語版の製作にも…。
工:あれはモンゴル・キノがバラバラになる前に作ったらしいのね。それでその版権を持ってる男がそのフィルムを日本で売りたいってわけ。それで問い合わせの手紙を書いたら、ある日突然その本人がフィルム持って成田に来ちゃった。モンゴル人はすごいね(笑)。それで観たらなかなかいいんで、日本語版作ったわけ。
門:羽田監督作品との実際の製作の状況というのをもう少し詳しく知りたいんですけど。例えばテーマの選択とか方向性に関しては両者でどういう折り合いを?
工:案外適当です。例えば『早池峰の賦』(1982)の場合はやっぱり芸能としての神楽という風な、まあ僕なんかよりよっぽどよく勉強してるんで。僕は必ずそこに社会との結び付きみたいな部分を強く求めますから、あそこの生活をもっと撮れとか主張する。社会的に非常に厳しい状況の中で人間が生きながらね、しかも神楽を練習してきたというだろうことを写 したいという面は僕の方が強いわけね。テーマの設定とか何かで大きくもめるってことはないですね。
門:企画自体は監督の方から希望が出るんですか?
工:あの人が撮りたいってのを撮ってたら大変だから。僕もやれそうなもの、具体化できそうなものに決めますね。僕からの提案はあんまりないね。だって騎馬民族国家とかハルハ河なんて羽田はほとんど興味がないし。結局僕が独自にやってるものと別 になるわけですよ。神楽だって僕はもともと嫌いだったんですよ。
門:これは監督の方からの企画だったんですね?
工:そう。もう十何年も前に見た神楽を研究してたの。それでどうしても撮りたいって言っても僕は生返事してたんですよ。そしたら夏のお祭りの時に現地に連れて行かれたわけ。そしたら神楽そのものも社会的なシチュエーションもいいし、本当にその里の人がやっていて、技術的に非常に高いことが分かったんで、撮ることになったんですよ。
門:何だか『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』(1992-1994)の時と話が似てますね。歌舞伎にも最初はそんなに興味がなかったそうでしたね。
工:そう、仁左衛門さんに会ったら、ああこの人すごい、この人撮りたいと。つまり人間を撮るっていう点ではね。やっぱり仁左衛門さん撮っといてよかったと思う。
ア:仁左衛門の作品は長いといってもちゃんと観客層はいるわけですけど、例えば福祉関係の作品などは興行面 はどういう風に?
工:福祉で僕がちゃんとやったのは『安心して老いるために』(1990)だけども、あの当時は、老人ケアなんて言葉がまだ一般 化されてない時でした。そういう直輸入の概念を一般化するためには、あの町を撮るだけじゃおさまり切れないと僕は判断したんです。それですごく長い映画になったわけ。二時間半も福祉ばっかりってことになる。日本みたいに福祉後進国では映画二時間半観るだけの熱意も辛抱もない人はとてもやってられないでしょ。二時間半っていう長さも観客を選んだつもりなの。長いから心配もされたけれどもあれは大当たりだったんですよ。それであれの貸出しと上映で入って来るお金で、資料編というのを北欧(1992)とオーストラリア(1993)で撮って、これもいまだに大学や学校のライブラリーが買ってくし、上映会もやってますよ。今から六年前のあのレベルに達してないところは日本の市町村三千の中にまだ一杯あるわけですよ。
門:こういう作品は、工藤さんの中では一種の社会変革活動のつもりで?
工:僕は文章も書けないし人前で演説もできない。僕のメッセージですよね。騎馬民族もそうですよ。
門:知って欲しいという気持ちですか。
工:うん、それが先ですね。
ア:結局、これまでの作品の中で、工藤さんらしい作品とは一体何だと思いますか?
工:意外だと思うかも知れないけれど、『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』なんですよ。人間って素晴らしいっていうのは、月並みな言葉だけど、あの方はひとつのことを80何年飽くことなくやってらしたしね。僕は一番最後の舞台、京都でちゃんと観てますよ。
ア:最後の質問ですが、自分のキャリアを振り返ると、昔例えば50年代と60年代にプロデュースをやる仕事と今プロデュースをする仕事と何か変わりましたか?
工:ここのところずっと羽田と仕事をしてるので、あまり一般論は出てこないんだけど結局同じですね。いつの時代でも条件は厳しいわけですよ。それから映画の地位 がね、やっぱりほかのものに比べて低いですよね。例えば文化会館みたいなところに呼ばれたりするでしょ。すると「(観客に)ただで見せていいですか?」なんて言うんですよ。文化映画は安くて当然のようなことを言われたりするのはちょっと困りますね。
映画の世界で今一番足りないのはプロデューサーだと思うけど、映画作りはプロデューサーが一番面 白いね。博打みたいなものだけど、いろんな才能と付き合えるし…。はっきり言えば自分が観たいから一生懸命作るっていうのがあるわけでね。だけどプロデューサー志願はなかなかいないみたいね。劇映画だったらスターを売るとか監督を売るとか、まあキャメラマンってこともあるだろうけど、映画の指定席ってのは一つしかなくて、それは監督なんです。プロデューサーじゃないんです。第一回の東京映画祭に『キリング・フィールド』のデビッド・パットナムってプロデューサーが来たの覚えてる? あの時、彼はシンポジウムに出てたけど、実にプロデューサーってのは座りが悪いよね。観客の方もプロデューサーには質問しずらい。質問するポイントがぼけちゃう。監督なら自分の仕事としていろいろ言えるし答えられもするけど、プロデューサーはそうでない部分を包括しているわけだから…。だから一つの作品に指定席は一つでいいんです。そのためプロデューサー志願者がいないと映画はできないわけ。プロデューサーはどこで喜ぶかって言えば、お客さんが入って、喜んでもらって、自分のメッセージを発表できたという喜びだけでいいわけですよ。毎年いろんな学校の映像学科とかが才能ある作り手を輩出しても、プロデューサーがいないと映画が作れないじゃない。ドキュメントの場合は、借金が残るだけだったりするから、なかなかなり手がいないんだろうけど。
1924年生まれ。1946年に文部省に入省。社会教育局社会教育課に勤務、のちに視聴覚教育課に移り社会教育映画の製作にたずさわる。 1956年から岩波映画製作所で映画の企画・製作を担当する。 1958年からフリーのプロデューサーとして、映画の企画・製作・脚本に関わるが、藤プロダクションを設立し、記録映画や産業映画、TVコマーシャルを製作する。 1970年には大阪の万国博覧会でせんい館のプロデュースをつとめた。 1981年に自由工房を設立し、羽田澄子監督作品を中心に製作、現在にいたっている。 主なプロデュース作品に、「教室の子供たち](54年/岩波映画)、「絵を書く子供たち](56年/岩波映画)、「留学生 チュア スイ リン](65年/藤プロダクション)、「母たち](67年/藤プロダクション)、「薔薇の葬列](69年/ATG+松本プロダクション)、「薄墨の桜](78年/自由工房)、「安心して老いるために](90年/自由工房)、「歌舞伎役者 片岡仁左衛門](92〜94年/自由工房)、「住民が選択した町の福祉](97年/自由工房) |