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双子のように――映画によってつながれる世界、重なりあう世界


 映画小国であるスイス出身の映画監督として、2017年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でレトロスペクティヴ上映会を開催していただくという栄誉を受けることは、私にとって特別に光栄なことです。幸いにもこの映画祭の創始者の小川紳介と個人的に交流があっただけに、いっそう光栄に感じています。1986年にわれわれが山形で出会うことになったのは、もともとは彼のイニシアティヴによるものであり、私にとってそれはあらゆる点で僥倖でした。ここで手短にそのいきさつを述べると、スイスのアルプス地方で暮らす山地の農民たちを主題にした私のドキュメンタリー映画『われら山人たち』を鑑賞した小川紳介は、日本の山岳地方にも同じような原始的な生活条件のもとで日々の労働生活を営んでいる人々が暮らしていることを想起したといいます。小さな村に暮らす農民たちの生活を映画によって熟考した『ニッポン国古屋敷村』について彼は、私の映画と彼の映画とはもともとは双子の兄弟なのだと何度も思ったそうです。1986年に小川紳介は、私のドキュメンタリー映画と全く同じ地域で撮影された劇映画『山の焚火』(1985)のプロモーションのために私が来日することを知ると、山形の彼のところに招待してくれました。滞在中の忘れがたい出来事となったのが、彼の映画に出演した村人たちのために、ウーリの農民たちをめぐる私の映画を上演するべく、古屋敷の小さな村に一緒に旅行したことでした。長い散歩の途中でわれわれは、農民たちについての彼の映画の他の幾つかの撮影場所も訪問し、そのあいだに日本の農民たちの生活にますます習熟し、近しいものになっていくような思いがしました。さらに私が意識するようになったのは、この地球における農民たちの文化どうしが、それぞれ属しているナショナルな共同体に基づく違いよりも共通点の方がはるかに多いということであり、それを出身国に対する農民たちのナショナルなアイデンティティであるかのように取り違えてはならない、ということでした。

 私の二本の農民映画である『われら山人たち』と『緑の山』は、私のフィルモグラフィのなかでは例外的な位置を占めています。というのも、私の映画において、これらの作品のみが、古典的で民俗学的な意味において純粋なドキュメンタリー映画と呼ぶことができるものだからです。他のすべての映画は、程度はそれぞれ異なりますが、ドキュメンタリー的な真正さとフィクションを交えた劇映画のかたちをとっています。私は『灰色の領域』を表向きは「フィクショナルなドキュメンタリー映画」と呼んでいました。公式な文書で保証された盗聴の専門家についてのドキュメンタリー映画を制作する許可が政治的な理由によって、管轄の役所から下りなかったからです。

 芸術家を主題にした『チコレ』『ベルンハルト・ルジンブール』『サッド・イズ・フィクション』は、カメラの前の本物の人々とカメラの後ろの私とのあいだの遊戯的で創造的な対決です。それは完全に、この映画祭の最高賞の名前のもとになったロバート・J・フラハティと、その妻のフランシス・H・フラハティがいう意味においてです。私の最も古い映画『マルセル』(1962)は、私がまだ8mmのボレックスを使っていた頃に撮ったものですが、そこにフラハティの映画『ルイジアナ物語』(1948)との一種の精神的な親和性があることを見逃すことはほとんどできません。

 私は意図的にどんな映画学校にも通いませんでした。というのも、私が自分の映画学校に定めたのは、映画館、つまり120年におよぶ映画史だったからです。駆け出しの映画監督として、映画芸術をともに築き上げた数多くの天才的な監督たちの仕事にいかに自分が負っているかは承知しています。そうした仕事のうちには、溝口健二、小津安二郎、黒澤明といった古い巨匠たちの映画や、篠田正浩、吉田喜重、今村昌平、大島渚 といった1960年代から80年代にかけての新しい世代の映画が含まれていることは言うまでもありません。

 私の劇映画『山の焚火』にとって重要な着想源として、次の三つの映画を挙げたいと思います。すなわち、新藤兼人の『裸の島』(1960)、勅使河原宏の『砂の女』(1964)、小林正樹の『怪談』(1964)です。これらの映画で私がとりわけ印象深く思ったのは、映像言語の静かなラディカルさと厳格なまでに首尾一貫したドラマツルギー、言葉や会話を扱うなかでの繊細な「沈黙の文化」でした。

 さらに私にきわめて特別なかたちでインスピレーションを与えてくれたのが、深沢七郎の小説『楢山節考』――ドイツ語では『楢山節を理解するにあたっての困難さ』という題名で出版されています――を読んだことでした。著者へのささやかなオマージュとして、私の映画に登場する家族に「短気」という綽名を付けましたが、それは深沢の小説からそのまま借用したものです。

 私はスイス人として、白い平面の中央に大きな赤い点がある日本の国旗を羨ましく思っていました。それよりも首尾一貫していて明確なものはありません。われわれスイス人の国旗は、赤い平面の中央に大きな白い点があるのですが、それは上下左右すべての方向に逸脱してしまっています。というのも、(四つの)母国語のそれぞれがこの点をぐいぐい引っ張って、十字のかたちにしてしまったからです。これ以上に民主的にすることはできません。そして、それはともあれ、われわれの映画の状況を示してもいるのです。

フレディ・M・ムーラー

*フレディ・M・ムーラーのプロフィールは特別招待作品ページ参照