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山の焚火

Alpine Fire
Höhenfeuer

スイス/1985/スイス・ドイツ語/カラー/35mm/117分

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監督、脚本:フレディ・M・ムーラー
撮影:ピオ・コラーディ
編集:ヘレーナ・ゲルバー
録音:フロリアン・アイデンベンツ
音楽:マリオ・ベレッタ
美術:ベルンハルト・ザウター、エディット・パイエル
衣裳:グレタ・ロドラー
出演:トーマス・ノック、ヨハンナ・リーア、ロルフ・イリック、ドロテア・モリッツ、イェルク・オーダーマット、ティッリ・ブライデンバッハ
製作、海外配給:ベルンハルト・ラングAG
提供: 東京国立近代美術館フィルムセンター

電気も水道もなく、ほぼ自給自足の生活を送る4人の家族。父が時々山を降りて買い出しに行くほかは、谷向こうに住む祖父母に双眼鏡越しに手を振るばかりで、家族以外の他者との直接的なコミュニケーションはない。10代半ばの聾唖の弟は、その不自由さゆえに苛立ちを隠さないが、教師になることを断念した姉とともに健やかに育つ。ある日、壊れた草刈り機に腹を立てた弟はそれを投げ捨て父の怒りを買う。山小屋で一人の生活を送る弟に食料などを届ける姉。二人は山頂で焚火を囲み楽しい時間を過ごすが、やがて姉の妊娠が発覚する……。『灰色の領域』の興行的な失敗から6年ぶりに制作されたムーラーの長編劇映画第二作。1985年ロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞し、ムーラーの国際的な評価を確立した。『われら山人たち』と同様に、ウーリ州のスイス・アルプスの山地を舞台として、山岳民の隔絶された家族共同体の織りなす神話的世界とその悲劇を描く。吉本隆明は、四季の推移とともに、美しくも過酷な姿を見せる自然のなかに暮らす人々を描いた本作を「傾面の映画」と指摘した。主人公の弟が生まれつき話すことも聞くことも奪われた存在であることは、ムーラーのフィルモグラフィを考える際に一貫したテーマの存在を浮かび上がらせるだろう。彼が外部世界と接触するのは、視覚と触覚を介してのことであり、望遠鏡、虫眼鏡、鏡といった装置が用いられることにより、見る行為そのものが顕在化する。また一方で、耳の不自由な弟の沈黙は、トランジスター・ラジオ、時計や鐘の音、足音により、かえって強調される。視覚や聴覚が所与として身体に備わっているという自明の概念を問い直すことにより、ムーラーの映画は私たちの感覚器官を他者へと開き、その世界を豊かなものへ変えていくだろう。その時、映画結末の雪崩による地響きを私たちの身体はどのように受けとめるのだろうか。

*「共振する身体 ― フレディ・M・ムーラー特集」を参照ください。


- フレディ・M・ムーラー

1940年、スイスのニトヴァルデン準州ベッケンリートに生まれる。1959年にチューリッヒの美術工芸学校に入学しデザイン、写真を学ぶ。1962年、8ミリによる短編『マルセル』を発表。1964年に開催されたスイス博覧会では、大型スライド上映のデザインと演出を担当。1965年、中編『パシフィック ― あるいは満ち足りた人々』を完成させる。1966年には、実験的ドキュメンタリー映画『チコレ』を制作し、オーバーハウゼン国際短編映画祭で国際審査員賞を受賞。その後、『ベルンハルト・ルジンブール』(1966)、『サッド・イズ・フィクション』(1969)、『パッサーゲン』(1972)といった芸術家に関するドキュメンタリー作品を発表する。1969年には『盲目の男のヴィジョン』を撮影。この頃、渡英してロンドンで教鞭を執る。帰国後、オムニバス映画の一篇としてSF作品『スイスメイド─2069篇』(1969)を監督。1973年、ある銀行家の依頼を受け『クリストファーとアレクサンダー』を手掛ける傍ら、ドキュメンタリー作品『われら山人たち─われわれ山国の人間が山間に住むのは、われわれのせいではない─』(1974)に取り組む。同作により、ロカルノ国際映画祭国際批評家賞を受賞。『山の焚火』、『緑の山』(1990)とあわせ「山三部作」と呼ばれることになる。1979年、初の劇映画『灰色の領域』を制作するが、興行的に失敗を被る。1985年には『山の焚火』を発表。ロカルノ国際映画祭金豹賞およびエキュメニカル賞を受賞するなど、国際的にも高い評価を受け、世界各地で公開するなかで来日を果たす。劇映画『最後通告』(1998)、『僕のピアノコンチェルト』(2006)は日本でも公開された。2014年、劇映画『Love and Chance』(原題:Liebe & Zufall)を発表し、映画制作からの引退を発表。