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大津幸四郎追悼

三里塚に生きる

The Wages of Resistance: Narita Stories

- 日本/2014/日本語/カラー、モノクロ/DCP/140分

監督、撮影:大津幸四郎
監督、編集:代島治彦
音楽:大友良英
写真:北井一夫
整音:滝澤修
朗読:吉行和子、井浦新
製作:赤松立太、代島治彦
企画、製作:三里塚に生きる製作委員会
製作会社、配給:スコブル工房

キャメラマン大津幸四郎が『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968)から再び、45年ぶりに三里塚の農民にカメラを向けた。空港が歪なかたちで開港されても農業を続けてきたかつての青年・婦人たちが語る、国家権力に抵抗した農民の人生。悩み、傷つき、苦しみながらも「自分の運命は自分で決める」、そうやって時を重ねて歩んできた彼らの眼の奥は深く鋭い。国家主導の事業が引き起こしているさまざまな問題とも重なり合う、成田空港建設計画の現在形の姿を静かに突きつける。



【監督のことば】『三里塚に生きる』は戦後日本ドキュメンタリー界を代表するキャメラマン大津幸四郎の遺作である。監督と撮影を務めた。映画の劇場公開直後、大津は2014年11月28日に亡くなった。肺がんだった。

 入院した大津をたびたび見舞った。呼吸困難がひどくなるにつれ、意識が混濁する時間も長くなった。ある日、意識の晴れ間での会話。

代島「もうすぐ劇場公開ですよ。初日舞台挨拶には立ってくださいね」

大津「ぼくはこの映画でやっと〈人間が撮れた〉よ。ありがとう」

 この後すぐに意識が曇りはじめ、会話は宙に浮いた。帰り道、ぼくの頭の中は混乱してしまった。

 「小川紳介、土本典昭の相棒として人間を撮り続けてきた大津が、なぜこの映画でやっと〈人間が撮れた〉と言ったのだろうか」。

 『三里塚に生きる』の撮影をはじめたのは2012年夏。『日本解放戦線・三里塚の夏』(監督:小川紳介、1968年)以来、44年ぶりに大津が三里塚の人びとにキャメラを向けた。いまも空港反対を貫く農夫の頭上をヒコーキが飛んでゆく。

 撮影後半、成田空港近くにアパートを借り、大津とぼくは現地に住み込んだ。夜になると昔話も出た。

大津「小川は『三里塚の夏』を〈闘う人間〉の物語に仕立てた。ぼくは〈生きる人間〉を撮ったつもりだったのに」

代島「それで小川監督と袂を分かったんですか」

大津「それだけじゃない……」

 撮影中の話を思い出し、やっと気づく。大津は「この映画でやっと〈三里塚の人間が撮れた〉」と言いたかったのだ、と。44年前の大津と小川の確執はそれだけ厳しいものだったのだ、と。

代島治彦


- 大津幸四郎

1934年生まれ。1958年に岩波映画製作所へ入社。5年間撮影助手として勤めるが、PR映画に限界を感じ退社。同時期に岩波を退社した小川紳介監督の『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』(1967)、『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968)、土本典昭監督の『パルチザン前史』(1969)『水俣 ―患者さんとその世界―』(1971)などの撮影を担当。被写体に皮膚感覚で迫る柔軟なキャメラワークで注目を浴び、日本映画界の最前衛に立つキャメラマンとしての評価を固めた。劇映画にも進出、黒木和雄監督『泪橋』(1983)、沖島勲監督『出張』(1989)などを残す。90年代以降は積極的に若手映画作家と組み、佐藤真、ジャン・ユンカーマン、藤原敏史、熊谷博子などの作品を撮影した。『大野一雄 ひとりごとのように』(2005)が初監督作品。2014年逝去。



- 代島治彦

1958年生まれ。博報堂を経て、1988年にスコブル工房を設立。『パイナップルツアーズ』(1992)など、映画やテレビ番組をプロデュース。「世界先住民映像祭」YIDFF '93の共同コーディネーター。1994年から9年間、ミニシアター「BOX東中野」の代表を務める。監督作品に『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』(2011、YIDFF 2011)。