対談:映画監督と倫理
ディスカッション:6つの眼差しと倫理
- パネリスト:
- 阿部マーク・ノーネス
斉藤綾子
ブライアン・ウィンストン
ディスカッション:震災映画と倫理
司会:斉藤綾子
ミシガン大学教授。アジア映画を専門とする。1990年以来YIDFFと関わり、日米映画戦(YIDFF '91)、世界先住民映像祭(YIDFF '93)、電影七変化(YIDFF '95)の特集プログラムをコーディネート。日本映画について『Japanese Documentary Film: The Meiji Era through Hiroshima』と『Forest of Pressure: Ogawa Shinsuke and Postwar Japanese Documentary』の2冊を執筆。
明治学院大学文学部芸術学科教授。専門は映画理論、特に精神分析理論、フェミニズム映画理論。編著に『映画と身体/性』、共編著に『映画女優 若尾文子』、『男たちの絆、アジア映画』、共著に『映画の政治学』、『ヴィジュアル・クリティシズム』、『戦う女たち』など。ヒッチコック、増村保造と若尾文子についての論文が『Endless Night: Cinema and Psychoanalysis, Parallel Histories』と『Reclaiming the Archive: Feminism and Film History』に発表されている。最新の論考は「The World Viewed by Wang Bing」。
ドキュメンタリー映画作家、理論家、歴史家。グラナダTVのドキュメンタリー作品を作ることからキャリアをスタートし、1985年にドキュメンタリーの脚本でエミー賞受賞。近作はロバート・フラハティの伝記映画『アラン島の小舟』(監督:マック・ダラ・オー・クライン)。英リンカーン大学でコミュニケーション学部長を務める。『Claiming the Real II』など多くの著書があり、早くからドキュメンタリーと倫理をテーマに執筆してきた。
ドキュメンタリーの原罪
20世紀アメリカ『ニューヨーカー』誌で有名な、ジャーナリストのA・J・リーブリングはかつて、こう書いた。若いジャーナリストにとって、自分の名記事が他の誰かの惨たる火事なのだということは、容易に理解しがたいものだ、と。ジャーナリストでなくドキュメンタリー映画の作り手にとっても、同様のことが言える。我々の描く「素晴らしいストーリー」(我々の作品)は、映画に出演してくれた人たちにとっては惨たること、とまで言わなくとも、それほど素晴らしくない場合が多い。映画作家にとってのメリットは、人生を記録され、ときに暴かれる被写体たちのメリットより大きく、時には悪影響さえ及ぼす。
ここに基本的な倫理の不均衡が生じる。製作に伴うこの不平等がドキュメンタリーの原罪である。作品は「被写体に表現の場を提供している」とか「市民には知る権利がある」などとしれっと説明することで済む話ではない。そうだったとしても、倫理的な問題は残される。さらにもうひとひねりを加えると、暴露され“滅ぼされるべき”人もおり、たとえば汚職の発覚のような例にこそドキュメンタリーの強みがある、と言うこともできる。つまりは単純な正解はない、ということなのだが、ドキュメンタリーの倫理が示唆する問題を議論しない方がいい、というわけでもないだろう。